三島由紀夫が死んだ日

さてクイズです、以下の文章はいつ書かれたものでしょう。

現代に於ける文学不安の一原因は、知識階級が芸術的趣味嗜好を失ひつつあることである。一般に知的努カをあまり悦ばなくなってゐる。現代人は知性に於ては相当高度のものを示してゐるが、彼等の知識の受けとり方は安易であり、一時的なものである。知識階級の社会に対する積極的態度の欠乏、時代を追求し自己の指導的役割をはっきり認識せんとする精神の退行現象は尚一層それに拍車をかけるのである。加ふるに個人的生活を脅かす政治的経済的重圧は、現代に於て最も烈しいものと云はねぱならぬ。知識人は毎月夥しく出版される政治上経済上の書籍やバンフレットの間を右往左往し、彼等の神経を喧噪な齷齪した生活のために磨損させて、自己の文学的嗜好を繋ぎとめておくだけの充分な余暇はなく、また芸術的興味を感ずるにはあまりにも疲労し過ぎてゐるのである。
(略)
しかも更にわれわれは読書階級のこのやうに安易な要求が、現代の商業主義と巧みに結びついてしまってゐて益々文学の質を低下せしめてゐるといふ事実を認めぬわけにはゆかない。作家自身が又この商業主義に踊らせられて、自己の芸術的良心を歪めてまでも大衆的興味に迎向せんとし、悪質の誇大広告は氾濫し、文学をして完全に商品化してしまってゐる。一般に商業主義は文学に限らず他の芸術にも悪影響を及ぽしてゐるのである。最近ジャーナリズムによって次々と夥しく喧伝される何々文学といふレッテルのめまぐるしい変遷を眺めてゐても、何とかして社会に対して売り込まんとする商人根性を背後に感じないわけにはゆかない。そして売れる本を書かない作家は、どんどん社会の底に埋れてゆく外はないのである。編輯者は血眼になってベストセラーを産み出す作家を捜し廻る。作家も質の良い作品を書くよりも、少しでも売れさうな本を書くために汲々として机に向ふ。

さして目新しい意見ではありませんが、いつ頃でしょう。1970年?1960年?
1939/4/12の同人誌「荒地」2号に鮎川信夫が書いたものです。
1939年です、ということは鮎川さんは19歳で、このあと戦場に行って古参兵の靴磨きをやったりする羽目になるわけです。ふーん、と頷いたところで

三島由紀夫が死んだ日 あの日何が終わり 何が始まったのか

三島由紀夫が死んだ日 あの日何が終わり 何が始まったのか

まあ三島マンセー本なのだからしょうがないけど、編・監修の中条省平を筆頭に

このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう

と予言していたのは日本で三島一人だけ!とえらくはしゃいでおります。なんだかね。そう思っていた人間は沢山いたでしょ。ただ切腹しないだけ。それにしても元天才映画少年の中条は「剣」とか観てないように思われます。([https://kingfish.hatenablog.com/entry/20050110">1/10の日記参照)
呉智英さんは、普通に分析しています。

私は実務の時代の価値を否定しない。「本気」の志、「本気」のロマンより、実効性のある「実務」こそ、人々を幸福にする。英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な時代が到来した。切腹など嘲笑されればいいのである。
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。三島事件の時、一部の左翼系の人たちは、不気味、醜悪、恐怖という言葉でこれを語った。しかし、本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。

三島自決を知り、1969/10/21「新宿騒乱」の夜を思い出した森山大道

しかも、累が及ぶことを恐れた新宿の繁華街は、すべての店が明かりを消し、シャッターを下ろしていて、普段の賑わいがウソのように暗くひっそりとしていた。そればかりか、新宿繁華街の市民たちは衝突による騒乱から自分たちの店や生活を守るために自警団を組織しており、彼らがロープを張った路地に学生が逃げ込むと、角材で袋叩きにしていたのだった。
こうした光景を目にした時、ぼくは心底、薄ら寒い「恐怖」を感じたのである。学生たちは新宿の繁華街のお得意さんであり、普段は笑顔で学生たちを歓待しているのに、一旦デモに加わるや、てのひらを返すように平然と自分たちの「敵」として扱ったのだ。本当に恐かった。
もう「敵」が誰なのかがはっきりとは見えない時代になってしまったのだと鮮明に認識した。

ファンレターを出したのが縁で交流が始まった瀬戸内寂聴の1951年の三島描写。本人には悪意全然ないんだろうけど、女性作家ってコワイね。

短い着物の下から毛脛が出ていて、動く度に、膝のあたりまで見えた。白い葱のようにきゃしゃな脚に脛毛が異様なほど濃く黒いのが妙になまなましかった。小柄で貧相な躯つきは、日本のラディゲといわれる天才らしくなく、育ちぞこなったみるからにひ弱な若者という感じだった。ただ濃い眉の下の大きな双眸が、猫の目のように金色に輝いて見えた。そんな人間の眼をはじめて見たので、私は息を呑んで声も出なかった。その顔は異相で、それこそ天才の顔だと、私は一目で電気をかけられたようになった。(略)その日の印象は三島さんの瞳の異相に尽きた。金色の瞳の芯の底まで透明でちろちろ炎が燃えつづけているように見えた。しばらくその目を夢にまで見た。

『英霊の声』を読んだ寂聴は十数年ぶりに手紙を書いた

戦後、これほどあからさまに、裏切った人に対して、憤りをぶちまけた文章があったであろうか。天皇をこれほどあからさまに呪詛した文章を見たことはなかった。
私は三島さんが命を懸ける決心をしたのだと思いぞっとした。