「知識人」の誕生

この『知識人』という語は、しばらく前から小さな文芸雑誌に散見されるようになったもので、政治にケチをつける若い連中が他の人々に対する自己の優越性を示すために自称として用いたのであった。

「知識人」の誕生 1880‐1900

「知識人」の誕生 1880‐1900

(ちょっと脱線して)原文訳文どちらによるものかわからないけど、頭の悪い人間にはわかりにくい文章なのである。大衆向け知識人と、逆に「単著」もださなくなる大学人という今と変わりない話がこうなる↓。

マチュアの学者や自由な知識人たちは、伝統によって、また、彼らの出身集団であり、かつ彼らの読者集団である最も広い教養層との関係を保つために、最も一般向けで最も総合的なスタイルを守った。逆に教授たちは、こうした疑似科学とは区別されることを望み、またもはや自らの同業者、さらには外国の同業の科学者の評価しか受けつけようとせず、一般向けのスタイルとの断絶を示す、あらゆる標徴を強調した。こうして彼ら教授たちは、不純な関心に衝き動かされたアマチュアという競争相手は排除したが、その代わりに、最も閉鎖的な諸学問について見たように、一巻の本として出版される可能性を時として失うことにもなった。(略)
次第に強まっていく専門化によってもたらされる、学位論文への取り組みの長期化は、結局彼らの出版を遅らせ、そのコストを高くすることになる。第三共和政の高等教育改革によって新たに創設された低いポストを占める若い大学人たちは、したがって、一巻の本の形にまとめられた出版によって社会的な認知を得るには、彼らの年長者たちよりも長い期間待たねばならなかった。まず最初に、彼らは、ここで用いたような種類の統計からはこぼれ落ちてしまう学術誌において、仲間からの評価を獲得しなければならない。より優れた地位への社会的要求の対価としての、研究という、職業上の新しい理念の圧力は、こうして、自ら望んだものであれ強いられたものであれ、知識界全体のうちの孤立した一領域に閉じこもるという形で現れた。この専門化の戦略は、文学界における多様化の戦略の裏返しであるが、しかし同じ形態学的変成への応答でもある。

同輩が企画したアンケートw

ドレフュス事件に先立つ20年間(略)知識人と権力あるいは政治の関係は根本的に変化した。作家と大学人は、政治への介入のための公的な仕方やイデオロギー的な仕方を捨て去り、彼らの信念を表現するために新たな手段に訴えるようになった。彼ら、とりわけその若い世代においては、選挙を通じて議席を得るとか世論に向けてキャンペーンを張るとかいった先行する世代の古典的な社会参加よりも、特定の事件をきっかけとしたり、あるいは同輩が企画したアンケートヘの回答といった形による、単発的な介入を選ぶ者が多くなっていった。

奇妙な同盟

ドレフュス事件は無力な政治権力に対抗し、消極的な世論に代わるために行われる大衆的な陳情という伝統を継ぐものである。このようにして署名運動は優れた人々と平凡な人々との奇妙な同盟を実現するのだが、このことは同時代の人々には革命的であり、また少々破廉恥であることのように思われた。というのも、二つの正反対の戦略が署名運動によって実行に移されたからである。すなわち、名前の数よりも名前の重みが重要視されるエリート主義的戦略と、多数派であるということが政治的真実の保持者になるための闘争における論拠となる、民主主義的戦略である。ところで、先に触れたように、政治をめぐる当時の人々の考え方からすると、知識人と社会の他の者たちとの間の、あるいはエリートと大衆との間の対立は、克服不可能なものであるように思われていた。政治的闘争の論理は、行動することが急務となった情勢下で、まさにこの対立の克服へと人々を導いていった。時には、主唱者たちが始動させた社会の力学が彼ら自身の手に負えなくなるということもあったが・・・。

肩書きが不要な者、肩書きでふかす者。

わざわざ肩書きを言う必要がない位に自分は有名だと思っている人々である。彼らの名前はそれだけで一つの肩書きなのである。例えば最初のリストに挙がっている幾人かの文人(略)の場合がそうである。ある人を象徴的に権威のある人物だと思わせる二番目の方法は、それほど威信のない肩書きを共通因数とすることである。たいして威信のない肩書きでも、びっしり並んで進む数多くの人々が担うことになれば一種の錯視の効果をもたらすのである。つまり、同じカテゴリーに属するすべての人々が同じような考え方をしていると読者に思わせるのである。

教授の影響力

ゾラ裁判に際しては真理を支える鑑定人として活用された教授たちは、ドレフュス再審要求運動の上昇局面において、次第にこの運動の大いなる主役にして真の指導者となっていく。というのも、ゾラは亡命したために活動の埒外に置かれていたし、
(略)
作家たちは、発行部数の少ない、味方となる新聞しか利用できなかったのに対して、教授たちは、自分の講座をもって教壇を自由に使って、学生という青年層を正しい主張へと動員することができた。反ユダヤ主義の暴動を別にすれば、ドレフュス事件が過激化する時期に起こった主要な事件が、大学内部で発生し、また大学人とその当然の聴講者である学生との関係を争点としていたということは意味深い。

リーダー模倣殉教者の所作〜個人が群集のなかに溶け込んで、匿名憎悪

完全な個人的アイデンティティ(姓、名、職業、時には住所)と政治的アイデンティティ(政治信条の表明がつけ加えられる)を高らかに力強く叫ぶ個人による挑戦(ドレフュス派あるいは反ドレフュス派の)、すなわちある意味でリーダーの所作を模倣した殉教者の所作から、他方の極限には、個人が群集のなかに溶け込んで、「ユダヤ人反対、知識人反対」という憎悪の叫びを声を合わせて繰り返す、完全な無名性、印刷された社会的な落書きまで存在する。これら二つの極限のあいだに、相対的な社会的無価値性が、人数ならびに、職業アイデンティティあるいは地域的な政治的連帯の明確化(「労働者たち」、「……の生徒たち」、「……の住民たち」)によって覆い隠される、集団による署名のような、中間的な形態が存在する。こうして、態度表明のレベルで、ミニチュア版の社会闘争が行われる。

ドレフュス派は、受け取った寄付を細かく再分割することによって架空の名前を無限に増しうる、アンリ請願の便利な匿名に疑いの目を向ける。戦闘的な反ドレフュス派の方は方で、集団的な義援金を理由にして、結集した民衆が彼らの背後に続いているのだと主張するが、しかし集団によるこうした賛同は、上からの圧力(雇用主あるいはそれ以外からの)を明らかにするものだと考えることもできる。

将校は国民全体の教育者となる

軍隊においては、行動する人間の質は功績のもう一つ別の形態であり、反ドレフュス派にとっては、単なる知的な質よりもずっと優れたものである。将校がその責任を負う、国の存続ということは、知識人のこの分派にとっては、「真理」の抽象的な擁護よりもいっそう肝要なことと思われた。この観点においては、「知識人」は、根拠のないエリートを、自ら自身のための特権的知識層を、構成するに過ぎない。書斎人や大学人は、彼らの著作や発言によって、若者の最下級の部分を育てるにしか過ぎないが、これに対して将校は、皆徴兵によって、国民全体の教育者となるのである

うわー、なんかぐだぐだに。疲れたので明日整理しようかなあ。した例はないけど。