ジミ・ヘンドリクス 鏡ばりの部屋 その2

前回の続き。 

ブルースを学ぶ

 九月にビリー・コックスが除隊になると、コックスとジミはフルタイムで音楽活動を始めた。

(略)
 ジミは並はずれてハンサムで、礼儀正しく、話し方は穏やかで、あきらかに才能があり、そしてもちろん、一文無しだった。ジミは自分が貧乏だということを最大限に利用した。貧困を救済のシナリオに盛り込むと、多くの女性は彼を拒絶することができなかった。高校時代にはジミから活力を奪っていた彼の内気さは、大人の性的関心があからさまで、甘美に表現されることがないR&Bクラブでは、貴重な気質となった。ジミは優しく、優しさはセクシーだった。ジミが出会う女性はみな、ジミとつきあいたい、世話をしたい、泊まらせたい、そして大抵、食事と服をあたえたい、と思った。

(略)

 ナッシュヴィルで一番のギタリストは、インペリアルズのジョニー・ジョーンズだった。(略)

「ジミはまだ子どもだった」とジョーンズは言う。「だけど、まるで使命をもっているようだった。ステージの真ん前に座って、俺の演奏を見ていたよ」。セットの合間に、[ギターを持たせてくれと頼み、次の週は](略)

アンプをつけたままにしてくれないか、と言い出した。(略)ジミは観客のためではなくジョーンズの音色の秘密を探ろうとするかのように、静かにギターをかき鳴らした。

 ジミはナッシュヴィルヘ引っ越したあとも、インペリアルズのショーはできる限り観に行き、ジョーンズの演奏からなにかを学ぼうとした。ジミは立派な指導者を選んだ。二十六歳のジョーンズは、ジミとの年齢差はたったの六歳だったが、ロバート・ジョンスンの後継者からギターを教わっていた。「当時、俺はすでにギターを語らせることができた」とジョーンズは言う。「ギターが語れば、あとは手紙を書いているようなもので、必要なのは句読点をつけるだけだ」。ジョーンズはシカゴにいたことがあり、フレディ・キング、マディ・ウォーターズ、T・ボーン・ウォーカー、ロバート・ロックウッド・ジュニアなどから教わった経験があった。おそらくそれよりも大きかったのは、ジョーンズが田舎のデルタ地方の貧乏な環境で育ち、そのつらい人生経験を演奏に生かしていることだった。「ジミは、レコードは聴いていたが、俺みたいな汚れた人間とふれあったことがなかった」とジョーンズは言う。「ブルースを演奏したかったら、それが必要なんだ。感情を揺さぶるような演奏をして、ファンキーじゃなきゃだめだ。ジミは、ファンキーになるほど弦を語らせることができていなかった」。

(略)

その秋、ジョーンズをとおして、ジミはかつてからの憧れの人、B・B・キングアルバート・キングに会った。「B・Bが入ってきたとき、ジミの目はばっと輝いたよ」ジョーンズは言う。「それから、アルバート・キングの近くにいたときのジミといったら、まるで天国にいるみたいだった」。ジョーンズにしたのと同じように、ジミはアルバート・キングに指使いのスタイルや、どうやって弦を水平に曲げられるのか、など質問攻めにした。普通、若いギタリストは、キングに彼の演奏がどれだけすばらしいか、褒め称えるだけだ。ジミは、ずうずうしくもキングがどうやって上達したのかを訊ねるのだった。ブルースプレイヤーは男の誇りが強く、そのような質問をすることで自分が未熟であることを認めたがらないものだ。意外なことに、キングのようなすでに地位を確立しているギタリストは、ジミに脅かされることなく、喜んで自分たちの商売の秘密を教えた。このやせっぽちで不作法な少年が、自分たちに挑戦できるほど上達することがあるとは、思いもしなかったのだろう。

 けれどもジミには深い野望があり、また自分の使命を信じていた。ジミは音楽のハンターとなり、さまざまな演奏のスタイルをすばやく吸収し、ジミに指導したギタリストたちが予想だにしない素早さで技術をものにしていった。その秋、彼らがふざけて“ヘッドハンティング”と呼んだコンテストで、ジミは師匠のジョニー・ジョーンズに挑戦を挑んだ。

