スタックス・レコード物語・その2

前日の続き。

スタックスレコード物語 SOULSVILLE U.S.A.

スタックスレコード物語 SOULSVILLE U.S.A.

アイザック・ヘイズ

大学に入学したブッカー・T・ジョーンズがスタジオにあまり来なくなったこともあり、アイザック・ヘイズは次第にスタックスのセッション・ミュージシャンの常連になっていく。自信をつけるにつれて、彼は曲のアレンジに関する意見を述べるようになり、ついにはデヴィッド・ポーターとコンビを組んで曲を書き始め、スタックス・レコードのすべてを劇的に変えるのである。

アトランティックと正式契約

1965年5月アトランティックとちゃんとした契約を結ぶも、これが後々大問題となる。ウェクスラーを全面的に信頼していたジムは弁護士にも相談せずサインしてしまった。

 ジェリー・ウェクスラーは一貫して、アトランティックの弁護士らがこの条項を勝手に加えたものであり、自分は何も知らなかったと言い続けている。だがもし契約書に目を通していれば、これがスタックスの全作品の所有権をアトランティックに譲ることを約束する法的書類であることは一目瞭然だったはずだ。つまりこれはジム・スチュアートが思っていたような原盤貸与契約でも、配給契約でもなく、原盤購入契約書だったのである(略)
つまり署名ひとつ、たった1ドルの手付け金で、ジム・スチュアートとエステル・アクストンは自らの全カタログにおける権利を失ってしまったのである。

ウィルソン・ピケット

65年ウィルソン・ピケットは三度メンフィスを訪れ9曲録音。
Wilson Pickett - In the Midnight Hour

 スタックスが得意とした2拍と4拍をわずかに遅らせるという技は、この5月のセッション中、ウェクスラーが踊った〈ジャーク〉という当時北部で流行り始めていた[バックビートを遅らせる]ダンスをヒントにして生まれた。(略)これ以前からビートをほんの少しだけ遅らせていたが、「ミッドナイト・アワー」ではそれが一段とはっきり打ち出されている。
[残響のひどい中ヘッドフォンなしでやっていたので少し遅れていたのを、1拍目はドラムの手を見てジャストで入り、2拍目と4拍目をわざと遅らせるようにした]

Original Album Series

Original Album Series

 

デヴィッド・ポーター

[ジムには才能なしと相手にされず]
「ジムから励ましてもらったことはないよ。支えてくれたのは彼のお姉さんさ。『これとこれとこのレコードを聴いて勉強しなさい』なんて、いつも言っていたな。だからわたしはサテライト・レコード・ショップにしょっちゅう行っては、レコードを何枚もすり切れるまで聴かせてもらったんだ。彼女は本当に素敵な女性だった。こんなふうにも言ってくれたよ。『さあ、いいからスタジオに行って、みんなが何をしてるのか、よく見てきなさい。まずは、他の人たちが何をしているのかをちゃんと見なくちゃだめよ。そうすれば、自分が何をしたらいいのかがわかるから』
(略)
[64年頃からアイザック・ヘイズと共作するようになり、65年エステルのプッシュでクロッパー同様に給料が出るようになる。]
彼女とポーターの勉強会はそれから数カ月間にも及んだという。ポーターの週給は50ドル。彼はこれをアイザック・ヘイズと分け合った。ヘイズはまだ精肉工場で働いていた。稼ぎは少なかったが、とにもかくにも、これでついに一歩は踏み出すことができた。こののち、ポーターはヘイズと共にサム&テイヴという車に乗って突っ走り、成功という城の扉を開く鍵を手に入れることになる。

Best of

Best of

 

アル・ベル

65年専任のプロモーション・スタッフとしてアル・ベルが雇われる。黒人。やり手で72年にスタックスを手中にする男。オーティス並のエナジー。戦略と精力的活動でたちまちチャート・ヒット連発。サム&デイヴ躍進のきっかけとなったこの曲もそのひとつ。下の動画1曲目「You Don't Know Like I Know」。ここらへんからヘイズ+ポーターのコンビも絶好調。いつまでトイレに入ってんだと急かすヘイズにポーターが「ホールド・オン、マン、アイム・カミング」と答えて名曲で
キタ━(゜∀゜)━。

66年3月ブライアン・エプスタインがビートルズ次作[リボルバー]録音候補地としてスタックスを訪問。社内は興奮の坩堝。さらに情報漏洩でファンも殺到するも、ビートルズ訪問は実現せず。

「ビッグ6」

同年「ビッグ6」(ブッカー・T&ジ・MGズの4人に、アイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーター)の利益分配体制が確立

この時点まで、スタックスで制作者クレジットが個人に与えられることは非常に稀で、実際、外部プロデューサーが関与した場合に限られており、アルバムには、レコーディング・スーパーバイザーとしてジム・スチュアートの名前が載っているだけだった。だがアル・ベルに熱心に説得され、スチュアートはついに「プロデュースト・バイ・スタッフ」とクレジットすることに同意、制作者印税はスタックス社の成功に最も貢献した上記の6人で分けることを認めた。要するに、利益分配制の導入である。(略)
[スタックス・サウンドに不可欠だったホーンの二人(ウェイン・ジャクスンとアンドルー・ラヴ)はこの体制に加えてもらえず不満を抱いた。]

これまたジムにボツにされかかるも、食い下がって世に出た、エディ・フロイドとクロッパーの共作
Eddie Floyd "Knock On Wood"

Very Best of Eddie Floyd

Very Best of Eddie Floyd

 
Stax Profiles

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オーティスとホーン

 初期からスタックス・サウンドの要だったホーン・ライン。その美学の形成に、オーティス・レディングほど大きな役割を果たした者はいない。(略)
オーティスの使うキーは主にEとA。それとFシャープ、誰も使わないようなキーさ。シャープ自体は素晴しいよ。でも、それを使ってあれこれしようという人はあまりいない。逆に言えば、そのおかげでオーティスの曲にはパンチが利いてて、ノリが良くて、聴いてる人が指を鳴らしたくなるんだ。(略)
彼は色んなホーン・ラインをハミングして聴かせてくれたからね。こっちはそれにならって吹くだけ。それがメンフィス・ホーンのラインになったんだ。(略)
本当にパワフルな男だった。心も体も熱い男だったんだ。(略)強烈なエネルギーの持ち主で、人をぐいぐいと引っ張る力があった。みんな、オーティスが大好きだった。ほんとに好きだったんだ!

スタックスにとってオーティス・レティングがどれほど大きな存在だったのか。次のジム・スチュアートの言葉に、それが集約されている。「オーティス・レティングは魔法の薬のようだった。彼がスタジオに入ると、場の空気がぱっと明るくなって、心配事も問題も全部どこかに消えてなくなった。これから何か素敵なことが起きるぞ。そんな気持ちにさせてくれる男だったんだ。オーティスはどこまでもクリエイティヴで、どこまでもポジティヴだった。オーティスが来ると、誰もが彼と一緒の場にいたいと思うんだ。本当に魔法のようだったね」

67年ヨーロッパ・ツアーに出たスタックス一行はスター扱いに驚愕。カーラ・トーマスの一番の思い出は幕間にポール・マッカートニーと言葉を交わしたこと。
Stax in Norway

このツアーでオーティスはヨーロッパで大スターの仲間入り。翌年のモンタレー出演につながる。
Otis Redding at Monterey

明日につづく。

Live in London & Paris

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Otis Redding  5CD ORIGINAL ALBUM SERIES BOX SET

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