スタン・ゲッツ 音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

 

誕生

[難産だったスタンリー]

赤ん坊の頭があまりに大きかったので、鉗子は彼の耳を危うく切り落としてしまうところだったのだ。(略)

[退院時、耳の縫合料金も請求された父は]

「五十二ドルだって?そいつは高すぎるぜ。赤ん坊は置いていくよ」とアルは軽口を叩き、それから料金を支払った。

ウクライナから

 ゲッツ家もヤンポルスキー家も、一九〇三年にウクライナキエフ近郊をあとにしていた。当時の恐怖に満ちたポグロム(ユダヤ人集団虐殺)から逃れるためだ。(略)

[アルの両親は]あちこちで半端仕事をしながら、苦労してヨーロッパ大陸を西に向けて横切ってきた。二人はなんとかロンドンにたどり着き(略)ハリスはそこで小さな仕立て屋の店を構えた。

(略)

 ファミリーの人々は全員、アメリカに着いたときに、名前をガエツキスからゲッツに縮めていた。ハリスの兄の一人であるネイサンは、その後もう一度改姓をしている。彼はマンハッタン・サード・アヴェニュー高架鉄道の職に就きたかったのだが、そこはユダヤ人を社員に加えない方針だったので、姓をゲッツからハリスに変えた。ネイサンの息子は医師になり、スタンの叔父のベニーにこう言わせた。「おれたちはすべてのユダヤ人ファミリーの夢をかなえたよ。身内に医者が一人いて、そいつはおれたちと姓が違うんだものな」

 両親

[母ゴールティーの異母妹の証言]

 私の父は軽い仕事には重過ぎる人で、重い仕事には軽すぎる人でした。仕事をするのが好きではなく、常にぱりっとめかしこんで(略)女性たちを相手にカード遊びをしました。(略)

ハンサムだったし、ダンスも最高にうまかったから。

(略)

 頭も切れました。打てば響くと言うのかしら。話もうまかったし。私たちは父のことを哲学者と呼んでいました。

ショーティー・ロジャーズ 

[パーティーなどで得た3ドルのギャラをできるだけ両親に渡しつつも、楽器のために貯金]

 テナーを手に入れて間もない頃、彼はショーティー・ロジャーズに出会った。(略)ショーティーは印象深い二人の出会いのことを記憶している。(略)

 

 スタンとは家が近所どうしだったんだが、ブロンクスの〈チェスター・パレス〉でのダンス・パーティーのギグに一緒に呼ばれるまで、顔を合わせたことはなかった。僕らは出来合のアレンジメントを演奏した。カウント・ベイシーとか、グレン・ミラーとか、ベニー・グッドマンとか。譜面をしっかり読まなくちゃならない仕事だ。

 僕はそのバンドでは何度も演奏しており、自分のパートはかなり頭に入っていた。新顔がサキソフォンをケースから取りだしているのを目にして、あれは誰だいと僕は尋ねた。「あれはスタン・ゲッツ、十四歳で、ビル・シャイナーの生徒だ。バンドで吹き始めて四ヶ月になる」ということだった。

 こう思ったね、「四ヶ月だって? 四ヶ月だけの経験でこの譜面を読み込めるわけがないだろうが」。それはまるで、パリの街角でフランス語の新聞を渡されて、四ヶ月後にそれがすらすら読めてしまう、みたいなことなんだよ。(略)

彼がひとつもミスをしないので、僕は仰天してしまった。それから僕らはグレン・ミラーの『イン・ザ・ムード』をやったんだが、彼が立ち上がってテックス・ベネキのソロを吹いたのさ……それがもうサウンドから、何から何までそっくりそのままなんだ。思ったね。「いったいどうなってるんだ、こいつは」って。そのあと『ワン・オクロック・ジャンプ』になり、彼はレスター・ヤングのソロを吹いた。そりゃ、もう完璧にね。

ジャック・ティーガーデン

 ティーガーデンはジャズの師匠だった。そしてまた彼は大酒飲みでもあった。「彼はぼくに右肘の曲げ方[酒を飲む動作]についてずいぶん教えてくれたよ」とスタンは後年、新聞記者に語っている。

(略)
サキソフォンコールマン・ホーキンズトロンボーンティーガーデンは、それまではヴォードヴィルのコミカルな楽器としか考えられていなかったものを、ジャズを表現するための見事な手段に変えてしまったのだ。

