アントニオ・カルロス・ジョビン ボサノヴァを創った男

ジョビンの妹による評伝。

森へ入るのは好きかい? 

「森へ入るのは好きかい?」(略)

「森へ入るだろう。中でじっと静かにして、耳を澄ませるんだ。でも、歩いている時でも、来たりするから……」

「来たりするって、誰が?」

「音楽だよ。もうできあがった形で聞こえてくるんだ。森の中で、曲が丸々聞こえてくるんだよ」

 兄は作曲をはじめた頃に、このことを私に教えてくれていた。その時、唐突に記憶を追い払うように、手を動かした。すると魔法がとけてしまった。兄はまた、病を苦にするあの不安で悲しげな様子に戻っていた。

(略)

「今日はとってもハンサムよ、知ってた?」

 長い間、そんな言葉とは疎遠だったとでもいうように、びっくりしていた。

「そうかい?」 

その後、私の手の中の本を指して、言った。

「文学は、芸術の中でももっとも美しい。でも、一番孤独でもある」

イパネマの少年 

 当時、コパカバーナ地区には、端から端まで路面電車が走っていた。トムは学校から、海を眺めつつ、顔に潮風を受けながら戻ってきた。電車がイパネマ海岸に着き、ジェネラル・オゾーリオ広場で旋回すると、トムの胸は高まった。彼の海が見えた。彼の浜辺が見えた。あとで泳げるかどうか確かめようと、波を見つめた。大きな海が大好きだった彼は、マリン・ボーイスカウトに入会し、毎日曜、集会に参加していた。

 のんびりとした生活だった。昼には家で食事をとる。テーブルの用意が整うと、母親が呼んだ。トムは凧の糸を、ラゴアに面した空き地のグアバの木に結びつけた。昼食をとるあいだ、彼は窓から空にあがっている凧をちらちらと見ていた。凧は、彼自身が上手に作り上げた。バザール・エニグマの店で凧糸を買う。二巻あれば、凧は本当に高くあがった。そして、色とりどりの薄紙。

 竹林を求めてカンタガーロの山に登り、大きな竹を切って戻り、細かい作業をするのに必要な道具をすべて揃え、テーブルに向かう。刃の鋭い小刀で、骨を作る。そのあと、糸を結び、骨格のバランスを確かめ、最後にキッチンで、小麦粉の糊を作った。凧が震えないよう、骨格の上に紙をしっかりと広げる。風を手に受けるのが好きだった。風を受ける凧を通して、彼は宇宙と対話していた。

(略)

ガレージでトムはピアノに接した。浜辺から戻ってくると、水着のまま、ガレージへ行った。指で音符の組み合わせ、ハーモニーを探した。その静かな場所に、何時間でもこもっていた。冷たいコンクリートの床に寝そべり、外の世界のことは忘れていた。

クラシックを勉強する

[ジムに]強い男になりたいと願う近所の少年たちと、彼は一緒に通った。バーベル上げのトレーニングをしていたが、九十キロが持ち上がるようになると、鼻高々だった。そのうち、ボクシングもやり始めたものの、彼には攻撃的なところが欠けていた。そこで、カポエイラに転向した。

(略)

 ニルザが息子に、ピアノの教師を見つけてきた。大戦から逃げてきたドイツ人、ハンス・ヨアヒム・コールロイターだ。彼はヨーロッパから、新しい無調音楽を持ち込んだ。トムは彼に師事し、本格的に学びはじめた。何時間も象牙色の鍵盤にかかりきりになり、スケールの練習をし、譜面の読み方を学んだ。クラシックを勉強するからには、ソリストになりたかった。時には、十時間もぶっ通しで練習していることもあった。根気強い性格をもって、彼は困難だが摩訶不思議な魅力のある職業に、勇敢にも近づきつつあった。ドビュッシーショパン、バッハ、ラヴェルストラヴィンスキーラフマニノフ、ヴィラ・ロボス。のちに、彼自身が「真っ暗闇の立方体」と名づけることになる場所へ、トムは引きこもっていった。

 二人目のピアノ教師、ルーシア・ブランコに、トムは手があまり開かないのだと、不安をうち明けている。「親指がひっかかってしまうんです」と、彼は言った。頑固にそう言い張った。

(略)

パウロ・シルヴァ教授に就いて、和声の勉強もはじめた。教授はいつも赤いタイをした、とても身なりのいい黒人だった。トムは、このクラシックなお洒落をした教授が大好きだった。とはいえ、教授が課してくる厳格な規則には反発したようだったが。こうして実習を積んだ時期、トムは他にも、トマース・テラン、レオ・ペラッキ、アルセウ・ボッキーノに師事している。

(略)

 北米文化が国を席巻しはじめていた。(略)

トムはアメリカのミュージカル映画が好きだった。映画館から戻ってくると、家族や友人に、映画の歌を歌って聴かせた。

(略)

チェット・ベイカー・シングス』は、トムをはじめ、ボサノヴァ全体に、歌い方を含めて大きな影響を及ぼしたアルバムだ。

作曲の仕方 

 テレーザとの結婚生活で、彼は幸せそのものだった。

(略)

朝は遅くに目を覚まし、午後いっぱいをピアノで仕事しながら過ごす。頭に浮かんだテーマを展開するのだが、その途中でハーモニーに行き詰まることがある。すると彼は、テレーザに助けを求めた。

「テーマはどうだっけ?」

すると、テレーザはメロディーを口ずさみ、教えた。

「こうだったかしら?」

彼は妻の歌に満足し、笑った。

「完璧だ」

 テレーザはやきもきした。メロディーが浮かぶたびに、すぐ紙に書きつけてくれればいいのに。だが、トムにはトムの作曲の仕方があった。曲を作る時には、まずハーモニーから探っていくのだ。メロディーはそのあとで、テーマを集約することになる。その後ようやく、歌詞という「化けもの」にとりかかり、磨きをかけ、最後に全部を紙に書き出すのだ。

 とりとめもなく空想を続けながら、音符や音部記号、あとで展開させるかもしれないテーマなどを、暗号めかして五線譜に書きつづっていることもあった。テレーザが、なにを作っているのかと訊ねると、笑いながらこう答えた。

「ただの『紙の無駄プレリュード』だよ」……

 そして二人して笑うのだった。

 五時になると必ず、ピアノから立ち上がった。伸びをしながら、背中が痛いとこぼし、以前に浜辺で落ちた事故のせいだと言った。

「今日はよく働いた。ビールでリラックスしないとな」

カーネギー・ホールでコンサート

 シドニー・フレイという、出版社の社主でレコード会社のオーナーが、ブラジルへやってきた。(略)

 

コパカバーナの『オー・ボン・グルメ』でヴィニシウス、トム、ジョアン・ジルベルト、オス・カリオカスのショーを見る機会に恵まれ、米国でブラジルの曲を出版しようと思うようになる。そして、大きな賭に出た。一九六二年十一月二十一日、カーネギー・ホールでコンサートをやろうというのだ。

(略)

一方、当時の在ニューヨーク領事ドーラ・ヴァスコンセーロスも、アメリカでのブラジル音楽への関心の高いことに注目し、シドニー・フレイが主催しようとしていたコンサートにブラジル人アーティストを送り込むにあたって、外務省が援助してはどうかと言いはじめた。そこで、出演アーティストに対して、二十二枚の航空券代とホテル宿泊費が、外務省の予算で支払われることになった。

 シドニー・フレイは、コパカバーナ・パラッシ・ホテルで、出演アーティストを招いたカクテル・パーティーを開いた。すると、招待されていないが、自分も出演したいと考えたミュージシャンが続々とやってきた。事態を前に、シドニーは責任を放棄することにした。自費で行くなら、誰が行ってもかまわないと言ったのだ。

(略)

 これに驚いたのはアロイージオ・ヂ・オリヴェイラだ。彼は、ちゃんとリハーサルされた、立派なコンサートを頭に描いていた。しかし、シドニーの思惑は、これだけたくさんのアーティストがいれば、面白い曲も見つかるだろうというところにあった。アロイージオはトムに、ショーはでたらめな構成になりそうだから、君のアメリカでの名声も地に落とされてしまう危険があると忠告した。トムは納得し、行くのをやめることにした。ましてや、キューバ・ミサイル危機のせいで米ソの緊張が高まっていた時期だ。(略)

とはいえ、トムに対する圧力は強かった。友人の作家フェルナンド・サビーノは、ニューヨークへ行かなかったら、君は永遠に「無教養で未発達なブラジル人」の烙印を押されてしまうぞと言った。ヴィニシウスは、ウィスキー片手に一晩中、自分の共作者を説得しようと試みた。

 そして、十一月二十一日。朝早く、学校へ行こうとしていたパウリーニョは、父親がパジャマ姿でテラスに黙座しているのを見た。息子に声すらかけない。子どもは妙に思った。

 しばらくすると、外務省からマーリオ・ヂアス・コスタ大使が電話をかけてきた。トムは、ニューヨークへは行かない、コンサートは構成も定かでなく、リハーサルもしていないような代物だからと言った。この船は、乗れば必ず沈む、と。すると大使はトムに、政府が援助したのは、君の作品によるところが大きいのだとうち明けた。そのトムが行かないのなら、これは侮辱と言えるだろうと。

「乗れば沈む船だと言うが、君は船長なのだからな。船が沈むとしたら、君、アントニオ・カルロス・ジョビンも潔く、その名誉を腕に抱いて一緒に沈みたまえ」

 トムは大使のドラマチックな懇請を受け入れた。

(略)

直感に従わないアーティストは創造の道を失うことを、彼は知っていた。空港へ飛ばしたタクシーの中で、彼はそれを考えていた。

 パウリーニョが学校から帰宅すると、父親はすでに出発した後だった。

巻末収録の山下洋輔の考察「なぜジョビンはジャズの影響を否定したか」

等身大の栄光 山下洋輔 

[大方のジャズミュージシャン同様、アントニオ・カルロス・ジョビンについては一定の距離をおいて見ていたが、94年、死の八ヶ月前のカーネギーホールでのコンサートでの共同記者会見で同席]

ジョビンには当然ながら、あなたの音楽とジャズとの関係について、という質問が飛んだ。

(略)

「ジャズは知らない。私は私の音楽をやってきただけです」

 彼はこういう意味のことを言ったのだ。これには記者たちも納得しなかったらしく、さらに何度も同じ趣旨の質問がなされた。そのたびに彼は、非常に困った表情になりながら「関係ない。よく知らない。私はブラジルの、自分の音楽をやっているだけだ」という答に終始した。とうとう、ヴァーヴを代表して司会をしていたリチャード・サイデルがそばにやってきて、耳もとで「スタン・ゲッツとのレコードのことを話してください」とアドヴァイスをするという、一種の異常事態になった。それでもジョビンは、顔をしかめたままで、ことさらそのことを強調するような答えはしなかった。そのレコードが他ならぬヴァーヴレーベルで作られており、これがアントニオ・カルロス・ジョビンの存在を全世界に知らしめた最初の機会だったということは誰でも知っている。思わず顔を見た。すると、その顔は本当に困惑しているのだった。

