文学がこんなにわかっていいかしら 高橋源一郎

なぜメタ・フィクションが精彩を欠いているのか

 ちょっと回り道して考えてみよう。「小説についての小説」はメタ・フィクションと呼ばれるジャンルでは、いちばんありふれたやり方というか考え方なんだが、どうも最近、精彩に欠けているみたいだ。それはメタ・フィクションの世界最大の産出国アメリカも同じらしくて、ぼくの大好きなジョン・バースという禿げの作家が書いた『タイドウォーターテールズ』という弁当箱みたいにでかいメタ・フィクションの小説にでてくる作家も昔に比べて元気がなくなっている。どうしてこんなことになったんだろう。やはりメタ・フィクションの作家の一人でおばさん顔のウィリアム・ギャスという作家は『カルチャア、セルフ、アンド・スタイル』というエッセーで「六○年代のどこかでメタ・フィクションの作家の意識は読者の意識に追い越されたんじゃないか」と疑問を提出している。(略)

『神話製作機械論』の中で安田均さんがいいヒントをくれた。安田さんはSF (小説)、ゲーム、コンピューター、この三つは三角関係に陥っているのではないかと言っている。つまりSFとゲーム、ゲームとコンピューターはそれぞれうまくいっているんだが、「“友だちの友だちは――”といった論理が微妙にずれるのが、SF (小説)とコンピュータの関係ではないか」。つまり「これは、かつてSF的イメージに含まれていたコンピュータが現実に出現したさい、特にパソコンといった存在がそのイメージとかなりずれていたため、合致点の見出せない状況がいまだ続いていると見るべきではないだろうか。SFはコンピュータを一つの未来装置として想像はしたが、それがゲームを中心として、一つの表現メディアとして逆に自ら(SF)を映し出すさままでは考えられなかった。こうした一種のとまどい、もしくは、同属目的語的(歌を歌うってやつです)なわずらわしさというのが、両者の距離が一見近いように見えて遠い原因ともなっているよう」なのだ。なるほど。ぼくは安田さんのこの推論はメタ・フィクションに応用できるんじゃないかと思った。つまり、メタ・フィクションは小説の虚構性を強く押し出す考え方でそれはもちろん小説の発生以来ずっとあったんだが、どういうわけだか最近になってそんなメタ・フィクションの作家の強い虚構意識に負けないほどテンションの高い虚構意識の持ち主が小説とは全然関係ないところに大量に発生しだしたんだ。そういうニュータイプの連中は、虚構意識の強さという点ではメタ・フィクションの作家と共通しながら、実は「合致点が見出せない」んじゃないかと思う。虚構に対しての接し方が違うんだ。身の周りに溢れる虚構を空気みたいに吸って成長してきた連中にすれば、「小説の小説」なんてまわりくどいことをやってる作家なんか「ダサイねえ」ということになってしまうだろう。ストーリーならもういやというほど世界に充満している。「ゲームにまでストーリーがあってたまるか」と言いたくなるのも無理はないんだ。 

神話製作機械論

神話製作機械論

 

吉本ばなな『満月』批評  

 

(略)では[『キッチン』を読んだ時に傍線を引いた]十七箇所の説明をします。

 ぼくは少女マンガが好きでずいぶん読んでいる。だから、少女マンガがどういうふうにすごいかもよくわかっているつもりだ。ぼくはそういう少女マンガのすごいところを自分の作品に入れられないかとやってみたこともあるけど駄目だった。ぼくは感受性の硬直したただの純文学おじさんだったんだ。がっかりだよ。ところで、すごいすごいと言うけど、少女マンガのどこがそんなにすごいんだと言われるだろう。最近こんなことがあった。アメリカではなぜかやたらとミニマリストと呼ばれる作家がはばをきかせている。なんというか、家族のあれやこれや細かい問題をリアリズムの短篇でカッコよく書く創作科出身の若い作家たちのことなんだが、青山南さんなんかは一冊読んだらもう飽きるとおっしゃってるし、その気持ちはぼくもわかる。だって、退屈なんだから。なぜ退屈なのかを考えてみたが、その理由はすぐわかった。ミニマリストの作品には批評性が完全に欠落しているものが多いからだ。なるほど、それから、もう一つ。ミニマリストの作品の風景は少女マンガの風景と実によく似ているのに、中身がぜんぜん違うのだ。そこからぼくが導き出した結論は、ミニマリストは少女マンガを読んでいないから駄目なんだということになる。(略)

