ハイブラウ/ロウブラウ

ハイブラウ/ロウブラウ―アメリカにおける文化ヒエラルキーの出現

ハイブラウ/ロウブラウ―アメリカにおける文化ヒエラルキーの出現

大衆娯楽だったシェイクスピア

十九世紀アメリカにおいて、シェイクスピアは正しく大衆娯楽だった。十九世紀前半の劇場は二十世紀前半に映画が果たしたのと同じ役割を果たしていた。すなわち、あらゆる階級と社会経済的集団に対して非常に多様な座席料金がある、変幻きわまりない民主的制度だったのである。

シムレット、うしろうしろ

十九世紀演劇の観客を正しく想像するには、現代のスポーツイベントを訪れるといいかもしれない。その観客は同じように雑多なぱかりでなく十九世紀とエリザベス朝時代と同じ意味合いで観客以上の存在だ。彼らは競技場で繰り広げられるアクションに入り込み、直に感じ、時には事態を支配している感覚すら持ち、自分の意見と感情を声に出してはっきりと表現するような参加者なのである。

シェイクスピアの神聖化にともない

シェイクスピア作品は別の作者が書いたのだと主張する本や記事が多出したのは、決して偶然ではない。シェイクスピアの地位が高くなればなるほど、社会的地位が低く教育もろくに受けていないであろう(略)男が演劇の極みまで上り詰められたとはますます納得できなくなった。作品はもっと訓練され生まれも良く高い地位の誰か、たとえばフランシス・ベイコン卿、(略)が書いたに違いない。

バンドとオーケストラの区別なし

十九世紀アメリカで最も人気がありどこにでもあった音楽組織はバンド(楽隊)であり、南北戦争直前には六万人の音楽家を擁する三千以上ものバンドが存在していた点である。十九世紀の大半、こんにち我々が抱くバンドとオーケストラの明白な区別はなかった点を理解しておくことも、また重要である。

合間に手品なんかもやっちゃったりして

一七九六年九月十二日ボルティモアで行われたコンサートは、我々が知っている音楽の風潮からはかなりはずれたものが蔓延していたことを証明する。それはハイドンの序曲の後に「かわいいブルネットのために」のような歌を、バッハの序曲の後に「おお、誰もアイルランド男ほどは愛せまい」のような歌をもって来ることは非常に適切だと考える風潮である。

大衆受けする「軽い」曲や、木の上で演奏させたりの仕掛けで、オーケストラを維持していたセオドア・トマス。シカゴ交響楽団設立の際にも軽い曲を求められ「ボストン交響楽団より劣ってもいいのですか」という殺し文句を使った。

「これは効いた!私はあらゆる反対にも関わらず演目の水準を保つことができた。やがて知的で影響力のある少数派はくだらないものを捨て、より大きなスケールの音楽を求めるようになり、残りの人ぴとの音楽世界を向上させた。そしてとうとう私は教養ある観客のために演目を定める決心をした。」

大衆から離れてどうするか、金持ちの寄付に頼るのだ

交響楽やほかの表現芸術を支えるパトロン的王家もパトロン的政府も存在しなかったので、世紀転換期に流布していた規範や精神風土を考えれば、その代わりに資金調達の手段のみならず組織形態の手本としてもパトロン的資本主義が求められたのは当然だっただろう。(略)
新しい組織構造は、アメリカ文化の様相を変えつつあった神聖化のプロセスに非常によく適応したのだった。

イタリアオペラが「安っぽいシチリア歌謡」に格下げされる一方で神格化は進行する

交響楽団の指揮者が果たす役割は、しばしば「神聖な芸術」として言及されるものの遂行と保全と同義になり、彼らの地位は強化された。グスタフ・マーラーのようなヨーロッパ人音楽家アメリカで指揮者に与えられる権限と名声に驚きを隠せない。一九〇八年、ドイツ人の仲間にボストン交響楽団の指揮者職を受諾するよう説得するにあたり、その地位は「第一級のオーケストラ。無制限の支配権。音楽家がヨーロッパでは得られないような社会的地位。ヨーロッパ人が想像できないほどの学習意欲と感謝の念を持った大衆」をもたらすと、マーラーは主張した。あるクリーヴランドの記者はもっと簡潔に「ボストンでは、オーケストラの主導者は市長よりも重要人物だ」と述べる。そしてもちろん、神聖化のプロセスは作曲家の名声をも高めた。

神聖化により、素人音楽は駄目なものとされる

神聖化はアマチュアとプロの距離も増大させた。この区別の暖昧さは十九世紀の大半を通じてアメリカ音楽の特徴の一つだったが、世紀が終わる頃には差は広がっていた。だんだんと、高度に訓練されたプロだけが、神聖なる芸術の創り手たちの意図を理解して実行に移すための知識や技術、意志を有するのだと主張されるようになっていった。高尚な芸術への欲求は、十九世紀後半にパーラーミュージックの著しい衰退を招いた。
(略)
マチュアはプロと衡突し、前者の言い回しは徐々にしかし確実に良い意味でなくなっていった。実際のところ、それはほとんど汚名になってしまった。アマチュアの作品、アマチュアのタッチ、単なるアマチュア、アマチュアっぽい、アマチュア芸---これらはすべて異なる表現だが同じ意味を持つ。すなわち駄目な作品ということだ。

まだまだ続くのである