小説世界のロビンソン その2

前回の続き。 

小説世界のロビンソン

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 第十五章 1952年のスリリングな読書

 ぼくらは、次々に発表される〈新しい小説〉、訳されるカミュカフカを読みながら、並行して、バルザックサッカレードストエフスキーを読む、という〈二重の読書〉をしなければならなかったし、古典の方が新しく感じられることもあった。

 ところで、家の中での自分をはんぱ者と感じていたぼくは、カフカの「変身」を、あたかも私小説のように読んだ。

 若者の常で、もう少し、実験小説っぽい作品を読みたいと思っていたところにあらわれたのが、ジイドの「贋金つくり」である。すでに斜めには読んでいたが、新潮社の「アンドレ・ジイド全集」全十六巻が前年秋に完結し、そのせいかどうか、「贋金つくり」は言及される機会が多く、〈純粋小説〉(小説から、それに固有でないすべての要素を排除した小説)という名称が気になった。

 「贋金つくり」は、はるか遠く一九二六年に完成したものだが、戦争があったりして、戦後の翻訳は出版されて間もなかったのだ。また、これは、のちに佃煮にするほど生れる〈小説についての小説〉の元祖格であり、ぼくとしても丹念に読まねばならなかったのである。

第十六章 物語の極限――「ラブイユーズ」 

(略)

 バルザックは大好きだ。小説好きで、バルザック嫌いという人はあまりいないだろうが、「谷間の百合」あたりから読み始めると、敬遠してしまうおそれがある。幸い、ぼくは「従妹ベット」「従兄ポンス」という、いちばんおいしいところから読み始め、寝食を忘れた体験がある。

(略)

バルザックを読むと元気が出てくる。なんといおうと、面白いのである。物語が面白くて、人物が面白いのだから、文句のつけようがない。しかも、読み終えると、現実の見方が変ってしまう。

 

 さて、〈物語〉である。

(略)

〈物語〉というのは、ミュージカル映画やポップスと同様に、ある種の感覚なのである。ノリと言ってもよい。その感覚さえあれば、解釈とか分類は、もう、どうでもよくなる。作者の思うがままに引きずりまわされ、どうして、どうしてこうなるの、教えて! と叫び、もし 〈大団円〉の辺りのページが抜け落ちていたら、タクシーを飛ばして、夜中にあいている本屋を探しまわる――そういうものではあるまいか。

 「パルムの僧院」「悪霊」「富士に立つ影」といった物語を読んでいる時に、物語の本質や分類なんて考えるだろうか。

(略)

第二十一章 未知との遭遇=〈大衆文芸〉 

(略)

 それにしても、〈大衆文芸〉とは何か? 〈大衆文学〉=〈大衆小説〉とはどこがちがうのか?

 この点をはっきり指摘したのは、大井廣介の名著「ちゃんばら芸術史」である。

(略)

大衆文芸の話にはいる前に、注意を喚起したいのは、大衆文芸は当時既に同時代のマゲモノ小説や探偵物(注・探偵小説)と(いっしょに)、円本の大衆文学全集に納められはしたが、当時は大衆文芸とよび、大衆文学とはよばれなかった。現在では逆に(注・ここでの〈現在〉は昭和三十四年)、大衆文学といわれ、大衆文芸とはいわれなくなっている。私はこれは、大衆文芸と大衆文学との変化がそうさせたという見解をとっている。

〈大衆文芸〉のチャンピオンは白井喬二であるが、〈大衆文芸〉という名称の発案者もまた、彼であった。自伝「さらば富士に立つ影」の中に、いきさつが記されている。

 

 雑誌『大衆文藝』の大衆の語であるが、これを民衆の意味におきかえたのはぼくであった。元来、この語は昔からあるけれど、それは仏教語として存在するだけだ。多くの信徒のことをダイス、ダイジュウと濁って発音して単なる民衆の意味はなかった。それをタイシューと清く読んで民衆の意味に用いた。一種の新造語である。

 ぼくは新しい文学を唱えるにあたって、従来の国民、人民、民衆という呼び方は上から見下ろす語気を感じるので、彼我平坦に立つ言葉として「大衆」をえらんだ。「大衆文芸」と四字にまとめたのは恐らくマスコミであろう。

 

 ともあれ、〈大衆文芸〉の運動は一つの形をとり、二十一日会が成立し、機関誌「大衆文藝」が[発刊](略)

 二十一日会参加をためらった江戸川乱歩は、(〈大衆文芸〉が)〈当時は全く耳慣れない言葉で、それだけに一種の新鮮味があった〉と回顧している。

 乱歩が参加をためらったのは、〈日本では純探偵小説の愛好家というのは、純文学の読者よりもっと少ないように思われた〉(「探偵小説四十年」)からである。探偵小説のパイオニアらしい自負であるが、結局は二十一日会に参加する。

(略)

 昭和二年から七年春にかけて六十巻刊行された平凡社の――おことわりしておくが大百科事典のあの平凡社である――「現代大衆文学全集」は、平凡社社長の下中彌三郎、編集者一人、白井喬二の三人が駿河台下のスキヤキ屋(常盤屋)の大部屋で決めた。(略)

〈大衆文芸〉を〈大衆文学〉と名づけることに白井はためらいをおぼえたが、下中のすすめる〈名称の固定化は必要〉の言葉によって割り切った。〈大衆文芸〉の名称の発案者が〈大衆文学〉という名称の普及に力を入れる、歴史の皮肉がここに見られる。

 全集の中心になったのは白井喬二であり、〈千ページ一円〉という名コピーは下中社長が作った。(ちなみに、この社長は、昭和六年に雑誌「平凡」の大失敗で、「現代大衆文学全集」の利益を失い、ピンチに立つと、「江戸川乱歩全集」を企画し、大宣伝によって平凡社を建て直す面白い人物である。)

[全六十巻中]江戸川乱歩の巻は五回目か六回目の配本で、十六万数千部。乱歩はその印税で、百七十坪の土地一杯に建った二階家を購入し、下宿屋に改造する。

「現代大衆文学全集」は、かなりの成功だったと思うが、内容は玉石混交である。

(略) 

ちゃんばら芸術史

ちゃんばら芸術史

 

〈エンタテインメント〉

(略)ぼくは小説に関して〈エンタテインメント〉なる言葉が使われるのを好まなかった。一九七〇年にはっきりそう書いているし、今でも、そうである。(略)

〈an entertainment〉という傍題が付された、グレアム・グリーンの第二作「スタンブール特急」が最初である。作者みずから〈娯楽読物〉と銘打つのは珍しく、学生だったぼくは気障な作家だと思った記憶がある。グレアム・グリーンは、〈純文学〉と〈生活のための読物〉を分けて書いたと美談のように伝えられたこともある。

 さいきん、グリーンの自伝的エッセイ「逃走の方法」を読んで、なるほど、そうだったのかと納得できた。これは一九八〇年に出版された本だから、グリーンはざっくばらんに語っている。第一作「内なる私」は八千部売れたが、次の「行動という名」と「夕暮れ時の噂」(いずれも絶版にしている)は作品的にも失敗し、「夕暮れ時の噂」は千二百部しか売れなかった。

 

同じ年の一九三一年に、わたしは生れてはじめて――その後二度とやったことはないが――読者の気に入るようにことさら意識しながら、本を書き始めた。うまくゆけば映画にもなりうるような小説を。悪魔はよくしたもので、「スタンブール特急」においてわたしの狙いは二つともあたった。

 

 なるほど、そうでしたか、というわけだが、グリーンは生れながらのサスペンス作家だから、こうしたことができたのである。

(略)

 ぼくの記憶では、日本で、みずから〈エンタテインメント〉を名乗ったのは、昭和二十年代後半に週刊誌に連載された高見順の「拐帯者」だったように思う。〈エンタテインメント〉という言葉を知らなかったから、へえ、と思った。いずれにせよ、〈エンタテインメント〉なる言葉が肯定的に使われるようになったのは一九六〇年代からだが、初めはアメリカの大衆小説(主としてミステリ)を指していた。

