横井小楠・儒学的正義とは何か

横井小楠―儒学的正義とは何か

横井小楠―儒学的正義とは何か

肝心の本編は未読で、増補版で収録された「アジア型近代の模索」だけ読了。とりあえず関連検索語句は「呉智英」。
儒教の「士」はさむらいのことではない

儒教でいう四民すなわち士農工商の「士」は、「さむらい」ではない。読書人であり読書人中から選ばれて官僚となったものを指す。政治の学である儒教のテキストをよく勉強してすぐれた政治ができると評価される人材、それが士である。
(略)
だから、日本の近世徳川時代の武士を、士農工商の士に当てて、あたかも儒教では日本の近世武士のごときものを「士」と呼んでいるかによそおったのは、実に無理無体なのである。日本の近世武士は、身分統制令によって強制的に固定された支配階級であり、しかもその中での主従原理は強烈で、将軍や藩主は家臣に対して生殺与奪の全権を持つ。そうして、そういう身分関係の全体が世襲されている。似ているところなど、ちっともありはしないのである。
日本の近世徳川時代は、この似ても似つかぬ二つの「士」の折りあいをつける努力の時代だったと言ってもよい。

日本儒教堕落の典型が忠と孝の問題

元来の儒教は、孝を中心とした教えである。親子の関係は、当人の意志を超えて生まれながらに決まっており、人間の力で動かすことはできない。逃げだすこともできない。だから親に孝を尽すのは子にとって絶対的な義務であって、親が極悪非道でも見捨てることは許されない。これにくらべると君臣関係は第二義的である。これは、儒教政治学を勉強した読書人が、たまたまある君主と政治的理想が合致したから、その下に仕えて腕を振うというにすぎない。自由契約の関係である。したがって、君主と意見が合わなくなれば辞職する。中国近世の読書人は、たいてい明とか清という王朝から独立してくらしている地主階級だから、官僚をやめて郷里に帰っても食うに困らない。中国の近世儒教は、君臣関係は契約だという考えかたを守りとおす。
ところが、日本近世の世襲武士体制は、全く事情が違う。武士は世襲的主従関係の中にあるわけで、禄を離れると当人が飢えるだけでなく家が崩壊してしまう。したがって、禄を貰い続けるために主君の命令に絶対無条件に従うことが、近世武士にはなにより大切である。[結果、忠を孝を上回る無条件服従の観念につくりかえてしまった]

まちがったイメージを持たれてしまった儒教

世襲武士支配体制と衝突しないようつくりかえられた日本近世儒教の、いちばん困る点は、儒教が元来持っている政治的理想主義、普遍的道義性、硬骨性がどんどん削り落され、矮小化され、上級者へのひたすらな服従を説くつまらない教えに転落し、そういうものとして近世日本社会に浸透したことである。儒教とはそういうものだとして尊重され、あるいは憎悪された。その影響は現在にまで及んでいる(これには明治期にもう一度加えられた改悪がからんでくるが)。

横井小楠の「実学」とは

まず、藩の改造から始める。藩が世襲武士に禄を保証するための人民収奪機関であるのを逆転させて、人民を裕福にするためのサービス機関につくりかえようというのである。藩主と家臣団とは、儒教の政治的理想に従って人民に奉仕する政治運動集団になる。その運動の先頭に立って指揮できないような藩主は藩主としての資格がないのだからクビにして、政治的道徳的に最もすぐれた人物を藩主にする必要がある。同様に家臣団も、人民を富ませるという政治ができる人間だけで藩政府を構成すればいいのであって、それができない人間は整理する。つまり、武士を、元来の儒教でいう「士」に切替え、その切替え能力の無い輩は廃業させるのである。
これは、一種の教条主義であろう。しかし、日本近世の修正主義儒教が、世襲武士支配体制に妥協してしまっている実状に照してみれば、ここは教条主義の方が正しい。支配階級が強権でもって身分として固定されているという状態は、文句なしによくないことなのであって、これに妥協屈伏する理論は邪、これを撤廃しなければ人民は裕福になれないという理論が正である。
右のことは、封建制の廃止ということと同じではない。

さらに「封建」という言葉について

私はこの稿で「封建」という言葉を一度も使っていないのだが、それは儒教でいう封建制とフューダリズムの訳語としての封建制が内容において喰い違っている上に、徳川時代の日本がフューダリズムかどうか疑問に思っているからである。厄介なことに徳川時代の日本の儒学者は現在の日本が封建制だといって賛美しているが、それはフューダリズムだという意味ではなく、儒教の尚古主義が理想的時代だったとして尚っとぶ周の封建制と同じ封建制だという意味である。儒教は、そういう意味での封建制を擁護賛美するけれども、フューダリズムを擁護賛美するということはない。こういう事情があるので、私は数年前から、著述でも論文でも、無規定の「封建」という言葉は一切使わないよう注意している。この稿で、強権でもって身分的に固定された世襲武士が支配階級である体制というような面倒な表現を繰り返しているのは、安易に「封建」という言葉に置きかえるのを避けるためである。

横井小楠の『学校問答書』について

ペリー来航の一年前に書いた『学校問答書』であって、その段階での小楠は、洋学もやっていないし西洋諸国の事情についても何も知らない。日本の武士に合わせて矮小化されていた儒教を一つ一つ切捨て、「実学」を求めたら、武士否定論ができあがったのである。したがって、これはヨーロッパ近代とは関係ないし、天皇とも関係がない。明治の天皇政府のもとでの武士整理にもつながらない。
いま天皇とは関係ないとことさらに強調したのは、徳富蘇蜂が『学校問答書』は皇室中心主義を説いたものだという途方もない解説を加え、それを信じているひとがけっこう多いからである。しかし、ここまで論じてきたことからわかっていただけるように、天皇が出てくる余地など、どこにもない。『学校問答書』には「朝廷」という言葉が出てくるけれども、これは儒教的模範君主となった藩士が、やはり儒教的な「士」になった家臣たちと政治を議するところという意味であって、改造された藩庁を指しているにすぎない。

王道と覇道

相手を、道でもって遇すべき存在だとは考えず、手剛いとみれば譲り、与しやすいとみれば居丈高になる。覇道である。
水戸学が覇道だから、尊王攘夷運動も覇道だと断じたら、短絡に過ぎると叱られるかもしれないが、いずれにせよ尊王攘夷運動は、王道ではない。覇道である。
日本型王覇論が全く無内容な王覇論であることは、先に書いた。それが幾分でも意味ありげに聴こえだしたのは、幕府が王道を踏まず覇道をおこなってきたからである。とりわけ、外国との交渉で覇道に終始して恥をさらしたからである。しかし、だから天皇なら王道だというのは愚の骨頂である。王道は血統に関係ない。万世一系の神の子孫だから無条件にあがめたてまつるべきだというような馬鹿げた信仰と結びついたインチキ王道は、幕府の覇道よりはるかに悪質な覇道を生みだす可能性があり、実際にそうなった。現に、運動段階ですでに、攘夷という厄介なものと手をつないでいる。