さて、以上を総合すると、「少女マンガ=なにものかへの批評性」ということになるわけです。その「なにもの」とはなにものなのか?(略)

[もう一度十七の文章]をじっくり見ていただきたい。(略)すべてが家族もしくは家族関係の通念もしくはそんな通念に支えられたあるいはそんな通念を支える言表への「ずれ」「揺らぎ」「異和」「反駁」となっているんですね。しかもその場合の表現が否定的じゃなくて、肯定的になっているところがいい。柔らかい戦い方なんだ。肯定するのは否定するよりかずっと難しい。ぼくはミニマリストたちの小説を読み、肯定することを急ぐあまり空転してしまっているのを見てそう思った。ばななさんの小説は肯定する小説だけと、一筋縄じゃない。すっごくねじれている。でも、ほんとうはねじれてない。

(略)

そのねじれているように見える分だけが(少女マンガ的な)批評性ということで(略)

『満月』になると、そういうねじれはちょっと読んだだけでは見つけにくくなる。ねじれがなくなったんじゃなくて、文章の中に吸い込まれたんだな。(略)

尾辻克彦」探検記

[尾辻克彦『贋金づかい』批評]
 「赤瀬川原平」は路上で「超芸術」を発見し感動する。「超芸術」自体はなにも生産しないし、それを発見したといっても、どうということはないのだけれど、それによって感動する者もいるということは、とりあえず感動的だ。「感動的」はいい。

 一方、「尾辻克彦」の書く短篇小説には、それ自体がまるごと「超芸術」といったおもむきがある。

(略)

 だが『贋金づかい』には「超芸術」の晴々しさが欠けているような気がする。なぜだろう。ぼくは、その最大の理由は、長篇小説はその性質上たえず作者に「物語」を要求し、そして「物語」以上に「超芸術」しにくいものはないからだと思う。「尾辻克彦」と「赤瀬川原平」は長い間、世界を「超芸術」化する作業をしつづけてきた。現代美術の世界から路上へ、文学へ、対象と視野を拡大しながら、でもそのやり方に大きな変化はなかった。そしてエイズのように「超芸術」は拡がっていった。だが、問題は「物語」だ。こいつはしぶとい。いくら叩かれても、へっちゃらな顔をして流通している。「おれが人間を必要なんじゃない、人間がおれを必要としてるんだぜ」とほざいても、こっちとしては文句も言えない。その通りなんだから。ドナルド・バーセルミという作家がいる。前衛的な美術雑誌の編集長をつとめたことのあるかれは、現代美術の影響を深く受けて、一種、オブジェのような作品を書きつづけてきた。「尾辻克彦」や「赤瀬川原平」の血縁だと、ぼくは思ってきた。かれの短篇もまた、どこか「超芸術」のように「生産制の社会からどんどんと突き出して」しまい、どういう風に解釈していいのかもわからず、ただなんとなく存在しています、といった風に存在している。バーセルミの短篇を読んでいると、「生産制の社会」とは無関係を粧っているたいていの文学が「生産制の社会」そのものに見えてくるのだ。そのバーセルミは二度、長篇小説を書き、「物語」の「超芸術」化にチャレンジした。その戦いの記録は『雪白姫』と『死父』という二つの長篇として残っている。その戦いで、バーセルミは少くとも「勝って」しまったように見える。みごとに、「物語」は「超芸術」となった。だがしかし、である。「超芸術」となった「物語」は、どうも「物語」に見えなかった。その二つの長篇は傑作であるに違いはないにしても、長い短篇にしか見えないのだった。戦って、相手を倒してみたら、実はまっ赤な贋物だった、とはあまりにもよくあるパターン(略)だが、バーセルミが倒したのは結局「物語」ではなく、「物語」はまた無傷で逃げ去ってしまったのである。「超芸術」を目指す作家が「物語」を相手とする時が来たら、