 これは何だろう。この人はどうしてこのように言い張るのか。こういう催しなのだから、ちょっと一言リップサービスをしてもいいではないかと思った。しかし同時に、彼のまるで子供が困ったときのような表情を見て、この人は本当のことを言っているのだ、これは彼自身の強い確信なのだと思わざるを得なかった。とはいえ、彼がジャズから全然影響を受けなかったはずはないという音楽上の感触がぼくにはある。

 なぜ彼はそう言い張るのか。

 強い印象を持って翌日を迎えた。自分の出番を終えたぼくは、ジョビンの演奏を見ようと、PA席の横に行った。ジョビンは一人で出てきてピアノに座り、「イパネマの娘」を語り弾きした。世界中に広まったその自分の曲を、作って三十年以上経った今、満員のカーネギーホールの客の前で響かせている。なんのてらいも特別な工夫もない。ただその人がそこにいてその人の音楽をやっている。若い時に見たイパネマの光景はその通りの詩の内容で今もこの人の中にある。ただ長い時間だけが経っている。その過ぎたすべての時間に起きた出来事が音となって立ちのぼってくるようだった。何物にも代えられない自分の世界だった。

 異様な感動をおぼえた。

(略)

[63年、セロニアス・モンクジェリー・マリガンがジョビンのアルバムに賛辞を寄せたのは、フリー・ジャズやマイルスへの反発からだった] 

モンクの「ニューヨークのインテリたちの音楽ジャズに欠けていたものをもたらした。すなわち、リズム、スウィング、ラテンの情熱」という言葉であり、マリガンの「ボサノヴァのハーモニーは完璧で、音楽は高度に洗練されている」という言葉なのだ。

 この年以後、なによりも「イパネマの娘」のシングル版のヒットによって、ジョビンの音楽は世界に知られる。といってジョビンがジャズシーンに参入しようとした形跡はない。むしろジャズミュージシャンがジョビンの音楽に侵入するのだ。

 ジャズミュージシャンになるかならないかについてのジョビンの端的な言葉がある。

 

「僕がジャズをやろうとしたら、そりゃ間抜け以外のなにものでもなくなる。彼らの国のその辺の〈ラパの黒ちゃん〉(ラパはリオの伝統的な地区)の方が僕よりずっとうまくやるだろうからね。」

 

 これはつまり、自分がジャズをやっても、アメリカのスラムにいる黒人たちのやるものにかないっこないという認識だ。冷徹な自己観察というべきだろう。

 一九七四年に行われたジーン・リース(本書にも出て来るジョビンの曲の英訳に力を貸した評論家)とのインタビューの中にも、ジャズに関して色々な言葉が出てくる。

 

「ジャズ、特にリアルジャズにはほとんど近寄らなかった。聴いていたのはビッグバンドだ」

ボサノヴァアメリカジャズのコピーだという人がいるが、そうだったら誰も面白がらなかった筈だ」

「あのハーモニーはジャズのものだというが、同じものがすでにドビュッシーにある。ナインス・コードもイレブンス、サーティーンスの音もアメリカ人の発明だとはいえない」

「なんども理不尽な偏見に出会った。私がナインス・コードを弾くと、皆が〈見ろよ、トムがビバップをやっているぜ〉と言うのだ」

「スイングするものは、黒人と白人の要素がミックスされた地域、すなわちアメリカ、キューバ、ブラジルにある」

「ラテンジャズ、ブラジルジャズと命名しても、意味はない。こういうカテゴリーからブラジルを解放することが必要なのだ」

 

 このインタビューへの前説にリースは「ジョビンは晩年、ジャズの影響を矮小化する傾向があった」と書いている。どこか残念そうなニュアンスにも聞こえる。

(略)

翌年、ヴァーヴは追悼の三枚組のCDアルバムを出すが、それに膨大なブックレットがつけられた。これが先ほどから何度も引用しているものなのだが、このブックレットには全体を通じてある傾向が感じられる。それは、ジョビンの音楽がいかにジャズと関係があったかという主張の正当化だ。まるで、「あの時ジョビンはあんなことを言ったけど、本当はそうじゃないんだよな」と悔しがる関係者が、一堂に会して作り上げた復讐の書という様相さえ呈する。その内容は次のようだ。

 

 あの時、司会者として最後まで思うような答えを引き出せなかったリチャード・サイデルは、編曲家のオスカール・カストロ・ネヴィスを引っ張りだしてインタビューしている。その中でネヴィスは、すでに一九五〇年代後半には、ジョビンがブラジルのメロディにコード進行の感覚を加えていたことを述べている。

 そして、「アメリカのジャズがジョビンに多くの影響を与えたと思うか?」という誘導的質問に対しては、「アメリカのジャズとフランスのハーモニーだろう」と答え、さらに「ガーシュインコール・ポーターは?」という質問には、「それらも当時ブラジルでは注目される存在だった」と言い、続けて、彼らは当時のウエストコースト・ジャズのレコードを聴いていたこと、チェット・ベイカーのソフトな歌や、ジュリー・ロンドンの歌のバックでのバーニー・ケッセルのギターコードを勉強したことなどを述べている。ただし、ネヴィスはジョビンよりも十三歳年下の世代であり、そこでいう「彼ら(原文 We)」の中にジョビンがいつもいたのかどうかはさだかでない。

 スタン・ゲッツが最初にジョビンの曲をレコードにしたことについてのブラジル人の反応について聞かれると「喜んだと思う。アメリカ人がブラジルの曲をやるのはあまりないことだからね」さらに、「うるさい人たちはあれはブラジルの音楽じゃないというだろうが、その通りで、ブレンドなんだ。自分にとっては、聴いて育ったアメリカの音楽の中にブラジル音楽が根を下ろすのを見るのは嬉しい。長年の輪が閉じた感じだ。あれから音楽のボーダーがなくなり、よりよい交流が始まったと思う」と態度が一貫している。こういう言葉をあの時にジョビンに言ってもらいたかったわけだ。

 そのスタン・ゲッツのアルバムを作った辣腕プロデューサー、クリード・テイラージーン・リースがインタビューしている。冒頭に「デサフィナード」を初めてチャーリー・バードから聴かされた時の印象などがあり、次のような会話になる。リズムよりもむしろメロディに魅せられたと言うテイラーが、「デサフィナード」のメロディを口ずさんで、「これはどうなっているんだと思った」と言う。するとリースが、

「あのフラット・ファイブのことですね」

「その通り。あれをジョビンがどこから持ってきたか知ってるか」

「どこです」

ビバップだよ」

 テイラーは一刀両断に決めつけている。「デサフィナード」の冒頭では、コードが二度セブンになったときにメロディが主調の音階の五度のシャープにくる。従ってコードとの関係はフラット・ファイブになる。そのことを言っているのだが、ビバップ以前にもまったく同じものが、エリントンの「テイク・ジ・A・トレーン」に出てくる。このへんおかまいなく決めつけているのは、なにがなんでもジョビンの音楽をモダンジャズのハーモニーと結びつけたいからなのだ。

(略)

 他に音楽については、ジョビンの間の取り方はチェット・ベイカーマイルス・デイビスギル・エヴァンスに似ていると言い、最後に決め手のように、クロード・ソーンヒルのバンドのボサノヴァへの影響力に触れる。そして、このソーンヒルというピアニストのタッチがジョビンに似ているとまで示唆する。

 ここでボサノヴァがジャズの影響を受けて成立したとする説をおおざっぱに紹介すると、一九五〇年代にアメリカ西海岸にはウエストコースト派と呼ばれる白人中心のジャズがあった。中心人物は、トランペットのチェット・ベイカーバリトンサックスのジェリー・マリガン、サックスとフルートのバド・シャンク、アルトサックスのリー・コニッツなどで、彼らは後に「クール」と呼ばれるようになる比較的静かで知的なジャズを演奏していた。ジャズのレコードのなかで、これらの音楽を録音したレーベルだけがブラジルで聴くことが可能だったせいで、ブラジルの音楽家志望の人々の一部が手本にした。前述のバーニー・ケッセルのレコードもそうで、これらのモダンジャズのハーモニー感覚がブラジルのリズム感と結びついてボサノヴァの誕生に影響を与えたというものだ。ジェリー・マリガンギル・エヴァンスリー・コニッツたちはクロード・ソーンヒルのバンドにいたことがあり、このバンドの特長であった静かなリリシズムを自分たちでもやろうと意図したという。だから、そもそもの大もとがソーンヒルバンドということになるという論旨だ。

 このブックレットには、他にもジャズの影響を受けたというブラジル人ミュージシャンたちの証言が続々と紹介されていて、まさにそれは、ジョビンの言葉への反証を集めているかのようだ。

(略)

[98年、ボサノヴァ誕生四十周年]に関連して日本で編まれた一冊の本がある。そのなかに次のような文章があった。

 まず前段に、ブラジルでは今ではボサノヴァと呼ばれる音楽は衰退しているが、アメリカではジャズを中心とした音楽家たちが、これを現在でも大事に見守っているという説明があり「これまで四十年間、ジャズはボサノヴァを変わらず大切に見守って来たのである。ボサノヴァにとってジャズはあこがれの存在で、厳しいが優しいところもある叔父さんというところだろう」とする。そして、「そもそもこの間口の広さ、ジャズのフィールドの奥深さが、ボサノヴァを現在のような存在にした。一九六〇年代初頭、リオデジャネイロの薄暗いバーやナイトクラブで見つけ出し、ちゃんと着るものを着せ、英語も少し教え、小遣いを与えて、ボサノヴァアメリカに連れ帰ったのである」

 ここでは、まさにジャズ優位のボサノヴァ史観が確立している。勿論、本当のことが含まれてはいるだろう。しかし、ここまでこうしてアントニオ・カルロス・ジョビンのことを考えきたぼくは、こういう言い方に非常に違和感を覚えた。この瞬間ぼくは、ジョビンがなぜジャズの恩恵を述べないかの理由が分かったような気がした。四十年の間に、徐々にこうした考え方が普通になっていったのだとすると、それを敏感に感じ取る芸術家の心に「そうではない」という感情と確信が芽生えていくのは当然のことだったのではないか。

(略)

彼がその音楽を最初に創ったのであり、そこに勝手にジャズの方がやってきたのだ。ジャズの人々は燦然と輝く天才の音をブラジルに発見して、夢中になったのだ。「デサフィナード」や「ワンノート・サンバ」はジャズから見て、似てはいるが決して同じではない、尋常でない音楽だった。ある意味で飛び抜けていた。その音楽に、ジョビンの言葉通り、アメリカのジャズミュージシャンたちが惹かれたのだ。ジョビンは自分の曲がジャズミュージシャンに演奏されるについて、何一つ働きかけをしていない。連中が勝手に持っていって、勝手に録音し、勝手に大金を儲けた。これが発端ではないのか。 

