小説世界のロビンソン その2

前回の続き。 

小説世界のロビンソン

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 第十五章 1952年のスリリングな読書

 ぼくらは、次々に発表される〈新しい小説〉、訳されるカミュカフカを読みながら、並行して、バルザックサッカレードストエフスキーを読む、という〈二重の読書〉をしなければならなかったし、古典の方が新しく感じられることもあった。

 ところで、家の中での自分をはんぱ者と感じていたぼくは、カフカの「変身」を、あたかも私小説のように読んだ。

 若者の常で、もう少し、実験小説っぽい作品を読みたいと思っていたところにあらわれたのが、ジイドの「贋金つくり」である。すでに斜めには読んでいたが、新潮社の「アンドレ・ジイド全集」全十六巻が前年秋に完結し、そのせいかどうか、「贋金つくり」は言及される機会が多く、〈純粋小説〉(小説から、それに固有でないすべての要素を排除した小説)という名称が気になった。

 「贋金つくり」は、はるか遠く一九二六年に完成したものだが、戦争があったりして、戦後の翻訳は出版されて間もなかったのだ。また、これは、のちに佃煮にするほど生れる〈小説についての小説〉の元祖格であり、ぼくとしても丹念に読まねばならなかったのである。

第十六章 物語の極限――「ラブイユーズ」 

(略)

 バルザックは大好きだ。小説好きで、バルザック嫌いという人はあまりいないだろうが、「谷間の百合」あたりから読み始めると、敬遠してしまうおそれがある。幸い、ぼくは「従妹ベット」「従兄ポンス」という、いちばんおいしいところから読み始め、寝食を忘れた体験がある。

(略)

バルザックを読むと元気が出てくる。なんといおうと、面白いのである。物語が面白くて、人物が面白いのだから、文句のつけようがない。しかも、読み終えると、現実の見方が変ってしまう。

 

 さて、〈物語〉である。

(略)

〈物語〉というのは、ミュージカル映画やポップスと同様に、ある種の感覚なのである。ノリと言ってもよい。その感覚さえあれば、解釈とか分類は、もう、どうでもよくなる。作者の思うがままに引きずりまわされ、どうして、どうしてこうなるの、教えて! と叫び、もし 〈大団円〉の辺りのページが抜け落ちていたら、タクシーを飛ばして、夜中にあいている本屋を探しまわる――そういうものではあるまいか。

 「パルムの僧院」「悪霊」「富士に立つ影」といった物語を読んでいる時に、物語の本質や分類なんて考えるだろうか。

(略)

第二十一章 未知との遭遇=〈大衆文芸〉 

(略)

 それにしても、〈大衆文芸〉とは何か? 〈大衆文学〉=〈大衆小説〉とはどこがちがうのか?

 この点をはっきり指摘したのは、大井廣介の名著「ちゃんばら芸術史」である。

(略)

大衆文芸の話にはいる前に、注意を喚起したいのは、大衆文芸は当時既に同時代のマゲモノ小説や探偵物(注・探偵小説)と(いっしょに)、円本の大衆文学全集に納められはしたが、当時は大衆文芸とよび、大衆文学とはよばれなかった。現在では逆に(注・ここでの〈現在〉は昭和三十四年)、大衆文学といわれ、大衆文芸とはいわれなくなっている。私はこれは、大衆文芸と大衆文学との変化がそうさせたという見解をとっている。

〈大衆文芸〉のチャンピオンは白井喬二であるが、〈大衆文芸〉という名称の発案者もまた、彼であった。自伝「さらば富士に立つ影」の中に、いきさつが記されている。

 

 雑誌『大衆文藝』の大衆の語であるが、これを民衆の意味におきかえたのはぼくであった。元来、この語は昔からあるけれど、それは仏教語として存在するだけだ。多くの信徒のことをダイス、ダイジュウと濁って発音して単なる民衆の意味はなかった。それをタイシューと清く読んで民衆の意味に用いた。一種の新造語である。

