喧嘩両成敗の誕生

「獄前の死人、訴えなくんば検断なし」。自害は究極の訴願形態。自殺未遂でゴネちゃう一休さん。貧民がヒルズで大掠奪。押売りならぬ、押植え。

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

 

復讐が放任されていた中世日本

失われた名誉や財産を公権力に頼らずに自分で回復すること、これを法制史用語で「自力救済」という。日本中世の公権力は、この自力救済を必ずしも好ましいものと考えていたわけではなかったが、おおむねその行為を一般的慣習に従って黙認していた。南北朝時代の諺に「獄前の死人、訴えなくんば検断なし」というものがある。たとえ牢獄の前に死体が転がっていても、それが訴訟として持ち込まれないかぎり、公権力は刑事事件として処理しない、という意味である。この諺のとおり、当時の裁判は「当事者主義」を原則としており、当事者からの訴訟の提起がないかぎり、公権力が独自の捜査を行ったり犯人の捕縛をすることはまずなかった。だから、敵から危害を加えられた者は、公的裁判に訴え出るのも、自力救済に走るのも、その選択はまったく自由だったのである。もちろん、そのさい自力救済という方法を選んだとしても、相手側が訴訟を起こさないかぎり、公権力はまったく関知しないことになる。だから、厳密にいえば古典学説のいうように復讐は「公認」されていたというよりも、むしろ「放任」されていたという方が正しいだろう。そのために日本中世社会においては、一方では公権力の制定法で復讐が禁じられていながらも、一方で現実社会においては復讐が横行し、それが容認されるという、一見、相矛盾した現象が起きていたのである。

室町期、自害は究極の訴願形態だった。

敵対者への強烈な不満や遺恨の表明行為と認識されていた。

あの一休さんも二度自殺未遂で

[一度目は師に死なれ琵琶湖入水しかけて母の使者に止められる]
二度めは文安四年(1447)、54歳のとき、彼のいた大徳寺の派閥抗争に嫌気がさし、山に龍もって断食し「餓死」を試みている。このときは時の後花園天皇が慰留に乗り出し、これもけっきょく思いとどまっている。このように、一体の生涯を見ていると、困難に直面すると自害未遂を起して周囲の配慮を呼び起こすというのは、ほとんど常套手段となっていたことがわかる。日常的には痛烈な風刺や露悪的な言動を重ねる一方で、こうした中途半端な自害未遂を繰り返す一休という人物は、そのため、かねてから歴史研究者のあいだでは評判があまりよろしくない。しかし、彼は自害をちらつかせることで、最終的にいつも周囲の人々を思いどおりに奔走させることに成功している。案外、見ようによっては、一休こそは、自害のもつ有効性を最も知り尽くした室町人だったのかもしれない。それはともあれ、これらの事例からも、室町・戦国期においては、自害した者や自害を試みようとする者に対しては、公権力や周囲の人々も理非を超えて一定の配慮をもっていたことは明らかであろう。そして、これらの配慮を期待して、ときに人々は起死回生の一策として自害を口にしたり、現実に実行したのだと考えられる。

「指腹/さしばら」

民俗学千葉徳爾氏は、江戸時代の出羽国米沢藩山形県米沢市)に「指腹(差腹)」という習俗があったことを紹介している。それは、みずからの切腹に使った刀を遺恨のある者に送りつけ、ひとたびその刀を受けとった者は、異議なくその刀でみずからも切腹しなければならない、という習俗だった。

