選択しないという選択 キャス・サンスティーン

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

 

デフォルト・ルールの設定

選択アーキテクチャーは束縛し、制限すると同時に、可能にし、容易にする(略)

 

[デビッド・フォスター・ウォレスのスピーチ]

若い魚が二匹、並んで泳いでいたところ、反対方向に泳いでいく年上の魚と出くわした。年上の魚は会釈して「おはよう。水の按配はどうだね?」といった。若い魚はしばらく泳ぎ続けたあとで、一匹がもう一匹を見て聞いた。「水ってなんだ?」

 

 人間にとって選択アーキテクチャーは、この若い魚にとっての水と同じである。気づかなくても、それはそこにある。さらにいえば、たとえデフォルト・ルールが常識だとみなされても、あるいはおそらく常識だとみなされているためになおさら、それは選択の自由が保たれる介入と理解され、命令や禁止令を課さずに、人々の選択を特定の方向に向けさせる主要な「ナッジ [柔らかく押しやること]」とみなされる。

(略)

法律制度の最も重要な役割の一つにデフォルト・ルールの設定がある。(略)

殺人や暴力を禁じるルールをオプト・アウト(拒絶の選択)することはできない。発電所が違法に高レベルの汚染物質を排出していれば、罰せられ、オプト・アウトはできない。雇用主は従業員に対して、人種差別やセクハラを禁止する規則を拒絶するように求めることはできない。しかし、最も微妙で問題の多い状況においてもデフォルト・ルールは存在するし、その重要度はかなり高い。

(略)

私が本書で検討する方式はすべて、自由を保持することを目的としている。デフォルト・ルールは選択するという選択を可能にし、また(デフォルトに頼ることで)選択しないという選択を可能にする。(略)

あなたの雇用主はデフォルトであなたを年金プランに加入させて、「あなたはそのプランのことで頭を使う必要はないが、気に入らなければ変更できる」と告げるかもしれない。

(略)

たしかにデフォルトがあまり好きではない人もいて(略)

ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の有名な一節でつぎのように主張した。

 

文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、ほかの人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない。

 情性の力

情性の力は強く、そのために本当はデフォルト・ルールが気に入らなくても、人はそれに固執することがある。デフォルトの変更が簡単だとしても、忙しい人はそこに注意を向けたがらないかもしれない。(略)

分別のある人もしくは専門家が、もっともな理由でそのデフォルトを選んだのだと、あなたは判断するかもしれない。(略)

われわれは自分が何を欲しているかを正確に理解しておらず、デフォルト・ルールが選好、価値観、願望を形成するという役割をになう。この場合、デフォルト・ルールの力は大きい。

個別化したデフォルト・ルールの問題

一つに、個別化したデフォルト・ルールは学習を促さない。選択とは筋肉を動かす行為であり、その筋肉を鍛えて強くするのはよいことだとみなすことができる。個別化したデフォルトは、過去の選択と矛盾しない結果となるように促すことによって、視野を広げるよりはむしろ、狭める可能性がある。さらに、正確な個別化したデフォルト・ルールを作ることは選択アーキテクトにとって負担となり、お金もかかる可能性がある。このようなデフォルト・ルールは潜在的選択者の利益よりも自己の利益に動かされる人々によって、都合よく利用されるかもしれない。

 個別化したデフォルト・ルールは、個人のプライバシーにとっての重大なリスクも生むかもしれない。あなたの特定の状況に合うデフォルト・ルールを設計するために、選択アーキテクトがあなたについての十分な知識を得ることを、あなたは望むだろうか?