 ぼくは新しい文学を唱えるにあたって、従来の国民、人民、民衆という呼び方は上から見下ろす語気を感じるので、彼我平坦に立つ言葉として「大衆」をえらんだ。「大衆文芸」と四字にまとめたのは恐らくマスコミであろう。

 

 ともあれ、〈大衆文芸〉の運動は一つの形をとり、二十一日会が成立し、機関誌「大衆文藝」が[発刊](略)

 二十一日会参加をためらった江戸川乱歩は、(〈大衆文芸〉が)〈当時は全く耳慣れない言葉で、それだけに一種の新鮮味があった〉と回顧している。

 乱歩が参加をためらったのは、〈日本では純探偵小説の愛好家というのは、純文学の読者よりもっと少ないように思われた〉(「探偵小説四十年」)からである。探偵小説のパイオニアらしい自負であるが、結局は二十一日会に参加する。

(略)

 昭和二年から七年春にかけて六十巻刊行された平凡社の――おことわりしておくが大百科事典のあの平凡社である――「現代大衆文学全集」は、平凡社社長の下中彌三郎、編集者一人、白井喬二の三人が駿河台下のスキヤキ屋(常盤屋)の大部屋で決めた。(略)

〈大衆文芸〉を〈大衆文学〉と名づけることに白井はためらいをおぼえたが、下中のすすめる〈名称の固定化は必要〉の言葉によって割り切った。〈大衆文芸〉の名称の発案者が〈大衆文学〉という名称の普及に力を入れる、歴史の皮肉がここに見られる。

 全集の中心になったのは白井喬二であり、〈千ページ一円〉という名コピーは下中社長が作った。(ちなみに、この社長は、昭和六年に雑誌「平凡」の大失敗で、「現代大衆文学全集」の利益を失い、ピンチに立つと、「江戸川乱歩全集」を企画し、大宣伝によって平凡社を建て直す面白い人物である。)

[全六十巻中]江戸川乱歩の巻は五回目か六回目の配本で、十六万数千部。乱歩はその印税で、百七十坪の土地一杯に建った二階家を購入し、下宿屋に改造する。

「現代大衆文学全集」は、かなりの成功だったと思うが、内容は玉石混交である。

(略) 

ちゃんばら芸術史

ちゃんばら芸術史

 

〈エンタテインメント〉

(略)ぼくは小説に関して〈エンタテインメント〉なる言葉が使われるのを好まなかった。一九七〇年にはっきりそう書いているし、今でも、そうである。(略)

〈an entertainment〉という傍題が付された、グレアム・グリーンの第二作「スタンブール特急」が最初である。作者みずから〈娯楽読物〉と銘打つのは珍しく、学生だったぼくは気障な作家だと思った記憶がある。グレアム・グリーンは、〈純文学〉と〈生活のための読物〉を分けて書いたと美談のように伝えられたこともある。

 さいきん、グリーンの自伝的エッセイ「逃走の方法」を読んで、なるほど、そうだったのかと納得できた。これは一九八〇年に出版された本だから、グリーンはざっくばらんに語っている。第一作「内なる私」は八千部売れたが、次の「行動という名」と「夕暮れ時の噂」(いずれも絶版にしている)は作品的にも失敗し、「夕暮れ時の噂」は千二百部しか売れなかった。

 

同じ年の一九三一年に、わたしは生れてはじめて――その後二度とやったことはないが――読者の気に入るようにことさら意識しながら、本を書き始めた。うまくゆけば映画にもなりうるような小説を。悪魔はよくしたもので、「スタンブール特急」においてわたしの狙いは二つともあたった。

 

 なるほど、そうでしたか、というわけだが、グリーンは生れながらのサスペンス作家だから、こうしたことができたのである。

(略)

