前回の続き。
戻ってきたヒトラー
[経済がほころびはじめ]新たな苦悩と不安が生まれるにつれ、ナチ党の活動はふたたび牽引力を取り戻していった。一九二八年末には、まるでこの先の悲劇を予感させるかのように、ナチ党の有料党員はじつに一〇万八〇〇〇人を数え、その数は一九二九年の終わりには一七万八〇〇〇人にまでふくれあがった。世間の人々がまだ、ヒトラーのことをたんなる小物政治家だと考えているうちに、彼はより大勢の、より熱心な党員の心をつかみ、ナチ党は地方選挙で着実に議席を獲得していった。
ここ数年のあいだ、アメリカ人記者たちはこの民衆扇動家のことをほとんど気に留めていなかったが、そろそろ彼にインタビューをするべきだと考えた最初のアメリカ人記者は、やはりハースト社のウィーガンドであった。なんといっても、一九二〇年代初頭、ヒトラーという政治家をはじめて記事にしたのはウィーガンドであったし、彼はヒトラーが急速に力を増し、その後すぐに没落していった経緯をよく覚えていた。
(略)
「ドイツは少しずつゆっくりと、しかし着実に、共産主義体制へと滑り落ちようとしている」とヒトラーは語った。そして繰り返される経済の惨状(略)と、「ドイツ国民の現在の政党組織への嫌悪と官僚への不信」に言及し、「こうしたことすべてが、国家の破滅への地ならしをしている」と断言した。
(略)
われわれは革命を起こそうとは考えていない」(略)わが党は「合法的な手段以外のなにかに頼る必要などない」と説明した。
(略)
「わたしはドイツにおけるユダヤ人の権利を削減するつもりはない。しかしわれわれのようなユダヤ人でない者が、ユダヤ人よりも少ない権利しか持たないなどということも、あってはならない」。
(略)
現指導者たちを蔑む気持ちは、あらゆる階層の人々のあいだに蔓延していた。(略)
米大使館で仕事をしたチャールズ・セイヤーは、ヴァイマール共和国を支持しなかったのはなにも、極右、大物実業家、元高級将校だけではなかったと述べている。「大半の大学教授も同様だった。大学教授といえば、ドイツでもっとも大きな影響力を持つ人々だ。ドイツにおいて学位というのは、個人の社会的地位の確立において、軍の階級に次いで有効なものだ。教授連中はつねに、名前の前に『博士』のひとつもつかないような、取るに足らないヴァイマールの社会主義者たちを、あからさまに馬鹿にしていた」。大学生もまた、政府を軽蔑する教授たちの思想を共有しており、第一次大戦後にドイツが領土を失ったのは政府の責任だと考えていた。そして本格的な不景気のせいで就職の望みが薄くなると「彼らはこぞってナチ党に押し寄せた」。
マウラーによると、自由民主主義への信頼の欠如は、本来は自由民主主義の守護者であるべき人々にまで広がっていた。「このドイツの自由主義的共和国のもっとも驚くべき特徴は、自由主義的な共和主義者がほとんどいなかったことだ」と彼は書いている。
(略)
経済危機が深刻さを増すと、ナチ党はすぐにその利を得た。一九三〇年九月の国会選挙において、ナチスは五七七議席中一〇七議席を獲得した。二年前の一二議席からの飛躍的な増加であった。投票に足を運んだドイツ人三五〇〇万人のうち、六五〇万人近くがヒトラーの党に投票したことで、ナチ党は突如として、国会において社会民主党に次ぐ第二政党に踊り出た。一九二八年の時点では、ナチ党に票を投じたドイツ人はわずか八〇万人であった。こうして、先だってヒトラーがウィーガンドに表明した「合法的な手段」で政権を奪取できるという彼の自信は、充分に根拠のあるものだったことが証明された。
躍進、失速、分裂