(略)

ほんらいの意味での〈エンタテインメント〉が盛んになったのは、一九五六年から六〇年にかけてであり、松本清張「点と線」が先がけだった。

(略)

 いわゆるアンチ・ロマンが紹介され始めたのも、この期間である。翻訳されたものには一応つき合ったけれど、結局は、〈「贋金つくり」の子供たち〉だと思いましたね。日本文学には、ロマンもないのに、アンチ・ロマンなんて関係ないという荒っぽい説もあったが、それはともかく、モノがつまらないのである。アンチ・ロマンでも、ヌーヴォー・ロマンでもいいけれども、せっかく、〈物語〉を否定するのだったら、モノが〈一級の物語〉に匹敵するくらい面白くなければ、読者としては物足りない。

(略)

 一般論として、小説という形式が十九世紀にピークに達したという事実は、よほどの偏見の持主でないかぎり、認めざるをえないと思います。ぼくが文学に興味を持ち始めたころは、〈小説は終った〉の大合唱のさなかであり、(だって、おれ、物語が好きなんだもーん!)と心の中で言いきるのが、せいぜいでした。物語=時代遅れというのが、少くとも大学の文学部のジョーシキであり、現代の小説は、プルーストジョイスから始まるというのも定説でした。(この二人は、資質がまるでちがうんですが。プルーストは二十世紀にまれな物語作家というのが、ぼくの偏見です。)

 「贋金つくり」からヌーヴォー・ロマンまでの実験は、小説という古いジャンルを、なんとか現代にマッチさせようとした試行錯誤・悪戦苦闘の歴史です。そのエネルギーたるや、大変なものなのだけれど、それはあくまで〈業界内〉の問題であって、フツーの読者には関係ないわけです。

 では、物語のほうはどうかというと、これもぱっとしないんですね。「贋金つくり」とつねに対比される大河小説「チボー家の人々」は力作ではあっても、いまいちなんです。ダレルの「アレキサンドリア・カルテット」みたいに、従来の〈物語性〉を批判しながら新しい物語をつくる手もあるのですが、インテリはともかく、フツーの読者が愛読するかどうか。

 思うに、ロマンとかアンチ・ロマンとかいう形で分けているかぎり、問題は解決しないのではないでしょうか。「ラブイユーズ」や「富士に立つ影」が、古風な物語の形をとっているにもかかわらず、なぜ面白いか、ということを本気で考えることが必要だと思います。(大岡昇平氏は枕元に「富士に立つ影」を置いていたとかで、また、佐伯彰一氏は、数年まえ、「富士に立つ影」のあまりの面白さに作者の自伝まで読んでしまったと、小生あての葉書に書いておられました。)

 ただ、ぼくの本音をいえば、小説ってのは、やはり、古いものであり、小説を書くのは、時代遅れの作業だと思います。書下ろし小説を書きすすめているあいだ、もっとも、いらいらしたのは、音が使えないことでした。効果音ではなく、音楽そのものです。映像と音の時代に、この二つが使えないのは不自由きわまりない。こうなったらもう、この〈古さ〉で開き直るしかない、と、中っ腹になっております。

カート・ヴォネガット 

 カート・ヴォネガット・ジュニアの作品が日本で本格的に紹介されたのは、一九七三年である。二月に「スローターハウス5」、十月末に「母なる夜」が出版され、日本でも、一挙に文名を高めた。(略)

 ヴォネガットの第一作「プレイヤー・ピアノ」の出版は一九五二年だから、〈長いあいだSF作家として無視された〉といわれるのだが、こういうのは結果論であって、やはり、うまく書けなかったのだと思う。伊藤典夫池澤夏樹の当時の熱っぽい解説を読むと、〈激動の六〇年代〉のあいだに、キャンパスでヴォネガットがカルト・ヒーローになり、この年(一九七三年)に「チャンピオンたちの朝食」出版とあいまって、ブームになったのが、手にとるようにわかる。まず学生たちが支持し、「スローターハウス5」で批評家が認知し始めただんどりも明らかだ。そうした波が日本に及んだのが一九七三年であり(略)色あいの違う二作が同じ年に訳されたことによって、ヴォネガットのもつ厚みと幅が日本の読者にとっても理解し易くなった。(ちなみに、アメリカの大学生が七〇年代に興味を持っていた作家は、ブローティガン、ヘッセ、トールキンらであった。)

 雑誌「プレイボーイ」のキャンディッド・インタビューの対象になるというのは、作家の人気が一般化した証拠であったが、一九七三年七月号で、ヴォネガットはこう答えている。

 

若い人のウケを狙ったなんてことは絶対にありません。……ただ、書いただけです。もしかすると、大人なら、とっくに片づいたと思っている青くさい問題を扱っているからかも知れません。

 

(略)

「母なる夜」は(略)〈モラルを意識した寓話〉だという。そのモラルとは、作者によれば、〈われわれは何かのふりをすると、そのものになってしまう。だから、なにのふりをするかは慎重に選ばなくてはいけない〉というものだ。

 第二十八章 ブローティガンの場合

(略)

 不謹慎な言い方をすれば、ブローティガンは、七〇年代後半において、もっとも今様の文学的ブランドであった。

 ぼくはすべてを読んだはずだが、小説としては「愛のゆくえ」がもっとも面白く、〈日米同時発売〉が売りだった「ソンブレロ落下す――ある日本小説」で狐が落ちた。(とはいえ、「ソンブレロ落下す」は、ぼくの「ちはやふる奥の細道」の構想に火をつけてくれたのだから、感謝しなければならない。)

(略)

(ブローティガンは七六年五月に来日していると「ソンブレロ落下す」のあとがきにあるから、ぼくが挨拶したのは、その時であろうか。とにかく、京王プラザホテルに泊まって、パチンコばかりしている、と晶文社の人が話していた。)

(略)

ぼくから見れば、ブローティガンは日本に近づき過ぎたと思う。(略)

のっぴきならぬ理由があってのことだろうが、一読者としてみると、もう少し神秘的であって欲しかったのである。

(略)

 第二十九章 J・アーヴィングの場合

 ヴォネガットブローティガンが七〇年代の日本の若者文化にあたえた影響は、五〇年代のカミュや六〇年代のアンチ・ロマンよりも広かったのではないだろうか。

 「異邦人」や数々のアンチ・ロマンは、前者が論争をひきおこしたとはいえ、あくまでも文学愛好者内部での話題であったが、ヴォネガットブローティガンはそうした枠を超えていたように思う。影響を受けたであろう世代の一人の村上春樹氏は〈僕らの世代にとってはヴォネガットブローティガンは一つの啓示だった〉と語っている(一九八六年六月号「波」)。

 誤解をおそれずに言ってしまえば、二人のアメリカ作家は〈文学だから読まれた〉のではない。作品の波長、ムードが、アメリカナイズされた日本の若い世代の感性に合ったのだ。〈文学とエンタテインメント〉という古い二元論は、読者の側に立てば、とっくに崩壊していたとおぼしい。

(略)

二人は(略)袋小路に入った現代文学の突破口だったと考えている。とくに、ヴォネガットはそうである。

第三十二章 「瘋癲老人日記」の面白さ

 大作「細雪」につづいて、「少将滋幹の母」を執筆していた時から、肉体的衰えの自覚があった。「少将滋幹の母」は、谷崎文学に否定的だった作家・批評家たちの意見をひるがえさせた重要な作品であり、野村尚吾は「伝記谷崎潤一郎」の中で、〈このころから谷崎文学の評価が大きく転換しだした〉と書いている。さらに、その大きな端緒は一九五三年に出た「現代文豪名作全集」(河出書房)の「谷崎潤一郎集」巻末の伊藤整の解説である、とも指摘している。

(略)

 