 ぼくの記憶では、日本で、みずから〈エンタテインメント〉を名乗ったのは、昭和二十年代後半に週刊誌に連載された高見順の「拐帯者」だったように思う。〈エンタテインメント〉という言葉を知らなかったから、へえ、と思った。いずれにせよ、〈エンタテインメント〉なる言葉が肯定的に使われるようになったのは一九六〇年代からだが、初めはアメリカの大衆小説(主としてミステリ)を指していた。

(略)

ほんらいの意味での〈エンタテインメント〉が盛んになったのは、一九五六年から六〇年にかけてであり、松本清張「点と線」が先がけだった。

(略)

 いわゆるアンチ・ロマンが紹介され始めたのも、この期間である。翻訳されたものには一応つき合ったけれど、結局は、〈「贋金つくり」の子供たち〉だと思いましたね。日本文学には、ロマンもないのに、アンチ・ロマンなんて関係ないという荒っぽい説もあったが、それはともかく、モノがつまらないのである。アンチ・ロマンでも、ヌーヴォー・ロマンでもいいけれども、せっかく、〈物語〉を否定するのだったら、モノが〈一級の物語〉に匹敵するくらい面白くなければ、読者としては物足りない。

(略)

 一般論として、小説という形式が十九世紀にピークに達したという事実は、よほどの偏見の持主でないかぎり、認めざるをえないと思います。ぼくが文学に興味を持ち始めたころは、〈小説は終った〉の大合唱のさなかであり、(だって、おれ、物語が好きなんだもーん!)と心の中で言いきるのが、せいぜいでした。物語=時代遅れというのが、少くとも大学の文学部のジョーシキであり、現代の小説は、プルーストジョイスから始まるというのも定説でした。(この二人は、資質がまるでちがうんですが。プルーストは二十世紀にまれな物語作家というのが、ぼくの偏見です。)

 「贋金つくり」からヌーヴォー・ロマンまでの実験は、小説という古いジャンルを、なんとか現代にマッチさせようとした試行錯誤・悪戦苦闘の歴史です。そのエネルギーたるや、大変なものなのだけれど、それはあくまで〈業界内〉の問題であって、フツーの読者には関係ないわけです。

 では、物語のほうはどうかというと、これもぱっとしないんですね。「贋金つくり」とつねに対比される大河小説「チボー家の人々」は力作ではあっても、いまいちなんです。ダレルの「アレキサンドリア・カルテット」みたいに、従来の〈物語性〉を批判しながら新しい物語をつくる手もあるのですが、インテリはともかく、フツーの読者が愛読するかどうか。

 思うに、ロマンとかアンチ・ロマンとかいう形で分けているかぎり、問題は解決しないのではないでしょうか。「ラブイユーズ」や「富士に立つ影」が、古風な物語の形をとっているにもかかわらず、なぜ面白いか、ということを本気で考えることが必要だと思います。(大岡昇平氏は枕元に「富士に立つ影」を置いていたとかで、また、佐伯彰一氏は、数年まえ、「富士に立つ影」のあまりの面白さに作者の自伝まで読んでしまったと、小生あての葉書に書いておられました。)

 ただ、ぼくの本音をいえば、小説ってのは、やはり、古いものであり、小説を書くのは、時代遅れの作業だと思います。書下ろし小説を書きすすめているあいだ、もっとも、いらいらしたのは、音が使えないことでした。効果音ではなく、音楽そのものです。映像と音の時代に、この二つが使えないのは不自由きわまりない。こうなったらもう、この〈古さ〉で開き直るしかない、と、中っ腹になっております。

カート・ヴォネガット 

 カート・ヴォネガット・ジュニアの作品が日本で本格的に紹介されたのは、一九七三年である。二月に「スローターハウス5」、十月末に「母なる夜」が出版され、日本でも、一挙に文名を高めた。(略)

