スタン・ゲッツ 音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

 

誕生

[難産だったスタンリー]

赤ん坊の頭があまりに大きかったので、鉗子は彼の耳を危うく切り落としてしまうところだったのだ。(略)

[退院時、耳の縫合料金も請求された父は]

「五十二ドルだって?そいつは高すぎるぜ。赤ん坊は置いていくよ」とアルは軽口を叩き、それから料金を支払った。

ウクライナから

 ゲッツ家もヤンポルスキー家も、一九〇三年にウクライナキエフ近郊をあとにしていた。当時の恐怖に満ちたポグロム(ユダヤ人集団虐殺)から逃れるためだ。(略)

[アルの両親は]あちこちで半端仕事をしながら、苦労してヨーロッパ大陸を西に向けて横切ってきた。二人はなんとかロンドンにたどり着き(略)ハリスはそこで小さな仕立て屋の店を構えた。

(略)

 ファミリーの人々は全員、アメリカに着いたときに、名前をガエツキスからゲッツに縮めていた。ハリスの兄の一人であるネイサンは、その後もう一度改姓をしている。彼はマンハッタン・サード・アヴェニュー高架鉄道の職に就きたかったのだが、そこはユダヤ人を社員に加えない方針だったので、姓をゲッツからハリスに変えた。ネイサンの息子は医師になり、スタンの叔父のベニーにこう言わせた。「おれたちはすべてのユダヤ人ファミリーの夢をかなえたよ。身内に医者が一人いて、そいつはおれたちと姓が違うんだものな」

 両親

[母ゴールティーの異母妹の証言]

 私の父は軽い仕事には重過ぎる人で、重い仕事には軽すぎる人でした。仕事をするのが好きではなく、常にぱりっとめかしこんで(略)女性たちを相手にカード遊びをしました。(略)

ハンサムだったし、ダンスも最高にうまかったから。

(略)

 頭も切れました。打てば響くと言うのかしら。話もうまかったし。私たちは父のことを哲学者と呼んでいました。

ショーティー・ロジャーズ 

[パーティーなどで得た3ドルのギャラをできるだけ両親に渡しつつも、楽器のために貯金]

 テナーを手に入れて間もない頃、彼はショーティー・ロジャーズに出会った。(略)ショーティーは印象深い二人の出会いのことを記憶している。(略)

 

 スタンとは家が近所どうしだったんだが、ブロンクスの〈チェスター・パレス〉でのダンス・パーティーのギグに一緒に呼ばれるまで、顔を合わせたことはなかった。僕らは出来合のアレンジメントを演奏した。カウント・ベイシーとか、グレン・ミラーとか、ベニー・グッドマンとか。譜面をしっかり読まなくちゃならない仕事だ。

 僕はそのバンドでは何度も演奏しており、自分のパートはかなり頭に入っていた。新顔がサキソフォンをケースから取りだしているのを目にして、あれは誰だいと僕は尋ねた。「あれはスタン・ゲッツ、十四歳で、ビル・シャイナーの生徒だ。バンドで吹き始めて四ヶ月になる」ということだった。

 こう思ったね、「四ヶ月だって? 四ヶ月だけの経験でこの譜面を読み込めるわけがないだろうが」。それはまるで、パリの街角でフランス語の新聞を渡されて、四ヶ月後にそれがすらすら読めてしまう、みたいなことなんだよ。(略)

彼がひとつもミスをしないので、僕は仰天してしまった。それから僕らはグレン・ミラーの『イン・ザ・ムード』をやったんだが、彼が立ち上がってテックス・ベネキのソロを吹いたのさ……それがもうサウンドから、何から何までそっくりそのままなんだ。思ったね。「いったいどうなってるんだ、こいつは」って。そのあと『ワン・オクロック・ジャンプ』になり、彼はレスター・ヤングのソロを吹いた。そりゃ、もう完璧にね。

