キャロル・キング自伝 その4

前回の続き。

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン
 

夫リックのDV

リックは自分の作る曲がメロディアスで、歌詞には世界中が求めるメッセージが込められていると信じて疑わなかった。彼は自分がムーディー・ブルースと同等、あるいは彼ら以上の名声を獲得するにふさわしいシンガーだと確信していたのだ。(略)

 ヨーコとジョンに会って以来、リックはスターになる目標に向かって全速で走り出していた。自身の音楽的素養の不足は弱点とせず、かえって音楽知識に富んだ作曲家やミュージシャンよりも、自分のほうがオリジナリティがあり、それは財産だと受け止めていた。彼が自由なチューニングで弾く未熟なギター・プレイを、ジョニ・ミッチェルの創意に富んだチューニング奏法と比較して、彼女が成功したのだから自分も成功するに違いない、との見解を示した。彼がスターへの道を追求するということは、遠回しに、私の作曲やレコーディングにより深く関わりたいと言っているのだった。彼は私の作曲パートナーとして曲のアイデアを言葉にし、私にそれを曲に仕上げてくれることを期待した。そして私は応じた。

(略)

私はリックに恋していて、彼の包囲網が私を締めつけていることに気づかなかったのだ。網がこんがらがって、脱出できなくなるまで……。

 これを書くのは本当に辛い。

 私はリック・エヴァースから、身体的虐待を受けていた。しかも一度ではない。何度もだ。

 これを書くのはもっと辛い。

 それでも私は彼の元を離れなかったのだ。

 一目惚れだった熱烈な出会いを経て、私をLAから脱出させてくれる唯一の人間となったリックは、ますます魅力的に映っていった。彼は私を勇気づけるために何でもやってくれた。だが私がリックに頼れば頼るほど、網は狭まっていったのだ。包囲網が狭まれば狭まるほど私は彼に頼る。自分を見失えばその分だけリックを信頼する。私が自分を見つけるには彼の言うことを信じるしかないのだ。それは、私が自らの意志で踏み込んでしまった自滅への悪循環だった。

 最初の虐待のサインは一九七六年初頭、知り合ってわずか三カ月後だった。寝室でたたんだ洗濯物をしまっているところにリックがやって来て、さっきの電話は何だったのかと尋ねる。(略)私は正直に、仕事上のマネージャーのオフィスの人からよ、と答えた。すると何の警告もなく突然、右手の拳で私を殴ったのだ。力いっぱい、まるでボクシング・リングにいるみたいに。

(略)

絨毯の上で顔を押さえて泣く私を見て、リックは一気に崩れ落ちた。自分のやったことに呆然としながら、私を両手で抱え上げ、ベッドの上に座り、私を腕の中に抱きしめた。そしてどうしようもないほど泣きじゃくり、もう二度としないと誓うのだった。「なんてことだ、キャロル、ごめんよごめんよ。君を痛めつけるなんて信じられない、なんてことをしてしまったんだ。ものすごく愛してるんだよ。君を傷つけるつもりじゃなかったんだよ」

 私を殴ったばかりの男は、私以上に泣き崩れていた。彼は口ずさむように、歌い始めた。「ごめんよベイビー、ごめんよ、本当に。もう二度としないから。絶対に、二度としないから。ものすごく愛してるんだ。償うためならなんでもするよ。約束する。もう二度と、決して、君を傷つけたりしないから」

 愚かな私は、それを信じてしまったのだ。

 その後の数カ月はリックの素行も良く、優しくて思いやりがあり、愛情に溢れ寛大だった。次の虐待までは。それは前と同じように、何の警告もなく突然やってきた。前回同様、私たちは寝室にいた。私はまったく当たり障りのないことを言ったのに、バン!と殴られ、再び床に倒れ込んだ。だが今度はショックを受けるよりも怒りが上回った。

「どうしてそんなことをするの?」

[前回同様泣いて許しを請う夫]

彼はタオルに氷を包んで持ってきて、私の顔にそっと当てた。(略)

「見て、彼はこんなに愛情いっぱいに私の世話をしてくれる。水を持ってきてくれるなんて優しい人。後悔しているのよ。もう二度とやらない、と言っているし」

(略)

あの当時の自分に共感することはとてもできない。だが、それは間違いなく私だった。

(略)

男に頼り、操られることで危険な虐待関係に足を踏み入れてしまった女だった。相手の男はあまりに愛情に飢えて感受性が間違った方向に向いていたため、女の不安を直感的に感じとり、女を楽器のように“演奏”することができたのだ。

(略)

それは、自分の信じるものを手放したくなかった女だ。(略)

私は、彼が優しいときを正常の状態だと思い、虐待するときを例外と思い込んでいた。

(略)

彼は私の友人から否定されて多くのプレッシャーに苛まれている、私を奪ったことでみんなが彼を恨んでいる、女のほうが稼ぎが良いと男は辛い、彼は絶対に子供達の前では手を上げない。

 いくらでも言い訳は立った。だがどれ一つとして、それでも彼のそばに居続ける私の行動を、正当化するものはなかった。

 一九七六年、リックは、二人の関係は平和で愛と喜びと幸せに満ちているのだと思い直すにちょうどいい期間を空けて、バン!と殴る、それを繰り返した。何が引き金になるのか分からなかった。リックのスター街道が思うように開けないからだろう。私が注目されすぎるからだろう。女友達との電話が彼には長すぎたからだろう

(略)

私はまったく合理的に考えることができなかった。完全に自分を見失っていた。比較的自信に溢れた女性だったはずだが、そんな自分はどこかに消滅していた。

(略)

なぜその男と一緒にいるの?(略)私は、その答えを探すより質問を無視して、虐待者に発散させる場を与え続けたのだ。

(略)

リックはそのひねくれた感受性で、どこまでなら私の心をつなぎとめておけるか正確に分かっていたのだ。もし子供達に意地悪なことを言ったら、即座に私を失うことも分かっていた。だから絶対に子供達に悪さはしない。

(略)

私は虐待の繰り返される空間を作る共犯者でもあった。そもそも私がリックにここまで傾倒していったのは、彼の虐待を否定する才能があったから。(略)

虐待は、私たちの本当の関係を描いたものではないのよ、と言わんばかりに。彼の元を離れたくないがために、彼が惨めな思いで謝るたびに二人の間の精神的拘束は強くなっていた。

(略)

彼が永遠の愛と献身を明言すると、私はキスされて償われることに感謝し、彼の言うことを何でも信じようと思うのだ。それは、危険だが、魔力をもった力学だった。一瞬どん底に落とされて無力になるが、次の瞬間、すべてのパワーが自分のものになるのだ。

(略)

 リックと付き合うまでは、このような虐待関係に自分が身を置くなど想像もできなかった。虐待の被害を受けるのは、教養のない女性や、世慣れしていない女性、金もなく自信もなく、父親や男家族にアルコール中毒や依存症患者をもつ女性、肉体的もしくは性的な虐待を通じて威張り散らすような男に支配される女性だけだと思っていたのだ。私の父はいっさいそんなことはなかったし、それまで付き合ってきた男性も同様だ。私には収入があり、世界的成功を収めた経歴もある。助けを求められる友人や家族はたくさんいる。徹底した安全対策を敷いて、リックの元を去ることもできた。虐待関係に身を置く女性には、常に批判的な姿勢をとってきた。私はいつもこう思っていた――そんな男と一緒になってしまったら、最初に殴られたその瞬間に飛び出している。虐待者のそばにいるなんて、考えられない。……私がその立場になるまでは。