 ヴォネガットの第一作「プレイヤー・ピアノ」の出版は一九五二年だから、〈長いあいだSF作家として無視された〉といわれるのだが、こういうのは結果論であって、やはり、うまく書けなかったのだと思う。伊藤典夫池澤夏樹の当時の熱っぽい解説を読むと、〈激動の六〇年代〉のあいだに、キャンパスでヴォネガットがカルト・ヒーローになり、この年(一九七三年)に「チャンピオンたちの朝食」出版とあいまって、ブームになったのが、手にとるようにわかる。まず学生たちが支持し、「スローターハウス5」で批評家が認知し始めただんどりも明らかだ。そうした波が日本に及んだのが一九七三年であり(略)色あいの違う二作が同じ年に訳されたことによって、ヴォネガットのもつ厚みと幅が日本の読者にとっても理解し易くなった。(ちなみに、アメリカの大学生が七〇年代に興味を持っていた作家は、ブローティガン、ヘッセ、トールキンらであった。)

 雑誌「プレイボーイ」のキャンディッド・インタビューの対象になるというのは、作家の人気が一般化した証拠であったが、一九七三年七月号で、ヴォネガットはこう答えている。

 

若い人のウケを狙ったなんてことは絶対にありません。……ただ、書いただけです。もしかすると、大人なら、とっくに片づいたと思っている青くさい問題を扱っているからかも知れません。

 

(略)

「母なる夜」は(略)〈モラルを意識した寓話〉だという。そのモラルとは、作者によれば、〈われわれは何かのふりをすると、そのものになってしまう。だから、なにのふりをするかは慎重に選ばなくてはいけない〉というものだ。

 第二十八章 ブローティガンの場合

(略)

 不謹慎な言い方をすれば、ブローティガンは、七〇年代後半において、もっとも今様の文学的ブランドであった。

 ぼくはすべてを読んだはずだが、小説としては「愛のゆくえ」がもっとも面白く、〈日米同時発売〉が売りだった「ソンブレロ落下す――ある日本小説」で狐が落ちた。(とはいえ、「ソンブレロ落下す」は、ぼくの「ちはやふる奥の細道」の構想に火をつけてくれたのだから、感謝しなければならない。)

(略)

(ブローティガンは七六年五月に来日していると「ソンブレロ落下す」のあとがきにあるから、ぼくが挨拶したのは、その時であろうか。とにかく、京王プラザホテルに泊まって、パチンコばかりしている、と晶文社の人が話していた。)

(略)

ぼくから見れば、ブローティガンは日本に近づき過ぎたと思う。(略)

のっぴきならぬ理由があってのことだろうが、一読者としてみると、もう少し神秘的であって欲しかったのである。

(略)

 第二十九章 J・アーヴィングの場合

 ヴォネガットブローティガンが七〇年代の日本の若者文化にあたえた影響は、五〇年代のカミュや六〇年代のアンチ・ロマンよりも広かったのではないだろうか。

 「異邦人」や数々のアンチ・ロマンは、前者が論争をひきおこしたとはいえ、あくまでも文学愛好者内部での話題であったが、ヴォネガットブローティガンはそうした枠を超えていたように思う。影響を受けたであろう世代の一人の村上春樹氏は〈僕らの世代にとってはヴォネガットブローティガンは一つの啓示だった〉と語っている(一九八六年六月号「波」)。

 誤解をおそれずに言ってしまえば、二人のアメリカ作家は〈文学だから読まれた〉のではない。作品の波長、ムードが、アメリカナイズされた日本の若い世代の感性に合ったのだ。〈文学とエンタテインメント〉という古い二元論は、読者の側に立てば、とっくに崩壊していたとおぼしい。

(略)

二人は(略)袋小路に入った現代文学の突破口だったと考えている。とくに、ヴォネガットはそうである。

第三十二章 「瘋癲老人日記」の面白さ

 大作「細雪」につづいて、「少将滋幹の母」を執筆していた時から、肉体的衰えの自覚があった。「少将滋幹の母」は、谷崎文学に否定的だった作家・批評家たちの意見をひるがえさせた重要な作品であり、野村尚吾は「伝記谷崎潤一郎」の中で、〈このころから谷崎文学の評価が大きく転換しだした〉と書いている。さらに、その大きな端緒は一九五三年に出た「現代文豪名作全集」(河出書房)の「谷崎潤一郎集」巻末の伊藤整の解説である、とも指摘している。

