スライ&ザファミリーストーンの伝説

フランク・アレラーノ 

 フィリピン系の父親と白人の母親との間に生まれ、音楽好きだったフランク・アレラーノは(略)

「スライ」と新しいあだ名で呼ばれ始めていたシルヴェスター・スチュワートと出会ったときのことを記憶している。スライはダンス・パーティーで、ドゥ・ワップ・グループのバックでギターを弾くことになっていた[が遅刻]

(略)

[フランクは早熟なドゥ・ワップ歌手シャーリーン・インホフと出会いヴァレーホ高校でヴィスカウンツを結成。一方スライは]黒人グループ、ザ・ウェブスで歌とギターを担当していた。フランクは、「俺たちのハーモニーは最悪だから、こいつに頼んでハモ合わせを手伝ってくれるかどうか掛け合ってみるよ」とシャーリーンに言った。このようにしてスライは、やや気乗りがしないながらも、ヴィスカウンツの一員に加えられる。またこのグループは、そう意図したわけではなかったが色々な人種で構成されていた。

(略)

[成功の兆しが見えた時、同名グループの存在が判明し、ヴィスケインズに変更]

彼らは皆、良質で柔軟な声をしており、スライは二オクターグ半の声域の中で高い声も低い声も自在に出せたし、フランクは力強いファルセットを究めつつあった。一九六一年、[『アメリカン・バンドスタンド』のサンフランシスコ版『ディック・ステュワート・ダンス・パーティー』に挑戦](略)

コンテストを勝ち抜き、地元テレビに出たのち、番組関係者の紹介でプログクションがつくようになっていた。卒業が近づくと、彼らはいくつかの四五回転シングルを出すよう勧められた。

(略)

[プロダクションの手配でロスで録音、若手だったルー・ロウルズとイヴェントに出演]

 ヴァレーホからやってきた思春期の少年少女たちにとって、ホテルに泊まってティンセル・タウン(注:ハリウッドの華やかさを表したあだ名)でレコーディングや演奏をすることはかなりの冒険だった。「私たちは泳いだし、王侯貴族のように扱われたわ」友だちのあいだでは通称「リア」と呼ばれるマリアは回想している。(略)

音楽ビジネスの底辺でよくある悲しい現実だが、ヴィスケインズは出演料の小切手をプロダクション宛に切ることを求められ、自分たちはびた一文受け取ることがなかった。ヴィスケインズのシングル「イエロー・ムーン」は一九六一年一一月一三日週のKYAラジオのトップ六○チャートで十六位にまでなり、その後も何週間かチャート上を浮き沈みしたが、その後グループは解散した。

(略)

[フランクとスライは毎日つるんで悪さをし]

「女の子を手に入れたくて」 フランクは続ける。「ダウンタウンへスライの車でよく行ったものさ。やつは五六年型のフォード・ヴィクトリアを持っていた」お金が十分あるときは、彼らは西へと脚を伸ばし、ベイブリッジを渡りサンフランシスコに行った。プレイランド・アット・ザ・ビーチ遊園地で観覧車に一緒に乗ってくれる女の子を見つけるためだ。

(略)

 スライはほとんどの人種問題を重くは受け止めなかった。(略)

 だがごく稀な機会に、六〇年代に黒人の若者として生きることがどういうことなのか、スライのより深い部分の想いをフランクと共有したことがある。後にスライが、ファミリー・ストーンの最初のアルバム中の「アンダードッグ 」の歌詞にこめた気持ちに近い。「やつが感じていたのは(略)やつが梯子を登っていて、上にも下にも人がいる。上にいる人からは押し戻され、下にいる人には引きずり下ろされる、という感覚だ。彼が闘っていたのはそういうものに対してだ。

(略)

 異人種間での交際もやはり問題になった、とフランクは記憶している。(略)

白人の女の子のほうから追ってくるんだ。彼女たちはスライにしつこくつきまとって、電話をかけるんだ。(略)

デートの約束をするまではいいんだが、時に女の子を迎えに行くことができないんだ。(略)

[代わりを頼まれたフランクが]

「『フィリピーノの俺が迎えにくるのを喜ぶ親がいると思うか、黒人のお前が行く以上に?』と俺は言ったものさ。するやつは、『でもはニガーじゃないだろう』と言うんだ。

(略)