(略)

 デフォルト・ルールが判断のコストを大幅に減らせることは明白であろう。デフォルト・ルールが採用されたなら、選択者はどうすればいいのかに注意を向ける必要がない。ただデフォルトに従えばよいのだ。しかしながら、デフォルト・ルールによって誤りのコストが増える可能性もある。少なくともそのルールが選択者の状況に合わなければ、そうなる可能性が高い。すると、デフォルト・ルールは生活が悪くなる方向に人を導く可能性がある。

 プライバシー設定を左右するデフォルト・ルール

 あなたの行動情報(たとえば、訪れたウェブサイト)は、情報共有を許可するボタンをあなたがクリックしないかぎり共有されないと、官民の組織が明言するとしよう。今度は同じ組織が、これらの情報は、情報共有を禁じるボタンをあなたがクリックしないかぎり共有されると明言するとする。結果は同じになるだろうか?とんでもない。

 プライバシーを犠牲にして情報共有を選ぶかと問われたら、多くの人が拒否するだろう。(略)人は何かを失うことを嫌い(略)プライバシーの喪失は必ずしも歓迎されない。くわえて、多くの人は単にこの問いを無視するだろう。おそらく多忙、不注意、混乱、気が散っている、あるいはそこに注意を向けたくないからである。いずれにせよ彼らの情報は共有されない。これに対して、情報の共有を拒絶してプライバシー保護を望むかと尋ねても、多くの人が拒否するか、質問を無視するだろう。おそらく多忙で注意が向かないか、あるいは情報の共有がもたらす潜在的な利益を失いたくないからだ。情報の共有を切り替えるかどうか判断するために少し考えなければならず、わかりにくい資料を読まなければならず、選好を明らかにしなければならない状況でそうなりやすい。その場合、情報は共有されたままになる。

 結果的に、インターネットでのプライバシーという領域では、デフォルト・ルールに左右される部分が大きい。ウェブ・ブラウザのデフォルトがプライバシーを保護する設定になっていれば、毎回プライバシーの設定を選択しなければならない場合と比べて結果はかなり異なるだろう。一例として、グーグル・クローム(略)

[「シークレットモード」は]デフォルトではないし、利用者がこれをデフォルトに設定するのは簡単ではない。そうできない仕様になっているのだ。(略)結果としてこのモードを選ぶ回数はぐっと減る。

 デフォルト・ルールの固着

 この結果から、デフォルト・ルールは基本的な判断が難しい場合に固着しやすく、したがって専門的な分野もしくは不案内な分野でとくに有力となることが裏づけられたのだ。

(略)

人は疲れているときにデフォルト・ルールにとどまりやすいという証拠によって実証されている。これまで一時間にわたりいくつもの判断を下してきて、さらに別の判断を求められたとしよう。「判断疲れ」でまいっていると、人はなおさらデフォルトにとどまりやすくなる。ここでの重要な意味合いの一つは、時間が著しく足りない、もしくは判断するべきことがいくつもある場合に、デフォルトがとりわけ魅力を持つ点である。「どうでもいいよ」といった短絡的な対応をしないように我慢するのは難しいのだ。

(略)

[室温設定における惰性の影響]

冬季にデフォルトを摂氏一度下げたところ、選択された設定温度の平均値が大幅に下がった。惰性の力を踏まえたうえで、最も妥当な説明をするなら、職員の大半はわざわざデフォルトを変更するほどの価値はないと考えたのだ。(略)

デフォルトを摂氏二度下げたところ、選択された設定温度の平均値の減少幅は小さくなった。どうやら十分な数の職員が寒すぎると考えて、設定を好みの温度に戻したらしい。不快感が明らかになると、惰性は負けるということだ。

情報のシグナルとしてデフォルト・ルール

選択アーキテクトが明確にデフォルト・ルールを選んだのであれば、自分のしていることを理解している人によって暗黙の提案がなされたものと考える人は多いだろう。だとすると、デフォルトを変更するのが正しいと正当化する信頼できる私的な情報がないかぎり、デフォルトを離れて自分で選択するのはやめておこうと考えるだろう。自分の思うようにするのはリスクが大きく、そうするべきだという確信がないかぎり、そうしたくないのではないか。

 デフォルトで自然エネルギーが選択されている、あるいは官民の組織が職員や従業員をデフォルトで特定の年金プランや健康保険プランに自動的に加入させるとしよう。このようなデフォルトを示されると、専門家や良識ある権威者が、それらは正しい行動の指針であると確信しているものと、多くの人が考えたがる。

