1966年のオバQ

鮎川信夫が1966年に「週刊読売」で連載したゆるめの時評。なんとなく面白いので長めに。40年前の話ですから。
友人がまるで高城剛で笑える

夜おそく友人の家をたずねると、部屋のすみに見慣れない長方形の箱が立っていた。
「なんだね、これ」と聞くと
「空気清浄器だ」との答え。
友人は、新しく買い入れた機械が得意らしく、その効能について、いろいろ説明してくれた。部屋の空気を浄化して、人体によいマイナス・イオンを出すとか、塵挨でフィルターが一日で真っ黒になっているとか。空気のよごれている都心では、自衛のために必要な、いかにもたのもしい武器と受け取れた。
「これには葉緑素の添加剤がついていてね。どうだ、いいにおいがするだろ」
そういえぱ、なんだか安歯ミガキみたいなにおいがかすかにする、と思っていると
「だから、深い森のなかにいるのと同じなんだよ」
と、友人は満足そうにたたみかけてきた。ふむ、ふむとうなずきながら、しぱらく健康についての談話をひとしきり。友人も私も、盛んにたばこをふかすが、深い森のなかにいるせいか、煙がこもらないようだ。
(略)
どうやら、彼の健康法は、即席の深い森のなかにいて、ニコチン抜きのたばこをすい、栄養剤をたっぷりのむということにつきるらしい。
「どう、きくかね」と栄養剤のビンをとってたずねてみると
「さあ、どうかなあ」と、さきほどの空気清浄器の場合とはうって変わって、自信のなさそうな声を出した。

子供がオバQのテレビを見せろとうるさいとこぼす友人。

「マンガは子供ばかりじゃない、近ごろでは、おとなもよく見ているらしいよ。いまや、大衆芸術のチャンピオンだ」と、私はポップ・アート(大衆芸術)に関する「ニューズウィーク」の記事を読んだぱかりだったので、そのことを思い浮かべながらいった。(略)
現代は大衆の時代であるから、大衆の支持は絶対である。音楽も、絵画も、文学も、大衆の支持がゼロではどうしようもないだろう。そのかわり、大衆の支持さえあれぱ、だれがなんといおうと、けっこう栄えていけるのである。
(略)
「どこがおもしろいのかなあ」と友人は、オバQの本を手にとっていった。「グロテスクじゃないか」
自分の健康に関する新しい薬品とか器具には異常に興味をいだいているくせに、オバQの新奇性にはさっぱり関心がないらしい。
オバQもポップ・アートの一種だから、やはり大衆の要求にこたえるなにかがあるんだろう」というと「ポップはきらいだ」という返事。芸術に関してはどちらかといえぱ貴族趣味の男だからしかたがない。
(略)
大きな組織のなかに住んで、個人の無カ感に悩まされがちな大衆にとっては、なんの不安もなく、好ききらいの選択ができ、一時的な慰めを与えてくれるポップ・アートのほうが、重苦しいほんものの芸術よりも実用的な意味でありがたいわけだ。

子供と遊ぶポップなおばけ

「このオバケ、子供と遊んでるじゃないか」と、しぱらく本をながめていた友人がいった。
「子供と付き合える民主的なオバケなんだ」
現代ではあらゆるものが消費生活と結びつき、商業主義と結託している。オバケだって、過去の重苦しいイメージから脱却し、おおいに民主化され、大衆のアイドルとなり、商業主義に奉仕する存在にたったとしても、あやしむに足りない。
オバQはいつまでつづくと思う?」と私。
「さあ、テレピがやっているうちはつづくだろうな」と友人。
「はやらなくなったら、テレピはやめるだろう」
「どっちが先かな。テレピがやめるのが先か、はやらなくなるのが先か。まあ、同時だろう」
オバQが引っ込んでも、また、違ったオバケが登場するよ。ポップはみんなオバケみたいなものだからね」
「子供がうるさくて、かなわないよ」