(略)

 対決が始まると、ジミは圧倒的な差を見せつけられた。ジミのアンプは、ジョーンズのものほどパワーがなかったし(その教訓をジミはすぐには忘れなかった)、演奏の技術も上達していたとはいえ、ジョーンズのような洗練された深い音色は出せなかった。ジミのソロはあきらかにB・B・キングを真似しようとしたもので、観客からは失笑をかった。ジミは肩を落としてステージから降り、ジョーンズはトップの座にとどまった。

チットリン・サーキット

バンクーバーで二ヵ月過ごしたあと、ジミは南へ行く列車に乗り、ミシシッピ・デルタへもどった。ジョニー・ジョーンズの言っていた汚れを求めて。

 シアトルで育ったジミは、伝統的な南部のソウルフードを食べることは滅多になかった。それでも、バンクーバーのノラの家へ行くと(略)南部の定番料理[をつくってくれた](略)

ディナーのメインはチットリン――豚の腸――だった。この自慢料理を本格的に調理するには、五時間以上もかかり、ノラがそれを火にかけていると、腹をすかせた近所の人々が集まってくるのだった。

 南部料理のチットリンに敬意を表して名付けられたチットリン・サーキットは、最南部地方に立ち並ぶアフリカ系アメリカ人クラブをさす。(略)

「基本的に黒人の客相手に演奏できる場所は、どこでもチットリン・サーキットと呼ばれていたよ」伝説のブルース奏者ボビー・ラッシュは言う。「道沿いの居酒屋もあれば、バーベキュー屋も、ビリヤード場も、バーもあった」。

 一九六三年から一九六五年にかけて、チットリン・サーキットがジミの活動の場となった。(略)

その期間、ジミは演出の能力や、観客との対話のし方、巡業するミュージシャンとして生き残る術など、貴重なレッスンを学んだ。そして、人を楽しませるエンターティナーでいることも巡業するミュージシャンの仕事の一部だということを、深く心に刻んで忘れなかった。観客を魅了させ続けなければ、音楽がどんなに本物であろうと、関係なかった。ギグがひとつ終わるたびに、ジミはデルタの伝統を学び、彼の演奏も上達していった。

(略)

T・ボーン・ウォーカーがやっていた、ギターを背中に回した演奏から初め、それからアルフォンソ・ヤングを真似してギターを歯で演奏する芸をしてみせた。ビリー・コックスに十五メートルのケーブルを買ってもらい、ジミはこれを使ってダンス・フロアや、ときには道まで出て演奏を続けることができた。

(略)

休憩時間の練習をやめて、客とふれあったほうがいい、というアルフォンソ・ヤングのアドバイスに従った。(略)

「客に混じって、どんなやつらか知って、話しをしろ、と言ったんだ。毎晩のように観に来てくれるファンは、そうやってつくるんだ」。客と交流することで、女の子と出会うチャンスも増えるということに、ジミはすぐに気づいた。

(略)

 日中のアルバイトはしなかったが、副業としての音楽の仕事は続けた。この頃、カーラ・トーマス、トミー・タッカー、スリム・ハーポ、ジェリー・バトラー、マリオン・ジェイムズ、チャック・ジャクスン、ソロモン・バークなどのバックミュージシャンとしてツアーしていた。これらのツアーはどれも長いものではなく、ほとんどが地元のチットリン・サーキットを数日でまわるものだったが、この経験はジミにとって重要なものとなった。ジミは、報酬の高い安いにかかわらず、音楽の仕事はすべて受け、ツアーのたびになにかを学んでいった。(略)

なかでも、もっとも注目すべきはソロモン・バークとのツアーだろう。すでに伝説的なソウルシンガーで、キリスト教説教師、そしてときに葬儀屋であったソロモン・バークは体重が百十三キロもあり、声もそれに見合うくらい大きかった。トップ四十に入ったヒット曲はすでに二曲あり、ジミがバックミュージシャンをつとめた本物のスターは彼が初めてだった。