(略)

 

 正宗白鳥が百年か二百年に一人の偉才といったことなど知らない少年時代のぼくにとって、谷崎の「痴人の愛」はポルノグラフィー的文学であった。「蘿洞先生」や「青塚氏の話」といった奇妙な作品群にいたっては、ポルノとして読んでいた。そうした作品のみを集めた仙花紙の単行本が出まわっていたのである。ぼくにとって、谷崎潤一郎とは、まず異常性欲を描く作家であり、また、(本が高すぎて入手はできなかったが)〈高名な「細雪」の文豪〉でもあった。そして、「細雪」には、〈戦時中、出版を禁じられた〉という、いわば、レジスタンス伝説がつきまとっていた。

 六十歳をすぎた谷崎には、〈文豪〉らしからぬうさん臭さがあり、ぼくはそこが好きだった。ところが、「細雪」から「少将滋幹の母」という超メジャー路線によってぼくには遠い人となり、やがて、谷崎は初めて〈思想的〉で〈倫理的〉な作家と考えられるようになった。端緒はいわゆる〈伊藤理論〉であり、佐藤春夫が一九二七年にとなえたことから定説化した〈谷崎文学は思想的でない〉という評価への反論である。

(略)

そのことが後に、昭和三十三年に著者自撰による「谷崎潤一郎全集」全三十巻が刊行されたさい、全巻の解説を伊藤整が担当するようになったのであり、それによって「伊藤理論」が一層明細に、各作品について具体的に、適切に述べられたのである。(野村尚吾)

(略)

 我といふ人の心はただひとり我より外に知る人はなし

 

 という、諦めに近い気持を抱いていた作家が、全集の全解説を一人に任せるのは容易ならぬことである。初めて(といってもいいだろう)、自分の本質をつかんでくれた批評家に出会えた作家の喜びがうかがえる。まともな仕事を重ねて、六十歳をすぎ、まだ〈思想がない〉などと悪罵を重ねられていたのだから。

(略)

 このあとに〈今日ハ全学連ノ反主流派ノデモダソウデ……〉とあるように、登場人物たちは、六〇年安保の季節の真只中にいるのである。しかも、老人は〈デモ隊〉にはなんの興味もなく、歌舞伎を観て、伊勢丹の特選売場に向う。イタリー好みのオートクチュールの服を見て、老人は颯子にカルダンのネッカチーフを買ってやり、銀座に向って、浜作で鰻を食べる。この部分で、どうやったらデモ隊にぶつからないか、という運転手の注釈が入る。

 表層的にみれば、この小説は〈1960年度TOKYOマップ〉とでも名づけたいほどの風俗描写にみちている。颯子がみにゆく映画は「太陽がいっぱい」「黒いオルフェ」「スリ」「チャップリンの独裁者」といった、この年の最先端であり、マゾヒズム気味の老人の好む女の顔は、シモーヌ・シニョレ炎加世子と記されている。炎加世子は、まさに六〇年夏、大島渚の「太陽の墓場」で登場したのだから、老人の感度がなみなみならぬものであるのもわかる。

 谷崎は、意識的に流行語もとり入れている。颯子が「イカスノヨ」という件りは、当時でも、こういう言葉を小説に入れていいのかな、と首をひねった記憶がある。当時の先端の象徴である「アメリカン・ファーマシー」の名もちゃんと出てくる。

(略)

 日本の純文学では、〈時代背景〉や〈風俗〉を排除して、〈それらを超えた人間像〉を〈深く〉描くことが正道とされてきた。だが、「痴人の愛」ひとつをみても判るように、谷崎は風俗や西洋人の固有名詞をしつこく作中にとり入れ、養分にした。これは谷崎が〈生粋ノ江戸ッ子デアル〉ことと深い関係があるが、ここではこれ以上触れない。

(略)