デヴィッド・ボウイ インタヴューズ その5

前回の続き。

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

デヴィッド・ボウイ インタヴューズ

  • 発売日: 2016/12/17
  • メディア: 単行本
 

『ギター』誌 96年

 ――自分が一緒にやりたいと望むギタリストについて、その時その時でどう決めてきたのですか?

ボウイ:(略)初期の時代にはミック・ロンソンのプレイの持つベックっぽさに、惹きつけられた。あの時点で僕が探し求めていたのは……自分がプレイしていたロックとリズム・アンド・ブルーズの範疇でプレイしつつも、ただ音階をプレイする以外にギターに何が出来るのかに興味を抱いている人だった。ミックは、フィードバックや異質なノイズであれこれプレイするというアイディアが、それなりに気に入っていたよ。後になって僕が一緒にやることになったギタリストたちほどではなかったがね。(略)

僕がベルリン時代(「ヒーローズ」「ロウ」「ロジャー」) に移行した頃は、音の源としてのギターに興味を持っているギタリストを見つけることの方に興味があった。(略)

雰囲気を作り出すことが問われていたんだ。ただ、そこまで冒険的になるためには、彼らは楽器そのものを非常によく理解している必要がある(略)ルールを破ることが出来るようになるためには、ルールそのものをよく知らねばならない、という古いことわざがあるが、リーヴス・ガブレルスにはこのことわざがあてはまる。もちろん、エイドリアン・ブリューロバート・フリップもそうだ、と言っておく必要があるが。

(略)

最初にフリップに注意を向けたのは(略)
(イーノは)「いいかい、私はロバートと山ほど一緒に仕事をしてきている。彼はとても共作に向いた人なんだ。私たちがやっていることに、本気で興味を持ってくれそうな人だよ」と言ったんだよ。だから、ノミネートしたのはブライアンなのさ(笑)。作業を始めた時点で、フリップは大きく作品に関わった。一方、エイドリアンはもっと単純な話で、フランク・ザッパのライヴを観に行った結果だった。(略)

エイドリアンときたら、ライヴの間、[自分がプレイしていない時は]殆どずっとステージの袖で僕と話をしていたんだから。今、何をやっているのか、とか、僕のやり方は好きだから一緒に何かやれるチャンスがあればいいとかね。

(略)

 リーヴスを見つけたのは本当に興奮する出来事だった。当時、僕はしばらく創造面でスランプに陥っていて、音楽のアイディアに対してとても冷淡になっていたんだ。僕は、再びヴィジュアル・アーツの方にのめり込みつつあった。曲を書くのを止めるところまでは行っていなかったと思うが、優先事項でなくなっていたのは確かだ。実験と冒険の感覚を僕に与えてくれたリーヴスには恩があるよ。本当に、ティン・マシーンを結成することで、彼は僕を穴から外へと引っ張り出してくれたんだから。

(略)
 ――あなたが起用したギタリストの中で、その後真価を認められるようになった人の中にスティーヴィー・レイ・ヴォーンもいます。彼のことはどのようにして見つけたのですか?

ボウイ : 彼は『モントルー・ジャズ・フェスティヴァル』でプレイしていたんだ。(略)おそらく1982年のことだったんじゃないかと思う。(略)彼はダブル・トラブルと共に、どこかのメジャー・バンドの前座を務めていたに過ぎなかったんだが、本当に驚愕したよ。桁外れだった。

(略)

 ――あなたは「ダイヤモンドの犬」ですべてのギターをプレイしていますが(略)

ボウイ :  自分がかなり突拍子もないアイディアを抱えていたからだと思う。(略)

自分がやって欲しいと思っていることを他のギタリストたちに頼むなんて恥ずかしすぎるから、このアイディアは自分自身でやるしかないな、と。ちょうど同じ時期にブライアン・イーノも自分自身のアルバムで同じようなことをやっていたよ。彼も地位の確立されたミュージシャンたちにギターのチューニングをわざと狂わせてくれなんて頼むのははずかしかったんだって(笑)。

テレグラフ・マガジン』誌 96年

学生時代の私の友人のトニーは、デヴィッド・ボウイをアイドル視していた。1960年代後半、世界の大半がまだボウイが何者か知らなかった頃、トニーは既に1、2度ボウイに会っていた。(略)トニーは何度かボウイの家に招かれて、一緒にマリファナを吸ったり話をしたりしていた。