(略)

ジミの演奏はものすごくよくて、泣けてくるほどだったよ」(略)

「五日間はすばらしくうまくいくんだ」とバークは言う。「そして次のショーになると、曲に含まれていないワイルドな演奏を始める。もう、やってられない、と思った」。ある晩、ツアーバスの中で、まるで野球選手をトレードするように、バークはヘンドリクスを、オーティス・レディングの管楽器プレイヤーふたりと交換した。レディングのバンドに移ってから一週間たつと、まは同じような理由で首になった。「結局、彼を道端に残して来たんだ」とバークは言う。

ハーレム・ワールド 

 ジミが初めてニューヨークに着いたのは一九六四年初めだった。(略)

知り合いがひとりもいない町で、ジミはスモールズ・パラダイスやパーム・カフェといったようなクラブをまわって、ジャズバンドの楽団員の仕事を探した。ニューヨークでの最初の一月のあいだに、水曜の夜アポロ・シアターで開催されているアマチュアコンテストに出演して、一位になって二十五ドル獲得した。残念ながら、賞を取ったことですぐに仕事がくることはなかった。ニューヨークの音楽シーンは、その規模は大きくても、入り込むことは難しかった。クラブで、ギグに参加してもいいかと訊ねると、冷たく断られることが多かった。ニューヨークでは、ナッシュヴィルより門戸が広いことを期待していたが、ハーレムのシーンは非常に狭いのだということがわかった。認められているジャンルはR&B、ジャズ、ブルースだけで、それも過去の巨匠たちのスタイルに忠実に従って演奏された。「ハーレムの黒人はロックンロールなんて聴きたがらなかった」タハーカ・アリームは言う。「ドレスコードもあって、服装とサウンドがまちがっていれば、まわりから疎外された。ニューヨーク・シティのほかの地域と比べると、ハーレムはまるで別の惑星だった。

アイズレー・ブラザーズ

[ガールフレンドの]フェインに連れられてジミはアポロ・シアターへ行き、彼女の昔の恋人のひとりであるサム・クックに会って、雇ってもらえないかと訊いた。サム・クックにはすでにギタリストはいたが、ジミは訊けただけでも勇気を得た。一九六四年二月、アイズレー・ブラザーズが新しいギタリストを探していると聞いたときから、ジミに運がまわってきた。初めて彼らに会ったのは、一九六四年二月九日、ニュー・ジャージー州の彼らの家でだった。その晩、テレビの『エドサリヴァン・ショー』にはビートルズが出演していた。ジミとアイズレー・ブラザーズは、その出演がアメリカを変え、ロックンロールがその後のヒットチャートを支配するようになるとは思いもせず、一緒にテレビを観た。

 三月、ジミはアイズレーのバンドの一員となった。初めてのレコーディングは「テスティファィ」で、そこそこに売れた。春のツアーではチットリン・サーキットを巡って東海岸のあちこちへ行き、バミューダまでも行った。バンドが夏にニューヨークへもどると、ジミもまた彼らとスタジオレコーディングに入り、いくつかのシングルの録音をおこなった。そのうちの一曲「ザ・ラスト・ガール」にはバックヴォーカルとしてディオンヌ・ワーウィックをフィーチャーしている。

ティーヴ・クロッパー

[バンドの規律にうんざりして]ジミは辞め、ゴージャス・ジョージ・オーデルの短いツアーに参加し(略)

メンフィスにいるときの休日に、ジミはレコード会社、スタックス・レコーズへ立ち寄った。愚直さと大胆さ、半分半分でジミは会社の正面玄関から入り、自分はこの地ヘツアーで来ているギタリストで、スティーヴ・クロッパーに会いたいのだ、と言った。

(略)

立ち入り禁止にしたスタジオのなかにいた。クロッパーは、追い返せ、と言った。仕事が終わったのは六時だった。クロッパーがスタジオから出ると、秘書が「あの男がまだ待っています」と伝えた。ジミは一日中待っていた。

