デヴィッド・ボウイ インタヴューズ その6

前回の続き。

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

  • 発売日: 2016/12/17
  • メディア: 単行本
 

【ボウイの最も影響力の高いアルバム】

ハンキー・ドリー」(EMI 1971年)

 ニューヨークからの影響が全面的に表に出ており、“アンディ・ウォーホル”や“クイーン・ビッチ”といった曲がフィーチュアされている。後者はアルバムのスリーヴに「感謝と共に白き光は戻った」と注釈がついている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのグラム版といった感じだ。 「みんなが想像しているほど、アンディ・ウォーホルに影響を受けたと自分では思っていない。彼のどこが好きだったかって?彼のいくつかの発言。すべてが再生可能なところ。あのアイディアは素晴らしかった。ペルソナとしての彼は、自分のやっていたことの一部として取り入れたくはなかった。結局、ルーとヴェルヴェット・アンダーグラウンドに戻るんだよ。彼らを通して僕はウォーホルにつかの間の興味を抱いたんだ」

 

「ジギー・スターダスト」(EMI 1972年)

(略)

「これは、僕にとって初めて本格的な成功を収めた他家受粉だ。自分がエキサイティングだと感じた東洋の文化を換骨奪胎し、非常にカラフルなものに仕上げた。日本のグラフィックやファッションの分野で起こっていたものをね。特定のルックスとか、衣装を何度も替えるのは歌舞伎から拝借したものだ。東洋と西洋のハイブリッドが興味深いと思ったんだが、そのこととジギー・スターダストを関連づけて考える人はあまりいないように思う」

(略)

 

「ロウ」(EMI 1977年)

(略)

“ビー・マイ・ワイフ”は実はシド・バレットに負うところが大きいんだ。ピンク・フロイドそのものではなくね。わかるだろうが。(マーク・)ボランにとっても彼は重要な存在だった。ボランと僕は1960年代後半を象徴する存在として、シド・バレットのことを尊敬していた。彼がアメリカン・アクセントで歌わなかったことは本当に大事なことだった。『凄い、イギリスでもロックン・ロールは出来るんだ』という感じだったよ」

 

「ヒーローズ」(EMI 1977年)

(略)

タイトル曲はおそらく、ボウイの曲の中で最も持続力のある曲といえよう。

「あののろのろとした曲のテンポとリズムは共に“僕は待ち人”(*ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)から拝借した。コード進行は……何だったかな。僕は精神的な落ち込みを殆ど克服し、本来在るべき自分の姿に戻りつつあるように感じていた。自分の感情が癒やされていくことにある程度の手応えを感じていたし、精神面でも感情面でもある程度回復しつつあったのだろう。そういう意味では、あの曲の主人公は僕自身でもある、と言える。『ここから出られる。僕はきっと大丈夫だ、僕の場合は』とね」

『モジョ』誌 02年

 唯一、「スペイス・オディティ」を除くと(1972年頃にはこの作品もあっという間に人々の記憶から消えていた)ボウイのキャリアは長い間、ウォーミング・アップの状態にあった。「ジギー・スターダスト」で彼が大ヒットを飛ばした時点で、彼はチャートに入ることもないまま8年間もレコードを作り続けていたのだ(略)

「ああ、うまくやれるようになるまで時間がかかったよ」と彼は述懐する。「曲の書き方も知らなかったし、曲を書くのが得意でもなかった。僕は無理矢理自分をいいソングライターになるよう仕向けていき、その結果いいソングライターになれた。だが、天性の才能のようなものはまるで持っていなかった。うまくなれるようにするのは困難な作業だった。僕が学ぶ唯一の方法は、他の人たちのやり方を見ることだった。僕はマークのように子宮から出てきた人間じゃないんだ」(“コズミック・ダンサー”の“踊りながら子宮から出てきた”という歌詞を指す)。

「僕は踊りながら出てきたのではなく、つまずいて転んでいたんだ」

 ボウイがジギー・スターダストの概略を考えていた頃、彼の最も身近にいた現実世界のお手本はマーク・ボランだった。アルバムのアイディアが生まれた1971年、T・レックスはその権力の頂点にあった。ボウイの古い友人はイギリスで初めての新時代の衝撃となったのだ。ボランは自分ひとりで夢のペルソナを創り出し、強い意志の力で一夜のうちに出現したロックン・ロール・スターとなったように見えた。