ジャック・ティーガーデン

 ティーガーデンはジャズの師匠だった。そしてまた彼は大酒飲みでもあった。「彼はぼくに右肘の曲げ方[酒を飲む動作]についてずいぶん教えてくれたよ」とスタンは後年、新聞記者に語っている。

(略)
サキソフォンコールマン・ホーキンズトロンボーンティーガーデンは、それまではヴォードヴィルのコミカルな楽器としか考えられていなかったものを、ジャズを表現するための見事な手段に変えてしまったのだ。

(略)
ティーガーデンが七歳でその楽器を与えられたとき、彼の両腕はスライドを一番端まで動かすには短かすぎた。だから彼は唇を徹底的に鍛え、唇の動きだけですべての音を出せるようにしなくてはならなかったのだ。キャリアを通して彼は、七つある標準的スライド・ポジションのうち、身体にいちばん近いところにある三つのポジションしか使わなかった。

 そして彼のダイナミック・レンジは囁きから咆哮にまで及んだ。

(略)

 ビックティーは常に美しいメロディーを作り出した。そしてそこには伝染性のあるスウィング感と、骨の髄にまで染み込んだブルーズ・フィーリングと、天然のリリシズムが付き添っていた。

(略)
 若いスタンに最も深い影響を与えたティーガーデンの芸術的要素は、その後見人の強力なリリシズムだった。

(略)

[ツアー中]ティーガーデンはほとんど絶え間なく音楽セミナーを開催していた(略)

たとえば彼はピアニスト、アート・テイタムの革新的な和声のアイデアに魅せられていた。そしてティタムの最良のソロをレコードから一音一音楽譜に書き取り、それをスタンや他の若手楽団員たちと共に綿密に検証した。

傷つきやすい人間のまま 

 スタンは自分の音楽には自信を持てるようになっていたが、彼自身は怯えた、傷つきやすい人間のままだった。顔つきはいつもクールで、感情を表に出さないようにしていたが、その奥には常に緊張し、びくびくしたスラムの少年が潜んでいた。その少年にとって自分の値打ちを測れるものといえば、ただサキソフォンしかなかった。男性としてのモデル像を誰に求めればいいのか、それもわからない。彼の父親は甲斐性がなく、おかげで自分は十五歳にして旅回りの身になったわけだし、後見人は偉大で心の広い音楽家ではあるものの、ひどい酒浸りだ。そのような環境の中でスタンは「今一緒にいる相手を愛する」ことを選んだ。

スタン・ケントン

[両親と弟をロスに呼寄せ]

 スタンはロサンジェルス近辺で有能なビックバンドのサイドマンとしての評価を急速に高めていった。そしてスタン・ケントンが(略)二人のサキソフォン奏者を徴兵にとられてしまったとき、週給百二十五ドルで仕事しないかとスタンに声をかけてきた。彼は即座に引き受けた。

(略)

ティーガーデンとは対照的に、一九四四年の初めにはケントンの株はうなぎ登りだった。苦難の年月を経たあと、その三十三歳のバンドリーダーにとって、何もかもが順風満帆というところだった。

(略)
 ティーガーデンの美学がアメリカ黒人のブルーズに根ざしているのとは対照的に、ケントンは(略)

一九三七年に一年の休暇を取り、ヨーロッパ音楽のハーモニーを学び(略)[ラヴェルショパン、ワグナー、ストラヴィンスキードビュッシーのモチーフを用いた]

(略)

 ケントンの聴衆に訴える力はますます増大していったが、それはビッグバンド音楽への新しいアプローチが基盤になっていた。そのアプローチは大量の音の上に築かれていた。一九四四年におけるケントンのグループの、平均的なビッグバンドに対する位置関係は、一九七〇年代におけるヘヴィー・メタルの先駆者たちの、平均的なロックンロール・バンドに対するそれと同じだった――音が大きく、熾烈で、パワフルなのだ。そのサウンドは主に金管楽器で構成されていた。咆哮し悲鳴を上げるトランペットの集団、それをがっしり底で支えるトロンボーンの和音。リズムはスウィングするというより叩きつける感じに近い。そしてサキソフォン奏者たちがその音の混合の中で自分の存在を明らかにさせるには、力の限り強く吹かなくてはならなかった。アルト・サキソフォン奏者のアル・ハーディングはこう語っている。「我々はいちばん音の大きなバンドだった。アンプを使っている今の連中よりもまだずっと大きかったよ。そのバンドで演奏するには肉体的努力が必須だった」