 あのようなジャズ優位史観が認知されていくにつれ、「そうではない」という気持ちがジョビンの中に湧き上がってきたのは当然だった。最初の共演アルバム「ゲッツ/ジルベルト」での出会いからして、スタン・ゲッツジョアン・ジルベルトは肌が合わず、間にたってジョビンが調停したという話は本書にもある。

(略)

スタン・ゲッツがどういう態度で彼らに接していたのか、その一例となるエピソードをジーン・リースが書いている。あのセッションでアストラッド・ジルベルトが飛び入りで「イパネマの娘」を歌った話は有名だが、その報酬はどうなったか。無論飛び入りだから、その場では何も支払われない。しかし、レコードになった以後は、アーティスト印税が発生して彼女は莫大な報酬を得られる可能性があった。しかし、そのことを言い出すマネジャーを持っていない。

 レコードがヒットした後のある日、ゲッツがテイラーに電話してきてアストラッドのことを話したいと言った。てっきり、アストラッドにも印税が入るようにしろという話かと思ったら、逆で、彼女には何も払うなという確認だった。自分で主張しなければならないタフな業界とはいえ、すごい話だ。こういうことがジョビンたちに伝わらないわけがない。

(略)

一方では、故郷のブラジルに帰ると、今度はブラジルの魂を売った式の非難が待っていたりもするのだ。どこにもやり場のない怒りと悲しみと諦めをジョビンは背負ったと思う。まさにこれがサウダーヂというものだろうか。ジョビンはとうとうこんなことを言い出す。

 

「僕の作品の八割は、ボサノヴァとはなんの関係もないものだ」

 

 前述したブラジルでのコンサートの為にジョビンの曲と向き合ったぼくにはそのことがよく分かる気がする。

「メウ・アミーゴ・ハダメス」はバッハイデオムの曲だが、分散和音で弾かれるコードの最高音が常にサンバのリズムを奏でているという実に不思議なものだし、「バラに降る雨」は変拍子の挿入と、ジャズでは説明のつかないハーモニーと共に、フォーレの「夢のあと」のような美しい旋律に独特の内声の動きが呼応する。「サーフボード」は、確信犯的一拍半フレーズの連続使用で極限までリズム感が試され、「ストーン・フラワー」はジャズに影響を受けたかのような出だしだが、バイヨン系のリズムにのって曲は次々と違う場面に進み、書かれたものをそのまま追うだけで、ものすごいスイング感が出現する完璧な構成を持っている。「フェリシダーヂ」も聴きやすい曲だが、コード進行は普通ではなく、実は非常にアドリブしにくい曲なのだ。また、出だしの六度のメロディーのコードを六度マイナーで始めるのは「アメリカ人の間違い」で本当は一度のコードで弾かなければならない。そうジョビンが言っていたとマウリシオが教えてくれたが、この感覚を真に理解するのは、ブラジルの感覚をもったギタリストでないと難しいだろう。ちなみにマウリシオは「バラに降る雨」のイントロで、E7コードの時に、Eをルートにして上にA♭のメジャー・トライアードを弾いていたが、これは普通のジャズ理論では理解不能な音だ。

 これらはほんの一例だが、ほとんどのジョビンの曲は、揺るぎない構成と置き換えのきかない独特かつ厳密なハーモニー構造をもっている。それらの曲が、世界に認知されたポップス音楽としてのあの「ボサノヴァ」という言葉で簡単にくくられるとしたら、それに違和感を感じるのは当然のことなのだ。

 しかし、ボサノヴァが上陸後すぐにアメリカで定着していくという現象はその通りなのだった。何年か前にスタンフォード大学に留学した知人が、ジャズのコースを受講した時に、ある先生は、ジャズの基本的な形式として、「ストレート」、「ブルース」、そして「ボッサ」の三つをあげたという。もはやリズムの一形式ではなく、ジャズの一形式として認識されているわけだ。そういう意味では大事にされていると言えるだろう。

(略)

 八章一四六ページにゲーリー・マクファーランドと言う名前が出て来る。これは米国留学中だった渡辺貞夫が一九六五年に在籍していたバンドのリーダーなのだ。

(略)

マクファーランド自身がジョビンも参加した「ソフト・サンバ」というアルバムをヒットさせていて、全米に九週間のツアーが実現した。その為のオーディションだった。渡辺貞夫はテナーサックスとフルートをやることを承知して参加した。最初は正直言って「まいったな。かったるいな」という印象だったという。オリジナルもあったが映画音楽からビートルズまでのレンジの広いレパートリーをボサノヴァのリズムでやるのだ。しかし、マクファーランドの暖かい人柄やギターのガボール・ザボの友情に触れてこれをまっとうする。

 ツアーの途中のサンフランシスコでセルジオ・メンデスを生で聴いた。興味を持ち、そのレコードを買うときについでにという感じでジョビンも買った。その音楽には心がなごみ、久々に歌を感じ、ツアーの孤独な心が癒される気がした。

 その年の暮れに帰国した渡辺貞夫は、その足で日本の若手がやっているライブハウスに現れて、嵐のように吹きまる。我々は歓喜した。翌年一九六六年にはセッションバンドを作り、出来たばかりの新宿の「ピットイン」に登場する。この時に、バリバリにジャズをやるための戦略として、一方でマクファーランド方式のボサノヴァを演奏する時間を取り入れた。そのバンドの一員だったぼくは、ここではじめて本格的にジョビンの曲に出会うことになる。リードシートに書かれたそれらの曲のコードワークは、繊細、複雑で、第一感はビル・エヴァンスそのものだった。これをこなすには大変な努力が必要だった。同じバンドにいたドラムの富樫雅彦によれば、そのリズムは「サンバ・カンサォンだと思った。ほとんど同じもので、それに誰かが勝手にボサノヴァという別名をつけたのだろう」という印象になる。

 これがジャズミュージシャンによる日本での最初のボサノヴァの演奏だったかもしれない。ジョビンたちのニューヨーク上陸から実際には三年ちょっとだと思うと、今になって不思議な感慨がある。

 もっとも、日本のポピュラー界ではすで六二年の暮れに、梓みちよによって「ボサノバ娘」というレコードが作られていたという。新しいラテンリズムだというポピュラー界からの注目は、プレスリーにも「ボサ・ノヴァ・ベイビー」という曲を歌わせるほどだった。

 「ピットイン」での演奏は、毎回客席はあふれるばかりの満員だった。そして、いわば息抜きの為にやる音楽が、このように高度な構造を持っていることにぼく自身は驚愕していた。それがアメリカからもたらされたボサノヴァという音楽の印象だった。これはすでにジョビンの手を離れた、アメリカ育ちの音楽なのだが、このように高度に音楽的になりうる要素を埋め込んだのは、ジョビンを含むボサノヴァ創始者たちのオリジナルの力にちがいない。

(略)

どのようにしてこういう人間が出来たのか、何故、そういうことをなし得たのか、その男は日頃何を食べ、誰とどんな話をしていたのか、どのような生い立ちだったのか。生まれる前からの出来事を含むすべてが本書に語られている。

 肉親でなければ書けない日常生活がある。

(略)

 イパネマで路面電車にのり、ファベーラで童貞を失う少年ジョビン。好物のイワシをつまむ指先。バーや自宅での友人たち。さまよいこむ大自然。降り注ぐ暖かい雨。勝手気ままと優しさの同居。いらだちと安堵。家庭生活の破綻。降霊祈禱。親戚たち。森の保存。鳥たち。釣り。食事。飲み物。好物。卓越した自然観察者。ここにあるのは、決してブラジルという居場所を失わない、等身大の兄と妹の姿だ。

 その行間のすべてから、なぜあのカーネギーホールでの記者会見で、アントニオ・カルロス・ジョビンがあのように言わなければならなかったのかが理解出来る気がする。

(略)

アメリカ流に変えられていく自分の音楽に、作曲者なのに印税を払ってもらえなかった現実に、あるいは前述したジャズの優位性をとなえる雰囲気などなどに直面して、やがて彼はアメリカに対して、ジャズに対して、徐々に違和感を抱いていったのではないだろうか。これが、エコロジーへの生まれながらの関心と共に、アメリカが象徴する現代の世界のありかたへの批判にもっながっていくのは、彼にとってはまったく自然のことだった。

(略)

あの時、隣の席で、アメリカに対してジャズに対してはっきりと言い張った男の姿は、この本を読み終わった今、さらにくっきりとぼくの記憶に残る。

 

イギリス近代の中世主義 マイケル・アレクサンダー

「ゴシック」と「中世」

 一八三〇年代に歴史家は Gothic(ゴシック)という語に代わってmedieval(中世の)という語を使い始めた。「ゴシック」はそれまで「中世の」とほぼ同じ意味を伝えていたのだが、野蛮と不合理性という否定的な連想が働くようになっていたのだ。(略)

時代を表わす語としての「ゴシック」は、やがて建築のみに限定されるようになり、すでに見たとおり、「ゴシック・リヴァイヴァル」は建築様式の復活を意味するようになった。以前は「ゴシック」に付随していた否定の意味合いの幾分かが「中世の」という語に転移し、ジャーナリストたちは、あたかも近代の西洋文明には集団的残虐行為が存在しないかのように、この語を野蛮なものを表わすためにしばしば使用している。しかし、これは言っておくべきだろう。一八三七年のヴィクトリア女王の即位以来、教養ある人々は中世に対して、単純で無差別的な嫌悪をほとんど感じたことがないと。なにより、イングランド自体が中世に、教会、君主政治、法律と議会、病院、大学、司教座聖堂とともに登場したのだから。

(略)

 「中世の」という語の前に使われていた「ゴシック」はまた、ホラー小説やファンタジー作品を表わす名称でもある。一七六四年のクリスマスに刊行されたホレス・ウォルポールの『オトラント城奇譚』に続いて、このジャンルは文学の地下室に、床をきしませつつ入ってきたのだった。ウォルポールが始めた試みは、ラドクリフ夫人、「修道士」ルイス、ウィリアム・ベックフォードによって開拓されてひとつの流行となり、ジェーン・オースティンに嘲笑された。

(略)

この扇情的なゴシック小説の形式は、再興させる必要がないほど現在でも人気がある。(略)

このゴシック的娯楽というジャンルは、ホレス・ウォルポールとその後継者たちが、封建時代の圧政者によって城内に幽閉された美しく若い女性に降りかかる、言いようのない恐怖を想像することから得ていた喜びを、もっとあからさまにしたものだ。

(略)