 正宗白鳥が百年か二百年に一人の偉才といったことなど知らない少年時代のぼくにとって、谷崎の「痴人の愛」はポルノグラフィー的文学であった。「蘿洞先生」や「青塚氏の話」といった奇妙な作品群にいたっては、ポルノとして読んでいた。そうした作品のみを集めた仙花紙の単行本が出まわっていたのである。ぼくにとって、谷崎潤一郎とは、まず異常性欲を描く作家であり、また、(本が高すぎて入手はできなかったが)〈高名な「細雪」の文豪〉でもあった。そして、「細雪」には、〈戦時中、出版を禁じられた〉という、いわば、レジスタンス伝説がつきまとっていた。

 六十歳をすぎた谷崎には、〈文豪〉らしからぬうさん臭さがあり、ぼくはそこが好きだった。ところが、「細雪」から「少将滋幹の母」という超メジャー路線によってぼくには遠い人となり、やがて、谷崎は初めて〈思想的〉で〈倫理的〉な作家と考えられるようになった。端緒はいわゆる〈伊藤理論〉であり、佐藤春夫が一九二七年にとなえたことから定説化した〈谷崎文学は思想的でない〉という評価への反論である。

(略)

そのことが後に、昭和三十三年に著者自撰による「谷崎潤一郎全集」全三十巻が刊行されたさい、全巻の解説を伊藤整が担当するようになったのであり、それによって「伊藤理論」が一層明細に、各作品について具体的に、適切に述べられたのである。(野村尚吾)

(略)

 我といふ人の心はただひとり我より外に知る人はなし

 

 という、諦めに近い気持を抱いていた作家が、全集の全解説を一人に任せるのは容易ならぬことである。初めて(といってもいいだろう)、自分の本質をつかんでくれた批評家に出会えた作家の喜びがうかがえる。まともな仕事を重ねて、六十歳をすぎ、まだ〈思想がない〉などと悪罵を重ねられていたのだから。

(略)

 このあとに〈今日ハ全学連ノ反主流派ノデモダソウデ……〉とあるように、登場人物たちは、六〇年安保の季節の真只中にいるのである。しかも、老人は〈デモ隊〉にはなんの興味もなく、歌舞伎を観て、伊勢丹の特選売場に向う。イタリー好みのオートクチュールの服を見て、老人は颯子にカルダンのネッカチーフを買ってやり、銀座に向って、浜作で鰻を食べる。この部分で、どうやったらデモ隊にぶつからないか、という運転手の注釈が入る。

 表層的にみれば、この小説は〈1960年度TOKYOマップ〉とでも名づけたいほどの風俗描写にみちている。颯子がみにゆく映画は「太陽がいっぱい」「黒いオルフェ」「スリ」「チャップリンの独裁者」といった、この年の最先端であり、マゾヒズム気味の老人の好む女の顔は、シモーヌ・シニョレ炎加世子と記されている。炎加世子は、まさに六〇年夏、大島渚の「太陽の墓場」で登場したのだから、老人の感度がなみなみならぬものであるのもわかる。

 谷崎は、意識的に流行語もとり入れている。颯子が「イカスノヨ」という件りは、当時でも、こういう言葉を小説に入れていいのかな、と首をひねった記憶がある。当時の先端の象徴である「アメリカン・ファーマシー」の名もちゃんと出てくる。

(略)

 日本の純文学では、〈時代背景〉や〈風俗〉を排除して、〈それらを超えた人間像〉を〈深く〉描くことが正道とされてきた。だが、「痴人の愛」ひとつをみても判るように、谷崎は風俗や西洋人の固有名詞をしつこく作中にとり入れ、養分にした。これは谷崎が〈生粋ノ江戸ッ子デアル〉ことと深い関係があるが、ここではこれ以上触れない。

(略) 

小説世界のロビンソン 小林信彦

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第二章 岩窟と地底の冒険

(略)

 野村胡堂、というと、「銭形平次」ですか、と、たいていの人が答える。それだけで、ぼくは、もう、あとの言葉をつづける気を失ってしまう。(略)

昭和初年に書かれた多くの伝奇小説や、音楽評論家(野村あらえびす)の側面は忘れられていた。

 胡堂の少年少女向きの冒険小説も、長らく忘れられていたのだが、昭和十七年になって長隆舎という出版社が、それらをまとめて出版した。(略)

 その中の一冊、「六一八の秘密」を古本屋で借りたのが熱病の始まりである。

(略)

 児童読物は、ごまかしがきかない、というのが、ぼくの持論だ。大人相手ならば、テーマがどうの、とか、流行の思潮を適当にふりかけて、読者をダマすことができるかも知れないが、子供相手では、この手が使えない。子供は、テーマなどどうでもよく、ひたすら面白さを要求して、もっと、もっと、と迫ってくるからだ。

 乱歩は、「怪人二十面相」「少年探偵団」「妖怪博士」の三作で、エネルギーを使い果した。海野十三は、「火星兵団」で全力投球をした。胡堂は(略)現在、ぼくの手元にある四作(「梵天丸五郎」「地底の都」「金銀島」「岩窟の大殿堂」)の中では、「岩窟の大殿堂」が、量質ともに、ズバ抜けている。とくに、小説としての構成の堅牢さは、ジュヴナイルには類を見ないもので(略)五十年以上まえとは信じがたい。(略)

 ひとくちでいえば、これはスピルバーグの映画「レイダース」の原型であり、プロットは、もっと良くできている。

(略)

 ヒッチコックハワード・ホークスを〈もっとも謙虚な映画監督〉とみたのはトリュフォーであるが、同じように、野村胡堂もまた、〈謙虚な大衆作家〉とみることができる。「銭形平次」を三百八十三も書いてしまったための大きな誤解があり、死後、全集はおろか、選集も出ていない、それどころか、大半の作品が入手できない、といった現状からみて言うのではない。

 野村胡堂(本名・長一)は、明治十五年、岩手県に生れた。(略)明治四十五年、報知新聞社に入社。大正三年、社会部夕刊の主任。大正五年、社会部長にすすみ、大正九年には文芸部長兼調査部長、大正十三年に編集局相談役になり(略)

本格的に小説を書き始めたのは昭和二年、四十五歳からであり、これはジャンルを問わず、日本の作家としては珍しいケースといえよう。

 唯一の弟子をもって任じる田井真孫へのインタビュー(ききては尾崎秀樹)によれば、野村部長(当時は社会部らしい)の下には鈴木茂三郎保利茂がいたという。

(略)

「私がよかったことは自然主義の害毒を受けなかったことです」(前記インタビュー)と控え目に語ったという胡堂は、小学校五、六年のぼくに、作者と読者の精神が物語のクライマックスで合一するという、この上ない幸福感を教えてくれた。

第三章 集団疎開と「夏目漱石集」 

(略)

 こうした非文化的環境の中で、どうしたわけか、ぼくの手元に、改造社版「現代日本文学全集」の「夏目漱石集」一冊があった。(略)

[漱石の作品を一冊に詰め込んだため奇妙な内容に]

(略)
企画は大正末期に練られたとおぼしい。そして、目次には、その時代の〈文壇人〉の眼に映じた漱石像が(そのままではないにせよ)反映しているように感じられる。

 ここに現れている漱石は、作家というよりは、随筆・小品を書く人である。(略)

とくに、〈シリアスな小説〉の中から、「道草」だけを入れているのが面白くない。申すまでもなく、「道草」は漱石の作品の中で、唯一、私小説的なものであり、〈拵えもの〉を極度に嫌う自然主義の作家たちに好まれた作品であった。

 かつて、ぼくは、戦中派と呼ばれるたぐいの年長者に、

「私が大学生のころ、漱石は〈教養のある大衆作家〉という風に思っていたものです。いまのような評価になったのは戦後ですね」

と言われたことがある。極論とも言いきれないのではないか。

(略)

第五章 「吾輩は猫である」と自由な小説

「トリストラム・シャンディ」が、いかに破天荒な小説かは、漱石の文章、または現物にあたって頂きたい。これにくらべれば、ラテンアメリカの実験小説などは、おとなしいものです。

 アーパー学者・研究家どもがダメなのは、ここらで、たちまち、「トリストラム・シャンディ」と「猫」を結びつけてしまうことで、――といって、それがまったく間違っているとも言えないのだから、ことはややこしいのだ。(同様に、彼らはスウィフトと「猫」を結びつけたりもする。これは、まったくアーパー的態度であり、なぜ、アーパーであるかは、あとで説明する。)

