18世紀の著作権、読者の台頭

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上記とだぶる話ではあるが。

読者の台頭と文学者―イギリス一八世紀から一九世紀へ (SEKAISHISO SEMINAR)

読者の台頭と文学者―イギリス一八世紀から一九世紀へ (SEKAISHISO SEMINAR)

著作権法の成立

発端は1695年の印刷法(略)の廃止である。印刷法は1662年に成立し、そのおもな内容は印刷業者と徒弟の数の制限、ロンドン市の印刷独占、版権の登録およびその管理に関する規定であった。
(略)
版権の登録とその管理に関する規定が撤廃されたら、まずなによりも版権への投資が危険にさらされる。具体的には海賊版の横行に悩まされるということである。
[印刷法復活を何度も試みるが失敗]

印刷法に代わって

[1710年]「学習奨励のための法律」はこのように成立したのである。
 この法律は著作権法として一般に知られている。「文芸的財産権」ということばを使ってはいるが、(略)業界が最も関心を示したのは、著作権(略)の法的期限であった。(略)
1.現存作品は21年間
2.新作は14年間、作者が生存していれば、さらに14年間
 いずれのばあいも保護を受けるためにはステイショナーズ・カンパニーの登録簿に登録する必要がある。というわけで、これは版権所有者である出版者の利益を守るための法律であったことは明白である。(略)
かくして、出版者の権利は保護され、業界の秩序は回復されたと彼らは考えた。しかし、この法律の奇妙な点は、前文に僅かに出てくる以外、ほかにはまったく作者について言及されていない点である。すでにのべたようにこの法律が作者のためのものでなく、出版者のためのものであった証拠だといってもよい。

だが21年はあっという間、版権期限切れ続出で、1735年さらに21年間延長するための請願書を提出するも上院で否決

出版者は既刊本の版権をさらに21年間延長するよう要求しているが、もし認められたら、その期限が切れたときふたたび21年間の延長を要求してくるに違いない。

 したがって、もしこの法案が通るなら、じじつ上、彼らの独占を永久に許すことになる。これは法的に非難されるべきことであり、また出版業界全体にとっても大きな障害になるだろう。学問を停滞させ、作者を不利益にし、一般読者にとっても増税を意味する。結局、出版者の儲けを助長するだけである。

 この通りになるかどうかはべつにして、背景には出版者に対する根強い反感があったことはたしかである。とくに、ここでいわれている版権の永久所持、すなわち永代版権についての反感が。
(略)
[だが]ときを同じくして、版権切れの本が次々と発禁処分になっているのである。担当判事によれば慣習法が適用されたためということだが、これは版権にあっては永代版権を意味している。(略)こういった状況から判断して出版者は裁判所が自分たちに好意的であると考えた。

そんなわけでもう一度法案提出するも再度否決、そこで今度はアイルランドスコットランドからの輸入を禁止する法案提出。可決されるも実効性に乏しかった。
そうこうするうち、版権についての慣習法を無視し格安本を売る、アレクサンダー・ドナルドソンという男が登場。こう主張した。

ことのおこりはすべてロンドンの出版者の私利私欲にあり、ゆえに彼らの嫉妬からくる排他主義に屈するわけにはいかない。作者にとっても版権の制限はけっして不利ではないし、一般読者にも利するところが多い。慣習法による永代版権が許可されたら、わずか六人ほど(?)のロンドンの出版者が勢力を拡大する一方で、他の出版者は失望と落胆の憂き目にあうばかりである。しかもロンドンの出版者は永代版権が保証されたという安堵感から、とかく杜撰になり、正確さや優美さを欠き、いたずらに値段をつりあげるだけだろう。他方、古典作品が出版自由になれば、印刷、製紙の各企業は繁栄し……

ドナルドソン対ベケット裁判でいろいろあって、最終的にイングランドの永代版権は、その慣習法から除去され、1710年の著作権法に従い、期限の切れた本は自由に出版できることになった。
こうしてリプリントは盛況、クックの6ペンス本について

読者から読者へと手渡されてヴィクトリア時代まで読みつがれたことはたしかである。一世紀あとになってオーガスティン・ビレルはクックの本について書いている。「よく読んで汚れ、嗅ぐとそのページをよろこんでめくった何千という親指の匂いがする。クックは莫大な富をなしたが、十分それに値する。彼は天才と自分の国を信じていた。ひとびとに安い本を与え、彼らはよろこんでそれを買った。」

作者のパトロンは宮廷から政党へ、そして読者の台頭

一世代前の市民戦争時代に作者は利用価値があると見なされた。議会派も王党派もペンによって自説を展開したが、そのとき大切なのは相手を打ち負かすことであった。そのためには理詰めの理論よりも洒落とユーモアの効いた臨機応変の文章の方が効果的である。この種のパンフレット戦争のなかでは、巧みな技法を駆使し、相手を嘲笑し、揶揄し、悪口できる書き手が重宝されたのである。(略)
 ウィリアム三世が王位につくと、ペイトロンは宮廷から政党に移り、作者は政治的リーダーに必要とされるようになった。
(略)
[さらに政党にペンを売らない者も]
ペイトロンなしでも、相応の収入が期待できたのは彼らが読者という市場を持ったからである。(略)
 作者の地位を変える要因となった読者とは、本を読む暇のある富裕な商人層であった。彼らのほとんどは通常の学校ではなく独自の学校(アカデミー)に行く非国教徒であり、そこでは優れた教育がおこなわれ、多くの新興の読者が育てられた。17世紀の終わり頃には大きくはないがコンパクトな読者層ができあがっており、彼らは従来の宮廷的な狭い世界ではなく広い世界に関心を持つ中流階級の読者であった。ちょうどその頃人気を博しつつあったコーヒー・ハウスも読者の成長と無関係ではなかった。(略)各種の新聞・雑誌を店内に置き、多くの読者を引きつけた。政治的・文学的議論も活発におこなわれ、そこで読まれる一編のパンフレットや詩はたちまち町の話題になり、新しい作者の誕生をうながした。次には、1695年の印刷法の廃止があった。これによって生まれた出版界全体の解放感のなかで作者は比較的自由にものを書くことができ、それが作者の地位を向上させるきっかけになったと考えることができる。印刷法の廃止はまた内外の海賊版も横行をうながし、皮肉にもそれが安い出版物を世に送り出し、読者の成長を助長したのである

明日につづく。