宗教vs国家・その2

前日の続き。

宗教VS.国家 (講談社現代新書)

宗教VS.国家 (講談社現代新書)

モーパッサン女の一生

「子供が欲しくないと、夫が求めてこない」そう告解する妻に司祭は、子供ができたといえば旦那も禁欲するのを止めるでしょうと助言。さらに

こうつけくわえたのである。「これは奥さんの正当な求めです。教会は子を成すことを目的としない男女の関係を認めてはおりません」。

いやあ清清しいですなあ、「産む機械」なんて甘い甘い。

模範的な司祭は、教会で説教をするだけではなく、定期的に家庭訪問をして、よろず相談に来るのが常識だった。(略)
モーパッサンが徹底した教会ぎらいであったことは知られている。(略)19世紀の進歩的な潮流に積極的にかかわった男性の大方は、告解の習慣を棄てており、その一方で母親たち、妻たちは、頻繁かつ密接に司祭の指導を仰いでいた。ジュール・ミシュレは1845年に『司祭と女性と家庭について』という著作を発表し、司祭は家庭内で父親の、あるいは夫の立場をあやうくすると断言した。そして告解の勤めに熱意を燃やすイエズス会を「われわれの敵」と呼んだ。

第三共和政首相・ジュール・フェリー

フリーメイソンは、もともと統一された教義の浸透をめざす宗教団体ではなく(略)「知的社交組織」の性格がつよかった。18世紀の旅人はメイソンの会員であれば国外にあっても、そのネットワークの恩恵にあずかった。それは「言語や宗教や国籍の差別なく訪問者を温かく受けいれる友愛団」を形成していたというのである。(略)
ジュール・フェリーは、メイソンの会所を借りて「実証主義」「友愛」「連帯」など、みずからの信条を臆面もなく披瀝しているように見える。(略)
見方によっては拍子抜けするほど健全な活動にもかかわらず、カトリック教会のような制度化された一神教の立場からすると、フリーメイソンは得体の知れない「陰謀」の巣窟なのだった。宗教団体とイギリス風のクラブと知的社交組織の性格をないまぜにしたようなフリーメイソンが、大きな力をもちえた時代として、第三共和政は出発した。

女性参政権

 当然ながら、保守陣営が女性の政治参加に賛成することはありえなかった。しかし、社会改革に熱心なはずの左派の運動家たちが、女性参政権に消極的だったのは、まったく別の理由からである。くり返し述べてきたように、女性は圧倒的にカトリック教会の支配下にあった。したがって女性票が右派に流れるであろうことは目に見えていた。

「自由・平等・友愛」

 革命の時点において、三つの語彙と順番は流動的だった。もともとこの標語は個人の発明ではなく、革命のさなかに集団のなかで誕生したものだ。しかも同種の先例は、たとえばフリーメイソンのような思想集団の伝統のなかに豊富にあって、「友情」「慈愛」「誠実」「団結」といった語彙と共存していたにすぎない。革命の初期には「国民・法・国王」「自由・安全・所有」といった保守的な標語もあり、急進的なジャコバン派の標語として問題の三つの語彙が頻繁に使われるようになる。ただし当初は「自由」と「平等」という二点セットが優先したという。

なぜ「友愛」に抵抗があったか

一つはブルジョワ革命をめざす勢力が「自由・平等・所有」に執着したからだという解釈。二つめは、「友愛」がキリスト教に根ざした思想であるために、革命の理念と相容れないとみなされたという解釈(略)
第三の仮説は(略)「友愛」の名において多くの血が流されたために、「自由」「平等」に匹敵する語彙としての輝きが失われたというのである。

「自由・平等」が権利であるのに対し、「友愛」は責務を指し、前者が人間の状態であるのに対し、後者は絆を意味し、前者が契約を前提とするのに対し、後者は調和を志向する。前者は個人の問題であるが、後者は共同体を指し、前者が知性の追求するところであるのに対し、後者は肉体をもつ人間にかかわっている、等々。
 そこでもう一度「友愛」に話をしぼるが、フランス革命の運動に積極的に参加した聖職者たちは、初期キリスト教の信仰共同体との類似を事あるごとに喚起した。彼らは社会的なものと宗教的なものが背反せず、同一化したという自覚に突き動かされていた。革命期の言語教育の構想などに多くの功績をのこしたグレゴワール神父は「宗教は友愛と、平等と、自由をわれわれにもたらす」という言葉を残している。「友愛・平等・自由」という語彙の並ぶ順番には、それなりの根拠があるのだろう。