 要するに、十八世紀英文学を大学で講じていた漱石は(略)小説というものはどう書いてもいいことがわかっていたのである。

 正直なところ、ぼくは、漱石の「文学論」だの、「文学評論」だのは、この原稿を書くために、仕方なく全部を読んだのである。読んだから、わかったのだが、マイりましたね。ぼくが面白いと思って、内心、オレしかわかるまい、と自負していた、個々の小説の喜劇的想像力、手法、ギャグが、片っぱしから指摘してあるのだ。(略)

スウィフトはむろんのこと、スターンからフィールディングまで、全部、わかっていたのだ。

(略)

「トリストラム・シャンディ」と「トム・ジョウンズ」(略)[に]共通しているのは、小説はどう書いてもいい、という一事だ。「猫」の根底にあるのは、ひとくちでいえば、そういう発想、極端な自由さである。(略)

第八章 〈探偵小説〉から〈推理小説〉へ

(略)

 読者のためにつけ加えておくと、太平洋戦争のあいだ、〈探偵小説〉 は禁書であった。戦前の日本の〈探偵小説〉は、若干の作品を除いて、エロ・グロの妖しい匂いがあり、すでに昭和十四年から検閲がやかましかった。江戸川乱歩の場合、昭和十五年末になると、「怪人二十面相」のような少年物シリーズさえ、重版されなくなった、という。探偵作家は、国策にそったスパイ小説を書くか、捕物帖を書くかしかなかった。

 だから、いきなり、〈大人向き探偵小説〉に触れたときのぼくに、カルチャー・ショックがあったのは当然だった。

(略)

その意味で、「宝石」創刊号から連載が始まった横溝正史の「本陣殺人事件」は画期的であった。(略)

毎月、雑誌が出るのが待ち遠しく、最終回は疎開先から帰京した時に読んだ。金田一探偵によって明かされる事件の真相は、探偵小説を読み始めて一年にもならないぼくにとっては、非常にショッキングであった。ぼくが探偵小説好きになったのは――野村胡堂の少年物という下地があったにせよ――「本陣殺人事件」がきっかけである。

 連載が終ると、すぐに、江戸川乱歩の「『本陣殺人事件』を評す」が「宝石」にのった。(略)

 

……これは戦後最初の推理長篇小説というだけでなく、横溝君としても処女作以来はじめての純推理ものであり、又日本探偵小説界でも二、三の例外的作品を除いて、ほとんど最初の英米風論理小説であり、傑作か否かはしばらく別とするも、そういう意味で大いに問題とすべき画期的作品である。

 

(略)

それから二十八年後の一九七五年に、ぼくは横溝氏と長い対談をおこなったが、当然、この批評の話が出た。

(略)

活字になったものでは、このあとの一行が削られていた。それは、次のようなものであった。 ――ぼくは、短刀を送りつけられたように感じて、ぞっとしたよ。

 この意味を理解するには、若干の予備知識を要する。

 

 大阪薬専を卒業して神戸の薬局の若主人役をつとめていた横溝正史を東京に呼び、森下雨村にすすめて、当時の大出版社である博文館に入れたのは、江戸川乱歩である。大正十五年の話だ。乱歩・正史のあいだに、兄・弟的な感情があったといっても見当ちがいではあるまい。

 翌昭和二年、「新青年」編集長になった横溝正史アメリカ的モダニズムを誌面にとり入れる。のちの作風によって誤解されているが、横溝正史はかけ値なしのネアカ人間であった。一方、かけ値なしのネクラ人間である乱歩は「新青年」にモダニズム、ナンセンスが入るのを好まなかった。

 ネクラの兄とネアカの弟が、人嫌いの作家と気鋭の編集者になれば、ネクラの兄はいよいよ屈折してゆくはずで、しかし、この心理劇は、横溝正史結核発病によって、とりあえずの幕がおりた。

 敗戦と同時に、乱歩は、探偵小説の理論家として、指導的立場に立ち、新風を求める。ところが、(乱歩理論の)実作第一号として登場したのは、ほかならぬ横溝正史だったのである。そして、第二幕の主役は、衆目のみるところ、横溝正史であり、乱歩には実作がなかった。その乱歩が、横溝作品を認めることの苦痛と喜びが、乱歩の性格を知り尽している正史にわからぬはずがない。短刀を送りつけられたように感じて、ぞっとした、という言葉には実感があった。(略)

第十一章 遅いめざめ――1950

[昭和25年]の春ごろから、ぼくはゾッキ本屋で「太宰治全集」を少しずつ買っている。(略)

正月に新潮文庫版の「晩年」を読んで興味を抱いたのである。太宰治が亡くなったのは、前々年の六月だから、「人間失格」「斜陽」といったベストセラーは、(理解できたかどうかは別として)ブンガク少年にすすめられて読んでいた。読んではいたけれども、さらに興味をもつという風にはなれなかった。オトナの中で〈太宰ブーム〉があったことも知らなかった。(略)

 風邪で学校を休んだ二日間に、ぼくはそれらを集中的に読んだ。といっても、全部は読みきれず、福田恆存の「太宰と芥川」をはさんで、朝鮮戦争が始まっても、読みつづけた。二十代の時はもちろん、三十代になっても、ダザイ・オサムという名前を口にすると、いたたまれないほどの恥ずかしさを覚えたぼくは、いま、ようやく、平静に書けるのだが、熱病にとりつかれたような状態であった。「太宰と芥川」という評論は、これまた異常な煽動効果を持った本であって、一晩、寝つけなかったほどである。

 

 七月に入ると、この年の文学的事件である「風俗小説論」(中村光夫)が出て、いかに受験勉強中とはいえ、ぼくは熟読する。

 同じころ、これもゾッキ本屋で買ってきた大判の評論集で、中野好夫の短い二十世紀小説論を読んだ。(略)ジョイスの「ユリシーズ」の引用で始まっており、要するに、〈小説の解体〉を解説したものであった。

 これは、かなり、ショックであった。ようやく小説なるものに心が向き、「風俗小説論」で、〈ヨーロッパ小説の日本への間違った輸入〉がわかったとたんに、元祖であるヨーロッパの小説が、さまざまな形で解体しているというのである。(ここでつけ加えておけば、「ユリシーズ」はもとより、ヴァージニア・ウルフも、カフカも、プルーストも、この時点では翻訳がなかった。(略))

 ぼくが本にしがみついていたのは、恐怖心からだった気がしないでもない。(略)この年代の少年特有の不安に加えて、六月二十五日に勃発した朝鮮戦争の恐怖で息苦しいほどだった。

 七月二十八日には、新聞・放送界のレッド・パージがおこなわれ、八月十日に警察予備隊令が公布される。精神的に緊張しっ放しの夏で、共産主義も困るがレッド・パージも困るぼくにとっては、奇妙な夏休みでしたというほかない。

(略)

夏休みが終ったあと、ぼくは[太宰治全集]十四冊を燃してしまう決心をしている。作家の魔力に抗しきれなくなったのであろう。

 むろん、実行しはしない。〈決心をする〉ことに意味があるので、じっさいは、どうということはないのだが、日記の文章が〈文学的〉になっているのは失笑ものである。

 以後、あまり本を読まなくなっているのは、勉強が忙しくなったせいもあるが、九月十五日に国連軍が仁川に奇襲上陸して、形勢が逆転し、精神的にゆとりができたのだろう。十月に入ると、北上した国連軍は三十八度線を突破する。

 十一月に入ると、堀辰雄の「美しい村」、三島由紀夫の「愛の渇き」、大岡昇平の「武蔵野夫人」を読んでいる。「武蔵野夫人」は発売された日に買っているが、グリーンの帯にある〈福田恆存氏のいう通り「浮雲」以来といってもよいでしょう〉という推薦文が効いた。試験の終った日の午後から夜にかけて読み耽り、長い感想を日記にしるしている。

(略)