(略)

[非対称性]

自動加入には何が賢明か、あるいは最適かについての情報が伴うが、自動非加入にはそのような情報が伴わないと人は信じている。健康保険プランや貯蓄プランに自動加入させられる場合、加入することがその人のためになると誰かが判断したものとみなす。しかし自動加入させられない場合は、そうは考えない。非加入はなんのシグナルも伝えないのである。

 悪いデフォルト・ルール

政府がひどいデフォルト・ルール──人々が貧しくなり、寿命が短くなり、生活が不便になるなどの形で状況が悪化するような──を作成した場合、少なくとも民主制度がまともに機能しており、市民が十分に注意を払っているなら、政府は選挙で報いを受けるだろう。デフォルト・ルールは透明でなければならず、精査を受けなければならないことを思い出してほしい。そうだとするなら、公務員は悪いデフォルト・ルールについて説明する責任がある。企業がデフォルトで従業員をまずい状況に置いた場合、その企業は長く営業を続けられないだろう。選択アーキテクトにはなんらかの選択アーキテクチャーが必要であり、民主的な予防策(高度な透明性も含めた)は政府を抑制するための優れた方法である。同様に、まともに機能している自由市場は民間組織に自制を促す。

 それでもなお、最もうまく機能している民主制度においても知識の問題と公共選択の問題は現実に存在する。市場圧力が強い場合でさえ、民間組織が有害なデフォルト・ルールの利用を許されていることも、私は力説した。その理由の一つが行動バイアスである。人々が非現実的なほど楽観的である、もしくは注意を払っていない場合、彼らは好ましくないデフォルトの犠牲となるおそれがある。

(略)

デフォルト・ルールは変化しにくく、人々の状況が時とともに変化するのであれば、デフォルト・ルールが最初に課されたときは目的にかなっていたとしても、変化しにくいルールは理想的でなくなるかもしれない。デフォルトの健康保険プランは、二〇代では賢明な選択だとしても、五〇代ではまったく合わなくなるかもしれない。プライバシーに関する好みは時とともに変わるかもしれない。これに反して、能動的選択は選択者の選好の表明を定期的に要求するように設計できる。 

解説 大屋雄裕

(略)

だが複雑化した現代社会において人々はつねに多様な選択肢にさらされており、それらすべてについて十分に考慮したうえで選択することを個々人に求めることは──時間的にも能力的にも──非現実的である。自分にとってそれほど重要ではなかったり、十分な判断能力を備えていない問題については自分の利益が相当程度に守られることを前提として他者に委ね、それによって生じた余裕を本当に関心のあること・重要なことに注ぐほうが合理的だし、個々人を幸福にするだろう。「選択しないという選択」の価値はその点にあると、サンスティーンは主張する。

 われわれはこれを、やはりサンスティーンのシカゴ時代の同僚であった憲法学者ローレンス・レッシグアーキテクチャー論に対する応答だと考えることができるかもしれない。(略)

たとえばファーストフード店の堅い椅子は客を長居させないための(略)アーキテクチャーだと理解することができる。この例からもわかるようにアーキテクチャーは適切な目的のために利用されることも十分にありうるのだが、制約される個人から意識されることなく・不服従や違反の可能性を物理的に消し去った完全な支配をしばしば実現するという意味において危険性を秘めた存在であり、悪用されないよう社会的に統制されなくてはならないというのがレッシグの主張であった。

 だが、どうすればそれを実現することができるだろう。(略)

そのような意図を告げる必要がないのがアーキテクチャーの特徴である。行政や司法はしばしば適切な能力を持たず、民主的な正統性を欠いている。政治は本来「われら人民」の意見を反映する重要な経路だが、現実には利益集団化することによって腐敗している。結局この状況は「出口なし」なのではないかというのが、レッシグの焦燥であった。

(略)

 だがそれに対してサンスティーンは、アーキテクチャーの威力を利用して個々人の利益・幸福を守りながら、その副作用を避けて善用していくことは可能なのだと主張しているように思える。(略)

