エルヴィス・イン・エルサレム

エルヴィス・イン・エルサレム―ポスト・シオニズムとイスラエルのアメリカ化

エルヴィス・イン・エルサレム―ポスト・シオニズムとイスラエルのアメリカ化

イスラエルの神話

そもそも、イスラエル初期には歴史学なんてなかったからだ。あったのは神話とイデオロギー、そしてそれを叩き込む教化。1980年代初期に解禁された政府関係文書閲覧を許可されたニュー・ヒストリアンたちは、読みながら何度も仰天して頭を抱え込んでしまった。これは学校で教えていることとまったく違うではないか! 彼らはそのことを声に出して言った。すると、たちまち猛然と非難された。お前らはなぜ神話を破壊するのだ、誰がそんな権利をお前らに与えた? たしかに神話を必要とする人々はいるだろう---それはそれでいたし方がないことだ。しかし、神話を研究してはいかん、それは売国奴のすることだという非難なのである。愛国者と称する人たちが非難するのである---この人たちは愛国者と非愛国者をいつも容易に区別できるようだ。

反英闘争

イスラエルの集団的記憶は反英闘争を強調しがちで、イギリスはパレスチナへのユダヤ人移民や土地買収を制限した、イギリスは親アラブ・反ユダヤ的だった、それゆえわれわれは抵抗のために闘ったと言う。ユダヤ人による対英テロは「解放闘争」として美化されて語り継がれている。
しかし、広い歴史的視野で見ると、まるで異なった物語となる。

候補地はアルゼンチン。ヘブライ語は不要。

ヘルツルは、「イスラエルの地」がユダヤ人にとって古代から伝えられる譲歩できない歴史的郷土であることを認識していたが、イスラエル国を絶対にそこに作るべきだとは考えてなかったようだ。シオニズム思想を売り込み、ユダヤ人の心を捉える手段として、「イスラエルの地」への望郷の念を使ったと思われる。彼個人としては、南米アルゼンチンを具体的候補地と考えていた。(略)
彼の世界観からすれば、「イスラエルの地」は戦争までして手に入れる価値はないとはっきり言ってよかったはずだ。アルゼンチンの方がもっと容易にことが運んだだろう。それに彼はキリスト教世界がシオニズム思想に反感をもっていることも知っていて、エルサレムユダヤ人国家の領土の中に入れるべきでないと考えたほどだ。さらに、ヘブライ語を国語とすることにもあまり乗り気ではなかった。(略)イスラエルではそれぞれ自分が生まれたところの言葉を喋ればよかった。スイスがそのモデルだった。彼の頭の中にあったイスラエル像は、あちこちから来たユダヤ人移民の国であった。
(略)
パレスチナに入植した建国の父たちは、ヘルツルが説いたシオニズムとは大きく異なった地方版シオニズムを育んだ。両者の最大の相違は、ヘルツルがシオニズムを世界のユダヤ人問題解決の手段としたのに対し、イスラエルシオニズムは、ある時点から、国家樹立を独立した自己目的としたことだ。

ヘルツルを攻撃したのはユダヤ人だった

イスラエルが誕生するまで、ほとんどのユダヤ人はシオニストでなかった。(略)
最初の敵はユダヤ教の超正統派だった。(略)政治の力でユダヤ人をエグザイル(異郷生活)から抜け出させようとすることは、「歴史の終わりを人為的に促進する」ことになるというのが神学上のシオニズム批判議論であった。換言すると、神と神が使わすメシアによる真の救済に代えて、シオニズムは人工的替え玉を用意しているという批判である。(略)その攻撃の激しさは、当時としては、キリスト教に改宗したユダヤ人に向けられた非難に匹敵する激しさだった。(略)
ユダヤ人はできるだけ目立たないようにして、受身の姿勢で、静かにメシアの到来を待てと説いたのである。これは単なる宗教的教えを超えて、どこへ行っても差別、迫害、追放される運命を背負った弱小宗教共同体を守るための、是非もない対策でもあった。そういう考えを抱いていたラビたちの目には、シオニズムは居住国への反乱であり、民族的扇動だと映ったのである。シオニズム支持者も反対者も含めた全ユダヤ人を危機に追い込むものと恐れたのである。

