- 契約
- ギター破壊
- 公式プロフィール
- ピート・タウンゼント、エリック・クラプトン
- レコーディング
- 紫のけむり
- サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ
- ロジャー・メイヤー
- サージェント・ペパーズ
- モンタレー・ポップ・フェスティバル
前回の続き。
契約
フランスに発つ前、バンドの三人はチャンドラーとジェフリーと、プロダクションの契約を結んだ。その契約書によると、バンドによるすべての収入の二〇%をチャンドラーとジェフリーが受け取り、バンドはレコード売り上げの印税から二・五%を分け合うことになっていた。(略)
その後六年に渡る期間でジミが作曲で得る利益の五〇%をチャンドラーが受け取ることになった。バンドは将来の稼ぎを見込んで、まずは週に十五ポンドの給料を受け取った。
ジミは週に十五ポンドでも充分すぎるほど満足していた。いつもどおり、ジェフリーとチャンドラーとの契約書にも読まずに署名をし、前払いでもらえる金額のことだけを気にしていた。
(略)
常軌を逸した服装で、ジミは人生で初めてファッションの流行の最先端に立った。(略)
「彼の名が知れ渡る前から、彼は『女の子の部屋に入ってクローゼットの服を全部着たような格好をしたやつ』として知られていた」。お下がりの古着ばかり着て育った少年は、突然、ヴィンテージシックの探求を始めた人間のひとりとして、流行の仕掛け人の座につくことになった。
(略)
パリ公演の一週間後、そしてジミがイギリスに到着した翌日から一ヵ月後、チャンドラーは「ヘイ・ジョー」を初めてのシングルとして録音するため、バンドをスタジオへ連れて行った。B面にジミは「マーシー・マーシー」を提案したが、出版でも金を稼ぎたかったらオリジナル曲を書け、とチャンドラーは言った。ソングライターとしての自信はまだなかったが、チャンドラーに激励され、ジミはひと晩で「ストーン・フリー」を書きあげ、それが初めて最後まで完成させた曲となった。チャンドラーは、ジミの初期の作曲を手助けするには、自分の感情を書き出せ、と言うだけで充分だったと言う。
ギター破壊
[投げつけた衝撃でネックが割れた]ことに腹を立てたジミは、新しい楽器には二ヵ月分の給料が必要だと知りながら、ネックを掴んで頭の上に振り上げ、怒りの力にまかせてそれをステージに叩きつけた。(略)
客は狂ったように手を打ち鳴らし、ショーが終わるとジミをステージから引きずり降ろした。客のそんな反応を見て、チャンドラーはこれからのいくつかのショーで、ジミにもっとギターを壊させようと決意した。ギターの破壊は――ほとんどの場合、同じギターを毎晩くっつけなおしていたのだが――(略)ほかの芸でも客を盛り上げられなかったときに披露されるようになった。(略)
初めてのギターを手に入れることを長いこと憧れ続けていた少年は、今はステージの上でそれを破壊していた。
公式プロフィール
十一月になると、広報係のトニー・ガーランドがマスコミ用の公式プロフィールを書き始めた。
(略)
ジミがそれまで一緒にやってきた伝説のR&Bバンドの名を挙げると、ガーランドはそれを容易には信じられなかった。ある晩、キング・カーティスのレコードを聴いているとき、ガーランドはこのギタリストが誰だか知っているか、とジミに訊ねた。「これは俺だよ、くそったれ」ジミはにやりと笑って言った。(略)
すり減った靴底のせいでジミは変な歩き方をするのだろうとも思われたが、ジミが靴を新調し、つま先の四角いスタイリッシュなサイズ十一のキューバンブーツに履き替えても、内股で歩く奇妙な歩き方は変わらなかった。「ジミが歩くのを見ていると、子ども時代にサイズの合わない靴を履かされていて、歩き方がおかしくなってしまったんだろうということがわかったよ」とエリック・バードンは言う。「つま先で三角形を描いているような歩き方だった」
ピート・タウンゼント、エリック・クラプトン