「中世主義・趣味」という語は一八四四年が初出であり、やはり、修道制との関連で使われた。一八五四年にラスキンは建築に関する講演のなかで、「そういうわけで、三つの時代があるということになる。ローマ帝国の崩壊まで続く古典時代。その崩壊から十五世紀が終わるまでの中世。そして近代である」と述べている。

(略)

フランチェスコ・ペトラルカはラテン語詩『アフリカ』をつぎのように結んでいる。「この忘却の眠りは永遠に続くことはない。暗黒が取り払われるとき、われらの子孫は再び以前のような純粋な輝きのなかに現われることになる」。これはしばしば「ルネサンス」を予言するものと理解されているが、ラスキンが、一八五三年に中世趣味について講義していたときには、ルネサンスはまだ新しい概念だった。

エドマンド・バークフランス革命省察』 

 「騎士道の時代が過ぎ去り、詭弁家、倹約家、計算高い人の時代が続いた。そして、ヨーロッパの栄光は永遠に消え去ったのだ」。修辞的クライマックスの始まりを告げるこの詠嘆は、エドマンド・バークの『フランス革命省察』のなかで、最も記憶に残るものだ。ウィリアム・ピット (小ピット)のトーリー政権下で、野党ホイッグの党首だったバークは、イギリスのインド政策を雄弁に批判して名をあげた。彼の政治思想家としての原則は、専制政治を立憲的に抑制することだった。それはイギリスであれ、ジョージ三世の帝国內のインドやアメリカや彼の母国のアイルランドであれ、同じことだった。バークがフランス革命をただちに(『省察』は一七九○年に刊行された)非難したので、トマス・ジェファソン、啓蒙知識人、そして同じ党内の急進派は衝撃を受けた。革命が起こった一七八九年にイギリスの急進派と非国教徒がしばしば主張した、フランス革命と一六八八年の「名誉」革命は似ているという見解を、彼はきっぱりと否定してみせた。一六八八年の立憲的決着は、国王大権を制限する議会の権利を確立し、大内乱の結果を、一八三二年の第一次選挙法改正法まで、大きく変化しないような形で固定させようとするものだった。フランス革命が起こったとき、イングランドは、一七四五年に小僭称者チャールズ・スチュアートがダービーから退却して以来、ずっと続いていた平和を享受していたのである。

 フランス革命による興奮と、当初イギリス人が示した革命を歓迎する気持ちの大部分は、一七九二年には消えてなくなっていた。その年に起こった恐怖政治によって、フランス国王と教会によるアンシャン・レジームを支持する何百人という人々が、ギロチンにかけられたのだ。アメリカ独立革命の擁護者であり、自らも独立戦争に参加したトマス・ペインは、バークの『フランス革命省察』に『人間の権利』で答えた。これは、フランスで起こった第二の革命の過激な平等主義に賛同する議論である。ペインはパリで革命委員会に参加し、国王の処刑に反対したため、ギロチンにかけられそうになった。監獄に入れられていたほぼ一年の間に、バークの「騎士道の時代」とは対照的な題の『理性の時代』を書いた。一七九三年に、革命推進派は国王、続いて王妃を処刑、その後さらに、革命に反対する一万七千名の人々の命を奪った。恐怖政が引き起こした事件のせいで、バークの先見の明が、まさに予言者のものであるように思われた。王妃の処刑は、ヨーロッパから騎士道の時代が過ぎ去ったという、彼の主張を思い起こさせたのだった。

(略)

 イギリス社会をだんだんとより文明化していった騎士道と相互の寛容は、放棄されてはならないと、バークは固く心に決めていた。騎士道とは、もともと第一回十字軍時代の騎士の理想的行動規範であり、常日頃の行動を表わすというより、そうありたいという願望だったのだ。それはさまざまな形を取った。熱烈なキリスト教信仰を示す騎士修道会が設立され、叙事詩とロマンスには、勇ましい行ないを褒め称えるもの、戦争とともに愛を褒め称えるものが出現し、霊的なロマンスも現われた。

ロマンス 

 十八世紀には、ロマンスは中世という世界を見せてくれる文学ジャンルだと考えられていた。ロマンスは時代の遠さと不可思議さによって、近代の常識や、デフォー、リチャードソン、フィールディング、スモーレットの「下品な」写実主義とは一線を画していた。実際には、ロマンスは特に中世のものというわけではない。ギリシア文学の黎明期、『オデュッセイア』はロマンスで満ちており、後期ギリシア文学の散文ロマンスも残っている。(略)

人間の奥深い望みが実現するというジャンルは永遠だからだ。写実主義は小説の新しさの一部だったが、フィクションの写実主義はもはや新しいとは言えず、すでにピークは過ぎたのかもしれない。ロマンスは現在、小説よりも人気がある。

(略)

中世の大学では、学問の位階において論理学が修辞学の上に位置付けられていた。修辞学には世俗文学も含まれており、世俗文学は神学者の間では品位がまったくなく、俗語で書かれている場合には、なおさらそうだった。聖職者の知識人は、ロマンスをしばしば軽蔑して一蹴したのである。

フランス革命で出戻った聖職者

 革命が内包していた進歩主義には、戦闘的な反聖職者主義の側面があり、フランスの聖職者は大挙して亡命したのである。およそ七千人がイングランドへと向かい、一時は千人のフランス人教区司祭が、一七九二年にイギリス政府が彼らのために徴用したウィンチェスターのキングズハウスに暮らしていた。修道会の所有する財産は没収され、「新体制」のナポレオン軍がヨーロッパ全体に進軍するにつれて、男子修道院と女子修道院は閉鎖された。だから、革命が起こるとまもなく、フランスとフランドルにいたイングランド人修道会員も母国に帰った。そういうわけで、革命がもたらしたひとつの結果として、十六世紀にイングランドを追われ、大陸にイングランド系の修道院を設立していた修道会の会員が、一七九〇年代にまたも追われて、海峡を越えて戻ってきた。

(略)

男子修道会は大陸で行なっていたように、カトリック教育を提供し続けた。これはイングランドでは、一五五九年から一七七八年まで、厳しい罰則付きで禁じられていたことだ。数年後に彼らは、ダウンサイドやアンプルフォースなどで学校を再び設立した。

歴史と物語

 一九七〇年代に、歴史と物語を区別する正当性が、フランスのポスト構造主義者によって否定された。彼らは表現における言語の首位性と言語の不確定性を主張した。イギリスの大学ではこうした否定が、哲学科では言語・文学科に比べて、まともに受け取られなかった。歴史を物語の一形式として再分類するために言語学の理論を使うことは、知識の可能性と言語の限界に関して古くから存在する懐疑主義の新たな表われだ。もちろん実際には、思弁的なところのほとんどない、ただ史実を究明しようとする歴史家であっても、歴史を書くすべての試みは真理の一表現にすぎないと、少なくとも執筆者以外の歴史家からは見なされることを、よく承知しているものだ。逆に、歴史に最も無知な理論的懐疑主義者は、歴史的事実、たとえば一九四〇年にドイツがフランスを敗北させた事実の真実性に、実際には依拠してしまう。

 英語には、同じ語根に由来する二つの言葉、history「歴史」と story「物語」がある。historia は他の専門用語と同じように、ローマ人によって取り入れられたギリシア語である。この語は二度、英語のなかに入った。最初は estoire として英仏海峡を渡り、十三世紀に story「物語」という語を生み出した。「歴史」のほうは、十五世紀にラテン語から入り、徐々に、歴史上の出来事と本当に関連する、という意味を獲得し、それまで、これら二つの意味をともに含んでいた「物語」は、「逸話、娯楽、フィクション」を表わす言葉になった。myth「神話」、legend「伝説」という語にもまた、同じような意味上の分裂がある。歴史は今では、過去の出来事の記録に基づく一貫した物語と考えられている。学術的な歴史は、実証的な証拠に基づいている。口承であれ書かれたものであれ、ストーリーは純然たる物語で、作り話であっても実際の出来事と何らかの関連があってもよい。このように、英語には事実と作り話を指す、別々の言葉がある。しかし、ロマンス諸語では、historia に由来する言葉には、現在も両方の側面がある。イタリア語のstoria、フランス語の histoire は、事実と作り話の両方を意味し得るのだ。

 信頼できる歴史の知識が得られるというのが、古典のような名声もなくキリスト教的価値も疑わしい文献に関心を向ける、十八世紀の学者たちの弁明だった。ハード主教が、「出来事は作り事、残りは歴史」というケイリュスのご託宣に従って、ロマンスは「事実と風俗」について証拠を与えてくれる、と考えていたことが想起されよう。ウォルター・スコットは自身の歴史もののロマンスについて、そのように理解していたかもしれない。しかし、スコット以後、文献が想像的なものと非想像的なものに分かれていくにつれて、歴史が中世復興に果たす役割は、徐々に減っていった。『ウェイヴァリー』の著者の後期の小説は、書けば書くほど歴史的ではなくなった。

(略)

多くの詩人はテニスンの後を追って、アーサー王伝説の魔法の世界に入った。韻文ロマンスに代わり、歴史的に正しいとは言えないマロリーの散文が、詩人と画家の主題の究極的な典拠になった。中世文学はもはや、そこから得られる社会史の情報ではなく、伝説の世界へと開く魔法の窓として評価されるようになったのだ。

ウィリアム・モリスエドワード・バーン=ジョーンズ 

 ラファエル前派の第二世代とも言うべき画家を代表するウィリアム・モリスエドワード・バーン=ジョーンズは、それぞれ別の目標に向かって専心した。つまり、社会改革と夢のような美の追求である。モリスは、同時代の多くの人々が考えていたのと違って建築家でも詩人でもなかったし、絵を描き続けもしなかった。むしろ、さまざまな事業に注いだ情熱、モリス商会が生み出した商品の全体によって、イギリスのデザインに、家屋の建築、家具の制作、印刷という応用芸術に、そして特に壁紙と生地のような装飾芸術に、広範で永続的影響を与えたのだ。

(略)

 PRB[Pre-Raphaelite Brotherhood ラファエル前派]の画家は美術学校で学んだ。モリスとバーン=ジョーンズはオックスフォード大学に進学している。

(略)

バーン = ジョーンズは才能を伸ばし、きわめて豊かな技量をそなえた画家となったが、ロセッティ、ホルマン・ハント、ミレー、マドックス・ブラウンに比べれば、画家兼装飾家という印象である。(略)

バーン = ジョーンズはモリスの重力圏に入ると、神話の虜となった。彼が続けざまに描いた女性の姿、彼がとらせたポーズといでたちの優雅な様式は、顔は無表情なままだがはるかに複雑なものとなっている。彼の美への崇拝が、ロセッティの絵に見られるような、うっとりした、そして見る者をもうっとりさせる表情のいくばくかを、血の気のない白い色調で呼び起こしたのだ。決して自然主義の画家ではなかった彼の画家としての経歴を、後から振り返って見れば、PRBの生の活力が、一八七〇年代に現われた、受動的で美的、象徴的で、ほとんど抽象的な印象の絵画に、どのように変化していったかを説明しているように思われる。