(1)「物語」も「超芸術」化する

(2)「物語」は「超芸術」化できないので、降参する

のどちらかを選ぶしかなく、そのうち(1)を選んだバーセルミは勝負に勝って試合に負けてしまったのである。とすると、「超芸術」は「物語」に白旗をあげるしかないのだろうか。

 

 『贋金づかい』の「私」は「物語」を「超芸術」化しようとはしない。だが、「私」は「物語」に降参するつもりもない、いや、したくない。じゃあ、どうしたらいい。(略)

だから「私」はイライラしている。「私」が作り出した「超芸術」のまわりには、そのイライラや悲しみがたちこめている。それが『贋金づかい』の世界だ。「私」はどうしたらいい? ぼくはどうしたらいい? そして、あなたは?

田中小実昌アメン父』評

139ページ

[植草甚一田中小実昌の文章を引用して]

ぼくの印象では、植草さんと小実昌さんはすごく似ていると思う。片方はエッセイで、片方は小説だけど、それでも、ものすごく似てる。どこが似てるかというと、距離感が似てるのだ。対象との距離のとり方だ。引用した箇所がどちらも本についてだから似ても当たり前だといわれるかもしれないけど、本に対する感じ方は二人ともそっくりだ。つまり、本はどういうものかというと、気持ちをドライヴさせてくれたり、くれなかったりするものだ、と二人は考えている。こんな短い箇所を読んでいるだけで、「本を読む」ことが単純じゃないことがわかる。それから、「本を読む」時には、いろいろな距離で読めることもわかる。批評とか、評論とか、を読むと、たいていはみんな、いきなり「意味」の中へ入りこんじゃってる。当人は大真面目なんだろうけど、それを読まされる方はたまったもんじゃない。ぼくたちが本を読んでる時の印象と、批評家がそのことについて書いてる時の印象が食い違うのは、そのためだ。「本を読む」と、ふつう最初に、感覚がドライヴされる。すごく簡単にいうと、興奮する。興奮すると、批評できないから、批評家はクールに意味を考える。すると、最初に「本」を読んだ時の印象と違ってしまう。堂々めぐりだ。じゃあ、その円環を断ち切る方法はないのだろうか。読者でも批評家でもない距離。それは書き手がいる位置だ。「本を読む」ことは、なによりも「本を書く」ことにいちばん似ているのだ。(略) 

カルヴィーノの遺言

 

[文字通り遺言となった]この『六つのメモ』は、カルヴィーノハーバード大学での連続講義用に書いておいたもの(略)

六つの要素の起源を文学史のうちに探っている。すなわち、

(1)軽さ

(2)速さ

(3)正確さ

(4)明確さ

(5)多様性

(6)一貫性

(略)

「軽さ」について書かれたこの最初のメモのいちばん最後で、カルヴィーノカフカの『バケツの騎士』という短編のことを語っている。(略)

語り手は、空のバケツにうちまたがる。するとバケツは馬のように、かれを運んでいく。

(略)

[だが石炭屋の女房は語り手を追い払う]

 

「『なんにもいらないってさ』(略)

『何でもありゃあしない。誰もいやあしない。誰の声も聞こえやしない。六時の鐘が鳴ったばかりさ。店を閉めよう。ずいぶんと冷えている。明日はまた忙しいだろうよ』

(略)

『いんごう女め』

振り返りざま、おれはどなった。(略)

『ごうつくばりめ!一番安いのをシャベルでひとすくい、たのんだだけなのに』

そんなふうにわめきながら、おれはしずしずと二度とふたたびもどれない氷の山へと昇っていった。」

(『バケツの騎士』池内紀訳)

 

(略)フォークロアの主人公たちは、カフカの主人公と同じように、みすぼらしいモップやカーペットに乗って、欲望が充たされる「魔法の王国」へ飛んでいくことができた。だが、カフカの主人公にはそんな力は与えられないのだ。

 カルヴィーノは最初のメモをこういうふうにしめくくっている。

 