 小説をもっぱら物語として読む、という健全なあり方をつづけてきたぼくは、そうではない、商人の長男にあるまじき読み方があることを、太宰治やヘッセの「車輪の下」で覚えた。

 第十二章 太宰治――マイ・コメディアン

(略)[西武ブックセンターで]〈太宰治関係書フェア〉といった眺めに呆然としたのは確かである。

 

 太宰治に関しては、何を書いても、石が飛んでくるという気がする。(略)ぼく自身、他人が太宰治をホメていたりすると、内心、バカが……と呟いたりするからである。熱狂的な信者でないぼくにしてそうなのだから、推して知るべし。太宰治のカリスマ性のなせるわざである。

(略)

昭和二十年代前半には、太宰治についての評論のたぐいはほぼこれだけである。太宰治論や研究が輩出するのは昭和三十一年以降であるから、ぼくの記憶にある太宰は〈黙殺された天才〉――ということになる。この点で、教科書で太宰治の名を知った三十代、二十代の人とは、話が噛み合わないのが当然である。

 しかしながら、驚くばかりの研究書ラッシュにもかかわらず、亡くなるまえの太宰治のそばにいた編集者二人(略)が沈黙を守っているのが、ずっと気になっていた。

 その一人である野原一夫が「回想太宰治」を「新潮」に発表したのは一九八〇年の早春だった。とかく、揣摩臆測に彩られがちだった太宰の晩年についての冷静かつ緻密な〈回想〉で、ぼくはいっきに読んだ。(略)太宰治が孤立と自殺に追いつめられてゆくプロセスが手にとるように読みとれる。

 著者・野原一夫が初めて太宰の作品を読んだのは昭和十五年秋であった。〈目から鱗が落ちるとはこういう感じを言うのかと思った。〉

 ぼくの感じ方も、ほぼ、このようなものである。自分とまったく関係のない、とくに興味をもっているわけでもない作家が、不意にこちらを向き、低い声で「きみだけに、ぼくの秘密を打ち明けようか」と切り出したとしたら、どうするか。

 しかも、その〈秘密〉を打ち明けるまでの芸がこまかい。

(略)

 今日、太宰治といえば→「斜陽」「人間失格」→暗い→文学した人――という連想パターンがあって、これが一般的な肖像になるのだろう。(略)

 しかしながら、ぼくは、初めから、中期の(作家が結婚し、精神がとりあえず安定した時期の)「富嶽百景」や「駈込み訴え」、とりわけ、空襲のさなかに書かれた「お伽草紙」が好きであり、現在でも、考えは変っていない。滑稽、かるみ、というこの作家のプラスの札が躍動しているのは「お伽草紙」のようなホラ話の世界なのではないか。ここでいうホラ話とは、極端な誇張によって真実を語るというほどの意味だが、「お伽草紙」の翌年(昭和二十一年)の「親友交歓」ぐらいまでは、そうしたゆとりがあったとおぼしい。

(略)

 昭和二十三年に執筆された福田恆存のすぐれた「太宰治Ⅱ」には、〈「親友交歓」も「トカトントン」も、読みかたしだいでりっぱな作品になるのだ〉とあるから、たぶん、発表時には、マトモな読まれ方をされなかったのだろう。

 同じ年に、「不良少年とキリスト」(「新潮」七月号)を書いた坂口安吾は、おそらく、太宰の最良の理解者だったと思われるが、愛情をこめて、次のように批判する。

 

太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。(中略)

 太宰は、時々、ホンモノのM・Cになり、光りかがやくような作品をかいている。(略)

 

 疎開から帰ったあとの作品からは、安吾のいう〈歴史の中のMCぶり〉が急速に消えてゆく。だが、依然として〈かるみ〉を重んじていたことは、「回想太宰治」の中に描かれている。「パンドラの匣」が「看護婦の日記」の題で映画化されたとき、太宰治徳川夢声の演技が重々しすぎる、と批判した。

 

そして太宰さんは、日本人が、誠実、真面目、そんなものにだまされやすいと言い、“軽薄”の良さを説き、芭蕉の“かるみ”について語っている。(略)

「日本では、高田浩吉。あのひとには“軽薄”があるんではないかな。古いものだけど、『家族会議』、あの高田浩吉はよかった。」とも太宰さんは関千恵子さんに言っている。

 

 絶筆となった「グッド・バイ」は論じられることがめったにない作品だ。(略)「回想太宰治」で死の直前の事情を知って読むと、さらに凄い。〈見あげたM・C〉であり、日本文学に類のないシチュエーション・コメディでもある。

(略)

 ある文芸誌の編集長が、ぼくに、太宰治は、あの、いかにも〈苦悩の旗手〉めいた写真と、後年にすぐれた評論家が説得力のある太宰論を書かなかったことで、イメージが狂っているが、虚心に読めば、はばが広く、奥深い作家ですな、と語ったことがある。ぼくの答えは記すまでもない。

第十四章 ピカレスク小説

――または〈人生は冷酷な冗談〉

 大学の英文科(略)をえらぶについては、漠然とした計算もあった。卒業して、少くとも英語の教師にはなれるだろう、という考えである。

 なにしろ、新聞社とNHK(ラジオ)以外のマスメディアがなかった時代である。(略)就職の滑りどめとして(略)

〈地方で英語の先生をしながら小説を書く〉というスタイルである。

 受験のまぎわになって、とんでもないことがおこった。

 第二次大戦中に小学校教育を受けたぼくは、当然のこととして、歴史的仮名遣いを用いていた。〈現代かなづかい〉は昭和二十一年に制定され、この時、すでに五年の歳月を経ていたが、ぼくたちには強制力を持たなかった。新聞・雑誌は別だが、作家の大半は歴史的仮名遣いで書いていた。

 ところが、大学受験の時は、〈現代かなづかい〉のほうが有利だ、と教師が言い出したのである。いい悪い、や、好き嫌い、ではない。大学に入れてもらえない、というので、あわてて、〈現代かなづかい〉を覚えた。これはすぐに覚えられたが、以後、歴史的仮名遣いが書けなくなってしまった。

(略)

歴史的仮名遣いはむずかしいというのが出発当初の意見であったが、当時は講談本さえ総ルビで、ごく自然に仮名遣いをおぼえられたものだった。

(略)

 早大の面接のとき、有名な英文学者が、ぼくに、

「なぜ、英文科をえらんだのか」

と、きいた。

大きなお世話だ、と思ったが、フィールディングの世界を想い出して、

「物語性に惹かれました」

と、答えておいた。

教授であるところの英文学者は、なんともいえぬ笑いを浮べて、

「英国の小説の物語性、なんて、単純に考えられては困る。きみに言っても、わからんだろうが……ちかごろは、もっと複雑に――つまりだな、物語性というものは、もう、崩壊しておるのだよ」

と、ぼくを諭した。

 受験生であるぼくは、はい、と頷くしかなかったが、心の中では、こりゃ、大した学校じゃねえな、と呟いていた。

(略)

前にも述べたことだが、昭和二十年代後半は〈小説とは何か〉〈小説はもう終るのではないか〉という議論が盛んな時代であり、ぼくもすでに初歩的な知識は頭に入れていた。ジイドの「贋金つくり」やハックスリーの「恋愛対位法」のような〈小説についての小説〉も読んでいた。

 面接試験のとき、ぼくが、ちらと考えたのは、物語性の強い国の小説の場合は、小説の解体のしかたじたいに、ある種の物語性が含まれるのではないか、ということであった。(略)

次回に続く。

文学がこんなにわかっていいかしら 高橋源一郎

なぜメタ・フィクションが精彩を欠いているのか

 ちょっと回り道して考えてみよう。「小説についての小説」はメタ・フィクションと呼ばれるジャンルでは、いちばんありふれたやり方というか考え方なんだが、どうも最近、精彩に欠けているみたいだ。それはメタ・フィクションの世界最大の産出国アメリカも同じらしくて、ぼくの大好きなジョン・バースという禿げの作家が書いた『タイドウォーターテールズ』という弁当箱みたいにでかいメタ・フィクションの小説にでてくる作家も昔に比べて元気がなくなっている。どうしてこんなことになったんだろう。やはりメタ・フィクションの作家の一人でおばさん顔のウィリアム・ギャスという作家は『カルチャア、セルフ、アンド・スタイル』というエッセーで「六○年代のどこかでメタ・フィクションの作家の意識は読者の意識に追い越されたんじゃないか」と疑問を提出している。(略)