(略)

ジミは非常に礼儀正しく、そしてクロッパーのディスコグラフィーをすべて知っていた。自分の経歴を聞かれると、謙遜して「ギターを少し、ニューヨークやほかのいろんな土地で弾いています」と言った。レコーディングの仕事をしたことがあるのか訊ねられると、シミはアイズレー・ブラザーズのレコードと、ジミが初めてレコードでフューチャーされてトップ四十に入ったドン・コヴェイの「マーシーマーシー」をあげた。クロッパーは感心した。「あれを弾いたのは君なのか? あれは俺のお気に入りの曲だよ。君に会えて光栄だ」。

 クロッパーは、あきらかに才能のある若いファンを気に入って、ジミを食事に連れて行った。「結局、スタジオに彼を連れて行ったんだ。何時間も話して、いくつかのリフを見せてやったよ」。シミはクロッパーのギターを使って「マーシーマーシー」の一節を演奏して見せた。

(略)

ヘンドリクスは、クロッパーが白人であることに驚いた。クロッパーのファンキーなギターは黒人にしか弾けない、とジミを含め多くのファンが思っていた。ある意味、ふたりとも、白人や黒人の音楽という従来の前提の枠を超えることに挑戦しようとしているアウトサイダーだった。

(略)

二十二歳になり、毎晩のようにギグをして過ごした一年でギターは上達していた。そのときの「マーシーマーシー」のイントロのギターリフは、B・B・キングのまねではなく、誰の真似でもなかった。「ファンキーだった」とクロッパーは言う。「あのリフにはなにか特別なものがあった」。

 ジミのギターが語り始めていた。

リトル・リチャード

 リトル・リチャードのアップセッターズはジミが一緒にやったバックバンドのなかでもっとも知名度が高く、非常に結束が固かった。それでも仕事はクリエイティブではなく、さらにリチャードの支配欲が非常に強く(略)

ジミにとって同じコードを毎晩のように繰り返すのは退屈だった。

(略)

[20歳のローザ・リー・ブルックスに]とてもセクシーとは言えないが真実の言葉を投げかけた。「きみは僕の母さんに似ているよ」

(略)

 一晩中、ジミはリトル・リチャードの愚痴を言っていた。リチャードから屈辱的な扱いをうけること、口説かれたこと、型にはまった音楽を毎晩弾かなければならないこと。「僕はカーティス・メイフィールドのほうが好きなんだ」ジミはローザ・リーに言った。

(略)

 ジミはその週、いくつかのローザ・リーのギグについて行き、ある晩グレン・キャンベルに出会った。ローザ・リーが驚いたことに、ジミはキャンベルのスタジオレコーディングの曲をすべて知っていて、キャンベルがビーチ・ボーイズとやった曲が好きだ、と言った。ローザ・リーの母親はレストランを経営していて、ふたりの情熱的な体の関係と同様、しばらくジミを惹きつけた。ローザ・リーによると、ふたりの関係を見たリトル・リチャードに、自分が見ているところでセックスをしてくれと頼まれたが、ジミはそれを断ったという。

(略)

三月にアップセッターズを辞めると、ジミはすぐにアイク・アンド・ティナ・ターナーのバックとして働くようになった。(略)ジミの派手なソロが「懲りすぎて、彼の立場の境界線を越えるようになった」ため、またもやジミは首になり、リトル・リチャードの元へもどった。

 三月初め、ローザ・リーは「マイ・ダイアリー」というシングル曲のレコーディングをおこない、ギタリストとしてジミを連れて行った。レコーディングには自称“初の黒人ヒッピー”、アーサー・リーも参加し、これをきっかけに、その先長く続くジミとリーの友情が始まった。(略)

B面の「ユーティー 」はアドリブだが、「マイ・ダイアリー」のジミのソロは、カーティス・メイフィールドと聴きまちがえる人がいるほどのできばえで、ジミが立派なメイフィールドの弟子であることを証明している。