(略)
ティーガーデンが七歳でその楽器を与えられたとき、彼の両腕はスライドを一番端まで動かすには短かすぎた。だから彼は唇を徹底的に鍛え、唇の動きだけですべての音を出せるようにしなくてはならなかったのだ。キャリアを通して彼は、七つある標準的スライド・ポジションのうち、身体にいちばん近いところにある三つのポジションしか使わなかった。

 そして彼のダイナミック・レンジは囁きから咆哮にまで及んだ。

(略)

 ビックティーは常に美しいメロディーを作り出した。そしてそこには伝染性のあるスウィング感と、骨の髄にまで染み込んだブルーズ・フィーリングと、天然のリリシズムが付き添っていた。

(略)
 若いスタンに最も深い影響を与えたティーガーデンの芸術的要素は、その後見人の強力なリリシズムだった。

(略)

[ツアー中]ティーガーデンはほとんど絶え間なく音楽セミナーを開催していた(略)

たとえば彼はピアニスト、アート・テイタムの革新的な和声のアイデアに魅せられていた。そしてティタムの最良のソロをレコードから一音一音楽譜に書き取り、それをスタンや他の若手楽団員たちと共に綿密に検証した。

傷つきやすい人間のまま 

 スタンは自分の音楽には自信を持てるようになっていたが、彼自身は怯えた、傷つきやすい人間のままだった。顔つきはいつもクールで、感情を表に出さないようにしていたが、その奥には常に緊張し、びくびくしたスラムの少年が潜んでいた。その少年にとって自分の値打ちを測れるものといえば、ただサキソフォンしかなかった。男性としてのモデル像を誰に求めればいいのか、それもわからない。彼の父親は甲斐性がなく、おかげで自分は十五歳にして旅回りの身になったわけだし、後見人は偉大で心の広い音楽家ではあるものの、ひどい酒浸りだ。そのような環境の中でスタンは「今一緒にいる相手を愛する」ことを選んだ。

スタン・ケントン

[両親と弟をロスに呼寄せ]

 スタンはロサンジェルス近辺で有能なビックバンドのサイドマンとしての評価を急速に高めていった。そしてスタン・ケントンが(略)二人のサキソフォン奏者を徴兵にとられてしまったとき、週給百二十五ドルで仕事しないかとスタンに声をかけてきた。彼は即座に引き受けた。

(略)

ティーガーデンとは対照的に、一九四四年の初めにはケントンの株はうなぎ登りだった。苦難の年月を経たあと、その三十三歳のバンドリーダーにとって、何もかもが順風満帆というところだった。

(略)
 ティーガーデンの美学がアメリカ黒人のブルーズに根ざしているのとは対照的に、ケントンは(略)

一九三七年に一年の休暇を取り、ヨーロッパ音楽のハーモニーを学び(略)[ラヴェルショパン、ワグナー、ストラヴィンスキードビュッシーのモチーフを用いた]

(略)

 ケントンの聴衆に訴える力はますます増大していったが、それはビッグバンド音楽への新しいアプローチが基盤になっていた。そのアプローチは大量の音の上に築かれていた。一九四四年におけるケントンのグループの、平均的なビッグバンドに対する位置関係は、一九七〇年代におけるヘヴィー・メタルの先駆者たちの、平均的なロックンロール・バンドに対するそれと同じだった――音が大きく、熾烈で、パワフルなのだ。そのサウンドは主に金管楽器で構成されていた。咆哮し悲鳴を上げるトランペットの集団、それをがっしり底で支えるトロンボーンの和音。リズムはスウィングするというより叩きつける感じに近い。そしてサキソフォン奏者たちがその音の混合の中で自分の存在を明らかにさせるには、力の限り強く吹かなくてはならなかった。アルト・サキソフォン奏者のアル・ハーディングはこう語っている。「我々はいちばん音の大きなバンドだった。アンプを使っている今の連中よりもまだずっと大きかったよ。そのバンドで演奏するには肉体的努力が必須だった」

 ケントンの指揮スタイルは、バンドのダイナミックな音楽にぴったり相応しいものであり、そのパフォーマンスは現代のどんなロック・アイドルに負けず劣らず劇的だった。(略)

亜麻色の髪で、細い骨張った顔を持ち、両手はきわめて大きく、腕と脚は長い。がりがりに痩せて、身長は百九十センチもある。音楽は彼を活気づけ、動きを熱狂的なものにした。そのビートに打たれたように、彼は跳ね、大股でステージを闊歩し、ひょろ長い四肢はワイルドにくねり曲がった。そして音楽がそのクライマックスに達すると、彼は狂乱の表情を顔に浮かべ、頭をがくんと後ろにやり、まるでフットボールの審判がタッチダウンを告げるときのように両手を高々と宙に突き出しつつ、感極まったうめき声をあげた。