『神話製作機械論』の中で安田均さんがいいヒントをくれた。安田さんはSF (小説)、ゲーム、コンピューター、この三つは三角関係に陥っているのではないかと言っている。つまりSFとゲーム、ゲームとコンピューターはそれぞれうまくいっているんだが、「“友だちの友だちは――”といった論理が微妙にずれるのが、SF (小説)とコンピュータの関係ではないか」。つまり「これは、かつてSF的イメージに含まれていたコンピュータが現実に出現したさい、特にパソコンといった存在がそのイメージとかなりずれていたため、合致点の見出せない状況がいまだ続いていると見るべきではないだろうか。SFはコンピュータを一つの未来装置として想像はしたが、それがゲームを中心として、一つの表現メディアとして逆に自ら(SF)を映し出すさままでは考えられなかった。こうした一種のとまどい、もしくは、同属目的語的(歌を歌うってやつです)なわずらわしさというのが、両者の距離が一見近いように見えて遠い原因ともなっているよう」なのだ。なるほど。ぼくは安田さんのこの推論はメタ・フィクションに応用できるんじゃないかと思った。つまり、メタ・フィクションは小説の虚構性を強く押し出す考え方でそれはもちろん小説の発生以来ずっとあったんだが、どういうわけだか最近になってそんなメタ・フィクションの作家の強い虚構意識に負けないほどテンションの高い虚構意識の持ち主が小説とは全然関係ないところに大量に発生しだしたんだ。そういうニュータイプの連中は、虚構意識の強さという点ではメタ・フィクションの作家と共通しながら、実は「合致点が見出せない」んじゃないかと思う。虚構に対しての接し方が違うんだ。身の周りに溢れる虚構を空気みたいに吸って成長してきた連中にすれば、「小説の小説」なんてまわりくどいことをやってる作家なんか「ダサイねえ」ということになってしまうだろう。ストーリーならもういやというほど世界に充満している。「ゲームにまでストーリーがあってたまるか」と言いたくなるのも無理はないんだ。 

神話製作機械論

神話製作機械論

 

吉本ばなな『満月』批評  

 

(略)では[『キッチン』を読んだ時に傍線を引いた]十七箇所の説明をします。

 ぼくは少女マンガが好きでずいぶん読んでいる。だから、少女マンガがどういうふうにすごいかもよくわかっているつもりだ。ぼくはそういう少女マンガのすごいところを自分の作品に入れられないかとやってみたこともあるけど駄目だった。ぼくは感受性の硬直したただの純文学おじさんだったんだ。がっかりだよ。ところで、すごいすごいと言うけど、少女マンガのどこがそんなにすごいんだと言われるだろう。最近こんなことがあった。アメリカではなぜかやたらとミニマリストと呼ばれる作家がはばをきかせている。なんというか、家族のあれやこれや細かい問題をリアリズムの短篇でカッコよく書く創作科出身の若い作家たちのことなんだが、青山南さんなんかは一冊読んだらもう飽きるとおっしゃってるし、その気持ちはぼくもわかる。だって、退屈なんだから。なぜ退屈なのかを考えてみたが、その理由はすぐわかった。ミニマリストの作品には批評性が完全に欠落しているものが多いからだ。なるほど、それから、もう一つ。ミニマリストの作品の風景は少女マンガの風景と実によく似ているのに、中身がぜんぜん違うのだ。そこからぼくが導き出した結論は、ミニマリストは少女マンガを読んでいないから駄目なんだということになる。(略)

さて、以上を総合すると、「少女マンガ=なにものかへの批評性」ということになるわけです。その「なにもの」とはなにものなのか?(略)

[もう一度十七の文章]をじっくり見ていただきたい。(略)すべてが家族もしくは家族関係の通念もしくはそんな通念に支えられたあるいはそんな通念を支える言表への「ずれ」「揺らぎ」「異和」「反駁」となっているんですね。しかもその場合の表現が否定的じゃなくて、肯定的になっているところがいい。柔らかい戦い方なんだ。肯定するのは否定するよりかずっと難しい。ぼくはミニマリストたちの小説を読み、肯定することを急ぐあまり空転してしまっているのを見てそう思った。ばななさんの小説は肯定する小説だけと、一筋縄じゃない。すっごくねじれている。でも、ほんとうはねじれてない。

(略)

そのねじれているように見える分だけが(少女マンガ的な)批評性ということで(略)

『満月』になると、そういうねじれはちょっと読んだだけでは見つけにくくなる。ねじれがなくなったんじゃなくて、文章の中に吸い込まれたんだな。(略)

尾辻克彦」探検記

[尾辻克彦『贋金づかい』批評]
 「赤瀬川原平」は路上で「超芸術」を発見し感動する。「超芸術」自体はなにも生産しないし、それを発見したといっても、どうということはないのだけれど、それによって感動する者もいるということは、とりあえず感動的だ。「感動的」はいい。

 一方、「尾辻克彦」の書く短篇小説には、それ自体がまるごと「超芸術」といったおもむきがある。

(略)

 だが『贋金づかい』には「超芸術」の晴々しさが欠けているような気がする。なぜだろう。ぼくは、その最大の理由は、長篇小説はその性質上たえず作者に「物語」を要求し、そして「物語」以上に「超芸術」しにくいものはないからだと思う。「尾辻克彦」と「赤瀬川原平」は長い間、世界を「超芸術」化する作業をしつづけてきた。現代美術の世界から路上へ、文学へ、対象と視野を拡大しながら、でもそのやり方に大きな変化はなかった。そしてエイズのように「超芸術」は拡がっていった。だが、問題は「物語」だ。こいつはしぶとい。いくら叩かれても、へっちゃらな顔をして流通している。「おれが人間を必要なんじゃない、人間がおれを必要としてるんだぜ」とほざいても、こっちとしては文句も言えない。その通りなんだから。ドナルド・バーセルミという作家がいる。前衛的な美術雑誌の編集長をつとめたことのあるかれは、現代美術の影響を深く受けて、一種、オブジェのような作品を書きつづけてきた。「尾辻克彦」や「赤瀬川原平」の血縁だと、ぼくは思ってきた。かれの短篇もまた、どこか「超芸術」のように「生産制の社会からどんどんと突き出して」しまい、どういう風に解釈していいのかもわからず、ただなんとなく存在しています、といった風に存在している。バーセルミの短篇を読んでいると、「生産制の社会」とは無関係を粧っているたいていの文学が「生産制の社会」そのものに見えてくるのだ。そのバーセルミは二度、長篇小説を書き、「物語」の「超芸術」化にチャレンジした。その戦いの記録は『雪白姫』と『死父』という二つの長篇として残っている。その戦いで、バーセルミは少くとも「勝って」しまったように見える。みごとに、「物語」は「超芸術」となった。だがしかし、である。「超芸術」となった「物語」は、どうも「物語」に見えなかった。その二つの長篇は傑作であるに違いはないにしても、長い短篇にしか見えないのだった。戦って、相手を倒してみたら、実はまっ赤な贋物だった、とはあまりにもよくあるパターン(略)だが、バーセルミが倒したのは結局「物語」ではなく、「物語」はまた無傷で逃げ去ってしまったのである。「超芸術」を目指す作家が「物語」を相手とする時が来たら、

(1)「物語」も「超芸術」化する

(2)「物語」は「超芸術」化できないので、降参する

のどちらかを選ぶしかなく、そのうち(1)を選んだバーセルミは勝負に勝って試合に負けてしまったのである。とすると、「超芸術」は「物語」に白旗をあげるしかないのだろうか。

 

 『贋金づかい』の「私」は「物語」を「超芸術」化しようとはしない。だが、「私」は「物語」に降参するつもりもない、いや、したくない。じゃあ、どうしたらいい。(略)

だから「私」はイライラしている。「私」が作り出した「超芸術」のまわりには、そのイライラや悲しみがたちこめている。それが『贋金づかい』の世界だ。「私」はどうしたらいい? ぼくはどうしたらいい? そして、あなたは?