せっかく居住国にとけこんでうまくやっていこうとしてるのにユダヤ単一民族説なんてマジ勘弁、だいたいユダヤ人の国ができたら、そっちへ行けよと今の国から追い出されてしまうじゃないですかというノリだった。

イスラエル移住者のほとんどが不承不承やって来たという事実は変わらない。移住して来たものの、過去の異郷生活と断絶することができなかった人は多くいた。1905年から10年の間に起きた移民の波、第ニアリヤーでやって来たユダヤ人のうち、九割までが結局イスラエルを出てしまった。(略)
まだ誰もポスト・シオニズムなんて口にしていないずっと昔、20年代、30年代、50年代、60年代に、多くのイスラエル人が国を出たのである。どこかの教授が書いたポスト・シオニズムの本を読んで国を出たのではない。イスラエルが住み難いから出たのである。しかし、こうして国を出た人たちの中には、新しい居住国でも継続して、自分がイスラエル人でシオニストだと思い続ける人たちもいた。

我らはイギリスがインドで行ったことを中東で行う。

シオニズム運動はヨーロッパからインスピレーションを得て、ヨーロッパで生まれた、まさにヨーロッパの歴史の一部である。それがもつ浪漫主義的民族主義リベラリズム社会主義等すべてヨーロッパの産物である。シオニズム運動の創始者たちは運動に文化的使命をもたせた。テオドール・ヘルツルは、「イスラエルの地」のユダヤ人国家がアジアに対する防波堤として、ヨーロッパを益すると書き、「われわれは野蛮に対する文化的前衛として機能する」と。(略)
ヨーロッパでユダヤ人が大量虐殺される前には、シオニズム運動はアラブ世界のユダヤ人にほとんど関心をもっていなかった。

オリエント系ユダヤ

ホロコーストのため、やむなくアラブ世界のユダヤ人も「イスラエルの地」へ入れざるをえなかった。このことはヨーロッパ的自画像や文化的自負にとって打撃であった。指導者はオリエント系ユダヤ人をイスラエル人にすることに乗り気ではなかったが、当てにしていたヨーロッパ・ユダヤ人がホロコーストのため大減少してしまったので、やむをえない措置だった。「イスラエルは労働者と兵士が必要だ」と最初の政府閣僚の一人が言った。(略)
イスラエルか、それとも他の国へかという選択をできた者は皆無といってよい。全部が、シオニストパレスチナで紛争を起こしたため、自国に住めなくなったのだ。ユダヤ教徒であるため、周囲からお前もシオニストだろうと見られるようになったからだ。シオニズムの歴史上、これはシオニズムユダヤ人問題を解決するどころか、ユダヤ人コミュニティを根絶する元凶として作用した事例として記録されてよい。

アメリカ・ユダヤ人の反発に対応してディアスポラ

建国初期、ベン・グリオンは、自らをアメリカでエグザイル生活をしているのでなく、アメリカ人であると思うユダヤ人はシオニストではないという見解をとっていた。ゴルダ・メイヤー首相も「荷物をまとめてイスラエルヘ移住して来た者だけがシオニストだ」と言った。(略)この排他的発想がアメリカで反発を招いたのである。イスラエルアメリカ在住ユダヤ人の援助が絶対必要だったから、妥協せざるをえなかった。(略)
長期にわたる論争の結果、全エグザイル・ユダヤ人をイスラエルに移住させるという従来の目標と主張を、しぶしぶながら破棄した。代わって、「エグザイル・ユダヤ人の団結」を目標として決定した。やがて、「エグザイル」という用語の使用も辞め、もっとニュートラルな「ディアスポラ」を使いはしめた。

微妙な分量だが明日につづく。