 ケントンは即興演奏家としてはとくに傑出してはおらず、彼の真の情熱は作曲と編曲にあった。フルバンドが彼の楽器だった。彼はジャズをそのいくつかの要素のひとつとして組み込んだ、新しいクラシック音楽を創出したいと望んでいた。そしてダンスをする人々のためにスウィングする音楽を演奏してもらいたいという要望に、いつもいらいらさせられた。彼は記者にこう語っている。

 

ダンスのための音楽ということになると、ガィ・ロンバルドやサミー・ケイやフランキー・カールのバンドが最高だろう。我々のバンドは空気や興奮を創り出すようにできている。我々のバンドはスリルを生むために作られたんだ……

 我々の音楽は音が大きすぎて騒々しいだけだと、したり顔にいうものもいるが、我々の音楽を聴くために雪の中を百マイルも車を運転してやってくる若者たちもいるんだ……彼らはステージのすぐ前に立って、うっとりとした顔で我々の演奏に耳を澄ませている。そういう人たちの顔を見てもらいたい……

 ダンス音楽を演奏するとき、それは常に役目への奉仕になる。そこにあるのは実用性だ。テンポに留意しなくてはならず、人々のことを考えて演奏しなくてはならない。しかし耳を澄ませる聴衆のために演奏するとき、我々は自由になる。

レスター・ヤング 

[ビリー・ホリデイレスター・ヤングにニックネームをつけた]

当時いちばん偉い人はフランクリン・D・ルーズヴェルトだった。そして彼は大統領だった。だから私は彼のことをプレジデントと呼び始めたの。ザ・プレジデント。みんなはそれを縮めて、プレスと呼ぶようになった。

 

 レスターはそのお返しに、彼女にとって終生のニックネームとなった「レディー・デイ」という名を贈った。

 一九二〇年代、ジャズの形成期に、ジャック・ティーガーデンがトロンボーンに対してなしたのと同じことを、サキソフォンに対してなしたのがコールマン・ホーキンズだ。彼はそれまで主にコミカルな効果を出すことのみに使われていた新奇な楽器を取り上げ、それを感情の全域を表現するための手段に変えた。ヤングが最初のレコード録音によって一九三六年に華々しくシーンに登場するまで、ホーキンズの手法がサキソフォン演奏を仕切っていた。既存の決まりごとに対して、プレスは三つの核心をなす分野で挑戦した。ハーモニーとサウンドとリズムだ。

(略)
 ヤングが出てくる前は、即興演奏の中心をなしていた方法は、心地良い音も心地良くない音も含め、和音の派生音を追求していくことだった。そのスタイルの最も偉大な例がコールマン・ホーキンズだ。彼は最初から最後まで連続性をもって、コードの調性上の可能性を徹底して掘り進めることによって、その曲を解釈した。プレスはコードをまったく違うやり方で扱った。彼はコードをそれ自体で完結したものとしては見なかった。むしろそれを、自分が新たなメロディーを創作していくための背景として用いた。コードはもはや建物の中核をなすブロックではなく、メロディックな創作のための枠組みとなった。プレスは、ハーモニーの上に大胆に自分のメロディーを書き込むことで、水平的にコードをまたぎ越えていった。

(略)

 ヤングのハーモニーが行動の支配から自由になったように、彼のリズムはビートの支配からも自由だった。(略)

彼はすべてのものに大いなるスウィングの感覚を吹き込んでいく。しかし絶え間なくビートの置き方を変更させていく。遅らせたり、前にぐいと押し出したり、もそもそと引きずっておいて、正しい瞬間にそれを爆発的に浮上させたり。

 バークレー音楽院音楽学者であるルイス・ゴッドリーブはこのように語っている。

 

 レスター・ヤングは枠を移動させることにかけてはまさに名人だ。彼のソロには、その無数の例がある。強いビートと弱いビートとの差を見えなくしてしまうし、ひとつのビートの強い半分と弱い半分との差を見えなくしてしまう。ワシントンDCのレコード店で彼の演奏する『アイ・ネヴァー・ニュー』を初めて聴いたときのことを、私は忘れることができないだろう。(彼がサード・コーラスの真ん中で、ひとつのビートをこねくり回しているのを聴いたとき)そのレコードは同じ溝を繰り返しているとしか私には思えなかった。