 そんな日々をくぐり抜けながら、私の音楽活動は続いていた。

リック、バンドメンバーを殴る

 一九七六年を通して、リックと私は引き続き行動を共にしていた。スタジオで私がレコーディングしているときはラウンジに座って煙草を吸い、電話をかけていた。食料品店では一緒に陳列棚の通路を歩き、美容室では私がカットしている間、座って読書をし、アルバム『サラブレッド』のプロモーション・ツアーにも同行した。

(略)

残念ながら彼は誰ともうまく折り合っていなかった。(略)

リックの気分や態度が、私の情緒を左右していた一九七六年のツアー。

(略)

中西部でのコンサート会場で、開演まで十分足らずというときに、リックが楽屋で私に怒りを爆発させた。(略)

[ステージに出たが]心の中は、私がステージを終えたときリックがどんな気分でいるのか、と不安が渦巻いていた。

(略)

 二回目のアンコールで激しくロックしたことで[観衆はハイテンション]

ステージを降り、私は再度リックを探したがやはり見当たらない。(略)

[三回目のアンコール、ステージに向かう寸前]

楽屋の方角から騒動が聞こえた。私の脳のすべての神経細胞が、あれはリックだと言っている。

(略)

[葛藤しつつ、ステージに上がり、メンバー登場を待ちながら、ピアノ・ソロで]

イントロを弾き、Aメロを歌い出し、ダニーの登場を待った。

 

 心が落ち込んで気持ちが乱れて、愛の手が欲しいとき……

 

ダニーはまだ現れない。

 

 目を閉じて、私のことを思い浮かべて……

 

 ワディもリーもいない。クラレンスもドイルもボビーも。(略)

一回目のサビで「私の名前を呼ぶだけでいい……」と歌い始めたとき、ラスのブラシが優しく、スネア・ドラムのバック・ビートを刻む音が聴こえた。顔を上げると、ラスはドラム・セットに座り穏やかな笑顔を見せていた。(略)

ステージを降り(略)

私はツアー・スタッフに、リックの居場所を尋ねた。「数分前にこのビルを出て行くのを見ました」(略)

「いい加減にしてくれ!」と、ダニーはルーに怒りを爆発させていた。「明日、飛行機を用意してくれ。そうしたらオレはここから出て行く!」ワディとリーも同じように主張した。(略)

泣きそうにうなだれて私は尋ねた。「何があったの? 誰か私に教えてくれない?」

(略)

ダニーが二度目のアンコールを終えて、拳を突き上げて「今のは最高だったぜ!!と言いながらステージから戻ると、理由も分からず突然リックが殴りかかってきたということだった。

(略)

リーはダニーのそばに残り、その間にワディとラスがリックを押さえつけてトイレへ連れて行った。ダニーが後で補足説明したことによると、「ラスはリックをこてんぱんにしたかったんだ。そうしたらリックが“ごめんなさい、ごめんなさい、どうしてそんなことをやってしまったのか分からない”と言い出したんだ」。ワディとラスがリックを押さえている間に、リーはダニーを連れて楽屋に向かった。アンコールの合図が聞こえたとき、ラスは反省しているリックをワディに預けて、私の待つステージに現れたという訳だ。

(略)

私は深く深く謝罪した。そして「お願いだから、行かないで」とすがった。だが私もまた、リックの行方が分からないことがあまりにも心の負担になっていた。「私、行かなきゃ」(略)

私はリックを探す必要があった。(略)

[ホテルの部屋にいたリックはバンドのメンバーが自分にとった態度がいかに苦痛だったかを語り]

彼がその怒りを暴力で訴えるのを恐れて私は聞き手に回り、哀れみながら頷いて時折「あらあ……」と相槌を打ち、同情した。その夜は、彼の熱弁に耐えねばならなかったものの、虐待はなかった。すべての怒りが発散された後、彼は優しくなり、そしてベッドに入っていった。翌朝、リックは人の話を聞くようになっていた。彼はきちんと謝罪した訳ではないが、ルーやバンドの言うことに頷き、彼らと一定の距離を置くようになった。

 あの夜ラスが、冷静なプロ意識をもって個人的感情を横に置き、私と最後までコンサートをやり遂げるためにステージに来てくれたことは、一生忘れないだろう。

(略)

 数年後、あの夜のことをダニーと話し合ったとき(略)自分たちバンドが帰らなかったのは音楽のため、そして私が心配だったからだ、と断言した。

「お金の問題じゃない。大金を積まれても、嫌なら帰ったよ」

結末

 虐待関係にある女性の最も不可解な点は、その状態から逃げ出さないだけでなく、そこから逃げたいとは思っていないことだ。私はリックの暴力によって身体的、精神的虐待に一年以上も苦しんでいた。一九七七年、すでに何カ月も暴力に苦しんできた私は、もう彼の態度が改善されないことも分かっていたはずだ。彼から逃げるべきだった。逃げることもできた。

 それならなぜ、逃げなかったのか。

 女性には痛みを忘れる力があることは、よく知られている。その能力がなければ、誰も二人目の子供を産もうとは思わない。その能力が私に辛い瞬間を忘れさせ、リックこそが理想の男と思い込ませたのだ。彼が私を殴った後しばらくは、私にすべての権力があるかのような幻想を抱く。しかも、私の夢を手に入れるにはリックの助けが必要だと、固く信じていた。

 LAさえ脱出すれば、リックの怒りの元は消えると楽観視していた。そして確かに(略)ロビー・クリークに私たちにぴったりの土地を見つけたとき、リックはかなり明るくなったのだ。小切手にサインをした日は私もまた有頂天だった。私はアイダホの地主になった。

(略)

 『ウェルカム・ホーム』のミキシング作業に入っている頃、リックは急速にコカイン中毒になっていたのだ。しかも、遊び半分で鼻から吸引しているのではなく、注射針で体内に注入していた。

(略)

 そうとは知らず、自然の中の楽しい生活を中断して生活費を稼ぐために渋々LAに戻っていた私は、リックが顔を出さなくなったスタジオで、自信を取り戻していた。

(略)

『ウェルカム・ホーム』のファイナル・ミックスを完了し[帰宅した](略)

翌朝、私は早くに目を覚ましたが、リックはベッドにいない。(略)

バスルームに入った。そのとき白い床に数滴、濃い赤の血痕があるのに気づいたのだ。ピンと来た。(略)

リックはコカインを摂取していただけでなく、深夜に、子供達が寝ているこの家の中で、注射針で注入していたのだ。

 その瞬間、私は決断を下した。本来は彼に初めて殴られたときに下すべきだった決断を。

(略)

[LAからできるだけ遠くへと子供三人を連れマウイ島へ。数日後]

 リックは、麻薬常習者の溜まり場と思われる場所で、コカイン過剰摂取のため死んでいるのが発見された。

(略)

私は深い喪失感に打ちひしがれていた。それは、リックという男の死ではなく、私が恋に落ちた男への喪失感だった。

(略)

