堤清二の見た三島、吉田健一

辻井喬コレクション 8 (辻井喬コレクション【全8巻】)

辻井喬コレクション 8 (辻井喬コレクション【全8巻】)

 

三島由紀夫、死の当日。

その日私は三島さんに電話をする予定だった。それは巣鴨にあった東京拘置所が民間に払いさげになり、戦犯が処刑された絞首台などがそのままに引渡されたので、その廃墟を使って、ロック・フェスティバルを演ろうという相談の電話だった。

異常な通夜。

考えてみれば、彼ほど著名な作家の死の晩に、いわゆる文士がほんとうに一名も顔を見せていないというのも異例である。(略)
聞けば警察の家宅捜索があるらしいという。通夜の客は動揺した。私の隣に坐っていた出版社の社長さんが、「どうしよう、ああ、どうしよう」と著しく落着をなくして中腰になり、押入れに眼をやり、玄関の方角をふり返った。今にも警官隊が踏み込んで来はしまいかと恐れているようであり、その際かくれる場所を探しているふうであった。
「いいじゃないですか、捜索させておけば、まあ坐ってなさいよ」と言っても、
「いや、そうはいかない、そんな簡単なことじゃない」
と、相変わらずうろうろしている。

一ヶ月前に警察幹部に会ったときに、楯の会の動きがおかしいと言われ、あれは三島美学の実験室のようなものだと反論したことを思い返す著者。
あの制服はセゾンで調達ですからあ、切腹

「どうしてこういうことになったのかなあ、わたしにはどうしても分からない。誰か納得のいくように話してくれませんか」
と父親である平岡梓さんが炬燵に入ってきて、私の方を見ながら話し出した。
(略)
「----さん、あんたのところで、あんなスマートな服を作るからいかんよ」
突然そう言うと、平岡氏は掌で顔をくしゃくしゃになるほどこすって首を振った。
たしかに、楯の会の制服を作ったのは私の所属する会社だった。デザインは三島さんが自分で便箋に書いて店に持ってきた。帽子の庇のせり上っている角度、記章、襟章、肩に入れるパッドの具合、ボタンとボタンの穴がついている生地の部分にモールを入れるかどうか、そして勿論、生地の色と品質についても厳密な指示があリ、見本を幾種類も揃えさせて吟味する、といった熱心さだった。

吉田健一

後を継ぐ気がさらさらない健一の悪口を言う政治ゴロ

吉田健一さんのことを私はいつもある種の辛い感情のなかで思い出す。
私にむかって彼の名前をはじめて口にしたのは、政治専門の某雑誌社の社長だった。
「先生は偉いけど、息子はどうしようもないよ、頭がおかしいんじゃないかな」と、その男はあしざまに語った。当時は吉田内閣の終りの頃で、私は衆議院議長の秘書として毎日国会につめていた。
(略)
その頃、私はまだ吉田健一さんに会っていなかった。ただ、政界の権威を認めない一人の人間が、はっきり存在していると知って心強かった。私自身、政治に主体的関心はなく、詩を書き出していた頃で、秘書室でこっそりランボーとかエリュアールを読んでいた。これは余談だが、ある日私は読みさしの詩集を読売新聞の政治部記者に見付けられ、「君、どうしてこんなもの読んでいるんだ」と言われてあわてた。私は暖昧な言い訳でその場を誤魔化したが、その記者が荒地の詩人、中桐雅夫だった。

吉田茂の息子と堤康次郎の息子

吉田健一さんに関する私の辛い感情とは、他の分野の人に対する徹底した蔑みの風習のことだ。ことに世俗的に恵まれている職種とされている政界と産業界の人間の態度にそれが際立っている。
しかも蔑みが一番深くなる部分こそ、他の分野の人々が存立している根幹の精神なのだというところに、私は、どうにもならない亀裂のようなものを見ない訳にゆかず、吉田さんはその亀裂を全身に浴びて生きた人だったという点で辛いのである。

なんか、こういうの泣けるね

その日、市ヶ谷のお宅まで送って行くと、吉田さんは上機嫌で、道の真中に立ちはだかって交通整理の巡査の真似をするのでハラハラした。
左手を垂直にあげ、右手を水平に伸ばして号令をかけるポーズが、私が見た吉田さんの最後の元気な姿になった。だから、老人にしか分らない楽しみがどんなものかを、私はとうとう教わらなかった。

武田百合子

東大在籍中に新日本文学の編集部員として武田泰淳のところへ原稿を取りに行って見た少女が武田百合子

実は、二階に招じいれられた時から気になっていたのだが、武田さんの隣にルノワールの絵を想起させるような少女が座っていて、しかも彼女は、もう産み月なのではないか、と思われるようなお腹をしていた。時々、団扇を使って私達の応答を眺めていたが、武田さんが困ったようにふり返ったのを受けて、
「書いて、さしあげたら」
という意味のことを言ってくれた。
こう書いていると、今でもその時の情景が浮んでくるのだが、その時武田さんの顔に、(そうか、お前がそう言うなら)という表情が動いた。暖かい、彼女を労る気持に彩られた眼差しだった。武田さんは半ば無意識に彼女のその言葉を待っていたのかもしれないと、今になって私は思う。

西武王国にこんな時代があったのか。清二は1927年生まれ。

その数年前、小学校に入った最初の冬、私達は湯ヶ原で正月を迎えたことがある。その頃、父は奥湯ヶ原から箱根に抜ける道路を建設していた。山峡の、すでに整地された分譲用地に飯場が作られ、工事を担当した施行会社の飯場小屋が掛っていた。まだ不景気の余韻が残っていて、父の会社は年末も大晦日になって辛うじて工事代金を工面したような有様であった。

軽井沢のジョン・ケージ

美術館のオープニングの夜、軽井沢に泊まったケージは、翌朝、宿舎の庭にいろいろな種類の茸が生えているのを喜び、さっそく庭に出て食べられる茸だけを摘んで自ら調理し、武満や一柳達にすすめたという。かつてイタリアのテレビ局のクイズ番組に出演し、茸に関する質問に答えて賞金六〇〇〇ドルを獲得した実績を持つケージにとって、食用と有毒の茸を見分けるのは容易なことであったのだろう。
私はいっぱいに露を含んだ朝の庭に降り立つケージや現代音楽の創造者達の一群の姿を想像した。白樺やうばめ柏、春楡などの落葉樹の林を背景にした緑の庭を思い浮べると、私の空想の空間には、五角形の芝生へ樹々の枝から次々に降りてくる小鳥の姿に触発された光景が見えてくるのであった。