ソフト切腹、清は敵討ち禁止

かたき討ち―復讐の作法 (中公新書)

かたき討ち―復讐の作法 (中公新書)

うわなり打ち(宇波成打)。
先妻が後妻を襲撃。

広辞苑』には「本妻や先妻が後妻をねたんで打つこと。室町時代、妻を離縁して後妻をめとった時、先妻が親しい女どもをかたらって後妻の家を襲う習俗があった」とあり、「相当打」とも言うと記されている。

後妻打を企てるのも、竹刀などを手に新妻方に押しかけるのも、すべて女。男が携わるのは使者と取次の役だけで、「其後は、男一切不出合」のが「法」だったという。

 さて、当日になると、先妻は乗物で、供の女たちは徒歩で新妻方へ押し寄せた。その様子は、「くくり袴、襷、髪を乱し、又かぶり物、鉢巻など」をした勇ましい装いで、手には竹刀が。新妻方の門を開かせて台所に乱入すると、鍋、釜、障子などを竹刀で壊し破いた。
破壊がある程度行われたところを見計らって、妻の仲人と先妻と新妻それぞれの侍女郎が登場。懇々と宥めて先妻側に引き取ってもらうのだった。

 恐ろしき女たち。しかし一方で、襲撃の日時から所持する得物、そして仲裁が入るタイミングまで、すべて「法」に則って(約束済みで)行われ、過剰な破壊に至らないよう図られていたのが分かるだろう。離別後まもなく夫が新しい妻を娶って面目を潰された先妻やその一族は、怨みや屈辱を晴らすに十分な復讐を演じながら、にもかかわらず、流血殺傷という最悪の事態を引き起こさぬように、後妻打の作法が成立していたのである。

はじめての追腹(85歳)
主君に殉じて追腹を決意の鈴木右近85歳。でもなかなか敢行できず。そのわけは作法がわからないから。当日介錯人に「恥ずかしながら」と作法を尋ねると「私も作法の詳細は存じません。主君の御位牌に礼拝したのち、御位牌を背に腹を切ると聞いているくらいです」とあっさり言われ、
カッコヨク立腹(立ってハラキリ)したいんですけど言うと

「冷たい言い様ですが、ご老衰の身で評判を取ろうとなさるのは意味がないと存じます。作法どおり切腹なさるべきでしょう」
[結局普通に切腹することに]
 はたしてその終わり方は、85歳の高齢者とは思えぬ壮絶なものだった。刃を腹に押し立て引き回しながら、切断面を亡君に見てもらおうと、位牌の方を振り向こうとした右近。ところがその時、介錯人が振り下ろした刀が頚部をそれて肩の骨に食い込み……。衝撃と苦痛で反り返る身体。もはや通常の介錯は不可能と見た渡右衛門は、間髪入れず右近を膝の上に引きずり抱え、首を掻き切った――。
 覚悟の殉死であり、後の始末を万端済ませた末の最期。にもかかわらず、右近は鮮やかに割腹をし遂げるどころか、内臓がはみ出してのたうち回るのを押さえつけられ、首を切られ絶命したのである。

ソフト切腹、ハード切腹

内藤素行によれば、松山藩では、一口に切腹と言っても、「藩庁より公然と」命じられた切腹と「内々の沙汰で」行われる切腹の二種類があったという。(略)
[前者は]三方の上に置かれた短刀に手を掛けるか取り上げたときに、介錯人が後ろから即座に首を打ち落とす。切腹人は実際に腹に刃を突き立てることはなく、苦痛の少ない“優しい”切腹である。
 対照的に、後者は「頗る残酷」なものだった。内命で執行される切腹とは、藩から正式に申し渡されるのではなく、表向きは当人が悔悟の末に腹を切るもので、代わりに死後三年目に子孫に15人扶持の家禄が与えられ、家名は断絶せずに済んだ。ある意味では温情の措置だったのだが、切腹の場面は陰惨そのものだったらしい。(略)
形だけの切腹ではなく本当に腹を割かせ、のみならず咽喉まで自ら切らせる究極の自刃が強要されたのである。

「指腹/さしばら」

 慣行が生まれた理由はともかく、全国に普及させたのは、会津藩の例で見たように、喧嘩の決着を最小限の犠牲(指して切腹した者と指されて切腹した者の二人)にとどめるのに最適の方法だったからに違いない。
 一方、千葉徳爾の見解はかなりユニークだ。氏は差腹は「思いざし」から派生したという論を披露している(『たたかいの原像』)。
 「思いざし」は酒宴等で「一個の人間がその一念をこめて、この人物と思い込んだ者に対して盃をさす」行為(略)中世の武士の世界では、盃をさされた者は通常これを断れず、断ればさした相手を侮辱するばかりか、断った本人が「男と男との契約に値しない人間と評価される」という。差腹とは、このような「思いざし」から派生した「たたかいの形」だというのだ。

