小説世界のロビンソン 小林信彦

 

小説世界のロビンソン

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第二章 岩窟と地底の冒険

(略)

 野村胡堂、というと、「銭形平次」ですか、と、たいていの人が答える。それだけで、ぼくは、もう、あとの言葉をつづける気を失ってしまう。(略)

昭和初年に書かれた多くの伝奇小説や、音楽評論家(野村あらえびす)の側面は忘れられていた。

 胡堂の少年少女向きの冒険小説も、長らく忘れられていたのだが、昭和十七年になって長隆舎という出版社が、それらをまとめて出版した。(略)

 その中の一冊、「六一八の秘密」を古本屋で借りたのが熱病の始まりである。

(略)

 児童読物は、ごまかしがきかない、というのが、ぼくの持論だ。大人相手ならば、テーマがどうの、とか、流行の思潮を適当にふりかけて、読者をダマすことができるかも知れないが、子供相手では、この手が使えない。子供は、テーマなどどうでもよく、ひたすら面白さを要求して、もっと、もっと、と迫ってくるからだ。

 乱歩は、「怪人二十面相」「少年探偵団」「妖怪博士」の三作で、エネルギーを使い果した。海野十三は、「火星兵団」で全力投球をした。胡堂は(略)現在、ぼくの手元にある四作(「梵天丸五郎」「地底の都」「金銀島」「岩窟の大殿堂」)の中では、「岩窟の大殿堂」が、量質ともに、ズバ抜けている。とくに、小説としての構成の堅牢さは、ジュヴナイルには類を見ないもので(略)五十年以上まえとは信じがたい。(略)

 ひとくちでいえば、これはスピルバーグの映画「レイダース」の原型であり、プロットは、もっと良くできている。

(略)

 ヒッチコックハワード・ホークスを〈もっとも謙虚な映画監督〉とみたのはトリュフォーであるが、同じように、野村胡堂もまた、〈謙虚な大衆作家〉とみることができる。「銭形平次」を三百八十三も書いてしまったための大きな誤解があり、死後、全集はおろか、選集も出ていない、それどころか、大半の作品が入手できない、といった現状からみて言うのではない。

 野村胡堂(本名・長一)は、明治十五年、岩手県に生れた。(略)明治四十五年、報知新聞社に入社。大正三年、社会部夕刊の主任。大正五年、社会部長にすすみ、大正九年には文芸部長兼調査部長、大正十三年に編集局相談役になり(略)

本格的に小説を書き始めたのは昭和二年、四十五歳からであり、これはジャンルを問わず、日本の作家としては珍しいケースといえよう。

 唯一の弟子をもって任じる田井真孫へのインタビュー(ききては尾崎秀樹)によれば、野村部長(当時は社会部らしい)の下には鈴木茂三郎保利茂がいたという。

(略)

「私がよかったことは自然主義の害毒を受けなかったことです」(前記インタビュー)と控え目に語ったという胡堂は、小学校五、六年のぼくに、作者と読者の精神が物語のクライマックスで合一するという、この上ない幸福感を教えてくれた。

第三章 集団疎開と「夏目漱石集」 

(略)

 こうした非文化的環境の中で、どうしたわけか、ぼくの手元に、改造社版「現代日本文学全集」の「夏目漱石集」一冊があった。(略)

[漱石の作品を一冊に詰め込んだため奇妙な内容に]

(略)
企画は大正末期に練られたとおぼしい。そして、目次には、その時代の〈文壇人〉の眼に映じた漱石像が(そのままではないにせよ)反映しているように感じられる。

 ここに現れている漱石は、作家というよりは、随筆・小品を書く人である。(略)

とくに、〈シリアスな小説〉の中から、「道草」だけを入れているのが面白くない。申すまでもなく、「道草」は漱石の作品の中で、唯一、私小説的なものであり、〈拵えもの〉を極度に嫌う自然主義の作家たちに好まれた作品であった。

 かつて、ぼくは、戦中派と呼ばれるたぐいの年長者に、

「私が大学生のころ、漱石は〈教養のある大衆作家〉という風に思っていたものです。いまのような評価になったのは戦後ですね」

と言われたことがある。極論とも言いきれないのではないか。

(略)