田中小実昌アメン父』評

139ページ

[植草甚一田中小実昌の文章を引用して]

ぼくの印象では、植草さんと小実昌さんはすごく似ていると思う。片方はエッセイで、片方は小説だけど、それでも、ものすごく似てる。どこが似てるかというと、距離感が似てるのだ。対象との距離のとり方だ。引用した箇所がどちらも本についてだから似ても当たり前だといわれるかもしれないけど、本に対する感じ方は二人ともそっくりだ。つまり、本はどういうものかというと、気持ちをドライヴさせてくれたり、くれなかったりするものだ、と二人は考えている。こんな短い箇所を読んでいるだけで、「本を読む」ことが単純じゃないことがわかる。それから、「本を読む」時には、いろいろな距離で読めることもわかる。批評とか、評論とか、を読むと、たいていはみんな、いきなり「意味」の中へ入りこんじゃってる。当人は大真面目なんだろうけど、それを読まされる方はたまったもんじゃない。ぼくたちが本を読んでる時の印象と、批評家がそのことについて書いてる時の印象が食い違うのは、そのためだ。「本を読む」と、ふつう最初に、感覚がドライヴされる。すごく簡単にいうと、興奮する。興奮すると、批評できないから、批評家はクールに意味を考える。すると、最初に「本」を読んだ時の印象と違ってしまう。堂々めぐりだ。じゃあ、その円環を断ち切る方法はないのだろうか。読者でも批評家でもない距離。それは書き手がいる位置だ。「本を読む」ことは、なによりも「本を書く」ことにいちばん似ているのだ。(略) 

カルヴィーノの遺言

 

[文字通り遺言となった]この『六つのメモ』は、カルヴィーノハーバード大学での連続講義用に書いておいたもの(略)

六つの要素の起源を文学史のうちに探っている。すなわち、

(1)軽さ

(2)速さ

(3)正確さ

(4)明確さ

(5)多様性

(6)一貫性

(略)

「軽さ」について書かれたこの最初のメモのいちばん最後で、カルヴィーノカフカの『バケツの騎士』という短編のことを語っている。(略)

語り手は、空のバケツにうちまたがる。するとバケツは馬のように、かれを運んでいく。

(略)

[だが石炭屋の女房は語り手を追い払う]

 

「『なんにもいらないってさ』(略)

『何でもありゃあしない。誰もいやあしない。誰の声も聞こえやしない。六時の鐘が鳴ったばかりさ。店を閉めよう。ずいぶんと冷えている。明日はまた忙しいだろうよ』

(略)

『いんごう女め』

振り返りざま、おれはどなった。(略)

『ごうつくばりめ!一番安いのをシャベルでひとすくい、たのんだだけなのに』

そんなふうにわめきながら、おれはしずしずと二度とふたたびもどれない氷の山へと昇っていった。」

(『バケツの騎士』池内紀訳)

 

(略)フォークロアの主人公たちは、カフカの主人公と同じように、みすぼらしいモップやカーペットに乗って、欲望が充たされる「魔法の王国」へ飛んでいくことができた。だが、カフカの主人公にはそんな力は与えられないのだ。

 カルヴィーノは最初のメモをこういうふうにしめくくっている。

 

カフカの主人公たちが目指す『氷の山』の向こうには、空のバケツを充たしてくれるものなどなにもありません。いや、充たされることがないからこそ、飛ぶことができるのだ、と言いかえるべきなのです。さて、わたしたちにもまた、バケツにうちまたがり、次なる千年に旅立つ時がやってきました。わたしたちのバケツは軽い。だが、その底にはほんの少しだけ、石炭が残っています。それは、いままでわたしが語ってきた、「軽さ」という名前をもつ、希望のかけらのことなのです」

 

 ここまでくればもう、「重い」も「軽い」もない。言葉だけが伝えることのできるエモーションをカフカは書き、それについてカルヴィーノは語ったのだ。

 最後に、もう一つ、詩を引用して、この時評を終わることにする。ぼくがいま、もっとも「軽ヴィーノい」と思っている現代詩人、藤井貞和さんの詩だ。もしカルヴィーノが生きていて、この詩を読めば、この『六つのメモ』にきっと引用してくれただろう。

 

「     雪、nobody

(略)

 アメリカの小学校に通わせていた日本人の子が、

 学校から帰って、友だちを探しに

 出かけて行った。しばらくして、友だちが

 見つからなかったらしく帰ってきて、

 母親に『nobody がいたよ』と

 報告した、というのである。

ここまで読んで、目を挙げたとき、きみの乗る池袋線

練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ

降る雪のなか、難渋していた

この大雪になろうとしている東京が見え

しばらくきみは『nobody』を想った

白い雪がつくる広場

東京はいま、すべてが白い広場になろうとしていた

きみは出てゆく、友だちを探しに

雪投げをしよう、ゆきだるまをつくろうよ

でも、この広場で nobody に出会うのだとしたら

帰って来ることができるかい

正確にきみの家へ

たどりつくことができるかい

しかし、白い雪を見ていると

帰らなくてもいいような気もまたして

nobody に出会うことがあったら

どこへ帰ろうか

(深く考える必要のないことだろうか。)」

今月の文学候補――その傾向と対策 

(略)

さいきん高橋は、ノースロップ・フライという批評家の本を読んでいる。このカナダ人のおっさんの書くものは、めちゃおもしろい。なんというか、わかってる! って感じがするし、すっごく頭がいいんだな。(略)

さて、このフライおじさんは『よい批評家』という本を書いている。

(略)

では、フライおじさんはどういうふうなことを書いていたのか。こんなぐあいである。

 

……言葉にはさ、およそ三つのリズムがあると思うんだけどな。一つは散文で、もう一つは韻文で、まあ、このへんのところはみんなわかってると思うけど、もう一つは、連想なんだよね。へえ、連想って、あの連想ゲームの連想だろ。それが、散文や韻文とおんなじに独自のリズムがあるなんて信じられない、っていわれるかもしれないけど、このことはすっごく重要だから、ちょっと話を聞いてもらいたいんだよね。たとえば、知らない町へ行ってさ、道がわからないとするじゃん。そういう時さ、「もうしわけありません。福武書店へ行く道がわからないのですが、どうかおしえていただけないでしょうか」っていうふうにはなかなか訊けないわけね。じゃあ、どう訊くかっていうとさ、「あの、ちょっと訊きたいんですけど、ちょっとでいいんです。道がわかんなくて。それで訊きたいんですよ。福武書店ってありますよね。そこへ行く道なんですけど、わからなくて、すいません。道、おしえてください」って訊くわけ。ちょっと、ガートルード・スタイン風だよね。ああ、でもガートルード・スタインが連想のリズムっていうわけじゃないよ。かのじょは、ちゃんとそれをクリティカルに処理してるから、ちゃんとした散文になってんのよね。

(略)

ふつうの分類じゃあ、このバカ学生がしゃべってるのも散文になっちゃうんだけど、冗談じゃない。この学生は、ただ連想でしゃべってるだけなんだ。この場合の連想は、思いつき、とか、適当に、ってこととおなじことだよ。つまりだね、連想っていっても、ジョイスが『ユリシーズ』でやったみたいに、批評にうらづけられたものと、「リス の おしゃべり」の二つがあるわけなんだ。

 さて、リズムの話はひとまずおいといて、今度は文体の話をしてみるよ。まあ、文体っていっても、この場合は、会話を念頭においてもらいたいんだな。ぼくは、文体を、「高」「中」「低」にわけて考えている。そうすると、いろいろ都合のいいことが出てくるからだ。まず「低」なんだが、こいつは、日常語っていうか、まあ、なんかそういうもんだ。あるグループでは通じるけど、別のグループには通じない会話ってあるわけだろ。そういう言葉だよ。『失楽園』を書いたミルトンは、サタンを描く時には「高」を、メランコリックな詩を書く時には「中」を、論争的な散文を書く時には「低」を使った