「友愛」にかわり「連帯」

フリーメイソンという選択からしても、ブルジョワという出自からしても、政治家としての彼の資質は穏健だった。そして自由とは放縦ではない、平等とは共有ではない、友愛とは無差別の融合ではないと人びとを説得し、穏健派の主張を初等教育の現場にまで浸透させたのである。ジュール・フェリーはためらうことなく「自由」を至上の価値とみなしていた。信教の自由、検証することの自由、科学の営みの自由はそれぞれに教会が承伏しないところであるために、なおのこと共和国の公教育にとってかけがえのない原則となるのである。
 そうした中で「友愛」に代わるものとして徐々に浮上した新しい言葉、それが「連帯」だった。同じように社会の絆を示唆するけれど、感情的な負荷は軽く、なによりキリスト教的なコノテーションがない。(略)友愛とはすべての試練に打ち勝つ連帯である

ドレフュス事件

ジャン・ボベロの『フランスにおけるライシテの歴史』によると、ドレフュス事件の土壌を準備したのは、マイノリティヘの「憎悪」だったという。反教権主義、反プロテスタンティスム、反フリーメイソン、そして反ユダヤ主義・・・。かならずしも弱者ではない、ある意味では強力なマイノリティである。
 政権の中枢を占めるフリーメイソンは、夜な夜な「悪魔のミサ」を挙げている連中だとか、プロテスタントは国民を「非フランス化」して、海峡の彼方のイギリスと手を組むつもりだとか……。こうした誹謗中傷とならべて、エドゥワール・ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』を解読すべきだろう。ボベロの分析は以下のように要約できる。
 まずキリスト教徒による反ユダヤ主義の流れは中世から受けつがれたものだが、あらたな潮流としては、社会主義者からの「生産に寄与しない居候」としてのユダヤ人という批判があって、両者が強固な反ユダヤの陣営となる。その一方で、「反教権主義」も異質な集団の繋ぎとしての機能をもっており、社会主義に共感を寄せる労働者階級と、政権を握る自由主義的なブルジョワ階級は、少なくとも、この共通項によって結ばれていた。ところがドリュモンは以上の構図を解体し、反ユダヤの共通項をもつカトリックと労働者と社会主義という繋がりを産みだしたと歴史家は指摘する。さらにブルジョワ自由主義の政権に不満をもつ集団をここに合流させて、神話的な「反ユダヤ主義」の旗幟のもとに国民の多くを糾合したというのである。

教会の財産

宗教団体の所有する土地や施設は通常の法の規制をまぬがれ、課税対象として掌握することさえむずかしい。結果として「コングレガシオンの10億フラン」に国家は手出しをすることができない―1900年10月、首相のヴァルデック=ルソーは、こんなふうに数字をかざして宗教団体の膨張する財産という脅威に警鐘を鳴らしたのだった。(略)
 修道会のなかには社会的な活動だけでなく、チョコレートやリキュールなどの生産にかかわり、事業主として成功したケースもあった。トラピストなどは、わたしたち日本人にも馴染みの名前だろう。ただし問題は、のどかな美食の話などではなく、じっさいにカトリックと保守派の資金を特定の銀行に集約して教皇庁の政策をささえる財政基盤を作ろうという計画もあった。エミール・ゾラの『金』は、ユダヤ系の銀行に桔抗するカトリック系の銀行の破綻事件を素材とした作品で、世紀末の金融界に巨大資本が暗躍するさまが描かれている。

植民地とヴィクトル・ユゴーの関係はふかい。

この国民作家は、アフリカの植民地化をヨーロッパ文明の崇高な使命と考えており、フランスはユゴーの作品を携えて世界に侵出した。
(略)
 インディラ・ガンディーは『レ・ミゼラブル』を読んで貧困のなんたるかを悟ったと述懐したという。もうひとつ例を挙げれば、フランスの旧植民地ベトナムには、カオ・ダイ教という新興宗教があり、そこでは、ヴィクトル・ユゴーが聖人に叙せられている。以上のエピソードを要約すれば、ヴィクトル・ユゴーとは何かしら特権的な意味で、ヨーロッパ文明の符牒なのであり、すでに神話になりおおせた存在ともいえる。

カトリック

カトリックヘの共感が薄れるとともに、その代償のように共和主義への信頼が固まってゆくというのが、大きな流れである。(略)
 死を直視したユゴーは、キリスト教の信仰をもつと宣言し、その前提に立って反カトリックの立場を明確にした。このように「信仰」と「教会」という語彙が決定的な場面で乖離して、両者が背反することは、じつはまれではない。
 ヴィクトル・ユゴーの葬儀は無宗教の国家的行事として営まれ、これを機に――靖国神社とは方向が逆であることに注意しよう――第二帝政期には宗教施設として使われていたパンテオンの脱宗教化が確定するのである。

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