[室温設定のように]アーキテクチャーが人々の利益を損なえばそれに反する行動を人々が能動的にとるようになり、デフォルト・ルールとしての意味を自動的に失ってしまう。問題が生じる場合には、簡略な能動的選択を用いればよい。(略)

[エコー・チェンバー]を防ぐために、多様な偶然の出会いを保障するようなセレンディピティアーキテクチャーを構築することもできる……。

 その際にサンスティーンが強調するのは、すでに中立的な場所などないということである──「人が気づいているかどうかに関係なくデフォルト・ルールはいたるところにあり、デフォルト・ルールなしに生活するのは不可能である」。

(略)

一定の利益をもたらすようなデフォルト・ルールをあえて採用しないことは中立的な選択ではなく、なんらかの価値(略)のためにその利益を断念するという価値判断を意味しているだろう。

(略)

個々人の選択に委ねることは、一定の干渉を加えれば彼が得られたかもしれない利益を放棄させるという積極的な意味を持ってしまう。何もしないという選択肢は、実は中立や公正を意味していない。だとすればわれわれにできるのは、さまざまな処方箋の特性、たとえば個人の利益や幸福を保障するかわりに自主性を損なってしまうとか、プライバシーを守るために利用可能な情報が制約されて一定の不利益が放置されるとか、そのような長短を考慮し、間違った場合の被害が大きかったり判断が難しい場合には自主性よりも利益を重視するといったように「判断のコストと誤りのコスト」を調整していくことだけなのだというのが、アーキテクチャー論に対する彼の反応だということになるのではないだろうか。 

レゲエ入門・その2

前回の続き。 

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口ック・ステディとルード・ボーイ

[65年新年ドン・ドラモントが同棲相手を刺殺、69年に精神病棟で死亡。この事件で政府やメディアから]ルード・ボーイ(ならず者)の音楽として(略)

スカは袋叩きにあって、音楽シーンから消えざるを得なくなった。

スカタライツも、事件から半年ちょっとで解散する。

(略)

 そのとき、忽然と現れたのが口ック・ステディである。
 踊り手のペースをクール・ダウンさせる、この新しいスローなビートの音楽は、1966年の春から1968年の夏まで続き、そのままレゲエヘとバトンタッチされている。

(略)
[前年の]1965年は、暴動の年でもあった。(略)
[キング牧師来島]

ルード・ボーイたちが暴動を起こす。中国人が経営するダウンタウンの商店が襲われて多くの死者が出た。ウェイラーズのシングル〈ルード・ボーイ〉がダウンタウンでヒットしたのは、らょうどその頃のことである。この小さな島でそれは6万枚も売れた。

(略)

 1966年4月には、エチオピアハイレ・セラシエ皇帝がジャマイカを訪れ、その出迎えのために空港にラスタたちが集まったので、彼らの存在が改めて国民に印象づけられた。
[同年7月、ラスタの拠点の]トタン小屋の群れが、警官隊に守られた政府のブルドーザーによって撤去されている。
 キングストンは騒然としていた。
 ロック・ステディが登場したのは、そういう時代である。

(略)

 ロック・ステディは、まずスカのテンポのスロー・ダウンとして現れた。
 テンポは大幅に遅くなったが、はじめのうち、リズム的に見ればやっていることはまったくスカと同じだった。単にスローなテンポになっただけなのである。
 スカの煽るような速いノリに、もともとアップ・テンポに強いとは言えないジャマイカの聴衆が、少し疲れを感じるようになったというところが真相かもしれない。

(略)

スカは、アップ・ビートの不断のリフを定型化したことでレゲエに到る最初のドアを開けたと言うことができ、ロック・ステディは、それをそのままテンポ・ダウンしてダウン・ビートに変容させることで、最後のドアを開けたことになる。

 実は、このロック・ステディ時代の約2年間に、後にレゲエと呼ばれるようになる音楽のほとんどすべてのアイディアは出揃っている。

(略)