「確かに! ボーリー(*ボランのこと)が大成功したんで、僕たちはみんな激しい嫉妬を覚えたよ。あれは凄かった。僕たちは半年くらい呆然としていたんだから。「彼は自分がやるよりずっとうまくやっている」(と不機嫌そうにつぶやく)という感じだった。しかも彼は、地下室でうろうろしていた僕たちのことを鼻であしらったんだ。その件は、お互い仲直りしたけどね。

 僕たちが最初に出会った時のいきさつを知っているかい?凄く笑えるんだよ。1960年代中頃、僕たちは同じマネージャー(レス・コン)のもとにいた。マークはすっかりモッズで、僕はネオ・ビート・ヒッピーという感じだった。僕はヒッピーという観念は大嫌いだったんだけどね。兄に教えてもらったビートニクの方がずっとセクシーに思えたから。マークも僕も仕事にあぶれていて、マネージャーのオフィスの壁の漆喰塗りに駆り出された時に、僕たちは出会った。(略)

彼が『その靴、どこで手に入れた?』(ボウイは、ボランの冷淡なまでに毅然とした態度と、この世ならぬ魅力にあふれた振る舞いを完璧に真似してみせた)『そのシャツ、どこで買った?』と言い出した。そこから僕たちはすぐに服やミシンの話を始めてね。『ああ、俺はシンガーになって、お前に信じられないくらい大物になるぜ』。よし!それならいつかお前のためにミュージカルを書いてやるよ、俺は最高のソングライターになるんだから。『だめだめ、俺の曲を聴いてみろよ。俺は凄くいい曲を書くんだ。それにパリにいる魔法使いとも知り合いなんだから』なんて話ばかりしていたよ。マネージャーのオフィスの壁に漆喰を塗りながらね!」

 ボランの驚異的な成功と、自らのアルバム「ハンキー・ドリー」に対する世間の無関心さの間で、その頃のボウイは悲観的になっていたのだろうか?

「いいや、そんな風に感じたことはなかったな。僕はプロセスというものの方が好きだったから。曲を書き、レコーディングをすることが好きだった。ガキにとってはすごい楽しみだったよ。確かに辛い瞬間はあるし、自分にはもう何か起こることはないのかもしれないと思う時もある。でも、すぐに立ち直るんだ」

 当然ながら、1972年のボウイも信じられないような速さで立ち直りを見せた。「ハンキー・ドリー」が店に並ぶか並ばないかという時期に、彼の金色の髪が輝きを放った。彼は全く新しい姿と、既に制作が終わっている次のアルバムからの曲をひっさげてイギリス・ツアーを行なった。ロックン・ロール・スターになった性差を超えた宇宙人、ジギー・スターダストとなって、ボウイは自己達成しつつある予言を生み出したのだ。

(略)

[ジギーという]装置を得たことで、彼は「ハンキー・ドリー」の自信のない、風変わりなイギリス人男性から逃れ、当時の彼が夢中になっていた奔放なイギー・ポップや、退廃の暗黒の王子ルー・リードのようになることが出来た。

「僕にははっきりしていた……自分は耐えがたいほどシャイだったんだ。だから、ステージの上でも、下でもジギーで居続けた方がずっと楽だ、とね。それに、欺くのは本当に楽しいことのように思えた。デヴィッド・ボウイとは何者で、ジギー・スターダストとは何者なのか?でも、その動機となっていたのは僕のシャイなところだ。僕にとってはジギーでいる方がずっと楽だったよ」

「ジギー・スターダスト」を予告するようなシングル“スターマン”が大ヒットとなる前、ボウイはその年2月の『メロディ・メイカー』紙のインタビューで自分はゲイだと宣言し、1972年の行動計画を形にし始めていた。世間は大騒ぎとなった。

 なぜ、あんなことを言ったのですか?

「マスコミという場で、それもかなり初期の段階で、ああいう風に自ら“あばく”ことで、自分が背負っている緊張の大半を下ろすことが出来る、とわかったんだ。そうすることで、どこからともなく現れた人々に(いかがわしげな声で早口に)「デヴィッド・ボウイにまつわることで、あんたの知らないことを教えてやるよ」と言われなくて済む。

(略)

ボウイは1972年の代表的アンセムを書いた。(略)モット・ザ・フープルに彼が与えた曲、“すべての若き野郎ども”だ。

「もし彼らが当時成功していたのなら」とボウイは言う。「彼らは僕と関わりを持つことは望まなかったと思う。彼らはかなりマッチョで、男っぽいバンドの先駆けのひとつだったから。でも、状況はよくなかった。僕は音楽雑誌で彼らの解散は避けられない、という記事を読んでから、あの曲を文字どおり1時間かそこらで書き上げた。(略)