(略)

ひとこと、断っておくけど、文体の「低」「中」「高」と、それが文学作品だとして、その価値とはなんの関係もないよ。『ハックルベリー・フィン』は「低」文体だけど、偉大な作品だったじゃないか。そうだろ? 次は「中」だが、こいつはギリシア語でいうところの「コイネー」、考えを言葉で表現できる人間の話し方、要するに、標準語だな。そして、最後が「高」、これは威厳のある「中」文体ってことだが、「個人」が「群れ」に向かって説得する文体だと考えて。いちばんいい例は「山上の垂訓」さ。

 さて、これで、ぼくらは、三つのリズム(散文、韻文、連想)と三つの文体(「低」「中」「高」) という区分を手に入れたわけなんだけど、じつは、もっとずっと大事な、区分がある。それは、「ほんもの」と「にせもの」の区分なんだ。おやおや、ややっこしくなってきたなあ。でも、心配することはないよ。実際の例にあてはめると、ぜんぜんややこしくないんだからね。いいかい、ごくふつうで一般的な会話を想像してみるんだ。あれはなんなのだろう。ぼくの考えじゃあ、あれは「連想のリズムに基づいた、にせものの、『低』文体」なんだ。かれらは(略)なにも考えないで話してる、そういう会話の場合、話し手は、意志を伝えたいんじゃなく、ただおしゃべりしたいだけなんだ。(略)文学とはなんの関係もありゃしない。ここまでは、だれでも認めるだろうけど、じつは、この「にせもの」っていうところと、「連想の」っていうところは、ただの会話だけじゃなくて、「中」や「高」、「散文」や「韻文」にまで、すごい影響をあたえてるんだよ。この場合、書いてる当人が気づかないところがまずいんだよなあ。当人は、すっかり「ほんものの」「散文(もしくは韻文)」で、「高」(もしくは「中」)文体を駆使して、文学してるつもりなのに、ぜんぜん文学になってないってことなんだよ。シリアス・ノヴェルを書いている連中は、自分ではすっごくシリアスで、すっごく芸術してると思ってるかもしれないけど、たいていは、「連想」の影響をわるくうけてる。ぼくは、そういう作家はとても「個人」とは呼べない、そんなものはひとりごとを呟く「エゴ」にすぎないと思うんだな。「個人」の集まりは「社会」になるけど、「エゴ」はいくら集まっても「群れ(モブ)」にしかなんない。文学は「個人」と「社会」との関係なんだ。「エゴ」と「群れ」の間にあるのは、うらみがましいおしゃべりだけさ。「ほんものの」会話はフレキシブルなもんだ。相手を説得しようとする気持ちがあるからこそ、相手の目を見て話すし、話す言葉もどんどん変化していく。ところが、「連想」のリズムの影響をうけた「にせもの」の「散文」を書く連中ときたら、相手なんかぜんぜん眼中にないわけだよな。そんなのありかよ。自分がいいたいことだけいうと、あとは黙っちゃうんだぜ。それじゃあ、井戸端会議のおばちゃんよりひどいじゃねえか。まあ、とにかく、この問題はデリケートだから、あんまし図式的ないいかたはしたくないんだけど、くらくて、退屈で、閉鎖的な文学が、かっことして存在しているのには、なんつうか経済的・社会的理由があると思うんだよな。つまり、形式的っていうか、型にはまったっていうか、反射運動やきまり文句でしか表現できないグループが公認されている社会は、たえずそういう「文学」を再生産する必要があるんじゃないかってことさ。そういう連中は、独創的なものに対して、動物的かつ本能的な恐れをいだいている。かといって、はっきり「そんなのは文学じゃないよー」っていうわけでもなく、「まあ、いろいろ文学もあることだしー、書くのは自由なわけだしー、わたしはわたしの個人的なことを書けばいいわけだしー、そういうささやかなことをがんばってほりさげていきたいと思ってるわけ」とかぶつぶついうだけなんだけど、そういう紋切り型の答えは「考える」とはいわないと、ぼくは思うわけよね。(略)

 

 とまあ、フライおじさんはおおむねそういうようなことを『よい批評家』のなかで書いているのである。もちろん、フライおじさんは高橋とちがって、強烈に口ジカルな人であるから、もっと遥かに厳密にして壮大に論理を展開していることを忘れてはならない。が、それにしても、どんなに文体に変化を加えても、中身が悪影響をうけないのだから、ほんとにフライおじさんはすごい。(略)

夏休み課題図書を読む 

(略)

 3 『ぼくたちの好きな戦争』

   高橋源一郎

(略)ぼくは小林信彦さんの書く小説は大好きで、ほとんど読んでるけど、「小林信彦の集大成」とか「最高傑作」とか言われると、そうかなあと思っちゃうんだよなあ。毎日新聞文芸時評篠田一士さんが大絶讃しててね(略)、ふーんそうかなあ、ぼくにはそう思えないのは篠田一士みたく頭がよくないせいだろうかなんてちょっとひねくれた気分になってたら、朝日新聞文芸時評種村季弘さんが「ちょっとバランスが悪いんじゃないか」と書いてたのを読んだんだよ。おや、ぼくが言いたかったことを替りにきちんと言ってくれてるじゃないか。もちろんそんなことは百も承知で、小林さんもこの複眼の小説(日本とアメリカ、事実と虚構、あるいは笑いとまじめ)を書いたにちがいないけど、読んでる途中で複眼のそれぞれのピントがちがってどうしてもひっかかっちゃうのは読者であるぼくだけのせいじゃないような気がする。戦争をコミックの視点から描く小説といえば、ヘラーの『キャッチ=22」(メチャクチャ面白い)やバークの『戦争ですよ』(そんなに面白くない)やティム・オブライエンの『カチアトを追いかけて』(メチャ面白くてメチャ悲しい)なんかがあって、ぼくも小林信彦のこの小説を読むまではヘラーやティム・オブライエンのやり方を踏襲し、乗り超えるようなものにちがいないと思っていたのだけれど、読み終ってみるとかれらの作品とは大分ちがう。何と言うか、カラッとしてないんだねえ。そう、たいへん日本的な小説だって感じがするんだよ。どうして『ちはやふる 奥の細道』(ぼくはこれと、『私説東京繁昌記』が、小林信彦さんがいままでに書いた中での「最高傑作」だと思う)みたいな乾きとスピードと徹底性を採らなかったんだろう。小林信彦さんは、この小説はそんな小説ではないからそんなやり方は必要じゃないと思っているかもしれないが、ぼくは逆にこの小説はそういう小説であるべきだったと思うんだ。それをあえてしなかった理由は、小林信彦さんに「大小説」(略)への憧れがあったからだと、ぼくは思う。「大小説」に憧れない小説家はいない。もちろん、ぼくも憧れるよ。でも、ぼくはそんな「大小説」を書こうとは思わないだろう。それはひどく虚しい気がするんだ。

 ヘラーやティム・オブライエンの小説も長篇ではあるけれども決して「大小説」の方角には向いていない。かれらには「大小説」を書くために必要な確信が欠如している、と言うよりこわれてしまっているんだ。小林信彦さんの確信がどこからくるのかぼくにはわからない。ただ一つ愛読者として気がつくのは、作家小林信彦が二人いるということだ。一方の小林信彦は暗く、執念深く、ドロドロして、うらみがましく、自閉的だ(真のコメディアンはたいていこんな性格の持ち主だと、小林信彦さん本人が書いている)。もう一人の小林信彦は(略)底抜けな明るさと強靭な知性のもち主だ(略)

ヘラーやティム・オブライエンはその小説全体の印象が暗いのか明るいのかよくわからないにせよ「底が抜けている」ことだけは確かだった。小林信彦さんが目指す「大小説」(略)をコントロールする権限が前者の小林信彦さんの専横事項にならないよう、古くからの読者であるぼくは祈っているんだ。(略)