 フランクはスライが自分とすべて共有していると思っていたが、その友人が彼の新たなニックネームにどれだけ忠実に生きていたか気づかなかった(注:Slyと「ずる賢い、狡猾な」の意)。たとえば、ロスでのスライは、作詞・作曲のモトーラとペイジとともに別行動をとって、仲間の誰にも気づかれる事なくソロのレコーディングをしている。ヴァレーホに戻ってからは、弟のフレディと、また他の仲間ともレコーディングを始め、また時々週末に(略)クラブ・バンドで演奏して楽器の腕を磨いていた。

恩師デイヴィッド・フローリック 

[スライは高校卒業後]ヴァレーホ・ジュニア・カレッジでデイヴィッド・フローリックのもと、音楽理論を学んだ。デイヴィッドとスライとのあいだには、ある種の師弟関係が生まれ、西洋音楽やインド古典音楽の歴史、民族音楽の伝統、さらには近年のジャズやポップスを学ぶことを通じて、その後多くの豊かな作品が生まれる素地が培われたのだった。後に自分のアルバムや[インタヴュー等で](略)繰り返しスライは、彼にしては珍しいほどの敬意をもってデイヴィッドの功績を称えてきた。

(略)

[スライが]「もっと勉強して、プロになりたい」と[デイヴィッドに相談してきた](略)

デイヴィッドにとって、正統派の西洋音楽の古典は生徒たちに是非知ってもらいたい宝だった。(略)

彼は昔の作曲家たちの作品を、彼の生徒たちが理解できるようにした。「プログラムの大きな部分を聴音が占めていた。バッハのルートの動きを学ぶんだ」(略)

「理論の部分は(作曲家で学者の)ウォルター・ピストンの本によるものだが、聴音はちょっと違っていた」デイヴィッドは縮小版のクラシックのスコアを配って、生徒たちが自分の聴いている音楽の構造を見ることが出来るようにした。「スライはそんなものを見たことがなかった」とデイヴィッドは指摘する。何年も後、スライがウォルター・ピストンの分厚い音楽理論の本を抱えてスタジオを行き来するのを見たと、元エピック・レコーズのスティーヴ・ペイリーは語っている。彼のポピュラー音楽に対する独自の洗練されたアプローチに、この頃の教育が明らかな影響を及ぼしたのだった。

(略)

 学習意欲あふれるスライは、講義中には繰り返し手を挙げ、[講義後は質問をし](略)クラシック音楽だけでなく彼の教師の強みであるジャズもどん欲に吸収した。 

C'mon and Swim

C'mon and Swim

  • ボビ-・フリーマン
  • ポップ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

プロデューサー稼業

 [ヴィスケインズ録音時のプロデュース力を認められオータム社と契約した21歳のスライは、64年レーベル最大のヒット曲『カモン・アンド・スイム』(ボビー・フリーマン)を生み出した]

「彼は『カモン・アンド・スイム』のアレンジでエキサイティングなブレイクを採り入れた」とアレック・パラオは、曲のダンサブルなパーカッション部分に言及している。こうしたテクニックは、後にディスコやヒップホップでしきりに多用されることになる。「今のわれわれの耳にはありきたりのパターンに聞こえるかもしれないが、(スライは)ありきたりのレコードになったかもしれないものをとてもエキサイティングなものにしたんだ。彼はグルーヴのことを熟知していて

(略)

「カモン・アンド・スイム」が初めてもたらした大金のいくらかを使ってスライは[一家を質素なベイエリア周辺部から非白人の住人を排除した]イングルサイド地区に引っ越す費用に充てた。(略)

一九五八年になってさえなお、最初から相手にしてくれない不動産業者ではなく以前の所有者から直接この地域に家を購入した、黒人判事セシル・プール宅の芝生の上で十字架が焼かれるという事件があったばかりだった。

(略)

彼は両親の家の地下室を占拠し、自分の本拠地とした。(略)オータム社のためにシングルの制作も続け、また自分自身のレコードも何枚か作った。当時のこうしたレコードのいくつかがアレックス・パラオによって(略)『プレシャス・ストーン・イン・ザ・スタジオ・ウィズ・スライ・ストーン一九六三-一九六五」として一九九四年に出されている。 (略)