 そもそも、スカ自体が変容の連続で、アップ・ビートのアクセントのポイントを少しずつずらしながら、ほんの数年の間に、ビート感覚に大きな変化を与えてきたのである。
 ジャマイカの音楽は、ほとんど落ち着くことを知らない。
 絶え間なくリズムの細分化とベース・パターンの変革を繰り返しているので、その一つだけを取ってロック・ステディあるいはレゲエと呼ぶのは不可能である。(略)

[ジャマイカ独特のリズムヘの指向性]リズムが与えるノリの雰囲気そのものを広義にレゲエと呼ぶしかない。(略)
 それは、黒人系音楽で言うところのアフター・ビート(略)のアクセント・リフを「はっきりと欠かさずに入れる」という点に表れている。それに伴って、ジャマイカでは頭抜きのノリが強調されるのだが、それは常に前後にズレた波が織り合わされたような複合的なリズム感を基調としている。

(略)

 例えば、アメリカでは1966年にジェームズ・ブラウンの超スロー曲〈イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド〉が大ヒットしているが、これも依然として8分の6拍子だ。
 アメリカの黒人は、スローなテンポに移るとき、3連符系のビート感にギアを切り換えていたのだが、ジャマイカでは、もとのエイト・ビートをテンポ・ダウンして、それを2倍に細分化させてノー・クラッチで乗り切る、という方法を見つけ出したと言ってもいい。
 このやり方は、次第に革命的な変化を生み出していく。
 テンポのスロー・ダウンは、心理的な落ち着きを取り戻させるだけでなく、もっと大きな効果を音楽にもたらす。シンコペートしたノリによってリズムにゆったりとしたグルーヴが感じられるようになるうえ、ヘヴィなビート感覚も出せるようになる。
 つまり、「重くてなめらか」なノリになったのである。
 サウンドがつくり出す空間の風通しがよくなったことによって、高音部のハイハットや、低音部のベース・ラインに聴衆の耳が向けられやすくなった。その疎になった空間に、ミュージシャンたちのアイディアが手を変え品を変え、さまざまに加わってくるようになる。

 具体的には、シンバルやハイハットの刻みが、オープンからクローズに変わり、バウンスしたビートからイーヴンなビートに変わっている。いわゆる普通の均等なエイト・ビートの刻み方になったわけだが、これは、テンポがスローになったために、バウンスした刻み方では間が抜けてしまうのと[ギター・リフとのズレを避けるため]

(略)

[もう一つの]大きな変革は、ベース・ラインの自己主張である。(略)

 エレクトリック・ペースの登場は、ジャマイカの音楽を大きく変えた。
 アンプの使用によって、音の輪郭がクリアになり、音量も大きくすることができるようになった。また、ウッド・ベースよりも速弾きが可能に(略)

 しかも、そのベース・ラインに、ギターがユニゾンで加わってくる。

 ベース・ラインをそのままなぞる時もあるし、16分音符を多用して低音部を細分化する場合もある。オブリガード風に変奏が付随する時もある。レゲエ時代になるにつれ、ユニゾン・ラインを弾くギターの音色は、深くミュートされたものが好まれるようになる。(略)
 そうやって、実質上、ベース・ラインが曲のイメージを支配するという、ジャマイカ独特の音量配分が生み出される。このべース・ラインヘのギターの参加を決定づけたのは、アーネスト・ラングリンやリン・タイトである。特に、リン・タイトの貢献は大きい。
 ギターのリン・タイトはトリニダードの人で、1962年にジャマイカにやって来た。バイロン・リーが独立記念のコンサートに呼び寄せたのだが、マネージャーが金を持ち逃げしたためジャマイカに留まることになった。スティール・ドラムからヒントを得たという彼のベースヘのオブリガードは、口ック・ステディ時代のべース・ラインを飛躍的に発展させた。
(略)リン・タイト本人は1968年にカナダヘ去ってしまったのだが、この奏法はレゲエ時代を通じて無数の曲で使われた。また、耳に残るいくつものベース・パターンが考案され、それはレゲエ時代にたびたび借用された。

(略)