一九三三年七月三一日の総選挙で、ナチ党は二三〇議席を獲得して大勝する。この数は二年前の選挙で獲得した議席の倍以上であった。これによりナチ党は国会の第一党となり、社会民主党は一三三議席で第二党に転落した。(略)パーペンはヒトラーに副首相としての入閣を求めたが、選挙に大勝して勢い付くヒトラーには、パーペンの代わりに首相になる以外の条件を受け入れる気などさらさらなかった。交渉は失敗に終わり、一九三二年一一月六日、ふたたび総選挙が行なわれた。このときナチ党は再度第一党となったが、三四議席と二〇〇万票を失った。ナチ党の議席は一九六、社会民主党は一二一で第二党を維持し、共産党は一〇〇議席と支持を拡大した。
ヴァイマール共和国がついに終焉を迎えるこのときになって、ナチ党への支持が落ち込んだことは、多くの人々の目に、ヒトラーの運動が勢いを失っている証拠と映った。ナチ党の暴力的な言動は一部の有権者の反感を買い、また党の上層部では新たな分裂の兆候が現われていた。一二月初旬、パーペンに代わって首相の座に就いたシュライヒャーは、その亀裂を利用し、ナチ党幹部グレーゴア・シュトラッサーを副首相として内閣に引き入れようと目論んだ。 シュトラッサーはナチ党内の比較的穏健な“社会主義派”のリーダーと目されていた人物であった(略)
[ヒトラーにライバル視され]結局入閣するどころか、党のすべての役職から退くことになった。
ナチス政権の誕生
この先なにが起ころうとしているのかを見越していた者もいれば、最後の瞬間までなにも見えずにいた者もいた。(略)
ドイツ人政治家のなかにもまた、ある特殊なカテゴリーに属する人々がいた。それは自分たちがヒトラーよりも狡猾で、彼をうまく出しぬくことができると信じていた人たちだ。(略)
[パーペンはAP通信ルイス・ロックナーに]自分は前の首相よりもナチ党をうまく押さえつけておく方法を知っていると自信ありげに語った。パーペンの言う作戦とは、ナチ党への規制を強化するのではなく、むしろ緩めるというものであった。「ヒトラー主義者たちにせいぜい自由にやらせておき、彼らの愚かしさを世間に知らしめてやるというわけだよ」とパーペンは言った。
やがて自分の内閣の国防相を務めていた陸軍大将クルト・フォン・シュライヒャーに首相の座を取って代わられると、パーペンは新たなアプローチを追求しはじめた。八〇歳を超え(略)[耄碌した]ヒンデンブルク大統領に、ヒトラーを支配下に置くには、彼を首相に任じるのがいちばんだと進言したのだ。
いっぽうシュライヒャー[はシュトラッサー入閣でナチ分裂を図り失敗したが](略)
ロックナーにこう語っている。「ご覧のとおり、わたしのやり方は成功したよ。ドイツがこれほど静かだったのは、もうずいぶんと前のことだ。共産主義者やナチ党員でさえおとなしくしている。この静けさが長続きするほど、現政権が国内の平和を回復できる見込みは大きくなるだろう」。
(略)
アメリカ大使サケットの場合はむしろ、第三党の共産党が議席を伸ばしたことのほうを気にかけていた。サケットは、左翼は極右よりも危険だとみなしていたのだ。
(略)
[若いナチ党員の]暴力沙汰の件数は増加の一途をたどっていたというのに、裕福なユダヤ人のなかには、ナチ党のことなどさほど気にならないという顔をしている者もいた。〈シカゴ・デイリー・ニューズ紙〉のエドガー・マウラーは、一九三二年末に[ある銀行家の夕食会に参加](略)ディナーテーブルを囲んだメンバーは、マウラー以外は全員がユダヤ人であった。
コーヒーを飲んでいるとき、その場にいた数人が、自分たちはヒャルマー・シャハトやフリッツ・ティッセンといったユダヤ人でない連中から頼み込まれて、ナチ党に金をやったと得意そうに話しはじめた。シャハトは[ハイパーインフレーションを終結させ]一九三〇年までドイツ帝国銀行総裁を務めた人物であったが、このころはナチ党の熱心な支持者となっていた。産業界の大物ティッセンも同様だった。
(略)
それは自殺したいと言っているようなものですよ」。マウラーは答えた。「しかしきみはまさか、あの男が本当に脅威になるとは思わないだろう」。アルンホルトは聞いた。