(略)

[「世界を売った男」]

の歌詞だ。明らかに正気と狂気の間の細い一線を行ったり来たりしているその内容は、ボウイの家系に伝わっている統合失調症の存在をほのめかし、“ここで狂気を抱いた人たちと一緒にいた方がいい/私は満たされている、彼らも私同様みな正気なのだから”という歌詞のように、ボウイ自身もそうなのではないか、と暗示していた。

 トニーは「世界を売った男」が大好きだった。(略)1970年代はじめの頃、トニーは統合失調症になり、精神科の病院に入院した。私も1、2度彼の見舞いに行った。彼の病室のドアにはアラジン・セインに扮したボウイの大きなポスターが貼られていた

(略)

[病院を抜け出したトニーがボウイ宅に侵入した頃]

ボウイはロック・モンスターとしてニューヨークのピエール・ホテルにこもっていた。彼は1週間700ドルというスイート・ルームを2部屋借りていた。一部屋は寝起きをするために、そしてもう一部屋は仮のスタジオとするために。ボウイは自らそこにひきこもり、その後に予定されていた、黙示録の悪夢のような「ダイアモンドの犬」 ツアーのステージ・セットの縮尺モデルを自ら作り上げる様子を映像に収めていた。

(略)

ボウイは言った。「(略)実は先日、その映像を見つけてね。凄く面白かったよ。当時はジョン・レノンもよく姿を見せていて、時々背景に映り込んでいるんだ。腰を下ろして、当時流行っていた曲をギターで弾きながら“いったいお前は何をやってるんだ、ボウイ? お前の曲はみんな暗いものばかりじゃないか。この『ダイヤモンドの犬』の突然変異だの何だのっていうのはみんなそうだ。ははは”と言っていたりね。

 僕はジョンが大好きだった。一度、グラム・ロックについてどう思うか尋ねてみたことがある。彼の答えは(略)“あれは口紅をつけたロックン・ロールだよ”たっだよ。

(略)
 この世のものならジギー・スターダストという彼が最初に世間に示したジェスチャーは、ある意味、彼自身の手になるロック・スターの風刺画だった。

(略)

 変容の不思議な過程の間に、ジギー・スターダストはグラム・ロックのアイコンであるアラジン・セインに取って代わられ、やがて生気を失ってシン・ホワイト・デュークとなった後、「ヤング・アメリカン」の“ホワイト・ソウル・ボーイ”となったが、その後は創造の過程で創造者が自らを見失ってしまった。ボウイは言う。「たとえば画家のように、イメージを本当にコントロール出来ている限りは構わないんだ。だが、自分自身をイメージとして使い始めると、事態はそこまで単純ではなくなる。自分自身の生活の側面が、キャラクターとして写しだそうとしているイメージに混ざり込んできて、現実と幻想のハイブリッドになってしまうからね。そうなると、事態は異なものになる。これは自分にとって真実ではない、という気づきも出てくる。ここまで来ると、人を偽っていることの居心地の悪さに、引きこもりがちになる。僕は既にドラッグのせいで引きこもりがちになっていただろ。あれは何の助けにもならなかったな」

 混乱した感覚は、1970年代中頃、どん底に達する(略)ロサンジェルスに暮らし、コカインと救世主気取りのうぬぼれという繭に包まれ、非常に孤独な存在として影のように生きていた。

(略)

 彼の読書リストのトップにオカルトが登場してくる――彼が1976年にレコーディングした「ステイション・トゥ・ステイション」は、今の彼によると一歩ずつカバラを読み解いていったものだという(略)

やがてこれが“聖杯神話”へとつながってゆき、ナチズムの勃興の中で黒魔術が果たした役割に対する不健康な興味へと結びついてゆく。(略)

「イギリスはファシストの指導者から恩恵を得られたかもしれない」と彼が言い、自分がその候補者となると宣言するような発言をしたのはこの時期だ。(略)

「ある日、カリフォルニアで鼻からコカインを吸い込んだ(略)そうしたら僕の脳の半分が吹っ飛んだんだ」

 彼はベルリンに逃げた。そこのカフェで、皿に頭を突っ込んで「どうか助けてくれ」と泣いている姿を目撃されている。(略)

「ロックの犠牲者のひとりへとつながる道を、かなりのところまで進んでいたと思うよ(略)あのまま続けていたら、1970年代を生き延びることは出来なかっただろうと自分でも確信しているんだ。

『Q』誌 97年

 子供の頃から自分の誕生日がエルヴィス・プレスリーと同じだ、と知っていましたか?

