春日武彦の美しい母

kingfish.hatenablog.com
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上記でやった春日武彦の連載が本になってた。

無意味なものと不気味なもの

無意味なものと不気味なもの

春日さんが紹介すると小説を読まない人間にも面白そうに思えるところが不思議で、逆に言うと春日さんに対する興味はソコだけだったりして。
一箇所異様に感じたとこ。
ドラッグストアにアイスを買いにいったまま消えた娘をベンチで30年待ち続ける母親という小説を紹介した後に自分の話がつづく。他の章でも「甲殻類や昆虫が苦手」といった自分の話を書いているのだが、それらは距離感をもった記述なのに、コレだけがちょっと異様。

 さらにもうひとつはひどく個人的な理由である。わたしの母親は、もしもコーラのようにわたしが失踪してしまったら、ベンチで三十年間待ちかねない人なのである。(略)彼女はおそらく持つのである、三十年間であろうと。しかも三十年後にわたしが戻ってきたら、間違いなく手を広げて迎え入れてくれるだろう。それが容易に想像出来るからこそ、わたしはぞっとするのである。
 なぜなら、この空想上のエピソードの失踪者にわたしがなったとしたら、途方もない罪悪感を抱え込むことが手にとるように分かるからである。母の顔に刻まれた皺、衰えた物腰、ぎこちない表情、そうしたものがどれだけわたしに罪悪感をわき上がらせるか。それを考えただけで、気持ちが悪くなってくる。取り返しのつかない気分に陥らされるのは目に見えている。しかも母はそのことに対して、ちっとも責めないだろうし怒りもしないだろう。
 母親に対して、わたしは常に罪悪感を抱き続けてきた。それは決して努力で埋めようがない。たとえば、わたしは母親に釣り合うだけの「美しい子ども」であるべきだったし、ハンサムでエレガントな大人になるべきだったという(馬鹿げた)思いを払拭出来ない。醜い外見の自分には、それはどうしようもない事柄である。(略)
そのようなどうにもならない罪悪感が、ベンチに座ったイモジンの姿から想起されてくるところに、激しい不安の源泉がある。

デート中にこんな話をされたら女性はドン引きだろうし、男性同士でも何と返していいかわからない気がする。
「母の私への無限無償の愛」までは「いやー、うらやましいね」と返せても、それに続けて「母は美しい」「それにひきかえ、私は醜い」と言われたら言葉がない。なぜこの話が著者の中では「距離感を持った話」として位置付けられているのか、そこが不思議。
例えば小学校プール学習時の記憶として、スイカポーズで水中に浮かぶ話は、ちゃんと距離感を持って描かれている。

クラスメートたちは次々に西瓜の姿勢を放棄していった。酸素を求めて立ち上がっていた。
 膝を抱え込んだ姿勢を崩して立ち上がろうとする彼らの動作を水中から眺めていると、それはきわめて見苦しいものであった。もどかしげに手足を解き、じたばたしながら一刻も早く顔を水面から突き出そうとする。まるで肌色をしたダンゴ虫が、敵が去ったと認識して球状からふたたび身体を伸ばそうと無数の脚をぞわぞわさせているように見えて、わたしは気分が悪くなった。

こういうエピソードと先の母親の話は同列じゃないと思うのだが。なぜなんだ、武彦。
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寛斎な西部ってカンジでブサ男だとは思わぬが、そんなに美人なのか武彦。

黄金の眼に映るもの (講談社文庫 ま 24-1)

黄金の眼に映るもの (講談社文庫 ま 24-1)

妻の間男にラヴな同性愛大尉と美人妻、間男少佐とブス妻、童貞窃視一等兵が交錯する小説を紹介して

 精神科医の立場で述べるならば、〈もはや取り返しがつかない〉という気分は人間を絶望に追い込む最強の要因である。鬱病の患者は、気持ちが沈むから自殺をするのではない。病的な取り越し苦労や妄想に近い罪悪感といったものが、〈もはや取り返しがつかない〉といった焦燥感によってリアルに立ち上がったときに、自らの命を絶つ。あるいは統合失調症の患者が病的な不安感に押しつぶされそうになり、得体の知れぬ凶兆や不吉な気配に取り囲まれ、ただただ直感として自分は〈もはや取り返しがつかない〉状況に立たされていると実感したとき、彼は発狂する。

 電動ノコギリで自分の指を切り落としてしまったら、それは悲惨であり辛いことである。指を失ってしまうことの悲しみはどれはどのものか。だが指を落としたことにまったく喪失感も嘆きも示さず、そんなことを意に介さぬまま平然とタイプライターの前に座り、文章を綴ろうとするも指が足りないために意味不明なスペルを延々と打ち出している男がいたとしたら、その姿はまぎれもなくグロテスクである。彼はもはや我々の理解の及ばない世界、つまり怪物の世界へ半身を突っ込んでいるのだから。

さて冒頭リンク先では小説の内容についても紹介していたのになぜ今回はこれだけなのか。それはコチラの状態がビミョー不調だから。どこを読んでいても不安感に襲われそうでコワくてもう無理ってかんじ。
一時期ストレスが酷かった時は「ヒドイ」という状態が明確に認識できていたのでそれはそれで安心だったのだが、ストレス解消したようでしてないような今の状態はちょっとコワイ。それに気付いたのは、数ヶ月前、演奏するブルースマンの映像を観ていた時。後ろのセットの窓からニッコリ笑う黒人少年、これがなぜか不気味に見えて、怖ろしくてたまらない。確かに不気味に見えてもおかしくない絵面だったのである意味納得できたのだが、それ以降も、まったくおかしいところのない日常風景に恐怖を感じる瞬間があって、コワイ。それなりに快調なのに、フト、恐怖を感じる瞬間があって、コワイ。それを深く解析するとおそろしいことになりそうな気がすることが、さらにコワイ。元々不安定な方々には当たり前な話なのかもしれないが、なにしろ生まれてこの方精神健康優良児だったので、なんかすげえ、コワイ。某雑誌で鬱病特集やってて、「鬱」ではないけど、精神を病んでる状態の記述がコワくて読めなかった。ストレスが明確だった時はスピード落とせば安全だったが、今はそこそこ快調なので、スピード出せる気分になるのに、突然ハンドルを切ってしまいそうで、コワイ。
さて、この話は……。