第五章 「吾輩は猫である」と自由な小説

「トリストラム・シャンディ」が、いかに破天荒な小説かは、漱石の文章、または現物にあたって頂きたい。これにくらべれば、ラテンアメリカの実験小説などは、おとなしいものです。

 アーパー学者・研究家どもがダメなのは、ここらで、たちまち、「トリストラム・シャンディ」と「猫」を結びつけてしまうことで、――といって、それがまったく間違っているとも言えないのだから、ことはややこしいのだ。(同様に、彼らはスウィフトと「猫」を結びつけたりもする。これは、まったくアーパー的態度であり、なぜ、アーパーであるかは、あとで説明する。)

 要するに、十八世紀英文学を大学で講じていた漱石は(略)小説というものはどう書いてもいいことがわかっていたのである。

 正直なところ、ぼくは、漱石の「文学論」だの、「文学評論」だのは、この原稿を書くために、仕方なく全部を読んだのである。読んだから、わかったのだが、マイりましたね。ぼくが面白いと思って、内心、オレしかわかるまい、と自負していた、個々の小説の喜劇的想像力、手法、ギャグが、片っぱしから指摘してあるのだ。(略)

スウィフトはむろんのこと、スターンからフィールディングまで、全部、わかっていたのだ。

(略)

「トリストラム・シャンディ」と「トム・ジョウンズ」(略)[に]共通しているのは、小説はどう書いてもいい、という一事だ。「猫」の根底にあるのは、ひとくちでいえば、そういう発想、極端な自由さである。(略)

第八章 〈探偵小説〉から〈推理小説〉へ

(略)

 読者のためにつけ加えておくと、太平洋戦争のあいだ、〈探偵小説〉 は禁書であった。戦前の日本の〈探偵小説〉は、若干の作品を除いて、エロ・グロの妖しい匂いがあり、すでに昭和十四年から検閲がやかましかった。江戸川乱歩の場合、昭和十五年末になると、「怪人二十面相」のような少年物シリーズさえ、重版されなくなった、という。探偵作家は、国策にそったスパイ小説を書くか、捕物帖を書くかしかなかった。

 だから、いきなり、〈大人向き探偵小説〉に触れたときのぼくに、カルチャー・ショックがあったのは当然だった。

(略)

その意味で、「宝石」創刊号から連載が始まった横溝正史の「本陣殺人事件」は画期的であった。(略)

毎月、雑誌が出るのが待ち遠しく、最終回は疎開先から帰京した時に読んだ。金田一探偵によって明かされる事件の真相は、探偵小説を読み始めて一年にもならないぼくにとっては、非常にショッキングであった。ぼくが探偵小説好きになったのは――野村胡堂の少年物という下地があったにせよ――「本陣殺人事件」がきっかけである。

 連載が終ると、すぐに、江戸川乱歩の「『本陣殺人事件』を評す」が「宝石」にのった。(略)

 

……これは戦後最初の推理長篇小説というだけでなく、横溝君としても処女作以来はじめての純推理ものであり、又日本探偵小説界でも二、三の例外的作品を除いて、ほとんど最初の英米風論理小説であり、傑作か否かはしばらく別とするも、そういう意味で大いに問題とすべき画期的作品である。

 

(略)

それから二十八年後の一九七五年に、ぼくは横溝氏と長い対談をおこなったが、当然、この批評の話が出た。

(略)

活字になったものでは、このあとの一行が削られていた。それは、次のようなものであった。 ――ぼくは、短刀を送りつけられたように感じて、ぞっとしたよ。

 この意味を理解するには、若干の予備知識を要する。

 

 大阪薬専を卒業して神戸の薬局の若主人役をつとめていた横溝正史を東京に呼び、森下雨村にすすめて、当時の大出版社である博文館に入れたのは、江戸川乱歩である。大正十五年の話だ。乱歩・正史のあいだに、兄・弟的な感情があったといっても見当ちがいではあるまい。

