建築の可能性、山本理顕的想像力

建築の可能性、山本理顕的想像力

建築の可能性、山本理顕的想像力

建築に興味のない人間が何故こんなものを借りたかといえば、パラッとめくったら「家族というのは寂しいものだと思った」というフレーズが目に入ったからで、「細胞都市」というこの文章だけが1993年と書かれた時期も古く、他の収録文章と異質な感じ。1945年生まれの著者は当時48歳。離婚でしょうか、子供が独立したんでしょうか、内容というよりトーンがなんだか感傷的です。
何が言いたくて引用するかと言うと、小説として書かれる文章が全く読む気が起こらないのに、小説として書かれてない文章がなぜ読めるのかということ。僕がこの文章を読んでしまうのは内容に意味があるからではなく(ある意味同意できない内容であったりするわけで)、ただ文章自体が、その文章に引き込む空気を持っているからで、それはなんなのだろうと思って抜粋して引用するわけです。

『細胞都市』

その建築なのかオブジェなのか現象なのかそれとも出来事なのか良く分からない巨大なものは、1㎞ほども先の方で一面に輝いていた。その巨大な輝きは、私の想い浮かべていたものよりも遥かに大きく、数倍も明るかった。私は車を止め、三脚をセットして何枚か写真をとった。あたりは真っ暗闇だった。車を少し動かしてまた写真をとった。
私は時間をかけて少しずつその巨大な輝きに近付いていった。

これは一体何だ。今までに見たことのないものが目の前にある。そんな気がした。少なくとも、今までの私の記憶にはないものだった。もちろん、誰の記憶にもないものをつくれるなどとは思ってもいない。そんなことは良く分かっているつもりだ。建築というのは記憶で構成されている。個人的な記憶ではなくて、私たちが共有している記憶である。その記憶から自由になれるはずがない。そんなことは十分に分かっていても、それでも、その記憶という限界をひょっとしたら超えたんじゃないかと思ったのである。
私は錯綜する光のチューブの真っ只中で、風の音を聴いていた。

家族というのは寂しいものだと思った。
家族というあまりに小さな関係が、それでもその中に関係というようなものができ上がってしまっていることが、そしてその関係が内側だけで閉じてしまっていることが、その関係が外に対して何の手がかりも持っていないということが、そういうことが寂しいのだと思う。要するに、今私たちが持っている家族という単位は、社会的な単位としてはあまりに小さ過ぎるようなのである。一つの単位としての役割を既に果たせないほどに小さいのだと思う。それでも、この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、つまり、社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできているのである。

闇夜の中でたった一人で光り輝いている建築など、今の都市の中では考えられない。ところが錯覚するのだ。闇夜の中でただ一人輝いているという錯覚である。建築は見られるものだという錯覚である。建築など実は誰も見やしない。単に一つの環境として受け入れられているに過ぎないのである。

建物に先だって都市のイメージを全ての個人地権者たちが共有できるはずがないではないか。もしできるとしたら、それがどのようなものであるにしろ、どこかで強権を発動する以外に方法はないはずなのである。直観的にその構図が読み取られてしまうのだ。どんなに豊かな都市についてのイメージを構築したとしても、そのイメージが個々の建物に優先するという構図自体が一種の権力構造なのである。
そして近代の都市計画というのは、正にその権力構造の典型なのである。

私たちの日常の建築体験は環境としての建築である。誰もいちいち建築なんて見やしないのだ。一つの環境として、ほとんど無意識に受け入れてしまっているのである。
すでにでき上がっている隣の建物はそれを批判的に受け入れようと、肯定的に受け入れようと、そこにあるということは受け入れざるを得ない。それは自分の係わった建物であっても、全く同じことが言える。
この建物も周辺にとってはただの環境でしかないという自覚が必要なのだと思う。あるいはこの建物ですら、結局は一つの環境になるという覚悟が必要なのである。