カフカの主人公たちが目指す『氷の山』の向こうには、空のバケツを充たしてくれるものなどなにもありません。いや、充たされることがないからこそ、飛ぶことができるのだ、と言いかえるべきなのです。さて、わたしたちにもまた、バケツにうちまたがり、次なる千年に旅立つ時がやってきました。わたしたちのバケツは軽い。だが、その底にはほんの少しだけ、石炭が残っています。それは、いままでわたしが語ってきた、「軽さ」という名前をもつ、希望のかけらのことなのです」

 

 ここまでくればもう、「重い」も「軽い」もない。言葉だけが伝えることのできるエモーションをカフカは書き、それについてカルヴィーノは語ったのだ。

 最後に、もう一つ、詩を引用して、この時評を終わることにする。ぼくがいま、もっとも「軽ヴィーノい」と思っている現代詩人、藤井貞和さんの詩だ。もしカルヴィーノが生きていて、この詩を読めば、この『六つのメモ』にきっと引用してくれただろう。

 

「     雪、nobody

(略)

 アメリカの小学校に通わせていた日本人の子が、

 学校から帰って、友だちを探しに

 出かけて行った。しばらくして、友だちが

 見つからなかったらしく帰ってきて、

 母親に『nobody がいたよ』と

 報告した、というのである。

ここまで読んで、目を挙げたとき、きみの乗る池袋線

練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ

降る雪のなか、難渋していた

この大雪になろうとしている東京が見え

しばらくきみは『nobody』を想った

白い雪がつくる広場

東京はいま、すべてが白い広場になろうとしていた

きみは出てゆく、友だちを探しに

雪投げをしよう、ゆきだるまをつくろうよ

でも、この広場で nobody に出会うのだとしたら

帰って来ることができるかい

正確にきみの家へ

たどりつくことができるかい

しかし、白い雪を見ていると

帰らなくてもいいような気もまたして

nobody に出会うことがあったら

どこへ帰ろうか

(深く考える必要のないことだろうか。)」

今月の文学候補――その傾向と対策 

(略)

さいきん高橋は、ノースロップ・フライという批評家の本を読んでいる。このカナダ人のおっさんの書くものは、めちゃおもしろい。なんというか、わかってる! って感じがするし、すっごく頭がいいんだな。(略)

さて、このフライおじさんは『よい批評家』という本を書いている。

(略)

では、フライおじさんはどういうふうなことを書いていたのか。こんなぐあいである。

 

……言葉にはさ、およそ三つのリズムがあると思うんだけどな。一つは散文で、もう一つは韻文で、まあ、このへんのところはみんなわかってると思うけど、もう一つは、連想なんだよね。へえ、連想って、あの連想ゲームの連想だろ。それが、散文や韻文とおんなじに独自のリズムがあるなんて信じられない、っていわれるかもしれないけど、このことはすっごく重要だから、ちょっと話を聞いてもらいたいんだよね。たとえば、知らない町へ行ってさ、道がわからないとするじゃん。そういう時さ、「もうしわけありません。福武書店へ行く道がわからないのですが、どうかおしえていただけないでしょうか」っていうふうにはなかなか訊けないわけね。じゃあ、どう訊くかっていうとさ、「あの、ちょっと訊きたいんですけど、ちょっとでいいんです。道がわかんなくて。それで訊きたいんですよ。福武書店ってありますよね。そこへ行く道なんですけど、わからなくて、すいません。道、おしえてください」って訊くわけ。ちょっと、ガートルード・スタイン風だよね。ああ、でもガートルード・スタインが連想のリズムっていうわけじゃないよ。かのじょは、ちゃんとそれをクリティカルに処理してるから、ちゃんとした散文になってんのよね。

(略)

ふつうの分類じゃあ、このバカ学生がしゃべってるのも散文になっちゃうんだけど、冗談じゃない。この学生は、ただ連想でしゃべってるだけなんだ。この場合の連想は、思いつき、とか、適当に、ってこととおなじことだよ。つまりだね、連想っていっても、ジョイスが『ユリシーズ』でやったみたいに、批評にうらづけられたものと、「リス の おしゃべり」の二つがあるわけなんだ。