エド・シャルピンとの契約 

[“バンドをもったポン引き”スクワイアーズのリーダー、カーティス・ナイトはギターを質入れしていたジミに楽器を貸している限り]

ジミを支配できることに気づいた。(略)

ナイトはジミをバンドのセンターにし、彼をスターにすると約束した。(略)

[ジミがスクワイアーズと録音した曲は、エド・シャルピンのPPXプロダクションズのために録音された]

シャルピンは、アメリカのヒット曲のカバーを次々とレコーディングしては海外で売り出すことで、レーベルのオーナーとして成功した。(略)

ジミの演奏を聴くとその才能に気づき[契約](略)

ジミが読まずに結んだ契約書によると、ジミは「三年間、制作、演奏および歌をPPXプロダノションズのためのみおこなう」ことになっていた。さらに「レコーディングは一年に三回以上おこなうこと書かれていた。報酬として、ジミは制作したレコードの売り上げの一%を受け取ることになっていた。(略)

シャル ピンは、“アーティスト”というのが、ジミを惹きつける魔法の言葉だと知っていた。自分がバックミュージシャンではなく、アーティストだと言われただけで、ジミはまるで夢遊状態だった。「自分自身の能力でアーティストと呼ばれることをとても喜んでいた」とシャルピンは言う。「なんにだって署名をしただろうよ」。

 それから八カ月のあいだに、ジミはシャルピンのためのスタジオレコーディングを二十回以上おこない、のちに裁判所が確認したところによると三十三曲の録音に参加した。

(略)

貧困や、南部をツアー中に経験した人種差別、そして寂しさで、一九六五年は母の死以来、ジミにとってもっともつらい一年だった。(略)[ブルース奏者に必要な]“汚れ”や哀愁が、ジミの身に備わった。ジミはブルースを演奏しているだけでなく、ブルースを生きるようになっていた。

「犬死はしたくないんだ」 

 当面の救済の手は、キング・カーティスから差しのべられた。(略)

[バンドにバーナード・パーディーと]コーネル・デュプリーがいたことも幸いだった。卓越したギタリストであるデュプリーと演奏することで、ジミはインタープレイを学び、また演奏に感情と魂を込めることでデュプリーのいう「脂ぎった」弾き方を学んだ。バンドの曲を学ぶのも早かった。「何年も音楽をやってきて、あんなに早く曲を覚えられるギタリストは初めて見た」とバーナード・パーディは言う。

(略)

[十六歳の家出娘で売春婦のダイアナ・カーペンターと交際開始]

ジミは「あと一年で金持ちで有名にならなかったら、気が狂いそうだ」(略)ジミは日に日に切羽詰まっていった。毎日何時間も練習し、そのために近くのクラブから借りてきたアンプを、交通費がなかったのでホテルまで四ブロック引きずって歩いた。

 ある日ジミが部屋にもどると、ダイアナが客に首を締められている場面に出くわした。(略)

これが原因となってジミはダイアナの仕事に嫌な顔をするようになった。(略)

[ダイアナが逮捕されて親元へ返されたが、再度ジミのところへ。ダイアナは妊娠し売春をやめたがジミの稼ぎでは食えず万引でしのぐ。バットを持った店主においかけられ]

ジミはたびたび激しい怒りをあらわにした。「こんなクソみたいな状況は変えなければならない。もうやってられないよ。犬死はしたくないんだ」(略)

[ダイアナと別れ白人のキャロル・シロキーと交際]

キャロルもまた売春婦だったが、街頭には立たないコールガールだった。(略)

 キャロルをつうじて、ジミはマイク・クアジーと知り合った。クアジーは西四十四丁目のアフリカン・ルームで働き “スパイダー・キング”として知られるエンターティナーだった。(略)[61年に]ライフの表紙を飾り、リンボーダンスをアメリカに広めた人物だった。一八八センチの長身で、地上から五センチの棒の下を、体を揺すりながらくぐることができた。(略)

のちにジミが世界に衝撃をあたえる行動――スカーフを巻いたり、ギターを膝の上で演奏したり、花火を使ったり――はクアジーの真似だった。

次回に続く。