エルヴィス・イン・エルサレム・その2

前日のつづき。

エルヴィス・イン・エルサレム―ポスト・シオニズムとイスラエルのアメリカ化

エルヴィス・イン・エルサレム―ポスト・シオニズムとイスラエルのアメリカ化

イスラエル軍アメリカ化

アメリカからイスラエルに武器が流れ出したのは、1960年代半ばであった。(略)それ以前は、イスラエル国防軍は戦闘機など重要な軍装備品をフランスから得ていた。(略)
独立戦争時代、主としてソ連の影響下で活躍したイシューブの先鋭部隊パルマハや、イスラエル国防軍の前身で、イギリス軍の伝統を導入したハガナの時代が終わり、新時代に入ったことを明瞭に示すものであった。アメリカの科学者と慈善事業団体はイスラエル核武装化も援助した。

べへいれん(」゜ロ゜)」

アメリカ社会のベトナム反戦運動は、イスラエル社会では、1967年に征服した領土の占領反対運動として開花した。アメリカの公民権運動は、イスラエルでは、イスラム圈出身のユダヤスファラディー[オリエント系ユダヤ人]ヘの差別反対運動となった。スファラディーの中には、アメリカの黒人運動を真似て、「ブラック・パンサー」を組織した若者もいた。1970年代に「ピース・ナウ」という平和団体を組織したのは、アメリカ生まれのイスラエル人やアメリカ留学の経験がある若者たちであった。イスラエルの若者たちは、アメリカの反戦運動を真似て、パレスチナとの和平運動を作った。

アメリカで成人したネタニヤフの首相就任は

アメリカヘ移住したイスラエル人に対する態度の根本的変化をも象徴するものであった。かつてラビンはアメリカヘ逃げたイスラエル人を「意気地なしのクズ」と罵ったものだ。年月を経た今、身内に海外移住者、たいていはアメリカヘの移住者がいないような家族はほとんどない。1980年代のテレビ局は、アメリカヘ海外電話をかけるコマーシャルを流すようになっていた。これは、数年前だったら、考えられないことだった。海外移住者を抱える家族は、それを恥じるべきという雰囲気があった

湾岸戦争イスラエル人にとってまったく個人的な体験だった。

人々は目張りで封じた部屋の中に閉じこもった。それは隣人との隔離を意味した。部屋の中で防毒マスクをつけた。それは家族との隔離を意味した。そういう状態で、アメリカ化の一つであるCNNニュースをじっと見つめていた。イラクのミサイルが今、この瞬間にここへ着弾するのではないだろうかと緊張しながら。(略)
疎開は社会問題となった。もっと勇気をもって愛国者らしく行動せよと非難の声をあげたイスラエル人がいたのだ。しかし、この湾岸戦争イラクスカッド・ミサイルを逃れ疎開したテルアビブのエリート市民の行動が前例となって、後にレバノンとの国境付近の町キルヤト・シュモナがヒズボラの砲撃の的となったとき、人々の脱出が正当化されたのである。以前は、キルヤト・シュモナの住民は、防空壕に入ってパレスチナ人のロケット砲攻撃にじっと耐えたものだった。政治家もメディアも住民の苦労に同情を表明し、その勇気を誉めたものだった。しかし、1990年代になると、シーア派イスラム教徒の民兵組織ヒズボラの攻撃に対し、町の住民の多くは荷物をたたんで南へ逃げた。しかも、誰もヒズボラを非難しようとしなかった。

建国時、「宗教的強制」は非宗教化を意味した

イシューブのシオニスト準政府が西の壁を買収したのも、それを宗教的聖地から民族的シンボルヘ転化するためだった。エホバの神殿を見下ろすスコパス山にヘブライ大学を建設したのも、新生ユダヤ人共和国では、宗教的慣行よりも世俗的知識の研究・学習の方が重要だということを示すためだった。また、宗教人に世俗的民族主義意識を植えつける試みも行った。(略)
現在のイスラエルでは、「宗教的強制」というと、超正統派が世俗的一般国民に宗教戒律を強制することを意味するが、建国当時はまるで逆の構図で、世俗国家が超正統派信者に信仰や宗教的良心に相反する生活を強制することを意味する言葉だった。信者たちは、我が子が非宗教学校へ行かされるのではないか、女たちが徴兵に取られるのではないか、ユダヤ人と非ユダヤ人の結婚が認められるようになるのではないかと日夜心配した。

イスラエル国民皆兵制であるが、建国時の合意で超正統派の宗教学校生徒は暗黙に徴兵を免除された。1980、90年代に信者数が増加し兵役免除者は毎年数千人になり一般国民から抗議の声があがり、兵役免除は成文化された。

建国後すぐに、国家の世俗化をめぐって紛争がはじまった。1950年代、60年代には、世俗派対宗教派の対立が、内戦にまで発展するのではないかと思われる場面が何度もあった。(略)
マパイ(労働党)のデボラハ・ネツルは世俗的教育を擁護して、「教育こそがわれわれの宗教で、われわれはそれを信ずる」と言った。両派の対立が激しくて、新生イスラエル国憲法草案を作ることすらできない状態だった。国は超正統派の宗教学校に手出しできなかったが、新しく流入してくる移民の子弟の教育には力を入れた。