三十六歳で、私は未亡人になった。

ボブ・ディラン

 一九九五年三月三十一日の朝、ローナから電話が入り、ロンドンでボブ・ディランと一緒に作曲したいかと聞かれた。私は次の便でダブリンを発ち、ボブ・ディランの滞在先ホテルへと向かった。ボブとは初対面ではなかったが、作曲という明確な目的の下に集結するのはこれが初めて。ボブの優雅なスイートルームで、彼のギターによる無作為な即興演奏と、私がキーボードで試すいくつかのコード演奏の合間に、二人の共通の友人の話、世界情勢、お互いの子供達、そしてボブと何曲か共作した経験があるジェリー・ゴフィンについても話をした。曲を作るよりも話していた時間のほうが長かったが、数時間後、今日はもう曲が出てこないと結論づけてセッションは終了。私はそれでもまったく構わなかった。音楽的かつ政治的メッセージで一時代を築き、その答えは風に吹かれていった、と歌ったこの知性溢れる男性との会合を私は心底楽しんだのだから。

 お互い有名人としての社会的地位については話題にしなかったが、ボブはどこまでも彼について回る名声を、あまり快く受け止めていない印象を受けた。

(略)

その夜ブリクストン・アカデミーのステージで共演しないかと誘ってくれた。私にもうひと押しする必要があると思ったのか、彼はこう言った。「エルヴィスとクリッシーも出てくれるよ」「もちろんよ」と、気軽に了承したが、内心はボブ・ディランエルヴィス・コステロ、クリッシー・ハインドと同時にステージに立てることに興奮を抑えきれずにいた。

(略)

その夜のボブの演目には「雨の日の女」と「アイ・シャル・ビー・リリースト」が含まれ、クリッシー・ハインドとエルヴィス・コステロと私は両曲でコーラスを担当した。

 ボブも私たちと同じくらい楽しかったに違いない。彼は四月十一日、ダブリンのポイント劇場で行われるツアー最終公演に、私たちを再びステージに呼んでくれたのだ。

(略)

 ボブのダブリン公演で、私は「追憶のハイウェイ61」「イン・ザ・ガーデン」「やせっぽっちのバラッド」でピアノを弾き、「ライク・ア・ローリング・ストーン」「リアル・リアル・ゴーン」「雨の日の女」ではピアノと歌で参加。それからエルヴィス・コステロヴァン・モリソンと一緒に「アイ・シャル・ビー・リリースト」のコーラスをやった。

 

キャロル・キング自伝 その3

前回の続き。

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン
 

ジェイムス・テイラー 

 一九七〇年、私は再び自分で歌詞を書くことに挑戦し始めた。もしかしたら今度こそ、人前で誰かのために演奏する勇気が出るかもしれないと期待して。それまでも家計のため自分で作詞することを考えたが、結婚生活に自信を失った時期の思い出を引っ掻き回すのは辛かった。私はジェリーの才能、豊かな知性、技術、実績に圧倒されて、自分の詞を人に見せるなど絶対にできなかったのだ。書きかけで終わっているものも多い。長い間ジェリーと共作し彼の作品の完成度の高さを知り尽くしている私は、作詞の途中で手を止め「別に書かなくても」と思ってしまうのだ。

 もしかしたら私一人でも作詞できるのかもしれない、と最初にひらめいたのは、トニの曲作りへの好意的なアプローチを見たときだった。次のひらめきは一九七〇年、数年前からの知り合いによってもたらされる。

(略)

 私が二十五歳でまだニュージャージーに住んでいた一九六七年、西四十八番街の音楽ショップでミドル・クラスのリックとチャーリーに出くわした。(略)

「絶対に奴らを見に行くべきだよ。信じられない演奏をするんだ!」とリックが言った。

 そのバンド、フライング・マシーンは一晩四ステージ演奏していた。(略)

リックは私を、ドラマーのジョエル・“ビショップ”・オブライエンと、ボーカル、作曲、ギターを手がけるダニー・コーチマーに紹介してくれた。(略)

そのとき、ベーシスト、ザック・ワイズナーの眼差しの先にとてつもなく長身で長髪の男性が、バーの端に控えめに立っているのが見えた。(略)

[ダニーが紹介してくれたが]

ジェイムス・テイラーは「ふん、ふん」とか呟いてそっぽを向き、控え室へ大股で立ち去ったのだった。(略)

 後になって、ジェイムスは私の作品に敬意を表すあまり、ダニーに紹介されたとき何を言って良いのか分からなかったと教えてくれたが、そのとき私は気にくわない客扱いされた気分だった。

(略)

 ジェイムスのギターから最初の一音が発された瞬間……そのときから、私は彼に魅了された。(略)

ジェイムスが歌い出すと――長いこと音信不通だった友人が、実は目の前の天使だった――そんなシーンを目撃した感動に打たれていた。リックの言う通りだ。私はぶっ飛んだ。

(略)

フライング・マシーンはA&Rマンの注目を競い合うバンドの仲間入りをしたものの、ジェイムスのヘロイン中毒という壁にぶち当たる。

ザ・シティ

 ミドル・クラスが空中分解した後、ファグスはベーシストにチャーリー・ラーキーを雇った。(略)

[ファグスのLA公演時]

ジェリーと私が別れたことも周囲に知れ渡っており(略)

コンサート後、彼は一緒に私の家に帰り、そのまま三日滞在した。(略)

[二ヶ月チャーリーは活動拠点をLAに移した]

 クリア・ライトが解散したとき、ダニーもまた活動拠点を失っていた。そしてダニーもチャーリーも、ライブで他のミュージシャンをサポートして生計を立ててきたため、ダニーはチャーリーとジャム・セッションをしに我が家を訪れるようになった。「オレたち、腕は磨いておかないとな」と、ダニー(略)

チャーリーも同意する。

「指にタコができてなけりゃ、練習不足だ」

(略)

 彼らがジャミングを始めた当初は邪魔しないでいようと思っていた。が、ト二と私が作った曲をベースとギター入りで聴いてみたいと自然と思い、そして三人でその曲を何回か演奏したところで、オーティス・レディングマイルス・デイヴィスといった名前を口に出すだけで、彼らとソウルやジャズ・ナンバーのジャミングが始まったのだ。(略)

二人との共演は楽しいだけでなく、私のジャミング技術も大きく向上。私の引き出しに入る「リック」の数は増え、ジャズへの理解が深まり、自信も膨らんだ。そしてクーチには、他のミュージシャンに自分の限界以上の演奏力、作曲力、歌唱力を発揮させる才能があった。

(略)

 私が彼らとの共演を楽しんでいるのを見て、チャーリーとダニーは私にライブ活動をするよう、いつも以上に熱心に説得し始めた。私の曲を、彼らをバック・バンドにしてレコーディングしてアルバムを制作し、バンドを引き連れてツアーに出ないかと言う。私は、彼らとスタジオに入るところまでなら許容できた。

 ある日、プロデューサーの人選を話し合っているとき、チャーリーが「ルー・アドラーと知り合いなんだろ?彼に連絡してみたら?」と言う。

 確かにルー・アドラーは知り合いだった。ルーは、ドニーことドン・カーシュナーの元を離れ、今や南カリフォルニアで最も成功しているプロデューサー、マネージャー、出版者となっていた。彼はレーベルを二つ、最初にダンヒル、次にオードを設立している。

(略)

[演奏を聴き、ルーはキャロルだけとの契約を提示してきたが、バンド全員でと主張]

「アルバムだけ。プロモーションのツアーも、ライブハウスもなしでね」と私は言った。

「問題ない」とルーは答えた。

(略)

レコーディングのみのバンドにも名前は必要だ。

「ふーむ」とダニーは思いにふける。

「僕らは全員ニューヨーク出身だから……こういう名前はどうかな……」(略)

