ドン・キホーテの「論争」

前々回のkingfish.hatenablog.comのつづき。明快に説明すべき文章がイタイのはダメだろと書いたけど、コッチはそうでもないかと読んでみたのだが、うーむ、ビミョー。

ドン・キホーテの「論争」

ドン・キホーテの「論争」

最初は大塚じゃなくて新聞記者

世間ではSF風極道「純文学」、芥川賞とっても生涯一カルト、に過ぎないこの笙野頼子めが、急にあたかも全純文学代表であるかのように大新聞看板記者に文句を付けはじめた不透明「論争」

サブカル、純文学に対するスタンス。

そもそも大衆文学も私は好きなのだ。どうしても読めない浪花節小説やトレンディドラマ風のものは多いが、SFやホラーには好きな作家がいる。ミステリーは読まない(単に自分に向いてないからで、否定ではない)がクライムノベルは読む。三十年以上ホラーコミックの読者でもある。サブカルチャーは私の考える「純文学」にとって未知の可能性であり刺激であり、何よりも一般大衆として私が育ってきた環境そのものだった。同時に小学生の頃に読んだ谷崎や高見順が読書経験の芯になってもいる。つまりサブカルチャーは別に正義ではない、サブカルチャーという環境に違和感を持ってしかも逃れがたくそこから伸びたから私は純文学なのだ。学生時代SFに溺れながら結局満足し切れないでこの世界に来た。最初に会った「群像」の編集長に向かって言った言葉は、「私、別に自分を純文学だと思っていないですし」だった。つまりその当時から外の世界では純文学というのは「何か悪いもの」だったという事なのだ。目の前の相手が「味方」だという事さえとっさには私は判らなかったのだ。「それはまた怖いもの知らずだね、しかし、君はまさに純文学だよ、他に言いようがない」というような事を相手は答えた。藤枝静男の作品に出会ったのはその後だった。十八年経って、偏見を恐れず、私は自分を「純文学だ」と言えるようになっていた。その味方の領土が今危ない。くどいようだがサブカルチャーを良いとも悪いとも私は言わないのだ。ただかつてのプロレタリア文学マルクス主義のあり方をそこから連想する。刺激も環境も可能性のうちだ。しかし「文学」にとってかわろうとし、数をたのみ、唯一の「正義」になろうとするものとは一線を引く。

さて、上の文で一番恥ずかしい箇所はドコでしょう。俺はこれだとおもうな。

「それはまた怖いもの知らずだね、しかし、君はまさに純文学だよ、他に言いようがない」

うわあ、恥ずかしい。恥ずかしすぎてついこちらもフェミの反感承知でエロモード。SFな毎日に飽き足りない頼子をホテルに連れ込んだ編集長、ほらほらおまえのいやらしいところからぶんがくじるが。
こうして頼子は純文学の悦びをしったのであった。(←妙に乾いた単調な男声ナレーションで)
うわあ、自分で書いてて赤面。いまいちピンと来ない人は、頼子をワタヤリサとかにしたら握りこぶしもデカくなるってもんじゃねえの。編集長亡きあと純文学の館で春をひさいでいた頼子の前に現われたのは札ビラを切るロリコン編集長だった波乱の予感フジの昼メロ「金毘羅夫人」なんじゃねえの。
編集長この間ものすごいデブの女子高生と歩いてましたね、制服着てりゃなんでもいいんですか。
デブでもピチピチしてたらいいんじゃねえの、老い先短い純文学編集長としては若さが、あのSFサブカル臭がたまらなかったんじゃねえの、それだけじゃねえの、先細りの純文学としては若いエキスを吸収したかったんじゃねえの。で、女子高生に私のドコがよかったんですかと聞かれたら、若さとはいえないわけで、「君はまさに純文学だよ」とクールぶってみせたんじゃねえの。先細り打開に苦闘していた編集長に乾杯(おっぱーい←長井秀和風)。みたいなイイカゲンな終わり方でいいんじゃねえの。フェミに反感買っちゃってもいいんじゃねえの。