「あれには本当に陶然となったね」と彼はにやっと笑った。「信じられなかった。彼は僕の大いなるヒーローだったんだ。彼と同じ誕生日だということに何か意味がある、と信じるくらい僕は馬鹿だったんだろうし」

 1971年にニューヨークで彼がプレイするのを観ていますよね。

「ああ。長い週末の休暇でやってきたんだ。(略)僕はジギーの時代のかっこうで、客席前方に近い、凄くいい席だった。場内が一斉にこっちを見たので、自分が凄い間抜けのような気がしたよ。真っ赤な髪に、大きなパッドの入った宇宙服に黒くて分厚い底のついた赤いブーツだもの。もっと大人しいかっこうをしてくればよかった、と思ったな。彼の目に留まったに決まっているから。彼は既にショーを始めていたけど」

 

 『ジギー・スターダスト・ツアー』のイギリスでの初日のことは覚えていますか?

「うーん……参ったな。本当にわからない。エイルズベリーだった?」

(略)

ジギーは本当にささやかにスタートしたんだよ。最高でも20~30人くらいしかファンがいなかったのを覚えている。彼らはみんな前の方にやってきて、残りの観客は関心がない様子だった。自分と観客が一緒になって、大きな秘密に関わっているようなふりをしていて、凄く特別な感覚があった。イギリスならではのエリート主義だが、かっこいいような気分になっていたんだ。存在が大きくなっていくと、そういう感じはすべて消えてしまったけどね」

 昔のアルバムで未だに聴いているものはどれですか?

「ジギーではないな」と彼は笑った。「実際には、トレント・レズナーが大ファンだと聞いてから、また『ロウ』を聴くようになった。あのアルバムに戻って、その理由を知ろうとしたんだ。ドラム・サウンドのブレイクなど、彼の曲作りの中にそれとわかる手がかりが聴き取れるようになってきたよ。あれはかなり有益だった。それに、なんといいアルバムだったんだろう、あれは。『ステイション・トゥ・ステイション』も素晴らしいと思う。何度か聴いたよ」

 自分が「ステイション・トゥ・ステイション」を制作したことを覚えていない、という話はどこまで本当なのですか?

「かなり本当だ。1970年代にアメリカで過ごした時間の大半は、殆ど思い出せないんだ(ため息)。(略)

だから、「ステイション・トゥ・ステイション」は、全く違う人間が作った作品のように聴いているんだ。(略)

あの作品の中に出てくる要素はカバラ(シナイ山でモーゼに与えられたと言われる謎めいた一組の指示のこと。儀式魔術と関連があるとしばしば言われている)と関係がある。僕が書いた作品の中では最も魔術に近いアルバムだ。(略)非常に暗いアルバムだよ。生きるには惨めな時期だった、と言うしかない」  

ラバー・バンド

ラバー・バンド

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You've Got a Habit of Leaving (2014 Remastered Version)

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  • Davy Jones & The Lower Third
  • ポップ
  • ¥255
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 1960年代中頃に出した“ラバー・バンド”や“ユーヴ・ガット・ア・ハビット・オブ・リーヴィング”といった失敗に終わったシングルがもし大ヒットになっていたら、どうなっていたでしょう?

「はは! 今頃『レ・ミゼラブル』に出ていたよ。ミュージカルをやっていたんじゃないかな。かなり確信が持てるな、それは。ウエスト・エンド(*ロンドンの劇場街)のステージで売れない俳優になっていたと思う(笑)。で、“ラーフィング・ノームス” を1つだけではなく10作は書いていたんじゃないか」 

ラフィング・ノーム

ラフィング・ノーム

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 1987年に、全体の方向性を考え直した方がいい、とボウイに喚起したのはガブレルスなのだ。

 「彼自身も『レッツ・ダンス』の後、間違った方向へ進んでしまったことはわかっていたんだ」。(略)

ガブレルスがボウイの音楽に寄せていた愛情は(他の多くの人々同様)「トゥナイト」と「ネヴァー・レット・ミー・ダウン」の質の低さにより打ち砕かれた。ボウイ自身もこれらのアルバムに怒りを覚えるほどうんざりしていた。