レコーディングスタジオを見て回っているときに、ジミはザ・フーに初めて会った。「だらしのない格好をしていて、どうってことない男にしか見えなかった」とピート・タウンゼントは言う。ドラマーのキース・ムーンは機嫌が悪く「野蛮人をここに入れたのは誰だよ?」と叫び続けていたが、ジミはそれを無視しようとした。
(略)
数日後、タウンゼントは初めてジミの演奏を見て、ようやくみんなが騒いでいるわけがわかった。「すぐに彼のファンになったよ」とタウンゼントは言う。「初期にロンドンでおこなったショーはすべて観に行った。六公演くらいあったかな」。
(略)
ジミとローリング・ストーンズ のブライアン・ジョーンズはニューヨークで会っていたが、いまやジョーンズはジミの一番の支援者となって、ほかのスターたちを連れて彼の演奏を観に来るようになっていた。
(略)
ある晩のショーのあと、ジミはエリック・クラプトンのマンションに招待された。ジミはキャシーを連れて行った。クラプトンのマンションでの雰囲気は悪くなかったのだが、ジミもクラプトンもおしゃべりなほうではなかったので、会話のほとんどはお互いのガールフレンドのあいだで交わされた。ふたりのギタリストはお互いのことを尊敬していたが、あまりにも生い立ちが異なり、共通点はブルースを愛していることだけだった。「とてもぎくしゃくした雰囲気だった」とキャシー・エッチンガムは言う。
(略)
数時間後、マンションを出ると、ジミはキャシーに言った。「今のは一仕事だったな」
レコーディング
ジミの音楽の評判はギタリストのあいだでは高まっていったが、実際に金が稼げるかどうかはまだわからなかった。
(略)
「ヘイ・ジョー」が売れなければ、アルバムを出すチャンスは皆無だろう。[デモはデッカ他2社から却下]
(略)
「マネージャーたちは、売り上げを伸ばすため、レコードショップをまわってシングルを買い占めていたわ」とキャシーは言う。
(略)
バンドがよく使っていたスピードは安価で、高揚感は得られなかったが、ギグやレコーディングで徹夜するのには役立った。その冬、バンドはスタジオを借りる金を稼ぐため、イギリス中を回って演奏した。ロンドンから数時間北へ行った町でギグをしたあと急いでロンドンへもどり、スタジオ使用料の安い夜中にレコーディングをおこなうこともめずらしくなかった。
(略)
「レディ・ステディ・ゴー!」のために「ヘイ・ジョー」を収録した晩は、CBSスタジオで「レッド・ハウス」「フォクシー・レディ」「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」のレコーディングをおこなった。スタジオ・エンジニアのマイク・ロスが驚いたことに、スタッフはマーシャルのツインのスタックアンプを四セット、つまりスピーカーが八台もある機材を運び込んだ。ロスがすべてのスピーカーにマイクをつけて欲しいのかと聞くと、ジミは、マイクはひとつだけ、三・五メートルほど離れたところに設置して欲しい、と言った。バンドの演奏が始まると、鼓膜を破るような大音量で、ロスはコントロール室へ退散しなければならなかった。「スタジオであんなでかい音は聴いたことがなかったよ」と口スは言う。「耳が痛くなった」
(略)
一九六七年の一月、アルバムをとにかく早く仕上げる必要があったため、ジミは一日おきに曲を書いていた。その冬は、意識しなくても曲のほうからジミのところへ来ているような気分だった。だが、「レッド・ハウス」はジミの過去の経験に基づいて書かれていた。(略)
ジミはノエルに、この歌はハイスクール時代のガールフレンド、ベティ・ジーン・モーガンのことを書いたものだ、と言った。
(略)
ジミの謎めいた思考、そしてどのように頭のなかを音楽が流れているかというのがもっともよく表れているのは「風の中のマリー」だ。十月十日の午後、ジミは自分の部屋でメロディ・メーカー誌のインタヴューを受けた。その夜はキャシーが手料理に挑戦し、ジミは彼女の料理に文句を言った。(略)