 

一九五〇年と一九五一年にプレスと共演したジョン・ルイスは(略)ヤングのアプローチを明快に要約している。

 

もしあなたが十分に確固としたメロディーの構想を持ち合わせているなら、あなたはその構想の上に、またそれについてくるリズム・パターンの上に、いかなる 和声 (和音)進行をも好きに築いていくことができる。それだけの揺るぎないリズミックな資質がそこにあるなら、間違いなくそれは可能だ。レスター・ヤングは長年にわたってずっとそれをやってきた。彼にはそもそも、和声パターンに頼る必要はないんだ。自分のメロディックなアイデアとリズムだけで、ワン・コーラスを吹き切ることができる。コードはそこにあるし、レスターはどんなコードであろうが常に、それを必要なもので満たすことができる。でも彼が通常の進行に寄りかかることはない。

首席サキソフォン・ソロイスト 

一九四四年の夏にデイヴ・マシューズがバンドを去ったとき、スタンは圧力を強め(略)[ソロを取らせろと]ケントンに詰め寄った。(略)

 スタンの最初のレコーディングされたソロは、一九四四年十二月十九日の米軍放送からのエアチェックで聴くことができる。彼は『アイ・ノウ・ザット・ユー・ノウ』において、ワン・コーラスをテナー・サックス奏者のエメット・カールズと分け合っている。

(略)

スタンの即興演奏は、あたかも荒れ狂う金管楽器の海の中の静かな島のようだ。そして彼のプレス風の軽い演奏のせいで、彼とカールズはまったく違う楽器を吹いているみたいに聞こえる。スタンのソロは、いかにもヤング風の下降する長いフレーズのまわりに築き上げられているが、安定したロジックと、心地良い優美さを具えている。

(略)

一九四五年二月二日にスタンが十八歳の誕生日を迎えたすぐあと、ケントンは彼を首席サキソフォン・ソロイストに指名した。新しい地位に勇気づけられて、スタンはケントンに、ヤングのコンセプトのいくつかを、バンドのアレンジメントに持ち込めないだろうかと持ちかけてみた。ヤングの音楽は単純すぎると言ってケントンが退けたとき、スタンは自分の耳が信じられなかった。単純なのはヤングの音楽ではなく、ケントンの音楽なのだ。そしてケントンにそれがわかっていないことに、スタンは唖然とし、腹を立てた。このバンドでの日々ももう長くはないなと彼は悟った。

次回に続く。

空飛ぶヘビとアメンボロボット

アメンボの推進力 

アメンボが濡れないのは、脚の表面積が毛によって増大したおかげだ。これは、じつに興味深い表面特性だ。フラクタルなどのパターンを取り入れれば、物体の表面積は無限に増やすことができる。そのような広い表面が撥水性のワックスで覆われている場合、脚に付着した水ははね返される。水面に立つアメンボの脚を拡大して見ると、水は毛の「先端」で押しとどめられている。毛と毛の間には水が入り込めないのだ。つまりアメンボは、水の上と言うより、空気の上に立っている。脚もとにある空気の層のおかげで、アメンボはアイススケートをするように、水面をスイスイ滑って移動できる。

(略)

オールをこぐような動きたった1回で、アメンボはものすごい加速を見せる。ヒトでいえば 100メートル走を1秒で駆け抜けるようなものだ。そしてこの高速ストロークのあとは、まったく脚を動かさないまま体長の10倍以上の距離を滑って進む。

(略)

でも、滑るのがうまいのはいいとして、そもそもどうやって動きだすのだろう?停止状態から体を前進に転じさせる力はどこから来るのか?

(略)

 流体を後方に押して推進力を得る動物は、運動量保存の法則を満たす必要がある。(略)

[ハチドリが]空中で静止するためには、絶えず空気を下向きに送りつづける必要がある。

(略)

 泳いで前に進む魚も運動量保存の法則に従う。前進するとき、魚は胸びれや尾びれを動かして、自分とほぼ同じサイズの後流を運動と反対方向につくりだす。運動量保存の法則によれば、後流は魚と反対方向に移動する。

(略)

低速飛行中の鳥は、はばたくごとに渦をつくり、結果として煙の輪のような渦輪ができる。水上を走るトカゲの一種バシリスクの後流は、体重を支える下向きの渦と、推進力をもたらす後ろ向きの渦からなる。渦の生成は、水中に暮らす動物の運動にはお決まりの特徴だ。しかしアメンボは水中でなく水面で生活している。だからジョン・ブッシュが思いつくまで、誰も渦をつくるとは考えもしなかったのだろう。水の表面にとどまりながらも、アメンボは、鳥、魚、一部のトカゲといった、渦をつくって推進力を得る動物たちの仲間だったのだ。

