スタックス・発動篇

スタックスレコード物語 SOULSVILLE U.S.A.

スタックスレコード物語 SOULSVILLE U.S.A.

銀行員のジム・スチュアートは57年サテライト・レーベルを作り数枚出すが資金が尽きる。そこで12歳上の姉エステル・アクストンに自宅を抵当にして資金提供してくれと無心。こうして弟がレコーディング業務、姉が経営を仕切ることに。
58年第一号おんぼろスタジオをブランズウィックに設立。

購入したばかりのアンペックスのレコーダーとミキサー類を設置した。8つのインプット(7つがマイクで、ひとつがエコー)はそのまますべて1チャンネルにつないだ。ジムいわく、それが「あの当時のわたしたちに買えた最高の機材」だった。
(略)壁や天井は元の建物のままで、音響設備らしきものといえば、壁から黄麻布のようなものを吊しただけである。「ひどいスタジオだったね」とスチュアート本人も認める。「ほんとにひどかった!床が木で、がらんとしていたから、音が部屋中に響き渡るんだ。残響がひどくてね、それこそずうっと響いてるんじゃないかって思うくらいだったよ」。

60年メンフィスの映画館を月150ドルで借りて新スタジオに。
やり手のエステルが菓子売り場をレコード屋にして現金収入の足しにすることを提案。この店が地元の“クール”なたまり場となり優秀な人材確保の場となる。

工夫は凝らしてみた。だが、いくら手を加えても劇場は劇場である。出来たのは音の反響がコンサート・ホールのそれに酷似した、“ライヴ”レコーティング・スペースと言うにふさわしい代物だった。そして、この特徴がのちにスタックス・サウンドとして知られる音作りの重要な要素のひとつになる。(略)
[金がないのでステージに向かって傾斜する劇場の床はそのままにしたことで]正面同士向き合う壁面がなくなり、音響抑制効果が生まれるというおまけが付いた。

ここで資金が尽き大ピンチ、だが新スタジオで録音の第一号ルーファス・トーマス父娘の「コーズ・アイ・ラヴ・ユー」が初ヒット。

3年間、いくら売り込みを続けても「ヒットの匂いさえ」しなかった。(略)「あのレコードを出した時はね、ほんとにびっくりという感じだったんだ。みんなが本当に買ってくれている。もうレコードを無料で配らなくてもいいんだ、なんてね。最高の気分だったよ。(略)
「それまでは黒人音楽について何の知識もなかったんだ。一度も聴いたことがなかったし、どんなものなのか、これっぽっちも知らなかった。目の見えなかった人が突然見えるようになった、という感じだね。(略)
この時を境に、サテライトはリズム・アンド・ブルース・レーベルになったのである。

黒人コミュニティ

サテライトのスタジオが急速に貧しい黒人地区に変わりつつあった地区の真ん中に建っていた(略)
スタックスはこの黒人コミュニティに欠かせない存在となった。(略)
ブッカー・T・ジョーンズは断言する。「サテライト・レコード・ショップがなかったら、スタックス・レコードはなかったね。エステル・アクストンに聞いてごらん。ぼくらはみんなあそこにいたって言うから。(略)宿題を終えたら、あそこに遊びに行ったんだ。ぼくはまだ子供だったから、あそこはとっても大切な所だった。しょっちゅう顔を出しては、何でも聴いてたよ。

サテライト・レコード・ショップの役割

メンフィスの若い黒人たちの音楽の好みを知り、流行について行くためにも、大きな役割を果たした。店はリリースしたばかりの自社レコードの反応を知るのに、格好のテスト市場になってくれたのである。(略)その反応に基づいて多くは変更が加えられ、中にはリリースを見送られたものもあったという。

[店には]あと2つ大切な役割があった。ひとつは自由にアクセスできる、音のライブラリーとしての役割である。レコーディング・セッション中や曲作りの最中、誰でもいつでも、店に行けば最新ヒット曲を耳にできた。(略)
[もうひとつの役割は]ワークショップ的な働きをしたのである。「どこか他のレーベルのレコードがヒットを飛ばすとする。そうしたらみんなで頭を突き合わせて、どうして売れてるのか考えた。分析したのよ。そうやって、あのレコード店でうちのライターは勉強した。だからうちにはいいライターがあんなにたくさんいたのよ。(略)
 ブッカー・Tもこれに同意する。「最初の何年間か、ぼくらの音楽のアイデアや影響の源はほとんどあの小さなレコード店だったんだ。