「私は本当に頭にきて、鍋をいくつも投げつけて飛び出したの」とキャシーは言う。その翌日にキャシーがもどると、ジミは「風の中のマリー」を書きあげていた。マリーはキャシーのミドルネームだった。
紫のけむり
エクスペリエンスの歴史上、一九六七年一月十一日ほど生産的な一日はなかった。バンドは一日中スタジオでレコーディングをしたあと、夜にはバッグ・オ・ネールズでショーを二回おこなった。昼間のデ・レーン・リー・スタジオでのレコーディングでは、「紫のけむり」「第五十一回記念祭」を含む数曲の録音、そして「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」の録り直しをした。その二週間前のコンサートの楽屋で、ジミは「紫のけむり」の歌詞の下書きをしていた。この曲は発表されて以来ずっと、LSDをやったあとの妄想と関連づけられることになるが、ジミはフィリップ・ホセ・ファーマーの小説「ナイト・オブ・ライト:デイ・オブ・ドリームズ」の抜粋を読み、それにそっくりな夢を見て歌にした、と言っている。歌詞の下書きの段階では、ジミはタイトルの下に“イエスの救い”とファーマーの小説の引用ではない言葉を書いていて、コーラスにしようと考えていたのかもしれない。のちにジミは、バンドの二枚目のヒットシングルとなったこの曲のヴァージョンは、短縮されていると文句を言っていた。「オリジナルのヴァージョンでは言葉がもっとたくさんあったんだ(略)とにかく頭にきたね。あんなのは『紫のけむり』じゃないんだ」
サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ
エクスペリエンスは、有名なサヴィル・シアターでおこなったザ・フーとの共演で一月を終えた。二回のショーにはレノン、マッカートニー、ジョージ・ハリスン、それからクリームのメンバーらが観に来た。(略)ジャック・ブルースは、ジミから刺激をうけて「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」のリフを書いた
ロジャー・メイヤー
『アクシス・ボールド・アズ・ラヴ』と題されることになるアルバムのレコーディングも早く進んだが、バンドがフレージングやギター・エフェクト、フィードバック、それにロジャー・メイヤーが作った機材でさまざまな実験をしたため、手こずった。メイヤーは政府の音響分析者だったが、オフにはジミー・ペイジやジェフ・ベックにファズ・ボックスなどのエフェクターを作っていた。バッグ・オ・ネールズでジミを観たメイヤーは、まるで自分のモンスターを見つけたフランケンシュタイン博士のようになり、それ以後はジミのためにもエフェクターを作っていた。メイヤーは“オクタヴィア”を造り、ジミはこれを「紫のけむり」で使用した。(略)
「ジミはいつも『口ジャー、僕たちはどんなことができるかな』と訊いていた」とメイヤーは言う。「僕たちは音を使って感情を生み出し、絵を描こうとしていた。当時は未熟なテクノロジーしかなかったけど、なにか足りないものがあれば、作っていた」。ジミはメイヤーに“真空管(ヴァルヴ)” というニックネームをつけ、僕らの秘密兵器、と呼んだ。メイヤーの発明品にくわえ、市販されているヴォックス社のワウやファズ・フェイスを使い、ジミはほかのギタリストにすぐにはまねされないような音を作り出すことができた。
会場の音響システムが悪いと、ステージ上でこのテクノロジーに悩まされることにもなった。装置が壊れたりギターのチューニングがずれたりすると、ジミはかならず機嫌が悪くなり、それは演奏にも表れた。五月二十九日のスポルディングでのショーでは、四千人のファンが見守るステージ上で、ジミはかんしゃくを起こした。ジミがギターのチューニングを合わせるために何度も休憩を取り、客が野次を飛ばし始めると、ジミは大声を上げた。「黙れ。たとえひと晩かかったとしても、俺はこのギターのチューニングを合わせるんだ」。
(略)