 翌昭和二年、「新青年」編集長になった横溝正史アメリカ的モダニズムを誌面にとり入れる。のちの作風によって誤解されているが、横溝正史はかけ値なしのネアカ人間であった。一方、かけ値なしのネクラ人間である乱歩は「新青年」にモダニズム、ナンセンスが入るのを好まなかった。

 ネクラの兄とネアカの弟が、人嫌いの作家と気鋭の編集者になれば、ネクラの兄はいよいよ屈折してゆくはずで、しかし、この心理劇は、横溝正史結核発病によって、とりあえずの幕がおりた。

 敗戦と同時に、乱歩は、探偵小説の理論家として、指導的立場に立ち、新風を求める。ところが、(乱歩理論の)実作第一号として登場したのは、ほかならぬ横溝正史だったのである。そして、第二幕の主役は、衆目のみるところ、横溝正史であり、乱歩には実作がなかった。その乱歩が、横溝作品を認めることの苦痛と喜びが、乱歩の性格を知り尽している正史にわからぬはずがない。短刀を送りつけられたように感じて、ぞっとした、という言葉には実感があった。(略)

第十一章 遅いめざめ――1950

[昭和25年]の春ごろから、ぼくはゾッキ本屋で「太宰治全集」を少しずつ買っている。(略)

正月に新潮文庫版の「晩年」を読んで興味を抱いたのである。太宰治が亡くなったのは、前々年の六月だから、「人間失格」「斜陽」といったベストセラーは、(理解できたかどうかは別として)ブンガク少年にすすめられて読んでいた。読んではいたけれども、さらに興味をもつという風にはなれなかった。オトナの中で〈太宰ブーム〉があったことも知らなかった。(略)

 風邪で学校を休んだ二日間に、ぼくはそれらを集中的に読んだ。といっても、全部は読みきれず、福田恆存の「太宰と芥川」をはさんで、朝鮮戦争が始まっても、読みつづけた。二十代の時はもちろん、三十代になっても、ダザイ・オサムという名前を口にすると、いたたまれないほどの恥ずかしさを覚えたぼくは、いま、ようやく、平静に書けるのだが、熱病にとりつかれたような状態であった。「太宰と芥川」という評論は、これまた異常な煽動効果を持った本であって、一晩、寝つけなかったほどである。

 

 七月に入ると、この年の文学的事件である「風俗小説論」(中村光夫)が出て、いかに受験勉強中とはいえ、ぼくは熟読する。

 同じころ、これもゾッキ本屋で買ってきた大判の評論集で、中野好夫の短い二十世紀小説論を読んだ。(略)ジョイスの「ユリシーズ」の引用で始まっており、要するに、〈小説の解体〉を解説したものであった。

 これは、かなり、ショックであった。ようやく小説なるものに心が向き、「風俗小説論」で、〈ヨーロッパ小説の日本への間違った輸入〉がわかったとたんに、元祖であるヨーロッパの小説が、さまざまな形で解体しているというのである。(ここでつけ加えておけば、「ユリシーズ」はもとより、ヴァージニア・ウルフも、カフカも、プルーストも、この時点では翻訳がなかった。(略))

 ぼくが本にしがみついていたのは、恐怖心からだった気がしないでもない。(略)この年代の少年特有の不安に加えて、六月二十五日に勃発した朝鮮戦争の恐怖で息苦しいほどだった。

 七月二十八日には、新聞・放送界のレッド・パージがおこなわれ、八月十日に警察予備隊令が公布される。精神的に緊張しっ放しの夏で、共産主義も困るがレッド・パージも困るぼくにとっては、奇妙な夏休みでしたというほかない。

(略)

夏休みが終ったあと、ぼくは[太宰治全集]十四冊を燃してしまう決心をしている。作家の魔力に抗しきれなくなったのであろう。

 むろん、実行しはしない。〈決心をする〉ことに意味があるので、じっさいは、どうということはないのだが、日記の文章が〈文学的〉になっているのは失笑ものである。

 以後、あまり本を読まなくなっているのは、勉強が忙しくなったせいもあるが、九月十五日に国連軍が仁川に奇襲上陸して、形勢が逆転し、精神的にゆとりができたのだろう。十月に入ると、北上した国連軍は三十八度線を突破する。