(略)

 美術に特に関心を持たないイングランド人にとっては、モリスとバーン=ジョーンズによって希薄化されたPRBの遺産は、今日、年配のおしゃれな婦人の生活を彩るアクセサリーに現われている。リバティのスカーフ、モリスの壁紙、カーテン、クッションカバー、そしてアーサー・ラッカムの挿絵が入った児童向けのおとぎ話が思い浮かぶだろう。これらのものが現在どれほど勢いを失って見えようとも、消費資本主義という新しい世界が生み出したものであり、その到来がラスキンを不快にさせ、若きPRBの画家たちが猛烈に反対したのもこの世界だったのだ。誰よりも激しく反対し、ますます反対の度を強めていったのは、ウィリアム・モリスだった。確かに、彼の商会はビジネスとして生き残るために、多少は大量生産方式を採用しなければならなかった。商会をギルド組織にする余裕はなかった。社会的関心はモリスにとって、言葉では表現できたが絵ではできなかったものだ。フォード・マドックス・ブラウンにはそれができた。それはたとえば、一八五〇年代に描かれた二枚の絵、『労働』と『イングランドの秋の午後』を見ればわかる。現在バーミンガム美術館所蔵である後者は、「メッセージ」と言えるものは何も含んでいない。マドックス・ブラウンがカタログに記載したように、この絵には何の変哲もない若い男女が、「ハムステッドから見えるロンドンの景色をそっくりそのまま写したもの」を見下ろしているところが描かれている。ラスキンは、「なぜ君はこのような醜悪な主題を選んだのかね」と尋ねた。「家の裏の窓から見えるからです」というのがその答えだった。マドックス・ブラウンは見たそのままを描いたのだが、それこそはラスキンが要求していたことだった。彼は郊外というものが持つ詩情を描いたイングランド最初の画家かもしれない。これはすべてマドックス・ブラウンの功績だが、PRBの作品に触れなければ達成できなかったことだろう。『イングランドの秋の午後』は、中世復興の種から芽吹いた作品だとは言えない。しかし、主題と様式を高雅なものにするというルネサンスの約束事をまさに拒否したこと、代わりに感覚認識に忠実であろうとする、反アカデミーの原則に依拠することで、PRBは、優雅さに欠ける現代世界が目に見えるように、そして全員ではないにせよ、「生きた世界を十分理解」できるよう、画家を助けたのだ。ラスキンにとっては醜悪で、マドックス・ブラウンにとっては当たり前の風景でも、この絵は今や、半ば田舎、ほとんど牧歌的に見えてしまう。

 都市化したハムステッドは、人物像が小さく混み合うほど描かれている絵である『労働』に記録されている。

(略)

 さて、中世の彩色写本以降初めて、肉体労働がイングランドの絵画に描かれたのだ。このフォード・マドックス・ブラウンの絵には意図がある。田舎ではなく都会のなかでの厳しい労働が、この絵の中央で褒め称えられている。何世代にもわたって、アメリカとロシアの画家も同じようなテーマを生真面目に描いている。ブラウンはこの絵の登場人物について、こう述べている。「掘削するイギリス人労働者……男らしく健康的な美しさに満ちた若い人夫。仕事をこなし、ビールを愛する、強靭な中年人夫。わがままで、年老いた独り者の人夫。一輪車を押し、パイプをくわえたアイルランド人人夫」。彼らは、ハムステッドのヒース・ストリートの歩道を威勢よく掘り返しており、左側を裸足の人物と立派な靴を履いた人が、どうにか通過していく。(略)

右手の柵に寄りかかっている二人は、労働と労働者を信じている。帽子のふちごしに見物人を見ているトマス・カーライルと、より小柄で聖職者の服を着ているF・D・モーリスだ。(略)

『労働』を描き始めたのは一八五二年のことだが、五六年になって、労働という福音の預言者であるカーライルと、新しく労働者学校をロンドンのグレート・オーモンド・ストリートに設立して校長となったモーリスを描き足した。その後ようやく、『労働』は展示された。

(略)

 ラスキンはこの学校で絵の描き方を教えた。ロセッティ、そして彼の後にはフォード・マドックス・ブラウンも教えた。グレート・オーモンド・ストリートでは優れた画家が教えもしたが、大学者も教えている。労働者が英文法を学んだのは、F・J・ファーニヴァルからだ。彼は法廷弁護士で、『新英語辞典』にも関係していた。この辞典は、後にジェームズ・マレーによって編纂され、現在は OED という名で知られる『歴史的原理によるオックスフォード英語辞典』に結実した。

(略)

大部分の教員は、大方の中世復興推進者がそうであったように、キリスト教社会主義に傾いていた。そうではない者は、キリスト教保守主義者だった(ラスキンは自分のことを、「共産主義者、赤も赤、一番の赤」と呼んでいた)。

イエズス会のホプキンズ神父 

 本書の主張は、フランス革命エドマンド・バークやその他の人々に、イギリス人の騎士道ロマンスに対する新たな関心を突然、より真剣なものに変化させる省察をもたらしたこと、また、スコットの散文と韻文による「歴史」が、人々に広く受け入れられたために、この展開が強化され一般にも浸透したということだ。しかしながら、ナポレオンが敗北した後、中世復興を押し進めることになったのは、産業革命とその社会的影響だった。ディズレリが言った二つの国民、つまり豊かな人々と貧しい人々をどうすべきか、何ができるのか。コベット、ピュージン、ディズレリ、カーライル、ラスキンは、中世から学ぶものがあるはずだと考えた。しかし、ディズレリが提起した問題にどのように対処するかについては、他の人々と同様、中世主義者たちも意見が分かれた。「ホメロスウォルター・スコット卿の派関に所属する保守主義者」であるラスキンの後継者たちの多く、とりわけモリスは社会主義者だった。労働に関して、キリスト教の教えに従い、人間の尊厳の重視を信条とした多くのヴィクトリア時代人にとって、イングランドの工場労働者の厳しい状況は、心が痛む問題だった。そうした人々のうちには、ギャスケル夫人の夫がそうだったように、工場地帯の教区の聖職者もいた。本章の締めくくりとして、ジェラード・マンリー・ホプキンズの例を考察しておこう。

(略)

ダブリンでイエズス会のホプキンズ神父は、「[家族、故国イングランド、そして神からも]切り離された」と感じ、一八八九年に腸チフスに罹って他界した。ニューマンもそうだが、ホプキンズはカトリック教会を使徒たちの教会の有機的継続体と考えていた。彼の社会の見方も同様に有機的かつ幻視的だったが、平等主義的ではなかった。一八七一年八月二日のロバート・ブリッジズ宛の手紙は、この問題に対する彼の態度を示している。

 

近く何か大きな革命が起こるのではないだろうか。口にするのも恐ろしいことだが、ある意味、僕は共産主義者なのだ[ホプキンズは脚注をつけて、「赤になる理由は塵ほどもない。最近、わがイエズス会の神父を五人も殺したのは、共産党パリ・コミューン(一八七〇年のパリ)なのだから」と述べている]。いくつかの点を除けば、彼らの理想は、僕が知っているどの現世的政治家が表明するものより高貴だ.…それにそれは公明正大だ。――と言っても、それを達成しようとする手段がそうだという意味ではないけれど。それにしても、とても豊かな国家の大多数の人々、最も必要とされる人々が、あふれるような豊かさを作り出しておきながら、彼ら自身は、尊厳も、知識も、慰めも、喜びも、希望もなく、つらい人生を送らなければならないとは、恐ろしいことだ。彼らは公言している。何を破壊しようが燃やそうが知ったことじゃない、古い文明と秩序は葬り去られなければならない、と。これは恐ろしい見通しだが、古い文明が彼らのために何をしてくれたと言うのか。現在のイングランドの実情を見れば、多分に、破壊の上に成り立っている。しかし、彼らは戦利品を何も受け取っていない。そのときもその後も、得たのは損害だけなのだ。イングランドはきわめて豊かになったが、その富は労働者階級には届いていない。彼らの置かれている状況は、むしろ悪化したのではないだろうか。このような不正な体制の傍らに、古い文明はもうひとつの秩序を具体化している。つまり大部分は古く、新しいものですら古いもの、古い宗教、学問、法律、芸術などの、そして現存する記念碑に保存されているすべての歴史の、直接の帰結である秩序だ。しかし、労働者階級は教育を受けてはいないから、このようなことについては、ほぼ何も知らないし、破壊することを気に掛けるなどと、当てにすることはできないのだ……。

ラスキンビアズリー

 ラスキンは労働を信じ、労働はただの義務ではなく聖なるものだと考えていた。彼はまた、聖なるものは美しいとも信じていた。端的に言えば、一八五〇年以降の中世主義の歴史は徐々に、労働を聖なるものと考える人々、美のなかに聖性を見出す人々、そして聖性の美を求める人々に分かれていった。ラスキンの後、モリスが最初の見解、つまり労働の聖性の旗手となった。労働は美よりもずっと偉大だという彼の確信は、社会主義のための政治活動がますます増えていったことに表われている。それでも彼は、休まず美術の活動を続けていた。モリスの死後、その支持者たちは労働組合運動、労働党、そして(一八七七年にモリスが設立した)古建築保存協会に、そして後にはアーツ・アンド・クラフツ運動に参加し、ハムステッドに居を構えた。

(略)

 一八九〇年代に、耽美的な人々と宗教的な人々との壁が崩壊するという注目すべき事態が、デカダン派として知られるグループで起こった。

(略)

唯美主義のデカダン派は中世主義者ではなかったが、そのうちで最も才能豊かな画家のオーブリー・ビアズリーは、文学作品の挿絵を描くという、ラファエル前派の主要な伝統を引き継いだ。最初の仕事は、ヴィクトリア時代の中世復興にとって最も重要な作品の挿絵を描くことだった。バーン=ジョーンズの例に刺激を受けて彼が挿絵の仕事に踏み込んだきっかけは、マロリーの『アーサー王の死』の新版に挿絵を描いてほしいという、ジョゼフ・デントからの依頼だった。(略)

デントによる精巧なアール・ヌーヴォー風の『アーサー王の死』のために、ビアズリーはたちまち三五一枚を超えるデザイン画を制作した。

(略)

ビアズリーがつぎに取り組んだ注目に値する挿絵は、一八九四年のオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の英訳版で、それは『アーサー王の死』とほとんど変わらず、中世的な作品だ。ビアズリーの挿画は最初から、西洋の初期印刷本の影響と同じくらい日本の版画の影響を受けていた。彼は自分自身の特徴的な描き方を、短期間にしかも明らかに洗練させた。リヒャルト・ワーグナーの熱狂的ファンだったビアズリーは、ワーグナーが一八四五年に、中世の伝統に基づいて作った『タンホイザー』の物語を自分でも書いた。