「ザ・シティ!」 

ジェイムス・テイラーと「ソー・ファー・アウェイ」

[69年ピーター・アッシャーがジェイムス・テイラーのバックに]招集したミュージシャンは、ギターのダニー・コーチマー、ドラムスのラス・カンケル(略)

ダニーが私をピアノ奏者として推薦したところ、ピーターは私をリハーサルに連れて来るようにダニーに頼んだという。

(略)

玄関を開けてくれた男性はトレードマークの赤い髪に眼鏡で、間違いなくピーター・アッシャー本人だった。イギリスのアクセントに上流階級育ちで自然と出る寛容な振る舞い

(略)

 ジェイムスに会うのはあのナイト・アウル以来だ。彼は二十一歳になっていた。私たちに気づかず、かがんでギターに集中し優しく弦を爪弾く姿を見て、再び私はなんて背が高くて角ばった人なんだろうと実感した。

(略)

 お互い笑顔で握手し目と目を合わせるとそれが、これから数十年続く友情の始まりとなった。

(略)

 ピーターのプロデュース下、ジェイムスは一九六九年にアルバム『スウィート・ベイビー・ジェイムス』をサンセット・サウンド・スタジオでレコーディングした。

 その年、私は七歳と九歳の娘の母親業以外に、ジェイムスのアルバムで演奏して歌い、自分のソロ・アルバム『ライター』をレコーディングし、さらに他のアーティストに曲を提供しデモ制作も行った。

(略)

 次にジェイムスに会ったのは一九七〇年夏。以前と変わらず彼はピーター宅に滞在しており

(略)

演奏の手を止めて休憩したとき、ピーターは改まって私に、ジェイムスのツアー・バンドに入らないかと誘ってくれた。私は相変わらずツアーに前向きではなかったが、ピーターは家族を置いていくことへの不安を察知して、このツアーで家族と長期間離れ離れになることはない、一九七〇年秋に、週末のみの六~八公演が大学で行われ、公演の合間には家に帰れると説明した。ジェイムスと一緒に音楽を演奏できるチャンスは、拒否し難い魅力だった。(略)

「ソー・ファー・アウェイ」を完全に私一人で書いたのは、そのツアー中の週末だった。個人的にはチャーリーを思って書き、音楽的にはジェイムスを思い描いていた。ジェイムスの曲は一見シンプルな中に罠があり、実はひじょうに複雑で先が読みにくい。彼はメロディやサビそれぞれに、独特かつ巧みな特徴をもたせるが、どの部分も親しみやすく自然と馴染むのだ。ジェイムスの作曲スタイルに強く刺激された私は、自分の曲にもそのスタイルを取り入れるようになった。(略)

ジェイムスのために作曲している訳ではなかったが、「ソー・ファー・アウェイ」を書いたとき、頭の中に聴こえてきたのは彼の歌声だった。

『つづれおり』

当時A&Mでは、スタジオAでカーペンターズがレコーディング中、玄関ホールの奥にあるスタジオCではジョニ・ミッチェルがエンジニアのヘンリー・ルーウィを伴って『ブルー』をレコーディング中だった。そしてルーと私はハンク・シカロと共に、スタジオBでレコーディングしていた。

 さらに、A&Mからサンセット・ブルヴァードを東に七ブロック行ったサンセット・サウンドでは、ジェイムス・テイラーが(略)『マッド・スライド・スリム』をレコーディングしていた。

(略)

自分のアルバムの作業がないときはサンセット・サウンドまで車で行ってジェイムスのサイドマンとして演奏し、バック・ボーカルを録った。クーチは両方のアルバムに参加していたので、クーチの車に相乗りして行くこともあった。そして定期的にジェイムスがA&Mにやって来て、私のアルバムのためにアコースティック・ギターを演奏し、バック・ボーカルを録ってくれた。ジョニ・ミッチェルが、私とジェイムスそれぞれのアルバムに美声を提供してくれたのは、私とはスタジオが近いという物理的関係で、ジェイムスとは恋愛面で近い関係にあったからだ。こんな中で私もジェイムスも、一枚の巨大アルバムを二カ所のスタジオでレコーディングしている気分になっていた。

 スタジオCには “別格”との評判が高いピアノがある。赤っぽい、木製のスタインウェイ・ピアノだ。ある朝、偶然スタジオCに入ることができたのでそのピアノを弾いてみた。確かにそう言われるだけのことはある。何か他とは違う存在感があるのだ。タッチは気持ち良く、その格別な音色はルーとハンク・シカロをも感動させた。だが運悪くこのスタインウェイの音色はジョニ・ミッチェルとヘンリー・ルーウィも魅了し、その結果私とジョニはベーシック・トラック録音のため水面下でスタジオCの争奪戦を繰り広げることになる。

(略)

 ある夜、スタジオCが空いていると聞き、すぐに部屋を押さえた。(略)

[のんびりやっていたが]

スタジオのマネージャーがやって来て状況は一変した。スタジオCは三時間しか空きがなく、その後はジョニ・ミッチェルが使うというのだ。

 急いで私たちは各自の持ち場に移動し「アイ・フィール・ジ・アース・ムーヴ」のリハーサルに入った。

(略)

両曲とも機材の調整を最小限に抑えたことで、録音テープにはチャーリーと私の音楽的な親密度、そしてプライベートでの親密度まで記録することができた。こうして、ジョニが到着する前に三曲のベーシック・トラックを何とか仕上げたのだった。スタジオCの使用時間が限られていたことが私たちにプレッシャーになるのではなく、逆に活気づき、効率的になり、それがアルバム全体の基準を非凡なものにしたのだった。

(略)

ハンクは常々スタジオBを気に入っており、二〇一〇年に電話口で『つづれおり』のレコーディングとA&Mのスタジオについてこんな思い出を語ってくれている。

 「『つづれおり』でスタジオAは一度も使わなかった。というのもカーペンターズがずっと独占していたからね。どっちにしてもキャロルのために使うなら、僕はAは嫌だったな。広すぎる。Aではあの親密な感覚は出せなかったよ。逆にCは狭すぎる。Bはちょうどいい広さだったんだ。街にある評判の良いスタジオはみんなBぐらいの広さだ」

「Bは、照明を使って雰囲気を作れるところが好きだった。それから僕はいつも、プレイヤーの顔がお互い見えるように立ち位置を決める。キャロルのピアノはスタジオの中央にあり、そこから君はドラマーが見えて、ドラマーも君が見える。君を囲むように半円状にその他のプレイヤーを置くことで、みんなが君を見えるようにした。君は頭の中で指揮するからね。それから曲の雰囲気によって、僕はいつもコントロール・ルームの照明とスタジオの照明を変えるんだ」

 当時、そんなことは何ひとつ気づかなかった。

 四パターンの試聴形態

 私が「別室試聴」という試聴形態を発見したのは『つづれおり』のミキシングの最中だった。ハンクに、ファイナル・ミックス前のものをドア全開の状態で何回か再生してもらい、私はラウンジに出て紅茶をいれ、雑誌に目を通し、トイレに向かうスタジオ従業員と挨拶の言葉を交わす。散漫な集中力でミックスを聴くからこそ、潜在意識が必要な修正箇所に導いてくれるのだ。ピアノのフィルインがソフトすぎる、スネア・ドラムが大きすぎる、リード・ボーカルとバック・コーラスのバランスが不自然、など。ミックスが正しく処理されていれば、別室で聴いてもそれが確認できるのだ。