ホロコースト

イスラエル初期の時代、ホロコーストは一種のタブーであった。ホロコースト生存者は何があったかを子どもに話そうとはしなかったし、子どもの方もあえて聞こうとはしなかった。いわば、大いなる沈黙の時期であった。人々はホロコースト生存者を恐れた。彼らを通常の生活---家庭、職場、バスの中、映画館の行列、海岸でのレクリエーションなどの日常生活へ、どのように溶け込ましたらいいのか分からなかった。彼らは別世界からの来客であった。しかも、死ぬまで別世界の亡霊に呪縛されていた。社会はそういう彼らを変えようとした。「彼らに祖国愛、労働の尊さ、人倫の崇高さを教え込まなければならない」とある政治家は言った。「彼らに基本的なヒューマニズム観念を与えるべきだ」と別な政治家が言った。要するに、ホロコースト生存者を「再教育」しなければならないというのである。

生存者vsイスラエル

多くの人たちはユダヤ人の惨めな弱さを恥じていた。中には、シオニスト運動が彼らを救えなかったことを恥じた人もいた。もっと何かできたはずだと自分を責める人もいた。また、戦争が起きる前にパレスチナヘ移住して来なかったから、そんな目に遭ったのだとヨーロッパ・ユダヤ人を責める人もいた。人々は、どうして生き残れたのだと生存者に何度も質問した。その「どうして」は、「方法」のことでなく、「なぜ」を暗に意味していた。何かよくないことをしたかのような、当てこすりを含んだ質問だった。
(略)
ホロコースト生存者の方も、そこかしこでイスラエル人を非難した。あなた方は私たちを助けるために全力を尽くしたわけじゃない。いや、私たちを励ますこともしなかった、と。超正統派宗教コミュニティは、ヨーロッパ・ユダヤ人の「見殺し」こそ、シオニズムが邪悪な運動であることの証拠だと主張した。こういう軋轢があったから、人々はホロコーストのことを語るのを避けるようになったのだった。アドルフ・アイヒマンの裁判がイスラエルで行われるまでは、なるべくホロコーストに触れないようにする傾向が支配的だった。

アイヒマンに癒されて、内面化(・_・;)

アイヒマン裁判の効果は予期しないところに現れた。それはイスラエル人全体に対する集団セラピーとなった。イスラエル人はホロコースト生存者の存在を恥ずかしいと思い、彼らに対して優越感を抱いていたのだが、裁判を通してホロコーストのことを知るにつれ、それから脱却していった。犠牲者の悲劇を自分の悲劇と感じるようになり、彼らの歴史と生活の一部を、自分の歴史と生活の一部として内面化していった。(略)
イスラエル人が自分とホロコースト犠牲者とを結びつける認識は、時とともに強くなっていった。1967年、六日間戦争前夜、イスラエル人たちは、アラブによるイスラエル人「エクスターミネイト」(駆除)の危機が差し迫っているという言い方をしていた。

ホロコーストが出会いの場( ̄0 ̄)

アメリカ・ユダヤ人の場合、もっと前からホロコーストが中核的なユダヤアイデンティティとして確立していた。彼らは平等な権利を有するアメリカ国民として、脱宗教化、世俗化していたので、ホロコーストユダヤアイデンティティとして重要な役割を担っている。かくして、ホロコーストイスラエルユダヤ人とアメリカ・ユダヤ人の出会いの場となったのである。文字どおり出会いの場であった。一年おきにアウシュヴィッツで開催される生者の行進では、両国の何千人ものユダヤティーンエイジャーが出会うのだ。(略)
1990年代になると、ホロコースト授業は個々の人物、例えばヤーヌーシュ・コルチェックやアンネ・フランクなどに焦点を当てて行なうことという指針書が、教育省によって全教師に配られた。単なる数字、何百万人の犠牲者といった数字だけでは、強い感情を喚起しないと教育省の「ホロコーストに関する教師用指針」に解説されている。このように民族全体に代わって個人の悲劇を強調すること自体、新シオニストイスラエルアメリカから輸入した個人主義の影響であろう。

アラブが話し合いに応じなかったというのが公式真実だったが

1949年シリアのフスニ・ザァイム大統領がベン・グリオンに話し合いを申し入れた、というより、ほとんど嘆願に近い形で求めていたことが、公文書開示で明らかになった。ザァイムは平和協定を求め、協定を締結すれば、パレスチナ難民30万人から35万人を、自国定往者としてシリアが受け入れると提案した。ベン・グリオンはザァイムとの会見を拒否した。彼の日記によれば、見返りとしてシリアは「ガリラヤ湖の半分」の領有を求めたとある。ザァイムはその後しばらくして暗殺された。

たとえアラブ諸国と合意できても、パレスチナ難民は災いとなると忠告されて

ベン・グリオンは、難民問題は自然に解決すると高を括っていた。近隣アラブ諸国に吸収されたり、自らの運命に慣れて諦めていったり、老齢や病気で死んで数が減っていくだろうと軽く考えていた。ペン・グリオンは自民族の故国復帰願望に一生を捧げたくせに、故国復帰願望がパレスチナ人にとっても民族アイデンティティとなり、故国を奪ったイスラエルに対する憎しみを培養することになるのを理解しなかった。