この曲を自分が書き上げてバンドを解散させずに済ませることが出来るか様子を見てみよう、というようなことを考えていたんだ。今になってみれば、ひどく不遜に聞こえるだろうが、若い時というのはそういうものだ。『僕にはすべてが出来るはずだ。金曜日には!』。(略)

[関係者に曲を書いたと伝えたら]

これがうまくいったんだよ!驚いたね。その後、僕は彼らに“ドライヴ・インの土曜日”も書いたんだが、その時には既に彼らは『えー、グラム・ロックの軟弱な曲はこれ以上要らないよ』と思ったのだろうな。彼らなら素晴らしい仕上がりになったと思うんだが」

(略)

 スーパースターの世界を、ドラッグを糧とした多幸感の中で味わっていたボウイは、再びロック・ミュージカルのことを考え出す。最初の計画は『一九八四年』に基づいたものだったが、このアイディアは(作者の)オーウェルの未亡人に拒否された。「そこで僕はあっという間に曲を変えて、『ダイアモンドの犬』へと変貌させたんだ。これはジギーよりも労力を必要とした。後から考えてみると、ジギーの時はステージの上で何もやっていなかった。僕がやったのは数回の衣装替えだけだ。曲とズボンだけ。それでジギーは売れたんだ。他の部分は観客がすべて埋めたのだと思う。だが、『ダイアモンドの犬』ではもっと何かをやるつもりだった。前よりも少しは金もあったし――といっても当然ながら充分な金額ではなかったがね。実際、そのせいで僕は破産状態になったし。だが、そこから色々なことが始まったんだ。『ダイアモンドの犬』のライヴから。

(略)

突如として、洗練された、息もつけないほどの“プラスティック・ソウル”が「ヤング・アメリカン」として登場する。「あのひらめきの元は、プエルトリコ人のズート・スーツ姿(*肩にパッドが入った長いジャケットと、腰回りから膝にかけて太く、足首に向かって細くなるパンツからなるメンズ・スーツ)のストリート・ルックだと思う。より慣用的な外見の服装に戻したような感じだ。今になって見ると、かなりとんでもない格好だが、『ヤング・アメリカン』では音楽だけでなくヴィジュアル面も変えようと試みたんだ。

 カルロス・アロマーや当時の数人の女友達と一緒に、僕はアメリカの夜の生活をたくさん目にすることになった。その中にはラテン・クラブも含まれていて、あれは凄く刺激的だった。1960年代に自分が抱いていたソウルやR&Bに対する愛情に再び火がついた。実際、僕にとって最初のバンド、ザ・コンラッズを脱退した理由は、彼らがマーヴィン・ゲイの“キャン・アイ・ゲット・ア・ウィットネス” をやらなかったからだ。若い日の僕にとって、ソウルやR&Bは本当に大きな存在だった。それが、アメリカで本物を目にしたことで、猛烈な勢いで舞い戻ってきたんだ。 

 ベルリンでの新しい音楽

「これに関してはクラフトワークの存在を認めないと」と彼は言った。「僕はアメリカで『アウトバーン』の輸入盤を手に入れた。おそらくアルバムが出た年、1974年のことだ。僕はこのバンドにすっかり引き込まれた。彼らは何者なんだ?誰とつながっているんだ?

 そこから僕はタンジェリン・ドリームやカンと出会い、やがてノイ!やドイツで盛んになっていた新しいサウンド全体と出会うことになる。僕は思ったよ、ああ、僕は未来を目にしていると。そういう音だったんだ。僕もその流れの中に入りたい、と熱望した。当時の『ロウ』あたりのアルバムでトニー(・ヴィスコンティ)と僕がやっていたことを聴き返してみると興味深いよ。こちらが予想しているほど、ドイツのサウンドからの影響はないんだよね。