 もう一つの確認方法は、様々なスピーカーで試聴すること。私たちが普段試聴していたのは、コントロール・ルームの角を占拠する巨大なアルテック製スピーカーだ。その低音域レベルは、その後二十世紀後期に登場する車載用ウーファーの先駆けとなるものである。このアルテックでの試聴以外に、ルーはヘッドホンを頻繁に使っていた。ヘッドホンのほうが左右センターの音の分離が明確に聴き分けられるからだ。何年も経ってから私がルーに、なぜあんなにヘッドホンを使っていたのかと尋ねたら、彼は「君の歌声とピアノの音を、頭のてっぺんの真ん中で聴くのが大好きなんだよ」と答えた。ファイナル・ミックスに近づくと、コンソールの台の上に載っかっているオーラトーンの小さいスピーカーで試聴したり、安っぽいモノラルのカーラジオ用スピーカーを目の前に置いて、人々の一般的な音楽鑑賞状況を再現したりする。これら四パターンを試して、すべて良い音に聴こえれば、次の段階「一泊試聴」に入るのだ。それはつまり、レコード盤を各自が家に持ち帰り、それぞれのステレオで再生し、家族や友人から意見を乞うというものだった。

「つづれおり」の曲順を考えたのはルーだ。(略)

私からも何種類か曲順を提案し試してみたが、何をやっても最後はルーの曲順に行き着くのだった。

全英ツアーの思い出、ジョニ・ミッチェル

ピーターからジェームス・テイラーキャロル・キング/ジョー・ママのコンサートを彼の故郷イギリスにもっていくことを考えている、と連絡が入った。チャーリーと私はこの夏、全英ツアーに出ることは可能か?と。

 可能です。

(略)

 ジェイムスもまた、彼にとって大切な人を同行させた。私の全英ツアーの思い出には、ジョニ・ミッチェルが楽屋の応接スペースの長い木製ベンチに座り、片足を自分の体の下に挟んで、ルイーズとシェリーのスケッチ画を描いている風景が刻まれている。

(略)

ルイーズが自分の体ぐらい大きいアコースティック・ギターを弾き、シェリーは長い髪で半分顔が隠れながら、お絵かきパッドに絵を描いている。ジョニは体をびくともさせず、手に持った鉛筆だけを目的に向かってせわしなく動かす。それはまるで、彼女の目に映るものの本質を、ページ上に浮かび上がるイメージに置き換えていく作業のように思えた。ジョニが絵を描いている間、背後にあるフランス窓にはアルスウォーター・レイク・カントリーの緑豊かな夏の森が広がり、午後の光が彼女の長いブロンドの髪を照らしていた。親切にもジョニは、完成したスケッチ画をルイーズとシェリーにプレゼントしてくれた。そこには娘一人一人の魂の根幹が捉えられていて、それは、大人の女性に成長した今の娘たちからも感じとれるのだ。

 全英ツアーが終わると、もう秋だった。娘たちは学校生活に戻り、チャーリーと私は新居への引っ越しを始めた。

(略)

 冬が近づくにつれ、お腹の中の赤ん坊は私と一緒に成長した。

ジョンとヨーコの家へ 

[イースト・サイドで『タクシー・ドライバー』を観に行き、トイレでヨーコに遭遇。ショーンが生まれて以来初めての二人だけの外出だとヨーコは言い、家に来ない?と誘ってきた。ダコタに向かう途中、初めてビートルズに会った65年のことを回想する著者。アル・アロノウィッツに「ビートルズに会いたい?」と言われ、「もちろん!」と答え、スイートルームに入ると、まずリンゴに遭遇]

アメリカへの歓迎の言葉を伝えると、彼は独特のリバプール訛りで感謝してくれた。

(略) 

そこからそう遠くないところにジョージ・ハリスンを見つけた。彼の話し方は優しく、物静かで、簡潔だった。ジョージは外交的なタイプではなかったが、次に会ったビートルズポール・マッカートニーは社交的で気が合いそうだった。彼は私を、この場でばったり会ったというより、まるで懇親会で顔を合わせたように親しみを込めて歓迎してくれた。そしてどんなにジョンと彼がジェリーと私の楽曲を楽しみ、尊重しているか、数分かけて、具体的に曲名やアーティスト名を挙げて語ってくれたのだ。その後お決まりパターンのように誰かがポールを呼び寄せ、彼はそちらに向かうのだが、彼は行く前に私の両手を握り締めて、来てくれてありがとうと言った。

 最後に見つけたのはジョン・レノンだった。何人かの女性に囲まれ、どの女性も彼の妻ではないように見えた。彼は、何と表現したら良いのか……。

 ハイだった。

 「こんにちは、ジョン。私はキャロル・キング……」と言いかけると彼は私を遮るように、とても失礼な言葉をかけてきたのだ。何を言われたのか憶えてはいないが、言われたときの気持ちはよく憶えている。私は友好関係を申し出たのに、彼の反応は私に平手打ちを喰らわした。もし私が、ジョンの無礼は当時の生活への反抗心の表れとして理解を示せるほど大人なら、それほど深刻に受け止めなかったかもしれない。だが私は若く、その言葉に深く傷ついてしまった。もうそれ以上そこに留まる必要はなかった。スイートルームの正面玄関から帰った私は、まさか十一年後にジョン本人から直接、無礼な態度をとった理由を聞かされるとは思ってもいなかった。

(略)

[ダコタ・ハウスに到着]

インテリアは最小限で、どの部屋も白く、各部屋に置かれた数少ない家具も真っ白。赤ん坊のショーンを見かけた記憶はない。彼は乳母と一緒にいるとのことだった。憶えているのは、誰かが緑茶と白いお皿に盛られた日本風前菜を運んできてくれたこと、そして何よりも思い出深いのはジョンが幸せいっぱいに輝いていたことだ。白一色でクールな背景の住まいでジョンは妻とくつろぎ、なごやかで社交的で、満足そうだった。(略)

 「実は、僕は主夫業を結構楽しんでるんだよ」ジョンの会話からは、リバプール育ちの名残がはっきりと感じとれる。リバプール人はニューヨークに移住しても、いつまで経っても春の次にくる季節のことをサマーではなく「スーマ」と発音する。ただしポールは例外だ。見たもの聞いたものを何でも真似できるポールは、意図的にリバプール訛りを封印する才能も持ち合わせているのだ。

 ジョンは、リバプール訛りのまま続ける。「世の中は、ヨーコが僕を音楽から遠ざけて僕の才能を奪っている、と言いがかりをつけたがるんだが、主夫でいることは今の僕の才能でもあるし、僕が楽しいんだからいいだろう。男にはやりたいことをやる権利がある。そう思わないか?」

 それは質問ではなかった。

(略)

私は深呼吸をして、聞いてみた。

「ジョン、昔私と会ったのを憶えている?」

「どうだったっけ」(略)

「一九六五年にワーウィック・ホテルで会ってるのよ」(略)「私が自己紹介したとき、あなたはとても無礼だったの。どうして?」

 彼は少し間を置いて、こう言った。「本当に、知りたい?」

彼は憶えているのだ。

「怖かったからだよ」

私は驚いて彼を見つめ、よく理解できないでいた。

「君とジェリーはあまりにも偉大な作曲家だったから、見下されないためには何を言っていいか分からなかった。だから自分を楽にして、気の利いたことを言おうとしてたんだ」

今度は私のほうがばつが悪かった。

「ジョン、ごめんなさい。あの夜のことを思い出させようとした訳じゃないの。ただ、あなたの心の中に何があったのかずっと気になっていて、聞けたらいいなと思っていただけなの。本当に、大昔の話だし」