 ジャマイカのミュージシャンたちも、しばらくの間はあくまで、スローにしただけだ、と考えていたように見える。しかし、この曖昧模糊とした宙ぶらりん状態を続けているうちに、第3拍目にアクセントがあってもいい、と気づき始めたのだ。
 そして、長い小節を半分の大きさに区切ることの意味を自覚したのである。
 こうして成立した第3拍目の強調を、ジャマイカでは「ワン・ドロップ」と表現する。

ビート感の変革

 いまでこそ当たり前に感じられるかもしれないが、レゲエが登場した当時、エイト・ビートで3拍目(8分音符で数えるなら5拍目)にドラムスの強拍をもってくるなど考えられないことだった。2拍目と4拍目に強いアクセントを置くこと、これはリズム&ブルースを受け入れて以来のリズム的な規範である。アフター・ビートとはそういうものだった。
 ところが、ジャマイカのミュージシャンたちは、常識はずれの変革に素直にOKを出したのだ。ずっと後々まで、アメリカの黒人系ミュージシャンはこの感覚を受け入れなかった。拒絶していた、と言ってもよい。それほど、根底的なビート感の変革だったのである。

(略)
[スカのBPM128前後をロック・ステディでBPM78]ぐらいまで落として、それを2倍に細分化したのだから、レゲエのテンポがBPM156前後になったかというとそうではない。

(略)

[初期にはBPM150以上になっていたが]

70年代のルーツ・レゲエの時代には、平均的なテンポはBPM128前後に決っている。ジャマイカ人が好むテンポは、やはりこのあたりなのである。

(略)
 レゲエという音楽が、その土台となるリズムはとても細かいビートの複合で出来ているのにゆったりとした曲調とグルーヴをもっているのは、リズムの上に乗っているメロディの流れ自体は、小節が分割される前の極端にスローなテンポのままだからである。(略)
ワン・ドロップのアクセントだけに注目すれば「ゆっくりとした2拍子」とも言える。
 つまり、スネアやフロア・タムのショットとベース・ドラムのキックが、同時に3拍目(これは大きく拍を取れば2拍目ということになる)を打つ2拍子的なノリに、ギターのカッティングやピアノなどによるリフが、かつてのスネアの「偶数拍アクセント」を代行して2拍目と4拍目に入ることによって、小節内を4つに刻む4拍子的なノリが複合されるのである。そして、ハイハットやベースは、このリズムがエイト・ビートであることを主張している。

(略)
レゲエの場合、その複合感がなぜそれほど大きいのかというと、2拍子も4拍子もともにアフター・ビートで演奏されるので、強調点の重なるところが一つもないうえ、小節の頭の1拍目が抜けて隠れた拍になっていることが多いので、トゥー・ビートの2拍目の強調が突出するためである。

(略)

2拍子であるスネアとベース・ドラムは本来なら「●・●・」となるが、ジャマイカではさらに頭を抜くので「・・●・」となり、4拍子のギター・リフは「×○×○」という入り方をして、両者が複合されると「×○●○」となるのである。

 それがエイト・ビートに細分化されると、「××○×●×○×」となる。

初期レゲエ

 スローな2年間の後、初期レゲエの時代に入ってジャマイカの音楽はテンポを上げた。(略)
 このアップ・テンポを主導した人びとの中には、実際にはレゲエ・アヴァンギャルド派とスカ・ファンク派と呼んでもよさそうな二つの傾向が混在していた。前者を代表するプロデューサーは鬼才リー・ペリー、後者を代表するのは中国系のレスリー・コングである。
 この二つの流れは、長い小節の分割について言えば、前者を分割派(サード・ビート・アクセント派)、後者を非分割派(偶数拍アクセント派)と見なしてもいい。

(略)

速いテンポへ揺り戻した非分割派の初期レゲエが、スカに似たものになるのは当然だった。

 まったくの元の木阿弥に戻らなかったのは、ロック・ステディ時代に考案されたさまざまなアイディアが活かされたからだ。ベース・ラインの細分化と強化、ギターのカッティングやオブリガードの多様化、ジャズ臭の消えたドラミング、オルガンやピアノのコード・バッキングの新しいパターンなど