その中にはフレディやローズと競演した作品もあれば、当時あらたに知り合った友人でありキーボードの師、ビリー・プレストンとの作品もある。

PRECIOUS STONE

PRECIOUS STONE

  • アーティスト:V.A
  • 発売日: 2004/11/11
  • メディア: CD
 

「サンフランシスコ・サウンド

若い黒人青年が、プロ専門のスタジオ(略)に入ることが出来ただけでなく、さまざまな異なる種類のアーティストと働くことができたということは、六〇年代初頭ではまだ珍しく、またベイエリアが他と比べてよりそうした機会に恵まれていたということの証でもある。スライはいくつかの白人バンドを任されており、彼らは後にヒッピー世代から「サンフランシスコ・サウンド」としてもてはやされる音楽を代表するバンドたちのさきがけだった。

(略)

 白人ロッカーのあるユニット、もっとも有名なところではボー・ブラメルズは、この若い黒人プロデューサーと息が合っていた。

(略)

他のロックバンドたち、たとえばグレイト・ソサエティウォーロックス(それぞれジェファーソン・エアプレインとグレイトフル・デッドの前身)や、シャーラタンズなどとは摩擦が起こり、時には露骨に険悪な関係にもなった。

(略)

「スライからすれば彼らはアマチュアだったし、また彼らから見ればスライはさしずめ、『ミスター・プラスチック・ヘイ・ベイビー・ソウル』(注:ロックの魂より、ポップで人工的・商業的なソウルを志向する、真剣に共同作業する価値のない相手、の意)といった感じだった。だが同時に、多くのロック・グループはスライが録音ブースにいることで多くを得た。彼の熱意のおかげだよ」

(略)

 グレイト・ソサエティの場合(略)スライはグループとリードシンガーのグレイス・スリックに「サムバディ・トゥ・ラブ」を二○○テイク録音させ、かつ自分をリード・ギターの座に据えようとした。結果としてグレイスはこの曲を別のグループ、ジェファーソン・エアプレインに持ち込み、数年後にロックの伝説的な曲となった。いっぽうボー・ブラメルズはオータム・レコーズにとどまり、このレーベルの次の(そして最後の)全国的なヒット、「クライ・ジャスト・ア・リトル」と「ラフ・ラフ」を出した。

(略)

アレックの見解では、スライがオータム・レコーズで制作したものは「思っているよりも普通」である。ブラメルズの演奏によるスライの「アンダードッグ」を彼らのデビューで聴いてみると、そのことがよく分かる。それはローリング・ストーンズの「一人ぼっちの世界」を思わせ、数年後のファミリー・ストーンによる同じ曲の録音よりもずっと明るい印象だ。(略)

[スライは]自分が(あるいはブラメルズのような顧客が)気に入ればロックの白人らしい要素も好んで採り入れたし、また同様にR&Bも(ファミリー・ストーン版「アンダードッグ」でのように)すすんで用い、二つの要素を粋な、普通のR&Bのパターンとは異なるシンコペーションで混ぜ合わせた。

(略)

 スライの初期作品のいくつかからは、彼が既存のロッカーたちを注意深く聴いていて、時には模倣していたことがわかる。彼がオータムから出したシングル「バターミルク」は、「ストーンズの『2120サウス・ミシガン・アヴェニュー』の盗用だ……それに他の曲では『サティスファクション』の引用まである」とアレックは言う。

DJ稼業

ミュージシャンとしての知識を活かしてラジオ局で勤めているスター志望の人間は、彼以外にもいた。テキサス州ルボックにある、KLLL ではウェイロン・ジェニングスが、またメンフィスの WDIAではB・B・キングが、それぞれヒットの可能性のある曲を聞き分け、キャッチーなフレーズが認識でき、またポップ・ソングがどのように機能しているかが理解できる耳の持ち主であることを自ら示していた。また彼ら三人のミュージシャンはいずれも、電波の上で得たこうした経験を、リスナーが喜ぶ音楽を自分たちで作るのに役立てることができた。クリス・ボーデン・スクール・オブ・ブロードキャスティングで訓練を受け一九六四年に卒業したのち、スライはAMラジオのKSOLに職を得た。この局のコールサインが示しているとおり、ソウルや R&B に主に力を入れており、またポップスもいくらか流しながら、黒人中心のリスナー層に向けて放送している局だった。