愛が恨みに。
『たたかいの原像』

自害という生死の境に立った時に、その死を共にする相手は汝であるという意志を伝えるために、自己が割腹した刀を思いざしの盃に添えて相手に与える、戦国の自害の方式に沿う形となったと考えられる。さらにその感情が愛から怨みに変わって、愛情表現としての酒盃を与えることが脱落し、死んでほしいという要求を示す切腹した刀のみを送ることになったのではなかろうか。

 男性同士の愛情表現であった「思いざし」の形式が、怨みの行為に踏襲されたとき、差腹という奇妙かつ残酷な習俗に姿を変えた。憎しみと復讐の作法である差腹は、愛しく思う特定の個人を指名して盃を与える愛の作法から生まれた分身だというのである。

(金も女もあるアイツが憎いから、非モテが指腹、なんて話も載ってるYO。)


目上の者が殺された場合の復讐が敵討、目下の者の復讐は仇討。ただ幕府は仇討を公式には認めていない。つまり弟妹甥姪の復讐は公式には認められない。
吉宗さんは暴れん坊どころか将軍になるや江戸城図書館目録を提出させて勉強。さらに外国人からも学ぶ。
中国人朱佩章に色々質問している

「贋金と知らずに使った場合の罪は?」、「他人の悪事を通報した者に褒美を与えることはあるか」、(略)「酒狂(酒乱)で人を殺した場合の刑は?」、「食品の数や衣服の質について定め(贅沢を禁じる規定)は設けられているか」、「殉死は禁じられているか」、「出版される書物は官の検閲を受けているか」etc

その中で敵討ちについても。
刑法に従い殺人(敵討ち)は認められないが、その情を酌んで罪を減じている、との回答。

 右の回答で納得いかない点を、吉宗は重ねて質問し、朱佩章もまたそれぞれに回答した。


吉「父の敵を討ったのに、どうして罰せられるのか」
朱「たとえ父の敵であっても、官に訴えず私的に殺害するのは、法を犯し、つまりは君(皇帝)を蔑ろにする重大な罪だからです。復讐したい相手がいるときは、官に訴えてこれに報復しなければなりません」
吉「兄弟や伯父の敵を討つ場合はどうか」
来「中国では、兄弟や伯父の敵討ちは行われません」
(略)[それはおかしい貴国にはそういう法があったはず、確かに昔はありましたが今はありません、といった遣り取り]


礼記』ほか書物の知識を踏まえて中国の復讐制度の現状を問う吉宗に対して、朱は、現在の清朝ではあくまで刑法が優先されていると答えたのだった。

なぜ敵討ちは許されないか、討てば討たれた子弟がまた討つ、そんな復讐の連鎖を断つため。それが清スタイル。
うーむ、呉智英、と意味なく呟いてみる。


さらに吉宗、姦通についても。

吉「姦通を犯した男(姦夫)と女(姦婦)は同罪なのに、どうして女は打たれず首枷もされず、夫の家や実家に帰されたりするのか。女の刑罰がはなはだしく軽いのはなぜか」
朱「(中国では)女の刑は男の刑より格段軽いのです」

 では、夫が妻と間男の不倫現場を押さえ、二人をその場で殺害した場合はどうなるか。朱佩章はこう語っている。
 ――夫が二人の首を斬り、二人の袴に包んで役所に持参すると、役所では夫を四、五回板で打ったのち、紅の絹を身体に掛けて大鼓と笛などで囃しながら家に送り帰します。しかし二人(姦夫姦婦)のうち一人だけを殺すと、姦通の証拠がないので、夫は殺人罪を犯したのと同様に扱われます」
(略)
吉「紅の絹を掛ける理由は?」
朱「夫の勇を讃えるためです」
吉「姦夫姦婦のうち一人だけ討ち、一人が逃亡した場合でも、文書その他確かな証拠があるときは、どうするのか(それでも夫は殺人罪を宣告されるのか)」
朱「たとえ文書その他の証拠があっても、妻(姦婦)がそれは偽りであると反論したら、証拠にはなりません。証人となる第三者もいないので、夫は罪を免れないのです」
吉「拷問によって姦婦が姦通の事実を白状したら、どうするか」
朱「拷問の苦痛に耐えられず事実と異なる自白をする恐れがあります。しかし妻が姦通したと自白すれば、(たとえ相手の男を殺害していても)夫は死罪を減刑されて流罪となります。中国では、人を殺して死罪を免れるために、妻と姦通したと虚偽を申し述べることがあるので、役人は入念に吟味しなければなりません。また姦通の現場を見つけられ面目を失った女が自害したときは、相手の男は30回打たれたうえ、秋になってから絞罪に処せられることになっています」

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