「残念ながら思います──あなたがたも、そう思うべきです」
「やつらは口先だけだよ」とアルンホルトは言い切り、ほかの男たちもそうだとばかりにうなずいた。
(略)
クリスマスの少し前、シャハトと偶然出くわしたマウラーは、休暇はどう過ごされるのですかと丁重にたずねた。「ミュンヘンに行って、アドルフ・ヒトラーと話をしてくるつもりだ」とシャハトは言った。
「民主主義者のあなたまで、なんたることですか!」。礼儀正しいそぶりをかなぐり捨てて、マウラーは叫んだ。
「ああ、きみには理解できまい。馬鹿なアメリカ人にはね」。シャハトがやり返した。
(略)
「ヒトラーが政権を取るまで、ドイツに平和はやってこないよ」
三週間後、ふたたびシャハトと顔を合わせたとき、マウラーはヒトラーとの会話はどうだったかとたずねた。「すばらしかったよ」。 シャハトは言った。「あの男は完全にわたしの手の内だ」
マウラーの自叙伝にはこう記されている。「その瞬間、わたしは最悪の事態を覚悟した」
(略)
しかし運命の一九三三年一月になってもあいかわらず、ヒトラーとその運動はもはや脅威ではなくなりつつあると話す人は大勢いた。
(略)
ユダヤ系アメリカ人の労働組合オルガナイザー、エイブラハム・プロトキンは混み合うベルリンのレストランで、ドイツ服飾労働組合の会長マーティン・プレットルと話をしていた。プレットルはプロトキンに、ヒトラーは「四人の主人のあいだで踊っていて、そのうちのだれがやつを潰してもおかしくない」と語った。その四人とは、ふたつの実業家グループ、そしてナチ党内のふたつのグループだ。だからヒトラーは、現政権内に用意される地位をみずからが引き受けるか、あるいは党内のライバルであるシュトラッサーにそうさせるかのどちらかを選ばなくてはならない。「どっちにしろヒトラーの負けだよ」とプレットルは言い切った。
プレットルは、シュライヒャーはヒトラーを「ダシに使っている」のだと考えていた。そして「落ち目のヒトラーがあせりにまかせて共産党を潰してくれれば、シュライヒャーにはこの先の選挙での展望が開けるというわけだ」。
(略)
しかしこのときにはすでに前首相のパーペンが、シュライヒャーの足元を切り崩しにかかっていた。(略)[パーペンはヒトラーと会合し]シュライヒャーを追い出す算段をし、バーペンはフォン・ヒンデンブルク大統領の協力を取り付ける役目を引き受けた。ふたりが会合を持ったという話が漏れ聞こえてきても、シュライヒャーはまだ「彼自身を陥れる陰謀のうわさにも、まるで動じていない」ことを公言していた。アメリカ大使館の高官たちの反応もこれと似たり寄ったりで(略)
代理大使のジョージ・ゴードンはワシントンへの報告書に、「急速にふくれあがる」ナチ党の負債は、党の運動を徐々に阻害する恐れがあると記し
(略)
[だが]こうした解釈がすべて救いようのないほど間違っていたことがあきらかになった。(略)
一月三〇日、ヒンデンブルクは公式にヒトラーに組閣を命じ、ヒトラーを首相に、パーペンを副首相に任じた。サケット米大使はこれを、ナチ党の「突然で予想外の勝利」と呼び、AP通信のルイス・ロックナーは、パーペンがこのときでもまだ、自分がヒトラー新首相を出し抜いたと思い込んでいることに注目していた。「われわれがヒトラーを雇ってやったんだ」。パーペンは親しい友人たちにそう話していた。つまりパーペンはいまだに自分が「運転席に座る」と思い込んでいるのだと、ロックナーは書いている。
解き放たれた力
政権発足後間もないころ、ナチ党の幹部たちは、国内の安定を印象付けるメッセージを発信するために、アメリカ人に積極的に接触してきた。「ナチ党はもう、あの扇動的な改革のようなことは決してしないだろう」[とシャハト]。(略)
