横井小楠・その2

前日の続き。『横井小楠儒学的正義とは何か』の本編を飛ばし読み。

横井小楠―儒学的正義とは何か

横井小楠―儒学的正義とは何か

 

長々引用しますけど、あんまり、面白い話でもない。

何故学校から人材が育たなかったか

和漢古今、学校がそういうありさまになっているのは、学問と政治が分離し、学校は本を読むだけの俗学の場に堕しているからである。だから、明君がこの弊害を打破して学政一致の学校を起せばいいと考えるかもしれないが、それもダメなのだと小楠は言う。この、それもダメだというところに、小楠の学校論の最大の特徴がある。だいたい、日本でも中国でも、学校を興すのは明君のときではないか。明君は学政一致を志し、政治のできる人材を育てようとして学校を運営する。ところがそのために、学生たちは、自分こそが政治に有用な人材だと証明するために競いたち「己の為め」(『論語』憲問篇)の学問という根本を忘れて政治運用の枝葉末節に走ってしまう。これは「人才の利政」というものではないかと、小楠は説くのである。(略)
人材を育てようとして実は人材を害ね、遂には政治に役立つような人材を嫌悪して、そういう才能のないものが本を読むだけの俗儒の学校になってしまう。(略)
学政一致を目指す心が悪いのかというと、そうではない。学政一致の本当の心が失われているのである。学問も政治が分離して、学者の素質と政治家の素質が別物だと考えられてきた歴史が非常に長いので、急に学政一致に切り替えようと思っても、ともかく学校から有用の人材を育てようとあせるばかりで、根本が立たない。そこで学政一致にならず「人才の利政」になってしまうのだ。

西洋を美化して政教一致と誤解していた小楠

キリスト教は、哲学・政治学・自然科学等すべてを含む全体学で、西洋諸国の政治は完全にその学に従って政教一致だということになる。ロシアを例にとれば、国王は一年の三分の二を国内巡見に費して民間の利害、政治の得失を察している。学校は村から首都の大学まで整然として、政治に何か変動があれば必ず学校に計り、衆議一決の上でなければ、国王の官吏が勝手にやることはない。それに、大臣など政府の役人も公論で選ばれたり退けられたりする。こういうことがみな「其の宗旨の戒律の第一義」だというのである。年貢は十分の一しか取らないから民は豊かであるし、また鉱業・工業・商業貿易等やりかた一切が「是を要するに其の政事、全く其の教法に本づき来り侯」だから、上下人心一致して、どこからも異論がでない。これはロシアだけでなく、西洋諸国どこも大同小異、中でもアメリカは新造の国で格別に盛大だという。
小楠のキリスト教と政治の関係についての理解は、もちろん間違っている。しかし小楠は、自分が確立している儒数的学政一致のパターンに合わせて、ヨーロッパを理解し、『海国図志』などの書物によって伝えられたヨーロッパの近代社会は、そういう理解(誤解)に耐える内容を持っていたわけである。

「交易」のすすめ。旧来の政治を改めるには

では、どうすればよいのか。「交易」によって積極的に民を富ませるのである。いま、とりあえず一藩について論じれば、一藩の民を富ませることを目的とした藩営の貿易を行うのである。これまで民間で生産したものが商人に買い叩かれているけれども、それをみな藩が損をしない程度の値段で買いあげ、開港地や他領で売る。相場をよく調べ、かつ藩が利益を見込むことさえしなければ必ず民はもうかる筈である。
国(越前藩領)中の産物は何十万両にのぼり、全部を藩政府が買上げるのは不可能だから、たとえば福井や三国港などに「大問屋」を設け、豪農・富商の正直なものを見込んで「元締」とし、ここでも藩政府との場合と同じ原則で物産を買上げる。さらにまた、もっと増産したいと思うものには、藩政府が資金を貸付けて生産させるが、その場合にも利子は取らない。新技術の導入や技術指導なども、一切、負担は藩政府、利益は民という原則をつらぬく。藩の利益は外国から取ればよい。ともかく民を富ませるのが先決なのである。
この政策を実行するための財政運用には、紙幣を発行するのがよい。いま、一万両の紙幣を発行し民に貸しつけて養蚕をやらせ、製品を開港地で売れば正金一万一千両になる。紙幣が正金になった上で、なお一千両の利益があるわけだ。この利益を藩政府がしまいこまずに公開し、また、正金が入るのを見て次の紙幣を発行するというようにすれば、生産と販売は万事好都合に回転していくであろう。そうしてこれは、国(一藩)だけでなく天下(日本国全体)にも適用できる筈である。

実際、万延元年に藩札五万両が増発され

これを生産資金として月八朱の利子で貸しつけたこともあって越前一帯の生産は活気づき、武士も含めた老若男女の内職的労働も盛んになった。物産の主なものは糸、布、苧、木綿、蚊帳地、生糸、茶、麻などだが、もっとも廉価な縄、草鞋、蓆などはもっぱら内職的製造によった。しかしえらいもので、初年度北海道に販売した藁類つまり幾万人、幾百日の内職的労働の成果だけでも「二十万何千両」の利益だったという。本命の長崎へ出した生糸が前記したように二十五万ドル (百万両)。次年度には長崎での生糸・醤油二品で六十万ドル。「文久元年」の末には「内外に向け輸出したる物産の総高は漸次増加して、一ヶ年金三百万両に達し、藩札は漸次正貨に転じ、金庫には常に五拾万両内外の正貨を貯蓄し」という景気のいい話となった。