 アメンボを見たことがある人は、かれらがスイカの種ほどの大きさの渦をつくりだせると聞いて驚くかもしれない。かれらの脚にはオールにあるような平らな部分はなく、ただの細い棒2本を使ってこいでいるように見えるからだ。脚の直径は渦の幅の3分の1しかない。こんな脚でどうやって流体を動かしているのだろう?答えは「表面張力」なのだが、そのしくみは少し複雑だ。アメンボが水面にいると、そこに小さなくぼみができ、水面が歪む。くぼみはアメンボの脚の先端を中心にした小さな虫眼鏡のようだ。アメンボが脚をこぐときも、くぼみは維持される。空気で満たされ、表面張力によって維持されるくぼみがパドルのように作用し、アメンボはより多くの水を捉えて押すことができる。つまりアメンボは脚を軸として、水面のくぼみを櫂として利用する。

ゴカイの 「亀裂伝播による推進」

 ゴカイの行動は、それまでの生物学者の想定とは対照的で、驚くほど洗練されていた。(略)

「亀裂伝播による推進」と呼ばれるこの方法を、これほど巧みに利用する人工の掘削機械は、いまだに存在しない。冷凍庫で凍らせたチーズケーキを切るところを想像してみよう。あなたも僕と同じなら、肉切り包丁で何度もガンガン、ケーキが二つに割れるまで叩きつづけるだろう。(略)

一方、ゴカイのやり方では、まず小さな切り込みを入れ、その側面を小刻みに押して裂け目を広げていく。試してみると、この方法は冷凍チーズケーキには効果てきめんだった。でも、どうしてこんなに効果的なのだろう?

 ゴカイの戦略は硬い素材のある特性を利用しているのだが、これが発見されたのは第一次世界大戦中のことだった。戦時中、鋼鉄やガラスといった高強度素材を使って飛行機や戦車が製造された。奇妙なことに、こうした素材は実戦ではあまり頑丈ではなく、分子結合の強さから予測される上限のわずか 100分の1の負荷で破損した。何が素材をこんなに弱くしたのか?一九二〇年、イギリスの航空工学者アラン・アーノルド・グリフィスが、ガラスを使った実験でこの謎を解明した。彼は滑らかなガラスを用意し、そこにごく小さな切り傷を入れた。こうして傷をつけるのは、ガラスに思い通りに亀裂を入れるいい方法だ。グリフィスは傷の大きさをさまざまに変えて破砕実験をおこない、驚くべき結果を見出した。傷が一定の長さを超えると、ガラスはごく弱い力を加えただけで、あっさり割れてしまうのだ。亀裂が破壊につながるのは、亀裂の先端に非常に大きな負荷がかかるせいだ。彼の実験により、ガラスがわずかな負荷で割れる理由が解明された。同じ原理は、コピー用紙を左右から引っ張ってみるだけで、簡単に実証できる。最初のうち、紙はかなりの力に耐えられる。ところが、紙のてっぺんの中心部に小さな切れ目を入れると、いとも簡単に破れてしまう。グリフィスの発見により、航空技師たちは冷間圧延など、当時一般的だった素材に小さな傷をつける製造技術を廃止し、代わりに研磨で傷を取り除くようになった。こうして素材強度が増したことが、最終的にボーイング727のような、一枚の金属シートからなる完全な片持翼を備えた大型機の開発につながった。航空機の翼をトラスで支持していた時代は終焉を迎えた。

 亀裂は、素材のアキレス腱だ。ゴカイはこれを利用して、自分よりもずっと硬い泥の中を動き回る。ゴカイの頭は斧の刃のようにはたらく。木材にひびさえ入れば、割るのに力はいらない。ただし、状況によっては亀裂伝播を利用しづらいこともある。例えば、ゴカイが水槽の壁面と泥の間に挟まっている場合だ。ゴカイが頭を小刻みに動かしても、硬い壁に押し返される。そのため、ゴカイが壁に沿って移動しているときの半径方向力は、壁から離れているときの10倍にもおよぶ。