 非常に有機的で、ブルーズに乗ったサウンドなんだ。とてつもない雰囲気に包まれているが、それの一部はイーノのせいだし、大半はトニー・ヴィスコンティ自身のせいで、僕が古くてちょっとよれているシンセサイザーをプレイすることを選んだせいでもある。ある意味、かなりビートルズっぽい。だが、その一方で実際のリズム・セクションはメトロノームで測ったような、ドイツ人たちがやっていたエレクトロニック・サウンドではない。あれはデニス・デイヴィスとジョージ・マレー、そしてカルロス・アロマーだ(『ヤング・アメリカン』のツアー・メンバーの一部)。これもまた、きっと素晴らしいに違いない、と僕が考えたハイブリッド化の表れだ。アメリカで僕が見いだしたものをヨーロッパに持ち帰り、それをドイツの音楽の世界で起こっていることと合わせて、どうなるか見てみよう、ということだ」

『フィルター』雑誌 03年

「僕はここ、ニューヨークで曲を書いた」。立ち上がり、ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま窓の外を眺めながら彼は言った。(略)

「ここからは、ある種のエネルギーが得られるんだ。歩道の存在を実際に感じ取れる。足が地面に触れると弦をはじくような音がする。それがどんな音なのか、僕にはわかっていた。そして、それをヴァイナル盤に入れたかった」(略)

「僕は、17歳くらいからこの街に対して感傷的な繋がりを感じてきた。ちょうどその年頃にボブ・ディランの2枚目のアルバムを買ったからだ―― あれはブリーカー・ストリートだと思うが、彼が道を歩いている姿を写したものだ。彼の恋人も一緒だった。僕は『この男は凄くクールな格好をしてる』と思ったよ。(そして私にささやくように)いつも、まずは服装だろ?(略)

それから、僕はアルバムをかけて、曲が大好きになった。あれはまさにダイナマイトだった。若い青年の中に60歳の男の声が宿っているようだったよ。『これがビートだ。アメリカに関する素晴らしいものすべてがこの一枚のアルバムの中に詰まっている』と僕は思った。その時点で僕は既に、ブリーカー・ストリートに郷愁を覚えるようになっていたんだ」 

FREEWHEELIN' BOB DYLAN

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  • アーティスト:DYLAN, BOB
  • 発売日: 2004/03/29
  • メディア: CD
 

『ザ・ワード』誌 03年

[記者が初めてボウイを見たのは]
1969年のことだった。ボウイはくせのある“スペイス・オディティ”がヒットを記録したものの、個人的にはまだ無名で、スティーヴ・マリオット率いるヘヴィな“スーパーグループ”ハンブル・パイがトリを務めるツアーに参加、出演者の最初に登場してくる最も下っ端の前座としてイギリスを回っていた。(略)

[前座の]中にはデイヴ・エドモンズのラヴ・スカルプチャー[などもいた](略)

私が最も思い出すのは、場慣れしていないボウイの居心地の悪そうな様子だ。ロックのモンスターたちが出てくる夜に、彼はくるくるとパーマをかけた髪をした、アンプも使わぬ恥ずかしげなフォーク・シンガーだったのだ。

 会場となったリヴァプール・エンパイアの観客は、イギリス空軍の余剰品の防寒着に身を包み、ふけだらけの髪をした柄の悪い人たちで、容赦なく攻撃してきた。ボウイは数曲失敗し、最初からやり直した後、ヒット曲をプレイして野次やわずかな拍手や沈黙の中を去っていった。私は彼に同情したが、それ以上に目に怒りを漂わせたこのフリークラウドからやってきた少年を見て――自分はこの世ならぬ天才を目撃した、と確信した。ライヴというものに慣れていなかった私は、その夜目にしたすべてが素晴らしいと思ったが、いつまでも忘れなかったのはボウイだけだった。その後、1971年に「ハンキー・ドリー」を出すまで彼は数年間姿を消し、私は再び彼と出会うこととなる。

(略)
[会場で記者の]バックステージ・パスに気がついた怖いほどうつろな眼差しの女性に[ボウイに会わせてせがまれ]

(略)

 軽い身震いと共に私は、カーナビー・ストリートにあった「NME」紙のオフィスで働いていた頃のことを思い出した。心に変調を来した人たちの来訪はよくあることだったが、その中でも最も多かったのがデヴィッド・ボウイのファンだった。彼らに出て行けというのも気の毒で、私は1時間以上も彼らのおかしな話を聞き続けたものだった。いわく、ボウイが彼らとそこで会うようアレンジした、彼らは神から地球におけるボウイの後継者になるよう頼まれた……どうでもいいような話ばかりだが。

 ボウイの音楽にはしばしば、精神的な機能不全につながる底意が存在しており、彼のペルソナが歪みを挑発しているようだった。正直に言うと、突然、私はちょっとだけ昔を懐かしいと思った。

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