縁もゆかりもないお尋ね者を匿うわけ

中世社会においては「憑む(頼む)」という言葉は、たんに現代語のように「あてにする」「依頼する」という程度の意味ではなく、むしろ「主人と仰ぐ」「相手の支配下に属する」というような強い意味をともなっていたのである。つまり、屋形に駆け込んだ者たちは、自己の人格のすべてをその家の主人に捧げ、「相手の支配下に属する」ことを宣言したのであり、これにより主人の側はたとえ相手が初対面のものであったとしても、彼の主人として彼を「扶持」(保護)する義務が生じた、と、当時の人々は考えていたようなのである。なお、これらの話とは逆に、中世社会においては、なにも知らずに他人の家に宿泊してしまった女性が、その日をさかいに家の主人から下人とみなされてしまい、あやうく身柄を拘束されそうになるというトラブルが実際におきている。(略)
このように、当時のイエは、公家・武家を問わず、室町幕府という公権力すらも容易に介入することのできない排他的な小宇宙だった。

無関係者を巻き込んで果てしなく繰り返される復讐の連鎖。

この時代は「個人」がその生命や財産を守ろうとしたとき、なんらかの(ときには複数の)「集団」に属することは必須のことだった。そして、その代償として人々は紛争の無意味な継続や拡大に悩まされることにもなった。そのため、この状況にどうにかして歯止めをかけることが、当時、社会全体から切実に求められていたのである。

掠奪刑・アハト刑。

法外人とする罰。貧民がヒルズに殺到してライブドア一族郎党から掠奪する光景。

[フィジー島やニュージーランドに実際に存在したという「掠奪刑」]
近隣住人が「我れ勝ち」に犯罪者の家に駆けつけて、「手当り次第に」財産を掠奪するとは、想像するだに壮絶な刑罰である。(略)
穂積陳重に言わせれば、罪を犯した者は、それにより法による保護の外に置かれ、事実上、財産権剥奪状態にされるのだという。それゆえに、法の庇護を失った者(法外人)の財産を何者が剥奪しようとも罪に問われることはない、というわけである。
これは穂積ひとりの勝手な独断ではなく、同じような事実は、時代と地域は異なるが中世ヨーロッパにおいても知られている。ヨーロッパ中世史研究で、アハト刑とよばれている刑罰がそれである。(略)アハト刑を宣告された者は、誰でも彼を殺害してもかまわなかったし、その死体は埋葬されることもなく、鳥の餌食にゆだねられたのだという。
(略)
自力救済の社会にあって、私的な暴力の行使から個人を守るのが「法」の役目のひとつであったとすれば、これらの刑罰は、犯罪者から「法」の保護を剥奪して、自力救済社会のただ中に放り込み、彼に対する私的暴力を認可することで、実質的な刑罰を実現させるというものだったのである。

落武者狩り

ヨーロッパの中世国家が、その過渡期にあって部分的に自力救済行為を容認することで「公刑」の執行を実現していたように、室町幕府においても同様に、「私刑」の世界に犯罪者の身柄を放擲することで事実上の「公刑」を実現していた。自力救済社会のただなかに生まれ、それを抑制しようとした室町幕府も、けっきょくのところ、さきにみた落武者狩りの公認指令や没落大名屋形への財産掠奪指令からもわかるように、他方で、より過酷で普遍的な広がりをもつ中世社会の「私刑」(自力救済)の世界に依拠することで成り立っている権力だったのである。

中世の占有屋「押蒔き」「押植え」

中世社会においては、たとえ書類上の売買契約などが不完全であっても、その土地を一定期間占有している事実さえ確認されればその土地の支配が認められてしまう可能性が存在したのである。そのため、この当知行の論理を逆手にとって実力占有を強行する者も後を絶たなかった。
なかでも滑稽なのは「押蒔き」や「押植え」といった行為である。これは、係争中の土地の支配を主張するために、その土地に勝手に作物の種を蒔いたり、苗を植えたりしてしまうことをいう。もし訴訟相手からこれを強行された場合、された側は「種蒔きや田植えの手間がはぶけた」などといって呑気に笑っていてはいけない。すぐにその土地に駆けつけて田畑を「鋤き返し」(耕しなおし)てしまわなければならないのである。なぜなら、それを放置すれば相手の用益事実を認めたことになってしまい、中世社会の場合、それは即、相手の排他的支配を認めたことになってしまうからである。

次回につづく。
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