 「僕は自分が絶対になりたくないものになってしまっていたんだ」とボウイは認める。「僕は大衆から受け入れられたアーティストになっていた。フィル・コリンズのアルバムを買うような人々にも魅力を感じさせるようになっていた。信じてほしいんだが、僕は人間としてのフィル・コリンズは好きなんだよ。でも、彼のアルバムが1日24時間僕のターンテーブルに載っているようなことはない。僕は突然自分の聴衆がわからなくなり、さらに悪いことに、彼らのことなどどうでもよくなってしまったんだ」

 増え続ける面白みのない己の曲に対する疑いと嫌悪の念で一杯になり、ボウイは「ネヴァー・レット・ミー・ダウン」のレコーディングに殆ど姿を見せなくなってしまった。

 「他の人たちにアレンジをさせて、自分はヴォーカルをやるために行っていた」と、彼は当時を振り返る。「その後はさっさとその場から消えて、女をひっかけに行っていたよ」

 個人的に彼の目に見えていたただひとつの逃げ道、それは引退だった。それが彼の目的となる。

 「何よりも僕は、できる限りの金を儲けて辞めよう、と考えていた」と彼は告白する。「他の選択肢はないと思っていた。明らかに自分は中身が空っぽの器になってしまった、と思ったんだ。他のみんなと同じように、馬鹿げてつまらないライヴをやり、倒れて血を流すまで“愛しき反抗”をやるようになるんだ、とね」

『Q』誌 99年

[『地球に落ちて来た男』の話から]
 ――当時のあなたはどのような姿をしていたのですか?

ボウイ : 僕がシェールと一緒に歌っているビデオを観たことがあるかい? 髪をぴったりとなでつけている……芝居じみた衣装の時期はもう終わった、シアーズで売っているような服を着よう、という考えが僕の中にはあった。でも、それを僕が着ると、日本人のデザイナーに作らせたどの衣装よりも異様なものに見えた。シアーズの服は、アメリカ中部の頑迷な地方第一主義そのものだった。派手なチェックのジャケットにチェックのズボン。僕は酷い姿だった。とても具合が悪そうだった。僕は具合が悪そうで、おしゃれのかけらもないという姿に見えたんだ。

 ある夜、売人のところに行ったら、スライ・ストーンが入ってきたことがあってね。僕は全くアメリカ中部の人間のような服装なのに、髪の毛は金髪と赤で(笑)(略)[ヘアスプレーで]逆立てられていた。部屋へ入ってきた彼は僕の姿を見るとこう言ったよ。(皮肉な調子のスライ・ストーンの声で)「へえ!こいつ、絶対にたくさんドラッグをやってるな」。僕は怒った。確かに僕はたくさんドラッグをやっていたからね!「なんだと!俺はデヴィッド・ボウイだ!お前が見たこともないほど大量のドラッグをやってやる!」。あれは本当におかしかった。完全に度を超していたよ。その後、随分経ってから彼と出会って、僕たちはその件で大笑いをしたよ。でも、(当時は)凄く攻撃的に思えたんだ。彼は僕の着ている服で僕を判断している、と思った。笑えるだろ?彼にしてみれば、何だこの真面目そうなやつは?だったんだろう。それなのに僕はもの凄く腹を立てていた。僕は(息を切らしたトニー・ハンコックの声色で * ハンコックはイギリスのコメディアン)「俺がどれだけドラッグをやったか教えてやる!」と言ってやりたかったんだ。

 ――これまでどれだけドラッグをやったんですか?

ボウイ : うーんと5種類……いや6種類だ! 僕はゾウの鎮静剤から何から、ありとあらゆるものやったよ。でも、こんなのはありきたりな話だね。

『NME』紙 00年

 アンディ・ウォーホルはつきあいやすい人でしたか?