「それなら良かった」お茶をもう一口飲んでからこう言った。「悪く思ってないってことだよね?」

ホッとして私も「そのとおりね」と答えた。

 「さてそれでは」と、ジョンはティーカップを置いてリックのほうを向き、こう言った。「君の彼氏の話を聞いてみよう」

 リックは自分の話題になって得意げだった。話したいことはたくさんある。相手がジョンだけに、彼は私たちの人生設計を、私さえ聞いていなかったことも含めて打ち明けていった。それで分かったのは、リックは私以上にカウンター・カルチャーの教えを強く意識し、ハルマゲドンに向けた準備を考えていることだった。彼は自分を、災害を生き残る「サバイバリスト」だと思っている(略)

そのために森の奥に土地を二人で(私が)買って、世の中が崩壊しても生き残るために必要なものをすべて装備したい、社会の崩壊は避けられない、と彼は語った。

(略)

私は強い不安を抱き始めた。このような考えをそれとなく話題にすることはあったが、ここまで細部にわたる計画を、今の社会秩序の終焉に向けて練っているとは思ってもいなかった。私の収入はその社会秩序の上に成り立っている。サバイバリストとして生き残る発想は、私や私の家族にとって合理的とも現実的とも思えなかった。

 ジョンは、リックが自分同様に養母に育てられてきた人とは知らず、直感的に彼に何か同志のような親近感を抱いた様子で、丁寧に話を聞いていた。そしてリックが将来の設計図を広げ終えたときに見せたジョンの反応は、これまで多くの人々の生き方に影響を与えてきた男の、生来の深い慈悲が表れたものだった。

「なるほど」とジョンは言った。「でも、僕にはできないなあ。僕には米があるとしても、他のみんなはどうすればいい?」

 ジョンのその意見は私の不安を和らげただけでなく、深い感動を与え、しばらく思考回路が止まったほどだ。ほかにも何か言っていたのだろうが、それ以外は憶えていない。憶えているのは彼の慈悲の清らかさと、彼の言葉が私を暖かい毛布でくるんでくれた、その感触だけだ。

(略)

 神様、どうかこの善良な男をお守り下さい。そのとき私はそう思った。

 善良な彼は、幸せな日々をこの後五年近く楽しんで、一九八〇年十二月八日、ダコタの外で、男に殺されるのだ。その男の名前はこの本には書かない。一九七六年のあの夜、私と時を共有した男はとても有名で人気があり、驚くほど地に足が着いていた。彼の「イマジン」がどれほど私にインスピレーションを与えてくれたか、伝えておけばよかった。その曲は最もシンプルで最もパワフルで、これらの疑問に、希望に満ちた答えを導いてくれるのだ。私をより良い人間へと駆り立てるために。

 なぜ人はお互いに傷つけあうの? なぜこの世界から強欲がなくならないの? なぜ人はお互いを思いやったり、お互いの違いを協力的に解決できないの?

 想像してごらん。

次回に続く。

キャロル・キング自伝 その2

前回の続き。

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン
 

ブリティッシュ・インヴェイジョン

 私の二十二歳の誕生日に、世の中は大きく変わった。一九六四年二月九日、ジェリーと私がテレビを見ていると、番組司会のエドサリヴァンビートルズを紹介したのだ。

(略)

インタビューでの(略)無礼な受け答えは、多くの若者たちに、そうだ!ヤツらみたいな恰好をしたかったんだ、ヤツらは自分の思っていたことを口に出している、と気づかせた。

(略)

ビートルズが登場した翌日、アメリカ合衆国下院議会は一九六四年の公民権法を通過させた。

(略)

 ジェリーと私が公民権運動に関わるようになったきっかけは(略)人種問題について二人とも共通した怒りをもっていたからだ。そのためにミシシッピ州アラバマ州の最前線で遊説もしたし、活動家支援のための資金も出した。

(略)

長髪、ルネッサンス・ファッション、東インド・プリント柄カーテン、ビーンバッグ・チェア、ディスコテック、ポップ・アート、幻覚剤、そして反戦運動

(略)

 一九六四年、私はそんな時事にいくぶん関心をもっていたが、それ以上に心配だったのが、精神の解放を望む夫だった。私は精神解放なんかしたくない。家計をやりくりするためには、家族の誰かが脳細胞を十分に機能させておかなければならないし、少なくとも夫か私のどちらかは大人を演じる必要があった。ジェリーの歌詞は徐々に社会的関心度が増していったが、私はその歌詞にメロディをつけることで家計を守るしかなかった。

(略)

「ヒップ」だとする男性の長髪は反体制を象徴して世間の非難を浴び、社会的地位を「ストレート」として自慢する短髪のビジネスマンや丸刈り海兵隊員から見下された。ちなみに当時ストレートという言葉に性的な意味合いはなく、ヒッピーではない、という意味に使われていたのだ。

(略)

強い政治意識をもつ革新派は男らしいとして「ザ・マン」と呼ばれ、世の男はザ・マン本人か、ザ・マン反対派のいずれかに分けられた。

(略)

ボブ・ディランを始めとするフォーク歌手たちが「メッセージ・ソング」を掲げて、かつてヒット・チャートを席巻していたポップ歌手たちを凌ぐようになっていた。ヒット・シーンから取り残されたアーティストの中には私たちの曲を歌っていた者も多く、不幸にも我が家の生計にも影響は及んだ。

(略)

つまり、私たちの曲は必要とされなくなったのだ。その後の奇跡がなければ、私たちはそれまでの心地よい生活形態を維持することはできなかっただろう。

 だが奇跡は起きた。しかもそれは、クイーン・オブ・ソウルとして数世代にわたって君臨するビッグな女性による、ビッグな奇跡だった。

ナチュラル・ウーマン」

[二人でブロードウェイを歩いていると黒塗りリムジンが横付けし、ジェリー・ウェクスラーが顔を出し]

「アレサ向けの大ヒット曲を探してるんだ」(略)

「“ナチュラル・ウーマン”という曲を書いてみない?」

(略)

[40年後、当時を振り返り、ジェリーは]

こう語ってくれた。「君はピアノに座って、ゴスペル調のコードをいくつか八分の六拍子で弾き始めたんだ。そのコード進行が自分のイメージしていた曲の方向性そのものだった。君のおかげで、歌詞が楽に出てきたんだよ。君のおかげでまったく苦労しなかった」

(略)

ジェリーが私のコード進行がイメージそのものだったと言うならば、私は彼の描く歌詞世界に心底驚かされた。「遺失物取扱所に取り残されたソウル」……「引き取りに来た恋人」.…ジェリーは一体どうやってこのような表現を思いつくのだろう?