(略)

 オーブリー・ビアズリーによって、ある種の中世趣味のなかにあるエロティックな可能性が、不道徳にせよ表現されたところまで来ると、終着点にたどり着いたという感がしないでもない。ところが、中世趣味は十九世紀を超えて生き延びた。それは現代世界に同化した形で、その一部として残っている。しかしながら、ギルバートの嘲笑的な扱いや、ビアズリーの芸術を形成しているのが様式と理想の戯画化であることを見ると、やはり中世趣味の主要部分は危機を迎えていたのではないかと思わされ、この表現様式のライフサイクルをもう一度振り返って見るよう促されるのだ。

G・K・チェスタトン

 セント・ポール校を卒業した後、チェスタトンは美術学校に進んだが、絵筆の代わりにペンを取ることになった。多才でよどみなく書くことができた彼は、エッセイ、コラム、論争の書、ロマンス、短篇小説、詩を書いた。(略)

チェスタトンは生来、血気盛んで希望にあふれていた。しかし、『異端者の群れ』(一九○五年)では、よく考えもせずに技術の進歩に依存している、社会の楽観主義を嘲笑した。それでは自分自身の信じるところを述べてみよ、と批判された彼は、一九〇八年に『正統とは何か』を書いて、その要求に応えた。彼は、あふれるような同情心と、ディケンズ論やブラウニング論に明らかな、個々の人間に対する関心とを合体させ、キリスト教に基づく理想的社会像を作り上げた。一九一一年には『ブラウン神父の童心』が出版された。チェスタトンの民主的で自由主義的な天性は、結局、聖書的な社会正義の基準を特徴とする経済学と結び付いた。このような原則は、教皇レオ十三世が一八九一年に出した回勅『レールム・ノヴァールム』(「新しきことについて」)で、産業労働者の抑圧に対して適用されたものだ。このキリスト教の社会教説は、資本主義でも社会主義でもなく、また独占と金権政治は非難しているが私有財産は非難していない。チェスタトンが論じるのは、私有財産の所有はできるだけ広く行き渡るべきだということだ。(略)

 中世的ヴィジョンがチェスタトンによって、ピュージン以後初めてカトリック信仰と結び付けられた。ピュージンは自らの作品を示し、デザインは道徳的に社会と関連すると宣言することで、イングランドのデザインを一変させた。彼が主張した「真の原則」は、何世代にもわたって建築に影響を及ぼした。チェスタトンのほうは、空想的であることを十分承知のうえで、広く大衆一般に訴えた。彼はペンを使えば、ピュージンがデザイナーとして鉛筆を使うのと同じほど巧みで、アイディアがつぎからつぎに浮かび、素晴らしく回転の速い頭脳、広い関心と批評眼を備えた多彩な人物だった。中世を扱った著作をいくつか書き、そのなかにはトマス・アクィナスアッシジのフランチェスコに関する論考、そして依然として価値を失ってはいない、チョーサーのキリスト教的喜劇を称賛する本がある。彼はジャーナリズムに寄稿して、アクィナスに由来する原理を解き明かし、一九二二年にイングランド教会から口ーマ・カトリック教会に転会した。チェスタトンは、エドワード時代華やかなりし頃から一九三六年の死に至るまで、さまざまな話題で大衆を楽しませた。

二十世紀のキリスト教世界

 一九一八年以降、中世は万能の装飾様式とはならず、芸術的主題の宝庫としての機能も果たさなくなった。もはや駅舎、銀行の社屋、織物、壁紙に使われていた、戦前のようではなくなったのだ。

(略)

歴史的感覚が高まったことで中世復興が可能になったのだが、歴史の知識がさらに増えたために、適切な対象に限定されるようになったのだ。中世の様式はますます、中世風の本の印刷、時代物の挿画、教会芸術、ステンドグラス、看護婦のユニフォーム、戦争記念碑などに限定して使われるようになった。適否の基準は、倫理的というより歴史的なものである。ゴシック建築の教会は、中世の時代からそうだったように、建設され、完成し、修復もなされた。一九一八年以降に成人となった作家、画家は、中世の様式は中世の主題について使うという原則に従った。本章では、イングランドでは一九二七年頃に終わった盛期モダニズム以降の、文学上の中世主義の盛衰を追うことにしたい。

(略)

 モダニスト詩人が政治的にますます保守化したことは、これまでも指摘されている。イェイツ、パウンド、エリオットは、大衆民主政治のもとでは、彼らのような芸術に将来はないと考えていた。

(略)

政治は、両大戦間時代の世界を分断し、民主主義国家は経済的崩壊、失業、インフレーションに見舞われ、独裁制が生じて世論は先鋭化した。英語で執筆するモダニスト作家では、ロレンス、ジョーンズ(ジョイスは違う)をはじめ多くは右翼に、オーデンと彼の同世代人の大部分(ウォーは別)は左翼へと向かった。一九三〇年代には、多くの人が後にひた隠すことになる政治的見解を持つようになった。W・B・イェイツの言葉がしばしば引用される。「最も優れた人々は皆確信を欠き、最悪の者たちは/恐ろしく熱い気持ちに満たされている」。モダニストのなかには、多くは一時的だったものの、ファシズムに惑わされる者が現われた。パウンドは一九二四年以来イタリアに住み、ムッソリーニを称賛して止まなかった。

(略)

若者の幾人かはスペインに赴き、共和制支持者を支援した。内戦によって熱狂から覚めると、多くは社会民主主義者に戻った。オーデンがバルセロナに到着したとき、教会が共和主義者によって閉鎖されてしまっていることに気付いた。後に彼は記している。「驚いたことに、これを知ったとき、ひどい衝撃を受け、心の平安を失ったのです。この感覚は、たとえ教会に行くというようなばかげたことであっても、人々が好きなことをするのをやめさせるのは間違っているという、リベラルな感情から不寛容を嫌ったせいにしては強過ぎました。私が十六年間、教会をどれほど意識的に無視し、拒絶してきたにせよ、教会の存在と、そこで行なわれていたことが、ずっと私にとってきわめて重要だったことを、認めざるを得なかったのです」と。ヒトラーは悪であると、なぜそれほど強く確信するのか、という問いに答えようとして、彼は自身が育まれたキリスト教信仰へと立ち返った。

トールキンとルイス

 ウォーとジョーンズは、イギリス現代生活の主潮に根本的に対抗する、ジョン・ラスキンのものにも似た中世復興の理想を抱き続けていた。オックスフォード大学の中世英語・文学の学者だったJ・R・R・トールキンとC・S・ルイスもまた、やり方は違っていたが同じだった。トールキンは古英語の教授で、ルイスは中世後期のロマンス研究の権威だった。ルイスは後に、ケンブリッジ大学最初の中世・ルネサンス文学講座の教授となる。どちらも自身の研究分野で多大な学術的貢献をなした。イギリスの学者で、古英語の詩においてトールキンの右に出る者はいなかったが、彼はほとんど出版していない。対照的にルイスは、鋭敏な頭脳と強気な性格の持ち主だった。一次資料を記憶する、ずば抜けた能力を持つ古典主義者だった彼は、広い研究分野を素早く理解した。その明晰さと辛辣さ(彼は北アイルランドのアルスター出身だった)のおかげで平易に語ることができ、講義もうまく一般の人々に作品を知らしめることができる優れた学者だった。彼はその時代の最も人気のあるキリスト教の護教家で論争家だった。トールキンとルイスの第二の文学的名声は、創作によるものだ。ルイスの物語は空想的あるいは未来的であり、トールキンの物語は人間、少年、淑女、小妖精、トロール、そして彼自身が創作したオークとホビットが住む、想像上の北の大地を舞台とする。トールキン自らが描いた挿絵入りの本は、自分の子供たちのために考え出されたもので、一般の読者のためではなかった。ルイスのほうは、一般の子供たちのために活発に本を書き続けた。どちらの場合も、物語の書き方と素材は、彼らの専門分野である中世文学と民話・妖精物語の知識に直接依拠している。彼らはロマンス作家だったのだ。

訳者あとがき

 著者の着眼点と問題意識は、「序論」の冒頭で紹介されている、ロンドンで起こった二つの火災のエピソードに明確である。ひとつは一六六六年のセントポール大聖堂、もうひとつは一八三四年の国会議事堂の焼失である。前者はクリストファー・レンの設計による古典様式で再建されたのに対して、後者はゴシック様式で、しかも「国民様式」という名目でバリーとピュージンによって設計、再建されたのであった。著者はこの間に重要な文化的変化が起こったとし、これを特定し、その影響を現代まで時系列的に追求している。当然のことながら、中世主義は中世の現象ではなく、近・現代の知識人が中世をどのように受容したか、中世の持つ意味、価値をめぐる思想文化現象である。「中世」は、近代においてもっとも影響力の強い国家となったイギリスに、過去の亡霊のように立ち現われたのではない。

 「中世主義」という重要な文化現象が起こった理由としては、十八世紀啓蒙の再評価の結果、イギリスの国民国家体制がプロテスタンティズムを国是にすることによって長らく拒否してきたカトリック・ヨーロッパ中世を、冷静に評価しようとする動きが生まれたこと、フランス革命とその後のナポレオンとの戦争によって、いわばフランス的「近代主義」を反面教師に、イギリスの君主政治、身分制など、中世に起源を持つ社会の枠組みの再評価が起こったこと、さらには十九世紀に顕著になった産業革命の悪影響を批判するための対抗軸として、中世が積極評価されたことがあげられよう。中世復興は過去をそのまま復元しようとするのではなく、社会の現状を打破しようとするモーメントを常に孕んでいた。近代社会の諸問題を解決しようとする際に、中世に一種の理想型を見出そうとする動きがあったのである。近代システムの騎手であったイギリスにおいて、近代化の流れに抗する思想文化運動の流れ――その意味で反近代主義と呼んでもよい――である「中世主義」について知ることは、産業化、都市化、非人間化といったまさに過近代の諸問題に直面している日本人にとっても大きな意味を持つだろう。

(略)

著者はこうした一大文化運動の諸相を分析し、中世主義はヴィクトリア時代に限定されるという従来のイメージを正し、中世主義が現実逃避的であるという疑念を払拭している。

 もうひとつさらに重要な特徴として訳者が特筆しておきたいのは、著者のカトリック的視点である。これまでの中世主義の評価・批評は、歴史的経緯からどうしてもプロテスタントの国教会、すなわち体制側からの中世包摂の試みという性格が否めなかった。中世主義への寄与と影響力の大きさから常に重視されるウォルター・スコット自身、カトリック教会に対してかなり強い偏見を抱いていた。確かに中世主義自体が体制側の富裕知識人層の文化であったという面はある。近代と中世の間に宗教改革による断裂を認めず、キリスト教信仰の一貫性こそを認めようとするアングロ・カトリシズムの立場が誕生するのも、そうした表われのひとつだ。アレクサンダー氏ははっきりと、ピュージンの功績がラスキン、モリスらに不当に無視されたことに言及し、ウェストミンスター宮殿に関する著作を編集したデイヴィッド・キャナダイン教授の見解に反論している。カトリック者としての著者の、体制文化側からではない視点は高く評価されるべきだと考える。