 十一月に入ると、堀辰雄の「美しい村」、三島由紀夫の「愛の渇き」、大岡昇平の「武蔵野夫人」を読んでいる。「武蔵野夫人」は発売された日に買っているが、グリーンの帯にある〈福田恆存氏のいう通り「浮雲」以来といってもよいでしょう〉という推薦文が効いた。試験の終った日の午後から夜にかけて読み耽り、長い感想を日記にしるしている。

(略)

 小説をもっぱら物語として読む、という健全なあり方をつづけてきたぼくは、そうではない、商人の長男にあるまじき読み方があることを、太宰治やヘッセの「車輪の下」で覚えた。

 第十二章 太宰治――マイ・コメディアン

(略)[西武ブックセンターで]〈太宰治関係書フェア〉といった眺めに呆然としたのは確かである。

 

 太宰治に関しては、何を書いても、石が飛んでくるという気がする。(略)ぼく自身、他人が太宰治をホメていたりすると、内心、バカが……と呟いたりするからである。熱狂的な信者でないぼくにしてそうなのだから、推して知るべし。太宰治のカリスマ性のなせるわざである。

(略)

昭和二十年代前半には、太宰治についての評論のたぐいはほぼこれだけである。太宰治論や研究が輩出するのは昭和三十一年以降であるから、ぼくの記憶にある太宰は〈黙殺された天才〉――ということになる。この点で、教科書で太宰治の名を知った三十代、二十代の人とは、話が噛み合わないのが当然である。

 しかしながら、驚くばかりの研究書ラッシュにもかかわらず、亡くなるまえの太宰治のそばにいた編集者二人(略)が沈黙を守っているのが、ずっと気になっていた。

 その一人である野原一夫が「回想太宰治」を「新潮」に発表したのは一九八〇年の早春だった。とかく、揣摩臆測に彩られがちだった太宰の晩年についての冷静かつ緻密な〈回想〉で、ぼくはいっきに読んだ。(略)太宰治が孤立と自殺に追いつめられてゆくプロセスが手にとるように読みとれる。

 著者・野原一夫が初めて太宰の作品を読んだのは昭和十五年秋であった。〈目から鱗が落ちるとはこういう感じを言うのかと思った。〉

 ぼくの感じ方も、ほぼ、このようなものである。自分とまったく関係のない、とくに興味をもっているわけでもない作家が、不意にこちらを向き、低い声で「きみだけに、ぼくの秘密を打ち明けようか」と切り出したとしたら、どうするか。

 しかも、その〈秘密〉を打ち明けるまでの芸がこまかい。

(略)

 今日、太宰治といえば→「斜陽」「人間失格」→暗い→文学した人――という連想パターンがあって、これが一般的な肖像になるのだろう。(略)

 しかしながら、ぼくは、初めから、中期の(作家が結婚し、精神がとりあえず安定した時期の)「富嶽百景」や「駈込み訴え」、とりわけ、空襲のさなかに書かれた「お伽草紙」が好きであり、現在でも、考えは変っていない。滑稽、かるみ、というこの作家のプラスの札が躍動しているのは「お伽草紙」のようなホラ話の世界なのではないか。ここでいうホラ話とは、極端な誇張によって真実を語るというほどの意味だが、「お伽草紙」の翌年(昭和二十一年)の「親友交歓」ぐらいまでは、そうしたゆとりがあったとおぼしい。

(略)

 昭和二十三年に執筆された福田恆存のすぐれた「太宰治Ⅱ」には、〈「親友交歓」も「トカトントン」も、読みかたしだいでりっぱな作品になるのだ〉とあるから、たぶん、発表時には、マトモな読まれ方をされなかったのだろう。

 同じ年に、「不良少年とキリスト」(「新潮」七月号)を書いた坂口安吾は、おそらく、太宰の最良の理解者だったと思われるが、愛情をこめて、次のように批判する。

 

太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。(中略)

 太宰は、時々、ホンモノのM・Cになり、光りかがやくような作品をかいている。(略)