(略)

 アレサが歌う「ナチュラル・ウーマン」を初めて聴いたとき、滅多にないことだが、私は言葉を失った。そして今日まで、あのときの感情を簡単な言葉で伝えることができない。

 アロノウィッツとミドル・クラス

 ジャーナリストのアルフレッド・ギルバート・アロノウィッツは一九二八年五月五日、ニュージャージー州ボーデンタウンに生まれた。彼のビート・ジェネレーションに関する記事やコラムと、後の「ポップ・シーン」という題名の『ニューヨーク・ポスト』紙連載コラムは、五〇年代後半に成人した世代の共感を呼ぶような、直接的で生意気な姿勢が感じられるものだった。私の夫がアロノウィッツに最初に注目したのは、彼がアレン・ギンズバーグジャック・ケルアックと知り合いだと知ったときだ。その後彼はビートルズローリング・ストーンズとも交友関係があると知り、さらに興味をもつ。だが最もジェリーの信頼を高めたのは、アロノウィッツが「時代は変る」を書いた男の親友だったことだ。

(略)

ジェリーはすぐにディランに注目した。革命の声を聞いたように、のめり込んでいった。ディランの曲を聴けば聴くほど、ジェリーは自分の不安と戦うことになる。ジェリーが郊外と都会を行き来してティーンエイジャーの恋やダンスについてのポップ・ソングで金儲けをしている間に、ディランはブリーカー街で丹念に言葉を選んで歌を編み出している。若者に、親に敷かれたレールなど拒否して、本当の人生の意味を深く考察しようと勧告するのだ。そしてジェリーは、今のままの自分では人生の意味を見つけることなどできないと感じていた。彼はディランになりたかった。端的に言うと、ジェリーはディランをもっと知りたかった。

 アロノウィッツがジェリーをディランに紹介すると約束した日から、夫はアロノウィッツに強く引き寄せられていった。まるで池の底の巨石のように、頑として意見を譲らなかった。ジェリーがそうなればなるほど、私は不機嫌になっていく。

(略)

 アロノウィッツが我が家の平和を脅かすと私が認識したのは、理由がどうこうよりも私の勘だった。丸顔で、ボサボサの赤いヒゲを蓄え、私の考えていることを見通しているような抜け目のない笑顔を作るこの男と、私は戦いたいと思った。多分彼は気づいていただろう。

(略)

 アロノウィッツと出会わなかったとしても、時代はジェリーを引き寄せたのかもしれない。

(略)

夫がドラッグやフリーセックスを体験する一方で、妻はなぜ自分の夫がそれまで共有していた価値観を放棄するのか、理解できないでいた。

 もし私が四十二歳でジェリーが四十五歳なら、夫が放浪生活のような未体験の世界に目覚めても理解してあげられたかもしれない。だが私は二十二歳で、妻であり母でもあり、二十五歳の夫を前衛的発想の中に見失いつつあった。私の人生を返して欲しかった。

(略)

 一九六五年の初頭にアロノウィッツが、ジェリーと私と一緒にインディーズのレコード・レーベルを設立しないかと提案してきたときは、当然ながら反対した。だがジェリーを思い留まらせることができず、私は「友人は近くに置き、敵はもっと近くに置く」という格言に従って企画を受け入れることにした。最初のヒットと未来の成功を祈って、レーベルはトゥモロー・レコードと名付けた。アロノウィッツが連れてきたバンド、キング・ビーズはニュージャージー州の高校三年生五人組

(略)

未熟さはあったが、バンドの才能は明白だった。

夫のLSD中毒

 最初にジェリーが妄想症の兆しを見せて怯えていたとき、私はそのことに疑問を抱かなかった。LSDが非合法であり、摂取した者は当局に逮捕されて投獄されることを考えれば、LSD中毒者が怯えるのは当然だろう、と。それから、彼は他の精神障害を併発するようになったのだ。その時点でもっと注意すべきだったが、私は精神障害についてまったく知識がなく、弟の障害は別として私も周囲の誰も精神障害を経験したことがなかった。その後ようやく専門家の元に相談に行ったが、当時は精神衛生の専門家でさえ現代に比べるとごく限られた知識しかもっていなかった。

 ジェリーがますます挙動不審になると、私は彼が後々後悔するような行動に出ることを心配した。その時点でまだ彼の挙動は、危険というより苦々しいもの。子供達や私に対し暴力や虐待に走ることはなく、その兆候もなかったので家族を傷つける心配はなかったが、意味のありそうでないことを喋り、普通の人は思いついてもやらずにおくことを、やるようになっていた。例えばハシゴに登って家の外壁に「ラヴ・ユア・ブラザー」とペンキで描いたり。(略)

しかし、彼が自分の体を深く傷つけてしまったとき(幸いにも未遂で終わった)、外部に助けを求めるときが来たと私は確信した。

 最初、医者はジェリーを統合失調症と診断した。その後、躁病と判断して、鬱にするためのソラジンを大量に処方した。予想通り彼は深い鬱に陥る。医者たちは投薬を調整しながら精神科治療に通わせたが、ジェリーの深刻な鬱状態は変わらなかった。次に医者たちが勧めてきた治療は電気ショック療法だった。

(略)

 私には選択肢がないように感じられた。書類にサインし、病院を出て、泣きながら家まで帰った。十年後、ジャック・ニコルソンの強烈な演技を伴った映画が公開された。(略)

[『カッコーの巣の上で』の]ジャック・ニコルソンは電気ショック療法の恐怖感を見事に再現している。(略)

映画を最後まで見る自信はなかったが、彼にショック療法を許可したのは自分である事実を噛み締め、一コマ一コマしっかり見るよう自分に課した。

ブライアン・ウィルソン 

 

それから三十年以上経った二〇〇〇年(略)

私たちはお互い五十八歳になっていた。

 私たちはソングライターズ・ホール・オブ・フェイム (作曲家の殿堂)の式典に来ていた。私はジェイムス・テイラーを、ポール・マッカートニーブライアン・ウィルソンをこの殿堂に迎え入れる役だった。ブライアンと私が舞台裏で一緒に出番を待っていると誰かが、こう尋ねてきた。あなたたち二人が曲中で多用する、あのコードを先に使い始めたのはどちらか、と。ミュージシャンの間でそのコードは「IV・オーバー・V 」と呼ばれている。キーがCの場合これは“FコードにGのベース音”を意味し、キーがGなら“CコードにDのベース音” を意味する。これを「キャロル・キング・コード」とか「C・オーバー・K」と呼ばれているのを聞いたことがある。だがビーチ・ボーイズのファンはこれを「ブライアン・ウィルソン・コード」と呼ぶのだろう。呼び名が何であれ、ミュージシャンもそうでない人も、このコードは「グッド・ヴァイブレーション」のクライマックス部分で耳にする和音、と言えば分かりやすいだろう。全員の声が一つになって作り出す荘厳で印象的なあの瞬間。

「アーーーーー!」

(略)

 ブライアンと私はそのとき、どちらが先に使ったかについてはファン一人一人に答えを出してもらうことで合意した。「どうせ、ファンのほうが僕たちよりも僕たちの人生を熟知しているんだから」とブライアンは言った。私たちの世代がこれまで辿ってきた道のりを考えると、お互いにちゃんと元気で生きていることがどれほどありがたいか、二〇〇〇年になって十分すぎるほど分かっていた。

西へ 

 一九六七年、ジェリー・ウェクスラーが私に、アーティストとしてアトランティックとの契約を提示してきたとき、私の最初の質問は、「ジェリーにプロデュースしてもらってもいい?」だった。

「もちろん」

「私は作曲家で、パフォーマーではないのよ。それに子供もいるから、プロモーションのために外回りするつもりはないけど」

ウェクスラーはクックッと笑った。

「そんなこと僕が知らないとでも思ってる? ジェリーに相談して、君の希望を聞かせてよ」

 車を運転してリンカーン・トンネルに向かいながら、ジェリーのやる気を喚起させる方法を考えていた。ニューヨーク市内に引っ越したらどうだろう?(略)

