1984年の鮎川信夫

時評 (鮎川信夫全集)

時評 (鮎川信夫全集)

浅田彰を否定しつつ共感。

しかし、彼の逃走の倫理が現実において何をもたらすかといえば、政治的にはせいぜい少しぱかり浮動票をふやすことにしかならないのではないか。経済的にいえぱ資本主義的生産過程への参加を否定しているのだから、もっぱら消費者の立場である。要するに、「使ってしまえ」「蕩尽しろ」ということにすぎない。
この考えは特に新しいというわけではない。たとえば遊んでいる金持ちは音からこのような論理を持っていた。へたなコミットをするな、本音をはくな、ということはたえず自分を留保し、モラトリアム人間になれ、ということである。そして、ひたすら消費していればいいというのだから、日本のプチブルもずいぶん結構な身分になったものである。
だが、僕にはある意味では共感できるところがある。僕もかつては、かなりひどいモラトリアム人間だったという意識があるからである。コミットはするけれども自分を無にするまで何かに賭けるということはしなかった。今だって、自分の考えていることの全てを語っているとは少しも思えない。

僕は戦前に「囲繞地」という散文を書いたことがある。いくつか項目をたててフラグメンタルに書いたのだが、そこに余白という項目をいれた。その部分は論文調だがかなりオートマティックに書いたもので、論じている当のこととは別にそういう部分があるということがいいたかった。その時の心情は、時代の空気に同調しえないというか、かなりモラトリアム的なもので、曖昧なかたちででもマージナルな部分を少しでも余計に確保したかった。浅田彰の方が洗練されているが、その時と近いものを感じるので、心情的には理解できる。ただ、構造主義のわくから出ていないのがもの足りない。今月の「ヴァニティ・フェア」にミシェル・フーコーのインタビューが載っていたが、やはり洗練度ではフーコーにとてもかなわない気がする。
「コミットするな、システムは自然にこわれる」という考えは、二歩後退である。(略)一度も持ったことのない「主体性」を早々と放棄して、どうして長い人生の時間に耐えていくつもりなのか。

現代詩が散文化して、マスカルチャーが「詩的」で、逆に先鋭的な現代詩は(貶しているのではなく)バカっぽくなる。

今日では常語や散文の中に詩がある、マンガの中にも詩がある、というように詩は遍在的なものとして捉えられるようになってきた。そうなると広告コピーの中に詩がありすぎるなどといってもあまりおかしくない、ということにもなってくる。
だから一方で、いわゆる詩として書かれたものが、たしかに詩だけれどもアホくさい、ということになってきた。ねじめ正一の詩は、どこにも昔の概念でいう詩的なものはない。だけど面白い。かといって散文でもない。散文としてのロジックは貫徹されていないし、描写も散文的とはいえない。結局、言葉でつくられた、気泡を生じさせるある種の物理装置みたいである。その意味では非常に不気味なものをつくっている(略)

瀬尾育生『らん・らん・らん』から引用

しかもわたしのように情況の推移に敏感な詩人のばあい、一行書いては、あっこれはいかにも六〇年代的だ!とか、もう一行書いては、むむ、これはせいぜい七〇年代前半までだ!また一行書いては、うーっ、これは今年の五月でおわリだ!というようなことをびんびん感じてしまって、とてもばかぱかしくてやってられないわけです。(「言語逃走症侯群Sさんの場合・症例篇」)

親友の吉本隆明は、空虚ではあるが「停滞」より「解体」がましと諦めつつ言い、鮎川もそう理解はしているけれど釈然としてなくて、父権を知らずに、その空虚で開き直ってる奴に怒る

「読書新聞」の渡部直己による『マス・イメージ論』の批評の最後に、「もうわれわれはまさに大事ナコトは何も知らない」とある。「何も知らない」ということで開き直っているわけである。このように言えるだけ、今の社会はゆるゆるにゆるんできたということだ。ゆるんだといっても何かの権威や規範と深刻な戦いをした緊張が解けてそうなったのではない。結果としてそうなってしまったのである。だが「大事ナコトは何も知らない」といってしまえるようにゆるんでいる状態がこのまま続くとは限らない。

江藤は古典を麻薬として使用

江藤淳藤井貞和も古典の知識を利用しているが、江藤の場合、悪くいえば自分自身をあざむくようにしか使われていない。「裏声文学と地声文学」の終りの部分で、古今集の仮名序の冒頭を引用するくだりなぞは、内ボケットから麻薬をとり出して嗅ぐようなあんぱいである。ところが藤井の場合だと、古語が非常に自由に高度な技術で現在の問題にうまくタッチするように使われている。普通は古語を文学的にとり入れようとすると現在からの逃避になってしまう。江藤の場合でさえ、現代文学を批判し、宣長の「やすらかにたけ高く、のびらかなるすがた」が、現代文学に欠けていることを嘆息して、現代文学を否認するためにしか使われていないのである。自分自身の神経をしずめるために古典の文句を使っても、それはただそれだけのことで、現代の緊要な課題に肉迫しているとは言えないのではないだろうか。宣長の言葉で現代を裁断できるなんて夢のまた夢であると思う。

バロウズ訳者はドラッグいらず。元々ハイなのか、全然効かなくて、昂揚陶酔とは無縁とのこと。

しかし、どういうものか、麻薬患者とは昔から縁が深いようなところがあった、すぐ隣りには麻薬患者がいて、それが少しも不自然ではないというような時期が、これまでの生涯にちょくちょく現れている。もしかしたら、私自身が麻薬をやらない麻薬患者みたいな者だったのかもしれない。