大塚英志賛江、「群像」はずっと赤字です

大正10年生まれ、昭和41年!に「群像」編集長を辞めた人の本。面白い話は後にして、大塚英志に「純文学はマンガのおこぼれで成立してるじゃないか」と言われて笙野頼子がブチキレタ件に関する話。

終戦後文壇見聞記

終戦後文壇見聞記

「群像」ずっと赤字ですから。

戦争が終ったばかりで日本中が出版物に飢えていた時に創刊した「群像」は極くわずかの間黒字だったが、出版物が出回ると赤字になった。文藝雑誌の経験のない講談社では赤字の「群像」に対する風当りが強くなり、社長が議長となって全社的な規模で行われる新年号大会議では、赤字をなくせ、という要望が強く、赤字になるのは掲載作品がおもしろくないからだという批判がどんどん出て来た。時代小説はどの階層の人にもおもしろいから載せろとか、誌面をやわらげるために挿絵を入れよという要求まで出て来た。私が掲載作品の出版に積極的だったのは、出版による黒字で赤字に対する攻撃を防ぎ、「群像」の通俗化を何としても防がねばならぬと考えていたからだ。

大塚英志がしたり顔で原価計算しなくても昔からやっていたわけです

文藝雑誌を出したことのない講談社では「群像」で儲けようとは思わなくても、損してまで出すことはないという考えの社員は少なくなかった。毎年、7月中頃に、来年の社内各誌の新年号案を賞金付きで全社員から募集していたが、「群像」の案として、廃刊というのが出てきたりした。「群像」の赤字は原稿料の総額と大体同じだから、原稿料はなしにするか、それが出来ないようなら、極力引き下げるように努力すべきだ、と原価計算の係から言われたこともある。
終戦直後の頃の講談社の各誌のうちで、儲け頭は「婦人倶楽部」であった。社長は経営者として、当然のことながら「婦人倶楽部」に力を入れ、大阪や名古屋などの地方の大都市で「婦人倶楽部」読者大会というのを開き、読者獲得につとめていた。その読者大会に大勢の人を集めるために、花形作家の文藝講演会を開いた。東京から作家と社長は二等車に乗って一緒に行くわけだが、その車中では、儲け頭の「婦人倶楽部」のことなど全然話題にならず、先生方の話題は専ら赤字で困っている「群像」のことばかりだよ、と幹部がずらりと並んでいる会議で社長が私に言った。これは社長が幹部に「群像」の赤字を容認しているという風にはとられずに「群像」の存在価値を認識させようとして言っているのが、いつも赤字の引け目を負っている私にはよくわかった。(略)時代物はどんな階層にも好まれるから掲載せよ、とか、「群像」は堅すぎるから柔らか味を出し、親しみを持たせるために挿絵を入れよ、と言ったような社内における「群像」通俗化への圧力を防ぐのに苦労していた私は、社長だけが「群像」の唯一の味方だと思っていた。

雑誌は独立採算制で、「群像」に掲載したものを出版して黒字を出しても、それは出版部の黒字だから、「群像」は年中赤字を責められていた。昭和三十年代になって、野間省一社長が私に、年に五万部出る単行本を二冊出せば「群像」の赤字なんかすぐ消えてしまうから、そういうのを掲載する努力をしてはどうかね、と社内の大会議において言ったことがある。それは私に対して言ったというよりは、「群像」を庇って社の幹部に対する啓蒙で言ったのだと私は理解した。

(昭和26年頃)高見順氏が、ぼくらの発表舞台がだんだんなくなって行くから心細くなって来たが、どうか「群像」は頑張って下さいよ、と言ってから、よく考えてみると、「群像」が頑張っていられるのは、「婦人倶楽部」などが儲かっているからだね、その儲けた金を「群像」の方にまわしてもらっているから、われわれはそこで仕事ができるわけだ、だから文士は大衆雑誌や婦人雑誌を馬鹿にしちゃいかんのだね、と言っていた。

そんな赤字雑誌の役目のひとつとは、戦犯会社講談社に対する執筆拒否解消

昭和30年代に入っても「群像」の新年号大会議では、社長が、今なお執筆拒否しているのは誰か、と訊くのが恒例であった。講談社と縁のなかった寄稿家を開拓するのと、執筆拒否者をなくするのがいつからともなく「群像」の役目になっていた。

戦後、講談社は左翼から戦犯出版社と言われて猛烈な攻撃を受け、社屋に乗り込んで来た左翼出版社もあったので、それをかわすために野間省一社長は一時退いて社長は置かず、穂草という号の歌人でもある尾張真之介が専務となり、表向きの最高責任者となっていた。文藝雑誌の創刊は尾張専務の決断できまったが、世間からは「群像」は最も講談社らしくない雑誌と言われ、尾張さんの道楽とも言われていた。

つまり笙野頼子は大塚に「少年マガジン」のおこぼれだと馬鹿にされたら、昔は「婦人倶楽部」でしたがそれがなにか、と泰然自若でよかったんじゃねえのという話。
じゃあ笙野頼子マンセーなのかといわれれば、やはり自分の稼ぎで成立しない商売はマズイと思われ、第一世間に大塚の非を訴える本がアレではどうかと思う。頭の悪い人間には大塚の非が明快に伝わりません、それでは意味がない、というか他人に明快に説明すべき本をああいう形にしてしまうという時点で他人という視点が欠落しているのではないか、こんなイタイ人に非難されている大塚という人の方がちゃんとしているのではないかと思えてきます。

徹底抗戦!文士の森

徹底抗戦!文士の森

今の文士は御婦人の客寄せにもならんじゃないか、特別扱いされるモノがない、質においてもマンガに抜かれてる、etcという批判はそれであるだろうが、少なくとも最近の純文学がダメだから赤字になったわけではなく(いやダメになっていたとしてもそれは無関係で)、最初から赤字だったのだ。それにしてもアノ二人顔も体型も似ていて同性だったら同類なんじゃなかろうか、などとグダグダ書いていたら夜も更けたので肝心の話は明日につづく。
と思ったけどこれだけじゃあんまりなので追加。
論争

「群像」は論争雑誌と言われたことがあり、論争をよく掲載した。論争は自然発火することは稀で、多少編集者が動かなければ起らない。論争の仕掛人は私だと花田さんは思っていたようで、そんなことをする私を、編集者の分際で、と思っていたのかもしれない。

下宿代を踏み倒す谷崎

戦後は文豪と言われた谷崎潤一郎氏も若い頃はよく下宿代を踏み倒して、知らぬ間に他所の下宿へずらかってしまうので、下宿屋の同業者の間では、この人物は下宿代を踏み倒してずらかる常習者だという貼り紙がしてあったという話を伊藤整さんがされて、昭和の初期は私たち金のない文学青年がどうにか東京で暮して行けたのは、東京が養ってくれていたという気がしますね、と言っていた。

[追記]2006-11-05
上記の文章で「他人に明快に説明すべき本」がこのイタサでは駄目だと書いたのだけど、図書館でコレをチラ見したら「笙野比」ではあるが「明快に説明」していたので、とりあえず今から読んでみることに。

ドン・キホーテの「論争」

ドン・キホーテの「論争」

1999年にコレが出て、その6年後にはこんな画像状態になってしまったというのは、なんとなく他人事ではないが。
魂の叫び