(略)

 イギリスの大学にはSCR(シニア・コモン・ルームの略)という部屋がある。「イレヴンジズ」と呼ばれる十一時や午後四時頃のティータイムに降りていくと、「今何を読んでいるか」(「何を研究しているか」の意)と始まって互いに知的な会話をかわすことになる。これがコレッジという共同体の生活なのだ。コモン・ルームとは、何についても誰かしら恐ろしく知識豊富な人と出会う、まさに知識と知識愛が共有(コモン)される空間なのである。昨今の日本の大学では、このような自分の専門外の人と交流する機会が極度に減ったという印象がある。本書には圧倒的な知識が盛られており、どのページから読み始めても何らかの新しい示唆を受ける。あたかもコモン・ルームでコーヒー片手に話を聞く雰囲気なのである。一例をあげれば、訳者はかねがね、モリスがキリスト教中世を評価するのはわかるが、なぜあれほどアイスランドを愛し、北欧神話にひかれたのか、と疑問に思ってきたのだが、「アイスランドは、人間が住み始めて以来、農民による民主政治が行なわれ、年に一度国会が開催されている、モリスにとっては理想社会の実例だった」(二五四頁)という説明を読むと、なるほどそうかと納得させられるのである。

 

おバカな答えもAIしてる 人工知能はどうやって学習しているのか?

おバカな答えもAIしてる 人工知能はどうやって学習しているのか?

おバカな答えもAIしてる 人工知能はどうやって学習しているのか?

 

バイアスの含まれる学習データ

男性っぽい名前が書かれた履歴書のほうが、女性っぽい名前やマイノリティっぽい名前が書かれた履歴書よりも、面接までこぎ着ける可能性が高くなる。

(略)

 ある問題を解決するためのAIを設計していたつもりなのに、知らず知らずのうちにまったく別の問題を解決するようトレーニングしてしまった結果、お粗末なAIプログラムや有害なAIプログラムを設計してしまうケースは意外に多いのだ。

[トレーニング・データの腫瘍の隣に、大きさがわかるよう定規が並べてあったため]

 定規を皮膚がんと認識するようになったAIを覚えているだろうか?健康な細胞とがん細胞の細かなちがいを見分けるのはたいへんなので、AIはずるをして、写真のなかに定規を探すほうがよっぽど手っ取り早いと気づいたのだった。

 求職者を審査するAIに、バイアスの含まれる学習データを与えれば(略)“最良”な候補者の予測精度を高める便利な近道をAIに与えてしまうことになる。白人の優遇だ。そのほうが候補者の言葉遣いの微妙なニュアンスを分析するよりもずっと簡単なのだ。

臨機応変な対応ができない

彼らが避けようとしたバイアスのひとつは、視覚的プライミング効果と呼ばれるものだった。どういうことかというと、ある画像について質問する人間は、答えが「はい」になるような質問をする傾向がある。トラが見当たらない画像について「トラはいますか?」とたずねる人はめったにない。その結果、そうしたデータに基づいてトレーニングを受けたAIは、ほとんどの質問に対する答えが「はい」だと学習してしまう。あるケースでは(略)「○○はいますか?」という質問に「はい」と答えれば、87%の確率で正解することに気づいた。

(略)

 Visual Chatbotのもっとも面白いクセのひとつは、キリンが何頭いるかとたずねられると、どういうわけかほとんど毎回、1頭以上の数を答えるというものだ。会議中の人々の写真とか、波に乗っているサーファーの写真については、比較的正確に答えられるのだが、キリンの数についてたずねられたとたん、馬脚を現わしてしまう。ほぼどんな画像についても、なぜかキリンが1頭や4頭、ひどいときには「数えきれないほどたくさん」いると答えるのだ。

 その原因は? データセットの収集中に質問をした人間は、正解がゼロなのに、「キリンは何頭いますか?」とたずねることがめったになかった。それもそのはずだ。ふつうの会話では、キリンが1頭もいないことがわかりきっているのに、突然キリンの数をたずねたりはしない。その結果、Visual Chatbotは、礼儀正しい人間どうしの一般的な会話に対しては対応する準備ができていたが、いもしないキリンの数をたずねてくる変わった人間にうまく対応する準備はできていなかった。

 ふつうの人間どうしのふつうの会話に基づいてトレーニングされると、AIは臨機応変な対応ができなくなる。Visual Chatbotに青いリンゴを見せ、「このリンゴは何色?」という質問をすると、「赤」や「黄色」のようなふつうのリンゴの色が返ってくる。Visual Chatbotは、物体の色の認識方法を学習する代わりに(これは厄介な作業だ)、「このリンゴは何色?」という質問への答えが十中八九「赤」であるという事実を学んだわけだ。

(略)

Visual Chatbotは、写真が明らかに白黒ではないのに、「○○は何色?」という質問に対して、「白黒なのでわかりません」と答えるテクニックを身につけた。「女性の帽子は何色?」とかいう質問に、「女性の足が見えないのでわかりません」と答えることもある。混乱のもっともらしい言い訳を並べるのだが、完全に文脈をまちがえている。ただし、Visual Chatbotが全般的な困惑を表わすことは絶対にない。学習材料となった人間が困惑していなかったからだ。『スター・ウォーズ』に登場する球体ロボットBB-8の写真を見せると、Visual Chatbotは犬だと断言し、それが犬だという前提で質問に答えはじめる。つまり、知ったかぶりをするわけだ。

AIは言われたとおりのことをする

 前に、競馬の儲けを最大化するニューラル・ネットワークを構築しようとしたことがある。そうしてわかった最善の戦略は……いっさい賭けないことだったんだ。

(略)

ロボットを壁に衝突しないよう進化させようとしたら……

1) ロボットは身動きひとつしないよう進化し、確かに壁に衝突しなくなった

2)そこで移動の機能を追加すると、ロボットはその場をぐるぐる回転しはじめた

3)そこで横方向の移動の機能を追加すると、ロボットは小さな円を描きはじめた

4)以下同様、

いちばんラクな局所最適解を探す悪魔

AIはそれで人間の望みどおりに問題が解決するかどうかなんておかまいなしに、何がなんでもその目標を達成しようと突き進む。

 この問題に関して、AIを扱うプログラマーたちは今や達観の域にまで達している。 

 「AIは人間の設定した報酬をわざと曲解し、いちばんラクな局所最適解を探そうとする悪魔なのだと思うようにしている。

(略)

仮想的なロボット犬に歩行のトレーニングを行うと、犬たちは地面を這いつくばったり、後ろ脚を十字に組んだまま奇妙な腕立て伏せを行ったり、挙げ句の果てにはシミュレーション世界の物理法則をハッキングして空中浮遊したりした。

(略)

 クリスピンのロボットは、歩行だけはどうしてもしようとしてくれなかった。そこで、彼は報酬関数を見直し、その場で足踏みするのを禁止するための「タップダンス・ペナルティ」や、いわゆる空中浮遊の問題を防ぐための「接地ボーナス」を導入した。すると、ロボット犬は地面をしっちゃかめっちゃかに走り回りはじめた。続いて、彼は体を地面から離すことへの報酬を設けた。ロボット犬がお尻を空中に持ち上げたまま足を引きずって歩くようになると、こんどは体を水平に保つことへの報酬を設けた。後ろ脚を十字に組んだまま歩くのを防ぐため[……、と延々いたちごっこが続いた。]

禁じ手を平気で使う

 そのアルゴリズムは、テトリスをプレイしはじめると、画面の最上段近くまでめちゃくちゃにブロックを積み上げていった(略)。そして、あと1個ブロックを置くとゲームオーバーになることに気づくと、あろうことかポーズ・ボタンを押し、そこでゲームを永久久に停止させた。

 実際、機械学習アルゴリズムは、人間がはっきりと禁止しないかぎり、「悪いことが起こらないようにゲームを停止する」「面のいちばん最初の安全な場所にとどまりつづける」「2面で死なないように1面の最後でわざと死ぬ」といった禁じ手を平気で使う。まるでなんでも言葉どおりに受け取る子どもがゲームをプレイしているみたいだ。ライフをなるべく温存するよう教えられなければ、AIは死ぬのが悪いことだと理解できない。

(略)

ある研究者がトレーニングしたスーパーマリオAIは、1 - 2面まで順調にクリアしたのだが、1-3面が始まるとすぐに穴に飛びこみ、命を失った。なぜか? そのプログラマーは考えた末、こう結論づけた。命を落とさないようはっきりと教えられていなかったそのAIは、自分が悪いことをしたとは思ってもいなかった。死ぬとその面のスタート地点まで戻されるのだが、死んだ地点はスタート地点からそう離れていなかったので、死んで何が悪いのかわからなかったのだが。 

YouTubeの報酬関数の欠陥

 YouTubeは、ユーザーにオススメの動画を提案するAIの報酬関数に何度も改良を重ねてきた。2012年、YouTubeは従来のアルゴリズムに問題が見つかったと報告した。従来のアルゴリズムはとにかく再生回数を最大化することを目指していたので、コンテンツの制作者たちは、人々が実際に見たくなる動画ではなく、魅力的なプレビュー用のサムネイル画像をつくることばかりに躍起になった。たとえ動画がプレビューの内容とちがうことに気づき、視聴者がすぐに去っていったとしても、再生は再生だ。そこでYouTubeは、より長く視聴してもらえる動画が提案されるよう、アルゴリズムの報酬関数を改良すると発表した。

(略)

ところが、2018年、YouTubeの新しい報酬関数にも問題が発覚した。実は、視聴時間が長ければ長いほど、視聴者が提案された動画に満足しているとはかぎらない。むしろ、ショックや怒りのせいで、動画から目を離せなくなっているケースが多かったのだ。 YouTubeアルゴリズムは、不快な動画、陰謀説の動画、ヘイト動画をますます提案するようになっていた。

人間から学習するアルゴリズムもバイアスからは逃れられない 

アルゴリズムは最適な判断を教えてくれるわけではなくて、人間の行動を予測することを学んでいるだけだ。人間にはバイアスがあるので、人間がバイアスを見つけて除去しようと細心の注意を払わないかぎり、人間から学習するアルゴリズムもバイアスからは逃れられない。