[サケット大使は]ドイツ政府内では責任が分担され、ナチ党は「純粋に政治的、行政的な部門」のみを引き受け、ほかの者たちが引き続き経済、金融、その他さまざまな雑事を担当するのだと思い込んでいた。
(略)
しかし続いて怒濤のように起こった一連のできごとが、ヒトラーに対抗する影の実力者がいるなどという幻想をすべて吹き飛ばした。二月二七日、マリヌス・ファン・デア・ルッベの放火により、国会議事堂が炎に包まれた。(略)
後年、多くの歴史家によって、ルッベはやはり単独で犯行におよんだと思われるとの結論が出されている。真実がなんであれ、ヒトラーはこの機会を逃さなかった。彼は共産主義者やその他の“陰謀家”たちを激しく非難し、ドイツを完全な独裁国家へと変貌させた。
慌ただしく発令された「民族及び国家保護」のための緊急令にもとづき、ヒトラーは野党による出版や集会を禁じ、何千人もの共産党員、社会民主党員を、さらなる暴動を企てたとして逮捕した。突撃隊が街を破壊し、民家に押し入り、住民を通りに引きずり出して叩きのめした。三月五日にはふたたび国会選挙が予定されていたため、野党にまともな選挙戦を展開させないよう、ことはすべて急ピッチで進められた。
ヒトラーが、すでにかなり衰弱していたヒンデンブルク大統領を説き伏せて、ヴァイマール憲法の肝である市民の自由に関する項目を無効化する緊急令に署名をさせた
(略)
あれほど徹底的に野党を痛めつけたにも関わらず、三月五日の選挙において、ナチ党は全体の四三・九パーセントしか票を集められなかった。国会の第一党ではあったものの、過半数には至らなかったのだ。過半数を獲得するには、フーゲンベルクの国家人民党と手を組む必要があった。しかしヒトラーには、自分の計画を少しでも遅らせる道を選ぶつもりはなかった。三月二三日、ヒトラーは国会に「全権委任法」を承認させ、これにより事実上、あらゆる重要な権限を立法機関から自身に移譲した。
(略)
ヒトラーの権限を抑制するものは、これでもうなにひとつなくなった。
(略)
[ドロシー・トンプソンはウィーンからNYの夫に]手紙を書いた。「もっとも過激な新聞に書いてある通りの惨状です。(略)SAの少年たちはただのギャングと化し、街ゆく人々を襲っています。(略)そして社会主義者、共産主義者、ユダヤ人を『ブラウネ・エタージェン(茶色の床)』と呼ばれる場所に連れ込み、拷問にかけています。これに比べれば、イタリアのファシズムなど幼稚園のようなものでした」。トンプソンはまた、リベラル派の「(わたしには)信じられない従順さ」にも大いに落胆しており、街中をまわって《ゲティズバーグの演説》をしてやりたいくらいだったと書いている。(略)
[ロンドンの友人への手紙には]
SAが「すっかり狂って」しまい、新たな獲物を探しまわっていることを説明した。「相手を金属の棒で叩きのめし、リボルバーの台尻で殴って歯を折り、腕を折り、(略)彼らの体に小便をかけて、ひざまずかせて十字にキスをさせるのです」。(略)
「いったいどうしたらいいのかを、ずっと考え続けています。 わたしのなかにドイツへの憎しみが芽生えはじめているのを感じます。もう世界は憎しみに染まっているのです。だれかが声をあげてくれさえしたら
(略)
[帰国したプロトキンは事件の数々が、民衆のあいだから発生したものだと書きその一例として]ミュンヘンでのユダヤ系企業ボイコットを挙げている。
(略)
ヒトラーやナチ党幹部が、支持者たちの暴力をさらに煽るのではなく、彼らをなんとか止めようとしているのだと考えていた人間は、プロトキンのほかにも大勢いた。アメリカ総領事のメッサースミスは当初、ヒトラーが支持者たちの暴力が生み出した勢いを利用しているのは、必要に迫られてのことだと信じていた。そうしなければ「本物の過激派」に政権を奪われてしまうからだ。
次回に続く。