 ケリーは次にクリーミーな泥に目を向けた。亀裂を生じさせる方法は、ここでは通用しない。ナイフを小刻みに揺らしながらホイップクリームを切ろうとしても、柔らかすぎて亀裂が入る前に崩れてしまう。しかし、ゴカイには次善策がある。まずは体をできるだけ膨張させて、柔らかい泥のなかに小さな空間をつくり、周囲を押す。この動きで体を固定するのだ。ここでいったん動きを止めるのは、おそらく深呼吸のためだろう。次に亀裂の中に頭を押し込み、口から子どものおもちゃのピロピロを出す。このピロピロはじつはゴカイの頭で、裏返しにして突出させることができるのだ。咽頭が泥をかき分け、前方の亀裂を広げる。この方法は、ミミズが土の中を前進するときと似ている。泥はとてもクリーミーなので、裂け目ができるのはほんの一瞬で、ほとんど目に見えない。硬い泥の場合の長くはっきりした亀裂とはまったく違う。亀裂ができると、ゴカイは前に進み、また体を固定する。前進運動はゆっくりで、ゴカイの咽頭が飛び出す回数で記録できる。

(略)

 ケリーが研究するゴカイは、泥だらけの湿った世界を、亀裂をつくるかクリームのように変形させて進んでいた。

境界層、ディンプル

ダランベールが粘性を無視したのは、粘性力は流体の慣性力に比べてはるかに小さいとみなされていたためだった。プラントルはその誤りを証明した。粘性が重要か否かは、動いている物体との距離に依存するのだ。

 ここに流体のなかを動いている物体があるとする。物体の周囲の流体は、積み重ねたトランプのようにたくさんの層に分けられる。接している二層は反対方向にずれあって剪断し、物体の運動を可能にする。物体にもっとも近い層はずっと密着した状態を保ち、これは「壁法則」と呼ばれる。流体の粘性が高いほど、カードにずれが生じにくくなる。物体が動くとき、粘性は周囲の空気全体に影響を与え、すべてのカードが物体との距離に応じて少しずつ動くのだろうと思うかもしれない。だが実際には、動いている物体から遠く離れた空気は、物体の存在に気づいていないかのように、静止状態を保つ。物体がそこにあると「感じている」のは、周囲のごく薄い空気層だけなのだ。プラントルはこの部分を境界層と名づけた。物体にかかる抗力のほとんどは、この層で生じる。

 境界層が一九〇四年まで見つからなかった理由のひとつは、観察の難しさにある。サッカーボールを蹴ったとき、ボールの動きがつくりだす境界層の厚さはわずか0.1ミリメートルだ。観察は非常に難しく、動きが速いものほど境界層は薄くなる。しかし、どれほど薄くても、この小さな空間を介して、物体は外の世界と相互作用する。境界層の内部で、物体は空気に急速な剪断を起こさせる。これに対して空気の粘性が動きに抵抗し、物体に抗力をはたらかせる。こうして物体は、周囲を取り巻く薄い空気の層に影響される。これが物体表面の小さな変化が空気抵抗に莫大な影響を与える物理的原理だ。

(略)

スポーツの世界ではゴルファーたちが、表面のきめの粗さの重要性にいち早く気づきはじめた。

(略)

 広く普及した最初のゴルフボールは、スコットランド人のロバート・パターソンが一八四八年に発明した「ガッティ」だった。マレーシアで採れたサポジラ(チューインガムノキ)の乾燥樹液を粘土のように成形したもので、当時主流だった革のボールよりも安価だった。ガッティ人気のもうひとつの理由は、ベテランゴルファーたちが目にした、説明のつかない現象にあった。新品のガッティはつるつるだが、使用するうちに、ゴルフクラブで繰り返し打たれ、表面が小さなへこみでいっぱいになる。そして古いガッティほどよく飛び、羨望の的になるのだ。現在のゴルフの世界では、コンピューターで生成されたディンプルが抗力を半減させるため、最初に与えられる打力が同じでも、なめらかなボールに比べて飛距離が大幅に伸びる。

 ディンプルの作用を理解するため、まずはなめらかなボールを思い浮かべよう。空気はボールに当たると、その周囲を迂回して移動し、外周を取り囲む。物体表面に沿って移動する空気の速度は、壁法則に従い、積まれたカードのように剪断するにつれて遅くなる。減速した空気は、ボールの外周を通過するころには、もはや風上に向かってボールと同じ向きに移動している。これにより、ボールの後方に真空、つまり陰圧の空間ができ、これがボールを後ろ向きに引き込むために抗力が増す。