彼女は『ビルボード』の他、全国の店のセールス報告などを参考にし、独自のR&Bチャートを作った。自社作品の順位を上げるのを忘れなかったのは言うまでもない。エステルは商魂たくましいと言えるほど積極的なビジネスマンで、他レーベル作品のメンフィス界隈でのプロモーションをする代わりに、サービスとしてもらった無料レコード盤を自分の店で販売。地元DJらがもらう他会社の盤も買い入れては、店で売りさばいた。

「コーズ・アイ・ラヴ・ユー」に目をつけたアトランティックが口約束だけでサテライト作品配給第一先売権を獲得。
さらにカーラ・トーマス「ジー・ウィズ」がヒット。金をだしてストリングスを導入したので失敗は許されずサテライトのおんぼろスタジオでの録音は危険すぎると、近くのまともなスタジオで録音。

ジムもチップス・モーマンも無視したマーキーズ(ロイヤル・スペーズ)「ラスト・ナイト」が100万枚の大ヒット。エステルの息子がメンバーだったのでようやく世に出た(そもそもスティーヴ・クロッパーがパッキーをメンバーにしたのはサテライト経営者の息子だったから)。

いくつかのヒットで有名になりLAの会社から「サテライト」はうちが先に使ってるとクレーム。そこで姉弟のSTewart/AXtonをたしてSTAXに。踊るレコードのロゴはマーキーズのVoロニー・ストゥーツがデザイン。
まだ銀行員だったジムの代わりに昼間スタジオを仕切っていたチップス・モーマンが諸々もめて辞職、エステルのプッシュもあり、スティーヴ・クロッパーがその地位につき、さらにR&B路線に。

 その後9年間、クロッパーは起きている時間のほぼすべてをスタックス・レコードに捧げることになる。ジムはまだ銀行勤めを続けていたため、彼がスタジオの鍵を預かり、毎朝イースト・マクレモア926番地に行き、扉を開けた。クロッパーはそのうちにレーベルの副業のひとつ、ジングル制作も任されるようになった。(略)
レコーディング・セッションは大抵、ジム・スチュアートが銀行の仕事を終えた後、平日の午後の遅くか夜の早い時間、あるいは週末に行なわれた。

最初はB面用につくられた「グリーン・オニオンズ」。トライアンフスにあやかって、MGズとするも、MG社の許可が下りなかったのでメンフィス・グループの略称と言い訳。


カーラ・トーマスの新作がいつまでたっても上ってこないことに業を煮やしたアトランティックのジェリー・ウェクスラーはチーフ・エンジニアのトム・ダウドをメンフィスに派遣。おんぼろスタジオ、メンテも碌にされていない機材etcに愕然とするダウド。早速メンテ部品を取り寄せる。

彼はデッキを裏返して尋ねた。アライメントテープは?が、スタックスの人間は誰一人、そんな言葉を聞いたことさえない!という。ダウドは磁気ヘッドのギャップとテープの走行方向との角度を手持ちの道具で何とか調節し、それから皆に告げた。これでいい、直ったぞ。MGズとスチュアートはダウドのことを、まるで手品師か何かを見るような眼差しで見つめていた。
 直ったのはいいが、ひょっとしてサウンドが変わってしまったんじゃないか。皆が不安を抱く中、ダウドはMGズのジャムを何分か録音した。プレイバックを耳にして、誰もが復活したレコーダーの出来にいたく満足したが、ここで彼らはさらに驚かされる。ダウドがジャムで誰かが1音外したことを指摘し、それを編集で消そうと言い出したからである。ダウドは昔を思い出しながら言う。「スティーヴは頭が良くて、飲み込みが早いタイプだったな。わたしがすることを見て、すぐにコツをつかんでいたよ」。(略)2人はすぐに意気投合した。スティーヴは今でも、テープ編集のやり方を教えてくれたのはダウドだと断言する。

修理された機材で録音されてヒットしたのがルーファス・トーマス「ウォーキング・ザ・ドッグ」

モータウン帝国とは対称的な家族経営

1963年が終わろうとする中、スタックスは相変わらず家族経営の小さな会社の域を出ていなかった。活動は毎月シングルを数枚、3ヵ月ごとにアルバムを1枚発売するという程度。事務職はディーニーとリンダ・アンドルーズ、そして銀行の仕事が終わった後のジム・スチュアートの3人。エステルがレコード店を切り盛りし、昼間はスティーヴ・クロッパーが1人でスタジオを任されていた。次なる安定期はまだ数年先のことだった。

明日につづく。