その晩のジミの雑然とした演奏に、観客は驚き、動揺しただろうが、前座をつとめたピンク・フロイドも同じ気持ちだった。三日後、ジミがピンク・フロイドのショーを観に行くと、自分のショーと同じくらい、スターが集まっていることに気づいた。重々しくサイケデリックなサウンドを作りだし、ジミ以上に前衛的で恐れを知らないピンク・フロイドの演奏に、ジミは勇気づけられた。
サージェント・ペパーズ
「サージェント・ペパーズ」のような曲をアルバムが出た三日後に、しかも客席にいるビートルズのメンバーを前にカバーするのは、ジミにとってもかなり勇気ある行為だった。(略)
「ビートルズのメンバーは、信じられないと言う顔をしていた」とエディ・クレーマーは言う。
(略)
カバー曲だということはわかるが、ビートルズが使っていた管楽器の代わりに、自分のギターのパートを中心としてメロディーを構成する新しいアレンジを作り出していた。「ほとんど即興だった」とノエルは言う。「だけど、僕らはすべてにおいてそうだったんだ。恐いもの知らずだった」(略)
より重要な意味をもったのは、ポール・マッカートニーの賞賛の言葉だった。「あの晩の『サージェント・ペパーズ』のカバーは、僕のキャリアのなかでも最高の名誉だった」。
ショーのあと、エクスペリエンスのメンバーは、ブライアン・エプスタインの家で開かれたプライベート・パーティに招待された。彼らを迎え入れたのは、驚いたことに、大きなマリファナたばこをくわえたマッカートニーだった。マッカートニーはそれをジミに渡し、「ものすごくよかったぜ」と言った。
(略)
[二週間後、ニューヨークに行き、ジミは]
人種が対立するこの国では、自分はアフリカ系アメリカ人なのだということを思い知らされた。バンドはチェルシーホテルにチェックインしたが、ロビーにいた女性がジミをベルボーイと勘違いし、荷物を運べと言い張ったので、バンドはホテルを出た。ジミはタクシーを停めることもできなかった。花柄のジャケットに黄緑のスカーフという突飛な格好をしていたが、人種差別を思い出すとぞっとした。五時間のフライトだけで、ジミはビートルズの親友からベルボーイまで成り下がったのだった。
モンタレー・ポップ・フェスティバル
エクスペリエンスはイベント初日の金曜日に到着した。主催者たちは十万本の蘭の花を用意し、モンタレーにいる人たち全員が髪に花を挿していた。(略)
無名の科学者、オーガスタス・オーズリー・スタンリー三世は舞台裏のミュージシャンにLSDを配って回っていた。オーズリーは自らの製造するLSDを紫にすることを好み(略)[人々が]LSDを“パープル・ヘイズ”と呼んでいることを知って、ジミは驚いた。
(略)
ジミはアンティックの軍服を着て、「僕は童貞です」(アイム・ア・ヴァージン)と書かれたバッジをつけていた
(略)
土曜日のハイライトはオーティス・レディングだった。(略)後ろで弾いていたスティーヴ・クロッパーと、ジミは舞台裏で[三年ぶりに]話した。(略)
モービー・グレープのジェリー・ミラーとの再会に喜んだ。(略)
その晩、何度もおこなわれた即興のジャムセッションのひとつで、ジミはミラーのギブソンL5のギターを借りて、試してみた。ジミはそれを、眠っている人々にかこまれた臨時ステージへ持って行った。(略)
エリック・バードンは言う。「ジミは哀愁漂う美しいメロディーを奏で始め、それから楽しいジャムセッションへ変わった」。ステージ上に誰がいたのか、証言によって異なるが、その晩、眠い目をこすりながらその場にいた客は、ジミが(略)
グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアらと、「ウォーキング・ザ・ドッグ」や「グッド・モーニング・リトル・スクールガール」を演奏したのを聴いただろう。「その頃は誰も有名じゃなかった」とジャック・キャサディーは言う。「モンタレーが独特だったのは、こういったミュージシャンたちがお互いに出会えたってことじゃないかな」。日曜日のグレイトフル・デッドのステージのあいだ、ジミは舞台裏でまたジャムセッションをおこない、ジャニス・ジョプリン、ママ・キャス、ロジャー・ダルトリー、エリック・バードン、ブライアン・ジョーンズらと「サージェント・ペパーズ」を歌った。「かなりの大音量だったよ」とバードンは言う。「ステージから降りてきたビル・グレアムに、『黙れ!ほかのショーを台無しにしてるぞ』と怒鳴られた」