 ディンプルつきのボールはこの吸引力を抑制する。ディンプルがあると空気がボールの表面をなめらかに流れず、周囲の空気と混じりあうためだ。周囲の空気の移動速度は、ボールの境界層よりも速い。速い空気が混ざると、冴えないパーティーにハイテンションなパリピが来たような現象が起こる。遅い空気は流入した外の空気に刺激され、ボールの周囲をより速く動くようになるのだ。これにより後流が減少し、ボールは抗力をあまり受けずに飛ぶ。

 ディンプルの効果が発見されるのに時間がかかったのには、もっともな理由がある。あまりに直感に反するからだ。物体表面をなめらかにした方が、動くのが空気中であれ水中であれ、抗力は減ると誰しも思う。

(略)

 きめの粗い表面を利用して境界層を撹乱し、抗力を減らすというアイディアは、飛行機や車にも採用された。飛行機の翼や車のルーフには、ゴルフボールのディンプルの代わりに、同じ役割を果たす小さな静翼が複数設置されていて、高速で動く空気を取り込んで抗力を抑えている。

 

戦争育ちの放埓病 色川武大

 幻視幻覚

  麻薬体験があるらしい見知らぬ方からの葉書がときおりまじっていて、貴方もLSDをやっていたことがあるでしょう、と記してある。私の小説の中に幻視幻覚に類するものがひんぱんに出てくるせいで、たとえば、地球の自転にへばりついている自分を意識するローリング感覚などは、LSDのもたらす幻想のもっとも一般的なものだという。

 しかし私はLSDを一度も使用したことはない。私はナルコレプシーという持病があり、この病気は入眠時幻覚をともなうので、いわゆるまぼろしが日常茶飯に現れる。麻薬中毒ならずして、同じような幻想を見られてまことにありがたい。

 普通の人間は、不必要な想念を体力で律してもみ消してしまうけれども、その体力が衰えて意識の交通整理ができなくなったとき、幻視幻覚が現れる。

(略)

 原則的には本能に基づいており、(1)不安、被害者感覚(2)潜在的願望(3)生存本能の裏返しの恐怖、嫌悪感覚、が主な要素であろう。だからLSDの幻想と、私の病気がひきおこす幻想とが似ていて当たり前なのである。

(略)

 S・スピルバーグという監督の映画をはじめて見たのは“激突”であるが、そのとき葉書の主と同じように、私も思った。あ、この人は麻薬体験があるか、幻視のともなう持病があるか、どっちかだぞ。

 この世にありえないものに恐怖を感じる、というのは普通人の神経だが、実際に目に見えている変哲もないもの(この場合はトラック)に異常を感じ、こだわりだしていく、あの恐怖の受けとめかたが、私には同病の親近感がある。これはたとえばヒチコックにはまったく感じない。

 “レイダース”を観たときは怖かった。あの映画の最後の場面、箱から煙が出て来て、美女が出現し、瞬時にそれが悪相に変わる。あのパターンはふだん私がくりかえし見ているものなのである。西欧風の美女神の顔も、なぜかまったく同じなのだ。

(略)

 “ポルターガイスト”という映画に現れる変異は、ドラマを成立させるための大仰な部分をのぞいて、やっぱり端々はリアリティーがあった。まず、変異が意識される手順がおおむねうなずける。

 椅子やベッドがかたがた揺れはじめるところは、あのとおりに近い。風のようなものが吹きつのるようなところもそうだ。私の場合は、風がおこる前に、何かが家の近くまでやってきた気配がし、ズキン、と頭の中にショックが伝わり、それから風になるが。

 重たい空気の塊が圧迫してきて、新聞や本を押し倒してしまうところもそうだ。

 台所で肉片がはじけ、フライドチキンに虫がたかり、自分の顔の肉をひきむしっていく、あそこは作り物じみて見えるかもしれないが、私には日常茶飯のことである。

 ただ私には骸骨は出てこない。私が骸骨にあまり恐怖感を抱いてないせいであろう。私の場合は肉のついた死体が多い。

 スピルバーグ監督は、どの映画でも、(多分)自分がふだん見なれている幻視幻覚を非常にうまく利用しているにちがいない。幻を具象化することはとてもむずかしい。ただ、今のところ彼は、熟達した職人のような手際で、恐怖感をスクリーンに定着させたにすぎない。

 たしかに、オカルティズムは、従来の神の意識や科学を飛び越えてしまった。神や科学よりも、オカルティズムが大敵のようになってきた。この次の作品は、十九世紀の作家たちがそうしたように、オカルティズム自体をぶちこわそうとするものになって欲しい。それではじめて、オカルティズムの底の深さが現れてくるように思う。