 スライの話し声は彼の歌同様、強く官能的で、トム・ドナヒューと同じくあたかも男爵のような低い音域に落ちるのだった。彼の語り口はヒップで威厳があり、ユーモアや即興の語りがたびたび挿入された。スライのいたずらっぽいウィットが実際の放送で発揮された、シェイクスピアをもじったこんな一節はどうだろう。「全世界は舞台だ。そして皆役を演じ(プレイ)ている。でもちゃんと遊ばなきゃ、パーティーから追い出されちゃうぞ」

(略)

彼はシュープリームスの、どちらかというと凡庸なサウンドトラック用シングル「恋にご用心」をフェイドアウトさせながら「彼女たち一人ひとりを愛してるよ」と告白した。「特にダイアナ(ロス)がさ。彼女も俺のことを愛してる!最高じゃないか」と彼は続ける。そして意味深な一瞬の沈黙のあと、「映画が好きなのさ。レコードじゃなくて」と続けるのだ。

(略)

 ラジオ局の重役や賢明なリスナーたちは、スライが音楽についてとてもよく知っていることに気づかずにはいられなかった。KSOL は KYAのような、全国的な「ブレイク」につながる局ではなかったが(略)

彼の存在感は、ベイエリアの娯楽シーンでの彼の知名度を飛躍的に上げ、従来の黒人ターゲットを超えて他の人種や民族の若者からも支持されていった。「スライは特別なエネルギーをもっていた。彼はまぎれもなく、ある種のスターだった」と『ローリングストーン』誌の元編集長でロック歴史家(略)ベン・フォン・トレスは回想する。(略)

スライは「自信に満ちていながら、それでいて嫌味じゃなかった……なんだか『年上の兄貴』みたいな感じで、親しみやすいけれど別に押し付けがましくもなく

(略)

「彼が自分の楽器をラジオ局に持ち込んで、自分流のジングルをやるのが聴けた」(略)

「彼は本当に独創的で自分でコマーシャルを歌ってしまうかと思えば、ミュージシャンの仲間を呼んでは、スタジオ内でちょっとしたジャム・セッションをしてしまうんだ。

(略)

 ポップス評論家のジョエル・セルヴィンは当時(略)

「ハーマンズ・ハーミッツをかける」KFRCを避け、スライが「早口でしゃべり、ノリがよくて、俺も知っているビートルズやロード・バックリーが誰だかちゃんと知っていた」(略)

「その他の(KDIA) の連中は、昔ながらの黒人みたいにとても注意深く言葉を選んではっきり話し、必ずしも白人っぽくはないが黒人らしい話しかたではなかった。そこへくるとスライは笑ったり、奇声をあげたり、ライムしたりと、とてもエキサイティングなんだ……そしてデディケーション (注:リスナーが自分の恋人、友人などにプレゼントの意味で曲をリクエストすること)のときのスライの語り方は、誰の心にも残るものだったよ」(略)

「当時はアフリカ系アメリカ人社会の転換期だったわけだろう?(略)黒人が二級市民として扱われていたので、公の前に出る人間としては白人よりも白人らしくならなくてはならない、っていう考えがあったんだ」(略)

だがスライは「当時育っていた若い黒人たちのあいだでは昔ながらの考えがすたれて、より自立した態度をもつようになっていった」ことにちゃんと気づいていたのだと、ジョエルは信じている。電波をつうじてスライが表した自立心は、力に訴える攻撃性や政治的な非難というよりは、茶目っ気のある反骨心という側面がより目立っている。

 サックス演奏によってスライに近づいたジェリー・マルティーニは、空港のヒルトン・ホテルでの仕事に向かう途中、カーラジオでスライのショウをよく聴いていた。あるとき機会を見つけてラジオ局に友人を訪ねて行ったら、そこに壁に面して使われていないピアノがあった。「そこで(スライに)『番組全部を歌ってしまったらどうだ?』と言ってみたんだ。いい提案だったよ」とジェリーは思い出す。

次回に続く。