(略)
以前にアメリカで失敗しているだけに、スターの地位はまだ不確かだった。(略)目立とうと、ジミはストラトにサイケデリックな渦巻き模様を描くことに、日曜の午後を費やした。
(略)
モンタレーの構成はおおざっぱで、日曜の出演順は未定だった。最後はママス・アンド・パパスが締め、ラヴィ・シャンカルが幕を開けることだけが決まっていた(略)
グレイトフル・デッドは「いつでもいい」と言った。(略)
[コイン投げで]勝ったほうが先に、負けたほうがそのあとに続く。ザ・フーが勝ち、ジミはみじめにも負けた。「お前のあとに続くなら、俺は全力を尽くすぜ」ジミはタウンゼントに、脅迫するように言った。ジミはライターオイルを探すために飛び出していき
(略)
[アル・クーパーに出くわしたジミは]自分のバンドが「ライク・ア・ローリング・ストーン」を演奏するときに一緒にやらないかと誘ったが、クーパーは断った。(略)
[ジミはママス・アンド・パパスのテントで]話をした。「そこヘオーズリーがやって来て、ジミはアシッドをやった。おかしな幻覚を見せるような品質の悪いものじゃなくて、本物だった」。
(略)
エクスペリエンスの出番がくると、ブライアン・ジョーンズがステージへ上がり、バンドを紹介した。「僕の親友、みんなと同郷の男を紹介しよう。すばらしいパフォーマーで、僕が知っている限りもっとも熱いギタリストだ。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」。バンドは「キリン・フロア」から始め、続いて「フォクシー・レディ」を演奏した。三曲目の「ライク・ア・ローリング・ストーン」でようやく客はのり始めた。ジミのアルバムがアメリカで発売されていなかったので、客が知っている曲はこれだけだったのだ。「その頃には、客はみんな口をぽかーんと開けていた」(略)
「その場をめちゃくちゃにしてやった」とノエルは言う。「大成功だった。アメリカでのバンドの成功が、あの場で決まった」
ジミの唯一のミスは、「風の中のマリー」でギターのチューニングがひどく狂ってしまったことだった。そのステージのためにギターを塗ったので、楽器を変えることはできなかった。チューニングがそれほど問題にならない「紫のけむり」はフィードバックを使いながら苦労して弾き終えた。それが終わると、ジミは観客にむかって言った。「俺はこれから、ここにあるとても大切なものを捧げるよ。気が変になったわけじゃないから、ばからしいと思わないでくれ。俺はこうすることしかできないんだ」。「ワイルド・シング」を弾き始めながら、シミはそれを「イギリスとアメリカ、両方の賛歌」と呼んだ。曲が始まって二分ほどすると、ジミはロンソンのライターオイルの缶を掴み、ギターに火をつけた。ギターの上にまたがってオイルをかけ、そのうちひざまずいて、ブードゥー教の祈祷師のように指を動かし始めた。この芸をやったことはあったが、映画を撮影しているカメラや、モンタレーへやって来た千二百人の記者、評論家、レポーターなどのジャーナリストたちの前でやるのは初めてだった。
(略)
アンディ・ウォーホルとニコが最初にジミを舞台裏で迎えた。ショーの前には、ふたりはジミのことなど気にとめていなかったが、今度は社交界にデビューを果たした娘を迎えるフランスのおばあさんのように抱きしめ、両方の頬にキスをした。のちにニコは、ジミのモンタレーのパフォーマンスは見たこともないほど「セクシーだった」と言っている。
(略)
「あれはジミのデビューパーティだった」とエリック・バードンは言う。「彼はレンガを持って来て、記念碑を造りだす準備を始めていた」
次回に続く。