「いいや、全く不可能だった」とボウイは答えた。「彼は、全く心が動かされていないような印象を与えた。彼が、派手な色彩を好む、うまく運を掴んだ幸運な女王なのか、それとも背後に何らかの哲学があるのか、僕にはまるでわからなかった。本当にわからないままだったよ。実際のところ、半分半分だったんじゃないかな。その後僕は、1970年代に僕のために働いてくれた人々と出会った。(ウォーホルの演劇)『ポーク』の出演者たちだ。あれは不思議な時期だった」

(略)

[ルー・リードイギー・ポップ]

 「僕は2人の一番のファンだった。初めてルーと出会った頃、彼は本当に酷い時期を過ごしていて、彼が影響を与えたものから取り残されるようになっていた。僕たちは2人とも、彼の与えた影響がどういうことになるのか――ヴェルヴェット・アンダーグラウンドへの評価の向かう方向がどこなのかわかっていなかった」。彼はさらに言う。「僕には、自分が彼らを再び見いだしたような気分がある。彼らとイギーを僕が推した時、誰も僕のことを信じてはいなかったし、誰も彼らが何者なのか知らなかった。ニューヨーク・シティでは違ったかもしれないが、イギリスでは確実に知られていなかった。僕はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最初のアルバムのアセテート盤を持っていて、それが新たな曲作りへの鍵となったんだ。僕がルーとやろうとしたのは、彼を有名にすることだった。そこまで単純なことだったんだ(略)僕が彼のために行なったのは、よりアクセスしやすくすることだった。

 イギーはもっと様々な仕事のやり方を受け入れている。僕はイギーのためにたくさん曲を書いた。彼のためにコード進行を提供することもあれば、実際のメロディまで渡すこともある。たとえば「ジム、この曲は極東にまつわる印象を与えるんだが……」とか、ある特定の状況を僕が口にする。あるいは彼に何かアイディアを提供すると、彼が部屋の隅へ走り込んで、5分か10分後には2人が話したことを反映した歌詞を僕のところへ持ってきたりね。そういう意味ではより共作に近いね。僕が記憶している限り、ルーとは何も一緒に書かなかった。むしろ、『これがルーの作品だ、これを世に知らしめよう』という感じだった。でも、イギーとは『お前は何がやりたい?』という感じだったよ。早い段階のLPでは、ストゥージズっぽいものだけでなく、もっと彼に歌わせようとしたんだ。あれは彼が自分の声を見つける助けになったと思う」

 しかし、この仕事量をこなすツケが、やがてボウイに回ってくるようになる。伝統的かつ栄養豊富な“ミュージシャンの朝食”にしばしば憩いを求めるようになったボウイは、とてつもない音楽を創り出してはいたものの、本質的には自分を崖っぷちまで追い詰めていた。(略)

「快楽的な目的で使ってはいなかった」と彼は説明する。「殆ど遊び歩いてもいなかったしね。(略)僕はひたすら働いていたのさ。(略)楽しくもなかったし、多幸感もなかったよ。僕は狂気のふちまで自分を追い詰めていったんだ。『ダイヤモンドの犬』のあたりからその傾向が強くなっていって(略)」

 その渦からの出口は、ドイツと(略)ブライアン・イーノの自由な思考にあった。(略)

[ドイツ人ミュージシャンが]僕に与えた影響は態度にまつわるものだと思う(略)彼らの取っていたスタンスだね。『ロウ』や『ヒーローズ』『ロジャー』を聴いても、クラフトワークからの影響は非常に少ないと言っていいと思う。むしろ『そこなら存在できる新しい宇宙がある。自分がその宇宙に行ったら自分は何を見つけ出すのだろう?』と言っているような感じなんだ」(略)

[パンク、NWの時期]

ボウイは新しいドイツの宇宙に包まれ、ぼんやりと過ごしていた。

(略)

 コニー・プランク・スタジオとデュッセルドルフの人たちにすっかりはまり込んでいたので、結果的にパンクも後から振り返るようなことになった。1980年頃にアメリカに戻った時、僕はパンクが創り出した波を目にしたけれど、凄く奇妙な感じだった……僕はまさに逃したんだ。パンクをつかみ損なったのさ。本当におかしな具合だったよ。当時の僕は非常に弱っていたし、見た目もかなり孤立していた。周囲が殆ど見えていなかったんだ」

 “ものごとを楽しくする”というかなり自由な役どころを背負ったイーノの励ましによりボウイが創り出した新しい音楽は、彼のキャリアの中でも最高のものであっただけでなく、本質的に1970年代のボウイの精神と心を救った。

 「僕にとっては究極の治療のようなものだった。自分を追い込んでいたあの酷いライフスタイルから離れるために、自らを助け、自らを治療するようなものだったんだ。自制心を働かせて、健康を取り戻すタイミングだったのさ」

 次回に続く。