 さて、リズムの話はひとまずおいといて、今度は文体の話をしてみるよ。まあ、文体っていっても、この場合は、会話を念頭においてもらいたいんだな。ぼくは、文体を、「高」「中」「低」にわけて考えている。そうすると、いろいろ都合のいいことが出てくるからだ。まず「低」なんだが、こいつは、日常語っていうか、まあ、なんかそういうもんだ。あるグループでは通じるけど、別のグループには通じない会話ってあるわけだろ。そういう言葉だよ。『失楽園』を書いたミルトンは、サタンを描く時には「高」を、メランコリックな詩を書く時には「中」を、論争的な散文を書く時には「低」を使った

(略)

ひとこと、断っておくけど、文体の「低」「中」「高」と、それが文学作品だとして、その価値とはなんの関係もないよ。『ハックルベリー・フィン』は「低」文体だけど、偉大な作品だったじゃないか。そうだろ? 次は「中」だが、こいつはギリシア語でいうところの「コイネー」、考えを言葉で表現できる人間の話し方、要するに、標準語だな。そして、最後が「高」、これは威厳のある「中」文体ってことだが、「個人」が「群れ」に向かって説得する文体だと考えて。いちばんいい例は「山上の垂訓」さ。

 さて、これで、ぼくらは、三つのリズム(散文、韻文、連想)と三つの文体(「低」「中」「高」) という区分を手に入れたわけなんだけど、じつは、もっとずっと大事な、区分がある。それは、「ほんもの」と「にせもの」の区分なんだ。おやおや、ややっこしくなってきたなあ。でも、心配することはないよ。実際の例にあてはめると、ぜんぜんややこしくないんだからね。いいかい、ごくふつうで一般的な会話を想像してみるんだ。あれはなんなのだろう。ぼくの考えじゃあ、あれは「連想のリズムに基づいた、にせものの、『低』文体」なんだ。かれらは(略)なにも考えないで話してる、そういう会話の場合、話し手は、意志を伝えたいんじゃなく、ただおしゃべりしたいだけなんだ。(略)文学とはなんの関係もありゃしない。ここまでは、だれでも認めるだろうけど、じつは、この「にせもの」っていうところと、「連想の」っていうところは、ただの会話だけじゃなくて、「中」や「高」、「散文」や「韻文」にまで、すごい影響をあたえてるんだよ。この場合、書いてる当人が気づかないところがまずいんだよなあ。当人は、すっかり「ほんものの」「散文(もしくは韻文)」で、「高」(もしくは「中」)文体を駆使して、文学してるつもりなのに、ぜんぜん文学になってないってことなんだよ。シリアス・ノヴェルを書いている連中は、自分ではすっごくシリアスで、すっごく芸術してると思ってるかもしれないけど、たいていは、「連想」の影響をわるくうけてる。ぼくは、そういう作家はとても「個人」とは呼べない、そんなものはひとりごとを呟く「エゴ」にすぎないと思うんだな。「個人」の集まりは「社会」になるけど、「エゴ」はいくら集まっても「群れ(モブ)」にしかなんない。文学は「個人」と「社会」との関係なんだ。「エゴ」と「群れ」の間にあるのは、うらみがましいおしゃべりだけさ。「ほんものの」会話はフレキシブルなもんだ。相手を説得しようとする気持ちがあるからこそ、相手の目を見て話すし、話す言葉もどんどん変化していく。ところが、「連想」のリズムの影響をうけた「にせもの」の「散文」を書く連中ときたら、相手なんかぜんぜん眼中にないわけだよな。そんなのありかよ。自分がいいたいことだけいうと、あとは黙っちゃうんだぜ。それじゃあ、井戸端会議のおばちゃんよりひどいじゃねえか。まあ、とにかく、この問題はデリケートだから、あんまし図式的ないいかたはしたくないんだけど、くらくて、退屈で、閉鎖的な文学が、かっことして存在しているのには、なんつうか経済的・社会的理由があると思うんだよな。つまり、形式的っていうか、型にはまったっていうか、反射運動やきまり文句でしか表現できないグループが公認されている社会は、たえずそういう「文学」を再生産する必要があるんじゃないかってことさ。そういう連中は、独創的なものに対して、動物的かつ本能的な恐れをいだいている。かといって、はっきり「そんなのは文学じゃないよー」っていうわけでもなく、「まあ、いろいろ文学もあることだしー、書くのは自由なわけだしー、わたしはわたしの個人的なことを書けばいいわけだしー、そういうささやかなことをがんばってほりさげていきたいと思ってるわけ」とかぶつぶついうだけなんだけど、そういう紋切り型の答えは「考える」とはいわないと、ぼくは思うわけよね。(略)