 ケントンの指揮スタイルは、バンドのダイナミックな音楽にぴったり相応しいものであり、そのパフォーマンスは現代のどんなロック・アイドルに負けず劣らず劇的だった。(略)

亜麻色の髪で、細い骨張った顔を持ち、両手はきわめて大きく、腕と脚は長い。がりがりに痩せて、身長は百九十センチもある。音楽は彼を活気づけ、動きを熱狂的なものにした。そのビートに打たれたように、彼は跳ね、大股でステージを闊歩し、ひょろ長い四肢はワイルドにくねり曲がった。そして音楽がそのクライマックスに達すると、彼は狂乱の表情を顔に浮かべ、頭をがくんと後ろにやり、まるでフットボールの審判がタッチダウンを告げるときのように両手を高々と宙に突き出しつつ、感極まったうめき声をあげた。

 ケントンは即興演奏家としてはとくに傑出してはおらず、彼の真の情熱は作曲と編曲にあった。フルバンドが彼の楽器だった。彼はジャズをそのいくつかの要素のひとつとして組み込んだ、新しいクラシック音楽を創出したいと望んでいた。そしてダンスをする人々のためにスウィングする音楽を演奏してもらいたいという要望に、いつもいらいらさせられた。彼は記者にこう語っている。

 

ダンスのための音楽ということになると、ガィ・ロンバルドやサミー・ケイやフランキー・カールのバンドが最高だろう。我々のバンドは空気や興奮を創り出すようにできている。我々のバンドはスリルを生むために作られたんだ……

 我々の音楽は音が大きすぎて騒々しいだけだと、したり顔にいうものもいるが、我々の音楽を聴くために雪の中を百マイルも車を運転してやってくる若者たちもいるんだ……彼らはステージのすぐ前に立って、うっとりとした顔で我々の演奏に耳を澄ませている。そういう人たちの顔を見てもらいたい……

 ダンス音楽を演奏するとき、それは常に役目への奉仕になる。そこにあるのは実用性だ。テンポに留意しなくてはならず、人々のことを考えて演奏しなくてはならない。しかし耳を澄ませる聴衆のために演奏するとき、我々は自由になる。

レスター・ヤング 

[ビリー・ホリデイレスター・ヤングにニックネームをつけた]

当時いちばん偉い人はフランクリン・D・ルーズヴェルトだった。そして彼は大統領だった。だから私は彼のことをプレジデントと呼び始めたの。ザ・プレジデント。みんなはそれを縮めて、プレスと呼ぶようになった。

 

 レスターはそのお返しに、彼女にとって終生のニックネームとなった「レディー・デイ」という名を贈った。

 一九二〇年代、ジャズの形成期に、ジャック・ティーガーデンがトロンボーンに対してなしたのと同じことを、サキソフォンに対してなしたのがコールマン・ホーキンズだ。彼はそれまで主にコミカルな効果を出すことのみに使われていた新奇な楽器を取り上げ、それを感情の全域を表現するための手段に変えた。ヤングが最初のレコード録音によって一九三六年に華々しくシーンに登場するまで、ホーキンズの手法がサキソフォン演奏を仕切っていた。既存の決まりごとに対して、プレスは三つの核心をなす分野で挑戦した。ハーモニーとサウンドとリズムだ。