 

 疎開から帰ったあとの作品からは、安吾のいう〈歴史の中のMCぶり〉が急速に消えてゆく。だが、依然として〈かるみ〉を重んじていたことは、「回想太宰治」の中に描かれている。「パンドラの匣」が「看護婦の日記」の題で映画化されたとき、太宰治徳川夢声の演技が重々しすぎる、と批判した。

 

そして太宰さんは、日本人が、誠実、真面目、そんなものにだまされやすいと言い、“軽薄”の良さを説き、芭蕉の“かるみ”について語っている。(略)

「日本では、高田浩吉。あのひとには“軽薄”があるんではないかな。古いものだけど、『家族会議』、あの高田浩吉はよかった。」とも太宰さんは関千恵子さんに言っている。

 

 絶筆となった「グッド・バイ」は論じられることがめったにない作品だ。(略)「回想太宰治」で死の直前の事情を知って読むと、さらに凄い。〈見あげたM・C〉であり、日本文学に類のないシチュエーション・コメディでもある。

(略)

 ある文芸誌の編集長が、ぼくに、太宰治は、あの、いかにも〈苦悩の旗手〉めいた写真と、後年にすぐれた評論家が説得力のある太宰論を書かなかったことで、イメージが狂っているが、虚心に読めば、はばが広く、奥深い作家ですな、と語ったことがある。ぼくの答えは記すまでもない。

第十四章 ピカレスク小説――または〈人生は冷酷な冗談〉

 大学の英文科(略)をえらぶについては、漠然とした計算もあった。卒業して、少くとも英語の教師にはなれるだろう、という考えである。

 なにしろ、新聞社とNHK(ラジオ)以外のマスメディアがなかった時代である。(略)就職の滑りどめとして(略)

〈地方で英語の先生をしながら小説を書く〉というスタイルである。

 受験のまぎわになって、とんでもないことがおこった。

 第二次大戦中に小学校教育を受けたぼくは、当然のこととして、歴史的仮名遣いを用いていた。〈現代かなづかい〉は昭和二十一年に制定され、この時、すでに五年の歳月を経ていたが、ぼくたちには強制力を持たなかった。新聞・雑誌は別だが、作家の大半は歴史的仮名遣いで書いていた。

 ところが、大学受験の時は、〈現代かなづかい〉のほうが有利だ、と教師が言い出したのである。いい悪い、や、好き嫌い、ではない。大学に入れてもらえない、というので、あわてて、〈現代かなづかい〉を覚えた。これはすぐに覚えられたが、以後、歴史的仮名遣いが書けなくなってしまった。

(略)

歴史的仮名遣いはむずかしいというのが出発当初の意見であったが、当時は講談本さえ総ルビで、ごく自然に仮名遣いをおぼえられたものだった。

(略)

 早大の面接のとき、有名な英文学者が、ぼくに、

「なぜ、英文科をえらんだのか」

と、きいた。

大きなお世話だ、と思ったが、フィールディングの世界を想い出して、

「物語性に惹かれました」

と、答えておいた。

教授であるところの英文学者は、なんともいえぬ笑いを浮べて、

「英国の小説の物語性、なんて、単純に考えられては困る。きみに言っても、わからんだろうが……ちかごろは、もっと複雑に――つまりだな、物語性というものは、もう、崩壊しておるのだよ」

と、ぼくを諭した。

 受験生であるぼくは、はい、と頷くしかなかったが、心の中では、こりゃ、大した学校じゃねえな、と呟いていた。

(略)

前にも述べたことだが、昭和二十年代後半は〈小説とは何か〉〈小説はもう終るのではないか〉という議論が盛んな時代であり、ぼくもすでに初歩的な知識は頭に入れていた。ジイドの「贋金つくり」やハックスリーの「恋愛対位法」のような〈小説についての小説〉も読んでいた。

 面接試験のとき、ぼくが、ちらと考えたのは、物語性の強い国の小説の場合は、小説の解体のしかたじたいに、ある種の物語性が含まれるのではないか、ということであった。(略)

次回に続く。