 

 とまあ、フライおじさんはおおむねそういうようなことを『よい批評家』のなかで書いているのである。もちろん、フライおじさんは高橋とちがって、強烈に口ジカルな人であるから、もっと遥かに厳密にして壮大に論理を展開していることを忘れてはならない。が、それにしても、どんなに文体に変化を加えても、中身が悪影響をうけないのだから、ほんとにフライおじさんはすごい。(略)

夏休み課題図書を読む 

(略)

 3 『ぼくたちの好きな戦争』

   高橋源一郎

(略)ぼくは小林信彦さんの書く小説は大好きで、ほとんど読んでるけど、「小林信彦の集大成」とか「最高傑作」とか言われると、そうかなあと思っちゃうんだよなあ。毎日新聞文芸時評篠田一士さんが大絶讃しててね(略)、ふーんそうかなあ、ぼくにはそう思えないのは篠田一士みたく頭がよくないせいだろうかなんてちょっとひねくれた気分になってたら、朝日新聞文芸時評種村季弘さんが「ちょっとバランスが悪いんじゃないか」と書いてたのを読んだんだよ。おや、ぼくが言いたかったことを替りにきちんと言ってくれてるじゃないか。もちろんそんなことは百も承知で、小林さんもこの複眼の小説(日本とアメリカ、事実と虚構、あるいは笑いとまじめ)を書いたにちがいないけど、読んでる途中で複眼のそれぞれのピントがちがってどうしてもひっかかっちゃうのは読者であるぼくだけのせいじゃないような気がする。戦争をコミックの視点から描く小説といえば、ヘラーの『キャッチ=22」(メチャクチャ面白い)やバークの『戦争ですよ』(そんなに面白くない)やティム・オブライエンの『カチアトを追いかけて』(メチャ面白くてメチャ悲しい)なんかがあって、ぼくも小林信彦のこの小説を読むまではヘラーやティム・オブライエンのやり方を踏襲し、乗り超えるようなものにちがいないと思っていたのだけれど、読み終ってみるとかれらの作品とは大分ちがう。何と言うか、カラッとしてないんだねえ。そう、たいへん日本的な小説だって感じがするんだよ。どうして『ちはやふる 奥の細道』(ぼくはこれと、『私説東京繁昌記』が、小林信彦さんがいままでに書いた中での「最高傑作」だと思う)みたいな乾きとスピードと徹底性を採らなかったんだろう。小林信彦さんは、この小説はそんな小説ではないからそんなやり方は必要じゃないと思っているかもしれないが、ぼくは逆にこの小説はそういう小説であるべきだったと思うんだ。それをあえてしなかった理由は、小林信彦さんに「大小説」(略)への憧れがあったからだと、ぼくは思う。「大小説」に憧れない小説家はいない。もちろん、ぼくも憧れるよ。でも、ぼくはそんな「大小説」を書こうとは思わないだろう。それはひどく虚しい気がするんだ。

 ヘラーやティム・オブライエンの小説も長篇ではあるけれども決して「大小説」の方角には向いていない。かれらには「大小説」を書くために必要な確信が欠如している、と言うよりこわれてしまっているんだ。小林信彦さんの確信がどこからくるのかぼくにはわからない。ただ一つ愛読者として気がつくのは、作家小林信彦が二人いるということだ。一方の小林信彦は暗く、執念深く、ドロドロして、うらみがましく、自閉的だ(真のコメディアンはたいていこんな性格の持ち主だと、小林信彦さん本人が書いている)。もう一人の小林信彦は(略)底抜けな明るさと強靭な知性のもち主だ(略)

ヘラーやティム・オブライエンはその小説全体の印象が暗いのか明るいのかよくわからないにせよ「底が抜けている」ことだけは確かだった。小林信彦さんが目指す「大小説」(略)をコントロールする権限が前者の小林信彦さんの専横事項にならないよう、古くからの読者であるぼくは祈っているんだ。(略)