(略)
 ヤングが出てくる前は、即興演奏の中心をなしていた方法は、心地良い音も心地良くない音も含め、和音の派生音を追求していくことだった。そのスタイルの最も偉大な例がコールマン・ホーキンズだ。彼は最初から最後まで連続性をもって、コードの調性上の可能性を徹底して掘り進めることによって、その曲を解釈した。プレスはコードをまったく違うやり方で扱った。彼はコードをそれ自体で完結したものとしては見なかった。むしろそれを、自分が新たなメロディーを創作していくための背景として用いた。コードはもはや建物の中核をなすブロックではなく、メロディックな創作のための枠組みとなった。プレスは、ハーモニーの上に大胆に自分のメロディーを書き込むことで、水平的にコードをまたぎ越えていった。

(略)

 ヤングのハーモニーが行動の支配から自由になったように、彼のリズムはビートの支配からも自由だった。(略)

彼はすべてのものに大いなるスウィングの感覚を吹き込んでいく。しかし絶え間なくビートの置き方を変更させていく。遅らせたり、前にぐいと押し出したり、もそもそと引きずっておいて、正しい瞬間にそれを爆発的に浮上させたり。

 バークレー音楽院音楽学者であるルイス・ゴッドリーブはこのように語っている。

 

 レスター・ヤングは枠を移動させることにかけてはまさに名人だ。彼のソロには、その無数の例がある。強いビートと弱いビートとの差を見えなくしてしまうし、ひとつのビートの強い半分と弱い半分との差を見えなくしてしまう。ワシントンDCのレコード店で彼の演奏する『アイ・ネヴァー・ニュー』を初めて聴いたときのことを、私は忘れることができないだろう。(彼がサード・コーラスの真ん中で、ひとつのビートをこねくり回しているのを聴いたとき)そのレコードは同じ溝を繰り返しているとしか私には思えなかった。

 

一九五〇年と一九五一年にプレスと共演したジョン・ルイスは(略)ヤングのアプローチを明快に要約している。

 

もしあなたが十分に確固としたメロディーの構想を持ち合わせているなら、あなたはその構想の上に、またそれについてくるリズム・パターンの上に、いかなる 和声 (和音)進行をも好きに築いていくことができる。それだけの揺るぎないリズミックな資質がそこにあるなら、間違いなくそれは可能だ。レスター・ヤングは長年にわたってずっとそれをやってきた。彼にはそもそも、和声パターンに頼る必要はないんだ。自分のメロディックなアイデアとリズムだけで、ワン・コーラスを吹き切ることができる。コードはそこにあるし、レスターはどんなコードであろうが常に、それを必要なもので満たすことができる。でも彼が通常の進行に寄りかかることはない。

首席サキソフォン・ソロイスト 

一九四四年の夏にデイヴ・マシューズがバンドを去ったとき、スタンは圧力を強め(略)[ソロを取らせろと]ケントンに詰め寄った。(略)

 スタンの最初のレコーディングされたソロは、一九四四年十二月十九日の米軍放送からのエアチェックで聴くことができる。彼は『アイ・ノウ・ザット・ユー・ノウ』において、ワン・コーラスをテナー・サックス奏者のエメット・カールズと分け合っている。

(略)

スタンの即興演奏は、あたかも荒れ狂う金管楽器の海の中の静かな島のようだ。そして彼のプレス風の軽い演奏のせいで、彼とカールズはまったく違う楽器を吹いているみたいに聞こえる。スタンのソロは、いかにもヤング風の下降する長いフレーズのまわりに築き上げられているが、安定したロジックと、心地良い優美さを具えている。

(略)

一九四五年二月二日にスタンが十八歳の誕生日を迎えたすぐあと、ケントンは彼を首席サキソフォン・ソロイストに指名した。新しい地位に勇気づけられて、スタンはケントンに、ヤングのコンセプトのいくつかを、バンドのアレンジメントに持ち込めないだろうかと持ちかけてみた。ヤングの音楽は単純すぎると言ってケントンが退けたとき、スタンは自分の耳が信じられなかった。単純なのはヤングの音楽ではなく、ケントンの音楽なのだ。そしてケントンにそれがわかっていないことに、スタンは唖然とし、腹を立てた。このバンドでの日々ももう長くはないなと彼は悟った。

次回に続く。