橋川文三、啄木と大逆事件

悲しい未来戦記

日本近代史上、未来戦記が数多く出版された一つのピークは、大正末年から昭和初年、すなわちワシントン会議の時期であろうが、それ以前では、明治末年-大正初期の時期がそうである。(略)
というのも、それらがほとんどすべて、日本の敗北と列強による分割におわっているということである。(略)
いずれも迫真的なディテールを含んでいる。人名・地名・日時が克明にあげられ、艦隊戦闘の航跡図までそえられたきわめてリアリスティクなものがほとんどである。日露戦争の記憶のうすれていない当時の読者は、おそらく手に汗にぎって読んだことであろうと思われる。そのことは、それらの古本の中に「今ニ見ロ!!腰抜ケ!!」「馬鹿ヲ言フナ!」「バカバカバカ!!」などという興奮した文字が書きこまれていることによっても想像される。(略)
[日本艦隊は全滅し]日本の沿岸都市はロシア艦隊の砲撃によって灰燼となり、ついに日本はロシアに屈服するという筋書である。
おそらくそれは、日本の軍事指導者が最悪の場合として想像したところとあまりちがわなかったと思われる。
(略)
こうした五十年前の未来戦記を見ていると、明治末年の日本人の苦悩・不安・危機感が悲しいほど胸にせまってくる。それらは、大体が日本国民の志気の頽廃を憂え、尚武の精神、軍備の拡張をアピールしたものではあるが、不思議に読後の感じは好戦的なものではなく、むしろいじらしいほどの悲哀感である。太平洋戦前の想い上がった姿勢は全く見られない。日露戦勝後のいわゆる「勝利の悲哀」と「時代閉塞」感が、一種の終末観の色調をたたえてそれらの戦記ものに投翳している。

日露戦争後はオウムの時代。新興宗教乱立、千里眼などのオカルトブーム、官能的刹那主義が流行。

すでに明治国家には昔日の権威は失われていた。維新以来培養増殖されてきた藩閥勢力と、その庇護下に養成された官僚勢力によって操縦されることに国民はすでに厭きていた。(略)とくに伊藤博文が暗殺されて以後(明治四十二年)、国家権力の中枢部分の機能不全は目立つようになった。そしてそれを象徴するような事件が明治四十三年の大逆事件のフレーム・アップであったといえなくもない。それは無政府共産の幻影に病的にまで怯え上がった国家権力側の過剰防衛であったとみなしてよいからである。
このような国家権力の威信が後退するにつれて、国民の側はそれに代替するなんらかの精神的よりどころを本能的に求めはじめる。(略)
岡田虎二郎の静座法の流行などはその一例にすぎないが、一般に日露戦争後になると、「宗教的欲求の時代」(石川啄木)とよばれたくらいにさまざまな宗教的・半宗教的な模索が氾濫した。

時代の流れはわかっているのに、その先を行ってしまってフマジメと言われてしまう啄木。そりゃ高橋源一郎が共感するはずだ。

啄木は自然主義が明治の思想と文学の流れの必然的な傾向であり、しかももっとも正当な「哲学」のあらわれであることをハッキリと見きわめていた。しかし、彼は日本のその自然主義に何かある種の不徹底と欺瞞が内在することを早くから感じとってもいた。のちに「時代閉塞の現状」において彼の自然主義批判はみごとに結実することになるが、しかしそれまでの期間、啄木が小説によって進出しようと企画していたのはまさにそのような自然主義の支配する文壇であった。いわば啄木は、ある特殊な歪みをおびたまま、一世を風靡している自然主義の世界に、幾分不用意にとびこもうとしたものといえるかもしれない。上京して一ヶ月余りの間、彼の書いた五つの作品(凡そ三百枚)のいずれもが出版社から空しく逆戻りしなけれぱならなかったのは、その作風が当時の文壇と読者の嗜好に合わなかったためであり、いいかえればその作風が日本的自然主義のかんどころからはずれ、その意味で真剣でないと見なされたからであった。彼の頭脳の明敏さがここではかえって失敗の原因となった、ともいえそうである。

金田一の労で初めて新聞に小説が載り原稿料が入る。

「大晦日にその原稿料が一度にどっさり懐へころがって来た時に、凡そ石川君生れて始めて自分の収入で自分の負債を支払ったのである。その時の石川君、自分で驚いた顔付をして、
『借金というものは返せるものなんだなあ!ハハハハハ…』
この奇抜な発見に、吊込まれて私も一緒にアハハハハと笑ったが、折り返して、少し仰向きながら、
『借金を返すということは、良い気持なものだなあ!』
と云った。立続けに二つの発見をしたのである。・・・私は覚えず笑を収めて闇然としたのであった。」

理論とは別に自然主義的暴露が啄木のスタイルではなかった

わいせつな話をしてもわいせつな人間ではなかったということであり、それは啄木の全体の印象からしてもうなずかれることである。与謝野晶子のいう「犯し難い気品」をそなえた「貴族趣味の人」という啄木の印象は、決して彼の気どりや擬態ではなかった。(略)
当時の自然主義的風潮に影響され、官能主義の頽廃におちいったとみられるある青年の短歌作品に対して、「女郎買の歌」という短評で痛烈な批評を加えたことはかなり有名な話である。
当時糜爛した官能的耽溺を小説や詩歌に表現することをもっとも近代的な芸術家のしるしとみなすような風潮があったのを、啄木は「こういう自滅的、頽唐的たる不健全な傾向」として冷酷に批判し、短い文章ではあるがたんなる嘲笑・罵倒とは思えぬ気魄をこめてこれを排斥している。
(略)
ローマ字日記のショッキングな部分は(略)「女郎買い」経験を赤裸々に記したところである。その描き方は時として、一種酸鼻の印象をひきおこすほどにろこつであるが、にもかかわらずその文章は、不思議と底光りのする名文となっている。つまり、啄木は、そういう夜をすごしたのち、あの「女郎買の歌」の作者のように、ものほしげにデカダンをてらう三十一文字をならべたりは決してしないであろうことがわかるような性質の名文である。

啄木が自然主義批判をつきぬけた時期に大逆事件

すべて自然主義とその派生体としての耽美主義と、そしてそれらをもっとも鋭敏な近代の「文学」とみなすものたちへの批判であり、反面では「私はもう、益のない自己の解剖と批評にはつくづくと飽きて了った。それだけ私の考えは、実際上の問題に頭を下げて了った。----若しも言うならば、何時しか私は、自分自身の問題を何処までも机の上で取扱って行こうとする時代の傾向---知識ある人達の歩いている道から、一人離れて了った」という孤独感の表白でもあった。