グリニッチ・ヴィレッジだ。(略)

私はひたすら歩き続け、ひとかけらの可能性にしがみつくように、市内への引っ越しとプロデュースの話が結婚生活を救うことを願っていた。

 だがそうはならなかった。

 ジェリーのほうから、私を置いてカリフォルニアに引っ越すと言われたとき、私は、彼がドアから出て行くまで涙を流さなかった。そして私が、あんなに涙を流すとは思わなかった。家族が崩壊し始めたときから私は夢を見ていたのだ。神話に登場するような男性と四人の美しく健康な子供達に恵まれ、広くて賑やかな家に住み、これからの人生をいつまでも幸せに暮らす家族の夢を。

(略)

ゴフィン家の買い手が見つかった。(略)庭付きアパートを借り、娘たちが転校せずに住める手はずを整えた。やらねばならないことがたくさんあった。家具の処理、所持品の梱包(略)何とかしてやるべきことをすべて終わらせた。

 こうして私は一人で、元我が家の玄関広間に立ち、家と最後のお別れをしようとしていた。

(略)

私の夫はどこに行ったのだろう。大人になった私の初恋の人であり、作曲パートナーであり、娘たちの父親でもあるジェリー。家にいたときはどこの部屋よりも寝室のイームズ・チェアに座って考えを巡らし、ぼんやりとヒゲをなぜていた私のジェリーはどこに行ったのだろう?

(略)

ここで私はいくつか重要な決断を下さなければならない。(略)

すべての要素が、グリニッチ・ヴィレッジへの引っ越しに傾いているように思えた。だが何かが、あの家の契約を引き止めている。

(略)

私が西に行かなければならない理由があった。(略)

私が、娘たちと父親の距離を引き離すことはできないのだ。

(略)

 こうして一九六八年三月、シェリーとルイーズとライカテレマコス、そして私はカリフォルニアへ移住した。

ローレル・キャニオン 

 一九六八年、サンセット・ストリップがポップ・ミュージックとクラブ・シーンの商業中心地だとしたら、ローレル・キャニオンはその居住中心地だろう。

(略)

キャニオンの曲がりくねった道を運転すれば薬物誘発により正気を失った人々を、軽度から重度まで昼夜問わず見ることができる。

(略)

 キャニオンの起伏に富む道路をオープントップにしたムスタングで走ると、私のカーラジオと競い合うように周囲の渓谷から音楽が聴こえてくるのだった。それが生演奏なのかレコードやラジオなのか一度も判別できた試しはないが、常に音楽は空気中に流れていた。そして音楽があるところには、ミュージシャンがいる。バンドは様々な事情で結成し、解散し、再結成し、どこかのバンドは七桁の前金を提示された、とも噂に上る。どのミュージシャンも、七桁の小切手は自分のものとばかりに野望を抱いていた。

(略)

「誰かがそれだけの前金をもらえるなら……」一人のミュージシャンが、輪になって座る隣の人間にヨレヨレになったマリファナの残りを回して言う。「俺たちだってもらえるんじゃないか?」

 そして彼は深く息を吸い込む。続いて別のミュージシャンがマリファナの効果を最大限に生かそうと息を止めて沈黙し、「そうだよ……なあ?」と、彼も煙のもやの中にゆっくり長い煙を吐き出す。「俺たちでいいじゃねえか。この辺りじゃ一番クールなバンドだぜ」

 次の男は、マリファナが人間の指で持つには小さくなりすぎたのを見て、その吸いさしをくわえるため、ポケットから小さなワニ口クリップを取り出す。

(略)

グラハム・ナッシュの作曲した「アワー・ハウス」は、彼とジョニ・ミッチェルが一緒に住んだルックアウト・マウンテンの外れにある小さな一軒家について書かれた曲。かの有名な、フランク・ザッパが住んでいたトム・ミックスのログキャビンは、ルックアウトとローレル・キャニオンの角にある。ザ・バーズのメンバー何人かはワンダーランド・アヴェニュー小学校の下方にあるホースシュー・キャニオンに住み、中でもメンバーの一人は、小学校の勉強を大いに邪魔していた。彼は紫のベルベットのケープを羽織ってキャニオン周辺をバイクで暴走するのが大好きだったのだ。

(略)

 まだピンと来ない読者のために言っておく。その人物はデヴィッド・クロスビーだった。

 デヴィッドと知り合うのはそれから七年後だが、もう一人キャニオンの住人で彼はど有名人ではない女性と私は知り合いになっていた。彼女はカリフォルニアの人間で、詞を書いていた。

トニ・スターンの歌詞

私が見つけた生粋のLA人、トニ・スターン嬢はサンセット・ストリップ下方のウエスト・ハリウッド育ち。新しい環境に順応しようとしている私にとって、彼女はうってつけの友人だった。

 トニは“歌のフィーリングをもった詩”を書く人で、読むと自然とメロディが生まれてくるのだ。

(略)

曲作りの後に彼女は私をサンセット・ブルヴァードにある有名なローフードのレストラン「ザ・ソース」へ連れて行ってくれた。私たちが外のテーブル席に座り、サン・ティーをすすり、木のボウルに入ったチャイニーズ・サラダを著で食べる

(略)

長髪で性別不明の人々が、白のゆったりした服や花のプリント柄の服、あるいはジーンズと鮮やかな色合いの絞り染めTシャツ姿で行き交う。トニと私はこの大通りを行き交う人々、服装、ガソリンの臭い、人生、恋愛など二人の興味の赴く話題や、歌詞のテーマにぴったりの話題で盛り上がった。

(略)

 ト二は典型的なカリフォルニア・ガールだった。(略)

自宅の平らな屋根に寝転がり、大きなビーチタオルの上で紫外線を全身に吸収していた。ビーチも大好きだ。鮮やかな赤のビキニを着た小麦色のボディはしなやかで、長くたおやかなカーリーヘアは太陽に輝く千の川のように揺れ、非の打ちどころがない姿を露出していた。突然思い立って愛車のオープンカー、アルファロメオに乗り、髪をなびかせてビッグサーまで海岸沿いを走らせることもあった。

(略)

 トニの書く歌詞には明白なリズムがある。歌に託す思いや感情を、単語のアクセントのリズムで表現するのだ。彼女の歌詞からはメロディが応えるように頭の中に浮かび、私の声と指先から音楽になって流れ出す。これまで何年も、ジェリーが彼独特の言葉や身ぶりで表現しようとする方向性を、解析し翻訳し理解して、彼の意図するメロディを作り出してきた私にとって、トニの明晰な指示は開放的だと感じた。メロディの方向性を無言で示す彼女のやり方は、私に、彼女のアイデアを試しながら自分のアイデアを発掘しようという勇気を与えた。ジェリーなしでヒット曲を書けるのかまだ不安だったが、ト二と私の間に流れる気楽な空気は、消えた自信を再発見する重要なステップになった。

(略)

 トニの歌詞は、白い紙にきちんとタイプしてあるか、黄色い罫線入り用紙に特徴的な字で手書きされていた。彼女の詞は、歌詞的にも視覚的にもアートなのだ。曲のAメロやサビは、用紙の上で独特なシェイプを描いている。私はピアノの譜面台に彼女の歌詞を置くとすぐに心を開放し、曲のリズムや内容を無心で体に吸い込ませる。

次回に続く。