 AIを使って実世界の問題を解決するときは、AIが予測しようとしている内容によくよく注意しなければならない。予測的警備(predictive policing)と呼ばれるアルゴリズムは、過去の警察の記録を調べ、将来的に犯罪が記録される場所とタイミングを予測しようとする。このアルゴリズムがある地域での犯罪発生を予測したら、警察は犯罪を未然に防ぐため、または少なくとも犯罪発生時にすぐ駆けつけられるようにするため、その地域に派遣する警官を増やすことができる。ただし、このアルゴリズムが予測しているのは、もっとも多くの犯罪が発生する場所ではなく、もっとも多くの犯罪が発見される場所だ。特定の地域に多くの警官が派遣されれば、警備の手薄な地域よりも多くの犯罪が発見されるのは当然だろう。事件を目撃したり、職務質問したりする警官が増えるわけだから。そして、ある地域で発見される犯罪が増えると、警察はもっと多くの警官をそこへ派遣するかもしれない。この問題は過剰警備と呼ばれ、犯罪の報告数がうなぎのぼりに増えていくという一種のフィードバック・ループを引き起こすことがある。犯罪の報告のしかたになんらかの人種差別がからんでいる場合、問題はいっそう複雑になる。警察が特定の人種の人々を優先的に職務質問または逮捕すれば、その地域は過剰警備の状態に陥るだろう。ここに予測的警備アルゴリズムが加わると、問題は悪化する一方かもしれない。特に、AIのトレーニングに使われたデータに、警察が逮捕ノルマを満たすために無実の人々の家にドラッグを忍ばせたりした記録が含まれていたとしたら、それこそ大問題だ。

データセット汚染により、AIに敵対的攻撃をしかける 

マサチューセッツ工科大学(MIT)の学生からなるAI研究グループLabSixの研究者たちは、ニューラル・ネットワークの内部接続に通じていなくても、敵対的攻撃を設計できるということを発見した。試行錯誤の手法を使えば、アルゴリズムの下す最終判断だけがわかっていて、試行の回数が制限されているとしても(この場合は10万回)、ニューラル・ネットワークを欺くことができる。彼らは画像を操作するだけで、Googleの画像認識ツールをだまし、スキーヤーの写真を犬の写真と思いこませることに成功した。

 いったいどうやって?彼らは犬の写真から始めて、AIが犬だと認識している度合いに影響を及ぼさないように注意をしながら、一部のピクセルスキーヤーの写真のピクセルへとひとつずつ置き換えていった。人間が同じことをされれば、一定の時点を過ぎたところで、犬の写真にスキーヤーの写真が重なっているように感じるだろう。しばらくして、ほとんどのピクセルが変更されると、人間の目にはスキーヤーだけが見え、犬はまったく見えなくなる。ところが、驚いたことに、人間なら一目でスキーヤーの写真だと思うくらい多くのピクセルが置き換えられたあとでも、AIはまだそれを犬の写真だと信じて疑わなかった。AIは一部の決定的なピクセルだけに基づいて判断を下していたようだ。人間にはそのピクセルの役割はうかがい知ることはできないけれど……。(略)

 では、だれにもアルゴリズムをいじらせたり、コードを見せたりしなければ、あなたのアルゴリズムを確実に敵対的攻撃から守れるのだろうか?そんなことはない。実は、アルゴリズムのトレーニング材料となったデータセットさえわかっていれば、やっぱり攻撃は不可能ではないのだ。これから説明するように、こうした潜在的脆弱性は、医療画像認識や指紋スキャンなどへの実用化の際に浮き彫りとなる。

 いちばんの問題は、フリーで使えて、画像認識アルゴリズムのトレーニングに使えるほど巨大な画像データセットというのが、世界でも数えるほどしかなく、現実問題として多くの企業や研究グループが共通のものを利用しているという点だ。これらのデータセットにはそれぞれ問題がある。たとえば、ImageNetには126種類の犬の画像があるけれど、ウマやキリンの画像はないし、人間はほとんどが白人だ。でも、フリーなので重宝されている。あるAIを標的にして設計された敵対的攻撃は、たぶん同じ画像データセットから学習したほかのAIにも有効だろう。重要なのは、AIの細かい設計方法ではなく、むしろトレーニング・データのようだ。つまり、あなたのAIのコード自体を秘匿しておいたとしても、十分な時間とコストをかけて自分専用のデータセットを構築しないかぎり、ハッカーがあなたのAIをだます敵対的攻撃を設計できる可能性は残っているわけだ。

 公開のデータセットを汚染させることにより、独自の敵対的攻撃をしかけることもできるかもしれない。たとえば、マルウェア対策AIのトレーニングのため、人々からマルウェアのサンプルを募っている公開データセットがある。しかし、2018年に発表された論文によると、ハッカーがこうしたマルウェア・データセットに一定量(データセットのわずか30%を破損させるのに十分な量)のサンプルを提出すれば、そのデータセットに基づいてトレーニングされたAIを破綻させる敵対的攻撃を設計できるのだという。

 アルゴリズム自体の設計よりもトレーニング・データのほうがアルゴリズムの成功にとってずっと重要な理由はよくわかっていない。

「マスター指紋」 

 もうひとつ、敵対的攻撃の影響を特に受けやすい分野は、指紋の読み取りだ。ニューヨーク大学タンドン工科校とミシガン州立大学のチームは、敵対的攻撃を使って「マスター指紋」と呼ばれるものを設計できることを証明した。このたったひとつのマスター指紋は、ある低セキュリティの指紋リーダーにおいて、指紋全体の77%になりすますことができた。また、高セキュリティの指紋リーダーや、ほかのデータセットでトレーニングされた市販の指紋リーダーなど、当時の大部分を占める指紋リーダーもだますことができた。おまけに、ノイズやゆがみを含むほかのなりすまし画像とはちがって、マスター指紋はごくふつうの指紋のように見えるので、なりすましを検出するのが難しかった。

当たり前のものを見落とす

水玉模様のあるヒツジや、側面にトラクターの絵が描かれたヒツジを見たAIは、ヒツジを見たとは報告するけれど、異状を知らせたりはしない。頭がふたつあるヒツジ形の椅子、脚や目玉が多すぎるヒツジを見たとしても、アルゴリズムはただヒツジを見たと報告するだけだ。なぜAIはこうした異状をスルーしてしまうのだろう?

(略)

画像認識アルゴリズムは、めちゃくちゃにシャッフルされた画像を識別するのがとても得意なのだ。たとえば、フラミンゴの画像をいったんバラバラにして適当に並べ直すと、人間にはもはやフラミンゴに見えなくなる。でも、AIは問題なくフラミンゴと認識するかもしれない。目、くちばし、足さえ見えれば、位置関係がめちゃくちゃでも問題ない。AIは特徴どうしの関係性ではなく、特徴そのものを探しているだけなのだ。言い換えれば、こうしたAIはバッグ・オブ・フィーチャーズ・モデル (bag-of-features model)[訳注/画像を局所的な特徴の集合体とみなし、各々の特徴の現われる頻度によって画像を認識する手法]と同じように機能しているということだ。理論上、小さな特徴だけでなく大きな形状を認識できるAIでさえ、単純なバッグ・オブ・フィーチャーズ・モデルのように機能していることが多いようだ。フラミンゴの目が足首にくっついていたり、くちばしが数メートル先に転がったりしていても、AIの目には異状と映らない。

(略)

たとえば、ある研究者グループは、人間の助けをより多く盛りこむことにより、画像認識アルゴリズムのパフォーマンスを改善しようとした。ある写真を「犬」と単純にラベルづけするのではなく、画像内で実際に犬がいる部分を人間がクリックし、特にその部分に着目するようAIをプログラミングしたのだ。(略)

[だが]認識精度はむしろずっと悪くなる。もっと厄介なことに、その正確な理由は定かではない。画像認識アルゴリズムが何を手がかりにして画像を識別するのかがまだよくわかっていないからかもしれないし、画像をクリックした人が、アルゴリズムの用いる犬の認識方法を理解していなくて、実際にアルゴリズムが識別に用いる部分ではなく、自分が重要だと思った部分(目、鼻、口など)をクリックしてしまったからかもしれない。そこで、研究者たちはAI自身が重視している箇所を確かめるため、画像のどの部分を見たときにAIのニューロンが活性化するかを調べてみた。その結果、AIは犬の境界や写真の背景を指し示すことが多かった。

フィードバック・ループ 

とても単純なフィードバック・ループの実例がある。2011年、マイケル・アイゼンという生物学者は、自身の研究室の同僚がネットでショウジョウバエに関する本を購入しようとしたときに、ある怪奇現象に気づいた。その本は絶版ではあったものの、入手困難というほどではなく、Amazonで中古本が35ドル前後で売られていた。ところが、2冊の新品の本には、なんと173万45ドル91セントと219万8177ドル 95セント(プラス3ドル99セントの送料)という値がつけられていた。翌日、アイゼンが再び確認すると、価格は両方とも280万ドル近くまで吊り上がっていた。その後の数日間で、あるパターンが浮かび上がった。朝、安いほうの本を売り出している会社が、高いほうの本の価格のきっかり0.9983倍になるよう値上げする。午後、高いほうの本の価格が、安いほうの本の価格のきっかり1.270589倍まで値上がりする。どうやら、両社ともアルゴリズムを使って本の価格を設定していたようだ。片方の会社は、最安値の状態を保ちつつ、なるべく高い価格をつけたかったのだろう。では、高いほうの価格で本を売っていた会社の動機とはなんだったのか?アイゼンは、その会社のレビューのスコアがとても高かったことから、それをウリにして他社よりもほんの少し高い価格で本を売ろうとしているのではないかと考えた。そして、注文が入ったら、安いほうの会社から本を仕入れて顧客に発送し、差額をポケットに入れるのだろう。1週間近くがたつと、どんどんせり上がっていた価格は通常どおりに戻った。どこかの人間が問題に気づき、訂正したにちがいない。とはいえ、企業はアルゴリズムによる自動的な値づけを年じゅう用いている。わたしもAmazonで塗り絵の本が1冊2999ドルで売られているのをこの目で見たことがある。

 つまり、これらの本の価格は、単純なルールベース・プログラムが生み出したものだった。しかし、機械学習アルゴリズムは、もっと面白く斬新な方法で問題を引き起こすこともある。ある2018年の論文で、こんな事実が証明された。先ほどのAmazonの値づけの例と似たような状況に置かれたふたつの機械学習アルゴリズムが、利益が最大になる価格を設定するという課題を与えられると、非常にずる賢い方法で共謀するようになるというのだ。共謀するよう教えられたり、お互いに示しあわせたりしなくても、お互いの価格を観察するだけで、どういうわけか価格協定を結んでしまう。この現象は、実在の価格シナリオではなく、今のところシミュレーション内でしか実証されていないけれど、オンライン価格の大部分が自律的なAIによって設定されているといわれている昨今、不正な価格協定が広まるのは心配だ。みんなが協力して高値をつければ、利益が上がるので、共謀は売り手にとってはいいことずくめだけれど、消費者にとっては最悪だ。たとえそうしようと思わなくても、売り手が意図的にすれば違法なことをAIにやらせてしまう可能性はある。