 麻薬について

三十年ほど前、私の周辺はぶったぎるようにさまざま薬物が乱舞していた。

(略)

[注射針が怖くて手を出してないと言っても誰も信用しないが]

今、辛うじて生き残っているのは、薬を打たなかったことが唯一の原因じゃないかと内心思っている。

(略)

 私たちが日を送ってきた過去の中で、実に多くの人たちが意味もなく、薬に身体を毒されていった。薬に毒されながら、しかしある意味でそれを必要としていたわずかな数の人も居た。行跡でそれを示した人も居る。仕事の仕上りでなく、外見にはしかと見えないが、本人のそのときなりのとことんの判断でそうせざるをえなかったらしき人も居る。いずれにしてもそれはごくわずかな人たちだ。

 実例をたったひとつ記す。昭和二十四年頃。チクロパンナトリウム、我々はイチコロパンといっていた。最初は尻や太股に刺す。効かなくなると徐々に脳に近い所に打つ場所が移動する。速効性あり、打つとすぐ深々と眠る。すぐに眠ってわからなくなるのに、どこがよいのだろうか。安眠ということが、命を賭けるほどのものであるほどの、苛酷な日常があるのだろうか。深川高橋の某君は、額の横、顳顬[こめかみ]のあたりに、私の眼の前で針を刺し、たちまち音を立てて横転した。倒れた某君の顳顬に刺さったままの注射針が、ゆらゆら揺れていた。

 尻から頭へくるまで約半年、それで廃人だという。意味も糞もない。外見はかくのごときである。禁止すべきが当然であり、法治国であるから、法で禁じられたことをやって罰せられるのもこれまた当然である。

 そのことに私は毫も不服を抱いているわけではない。

 しかしまた、ここがややこしいが、かつて薬を使っていた私の友人知人を、軽蔑もしていない。

 たとえば、ミュージシャンである。ミュージシャンのうちのある者は、仕事が苛酷すぎる。聴衆は常に、人力以上のものを期待し要求する。それはただ単に拍手をすればよいので、それほどだいそれたことを望んでいるような気がしない。あるいは、偶然にすばらしいものが聴けた感動を現わしているだけだと思う。けれども演ずる方には、そういう日々の積み重なりであり、彼等を人力以上のところへ駆りたたせる鞭になっていることはたしかである。法を犯し、身を害するのは彼等自身であり、結果的に不幸を背負うのは仕方がないとしても、私たちは、一夕の楽しみを、そうした重たい犠牲のもとに得ているということを忘れるわけにはいかない。聴衆の一人でもある私には、彼等を軽蔑することができない。

(略)

能の魅力

(略)

昼間、後楽園競輪場に行って、競輪にどっぷりと浸り、その足で裏手の大曲まで歩いて観世に行くか、或いは水道橋の宝生の能楽堂に行って夜能を見る。その一日は、私にとってもっとも豪華な味わいがあった。

 競輪も、能も、ともに日本人でなければ創案できないもので、いずれも神がない、規範がない現実を踏まえているところに特長がある。そうして、よかれあしかれ現実のとりとめなさに負けていない。他の凡百の競技や芸能が色あせて見える。

 能といっても、私の関心は主に世阿弥にあるので、特に後世作られた技巧的なものには何の値打ちも見出せない。また、名人上手といわれる演者たちが次々と亡くなっていった頃であったせいもあるけれど、演者や奏者たちにもそれほどの関心がない。私は私の勝手で見ている。

 世阿弥の凄さを一言でいえば、劇のまん中に明瞭な一つの線をひいたことである。その線を境にして前半は主人公の実人生を、後半はその実人生の再検討、再評価、再認識をやっている。この発想が天才的で、西欧の演劇はこういう発想を持っていない。もっとも、それはひとつには、規範との関係で人物像乃至実人生をきざんでいくから、具体を描けば同時に規範とのドラマが成立するのであろう。したがって劇の最後に、その具体の終末が来る。

 規範の乏しい我々の風土では、どのような具体であろうと、具体を描いただけではドラマが成立しない。そこに定着しているかに見えるものは、概念乃至思いこみかもしれない。具体の終尾をまん中に持って来て、もう一度全体を眺め直すということを形式にまで高めたことに驚嘆する。器量がちがいすぎて、世阿弥から何も盗み得ないが、私はこの天才の烈しい殺気のようなものに浸っていることが好きだった。

(略)