(略)

 この2連の「×○○○」パターンの、2・3・4の拍を均等の強さで弾けばメントになり、3を強く(あるいは弱く)してデコボコに弾けばシャッフル的になり、2・4だけを弾けばスカ、3だけを弾けばレゲエ、3・4だけを弾けばレゲエの「2つ打ち」になるのである。

ボブ・マーリー

 再度のアメリカへの出稼ぎから帰ったボブは、最新のリー・ペリーサウンドと彼のスタジオ・バンドであるアップセッターズの演奏を聴いて、一緒に仕事をしたいと申し込んだ。9歳年上のペリーは、はじめ乗り気ではなかったようだが、会って話をするとたちまち意気投合し、ボブを自分の家の一室に住まわせて、徹底的に「魔神の力」を注ぎ込むようになる。

(略)

ボブ・マーリーの声はエッジの鋭さと艶を増し、ボブ、バニー、ピーターが生み出すハーモニーは、すっきりと美しいラインを描くようになる。

(略)

ウェイラーズはここで、ジャマイカであってジャマイカでない、人工的な空間をつくり上げたと言っていい。リー・ペリーの魔術にかかって、この音空間は、ジャマイカという土地から何メートルか浮き上がったところに仮構されている。それは、いくばくか歪みくすんで、灼熱のジャマイカなのに冷たい擦りガラスを通して見たようにクールである。

(略)

どの曲も、楽器の音や声が極端なまでにチープに歪められ、そのことによって「われわれは石を投じに来たのだ」という異和の姿勢が明瞭に伝わってくる。 

UKレゲエ

 [砂糖価格暴落&ハリケーン被害による不況、英政府の移民受け入れ政策で58年には英国のジャマイカ移民は12.5万人に]

67年にイギリス政府が移民を制限するようになるまでそうした動きは続いた。(略)

[極右団体に煽られた若い白人失業者が4日にわたり「黒人狩り」を行った]ノッティング・ヒル人種暴動(略)

[61年]ジャマイカではちゃんと名の知られたセッション・ミュージシャンだった[リコ・ロドリゲスが英国にやってきたが](略)

下宿屋には「黒人とアイリッシュはお断り」と貼り紙がしてあって、露骨な拒絶が横行する中、フォードの自動車工場などで働いて生活を支える日々が続いたのである。(略)

[ジャマイカでも混血として苛められ]それに嫌気がさしてイギリスに渡ったと本人が回想している。

(略)

リコのトロンボーンは、温かく柔らかい音色でスムーズに吹かれる。

愛称の「スアベ」はスペイン語で「滑らか、穏やか」の意である。

(略)

 プラネトーンより大きな規模で、積極的にジャマイカ音楽のプロモートをしたのが、ユダヤアメリカ人エミール・E・シャリットのメロディスク・レーベルだ。[46年設立、当初はビートニク、ジャズ、50年代に入り]アフリカなど世界各地のマイナーな音楽を扱い始めた。(略)

若いマネージャーであるシギー・ジャクソンの意見を入れ、1960年にブルー・ビート・レーベルをスタートさせた。当時、ジャマイカ系のリズム&ブルースは、ジャマイカン・ブルースとかブルース・ビートと呼ばれていたが、シギー自身の回想によると、それをもじって「ブルー・ビート」と命名したのだという。
 毎週、新譜を1枚ずつリリースするというハイ・ペースの活動で、ブルー・ビートは有力なレーベルヘと成長し、ロンドン在住のカリブ海出身者のこころを掴んでいく。

(略)
 1962年の8月にジャマイカがイギリスから独立すると、クリス・ブラックウェルがアイランド・レコードをジャマイカからロンドンヘ移転させてくる。(略)
[67年にトレジャー・アイルと契約、トロージャンを設立]

多くのジャマイカのレーベルと契約を結び、イギリスでのジャマイカ音楽の総卸問屋のようになっていく。

(略)

 1960年代末から1970年代はじめにかけて、レゲエは意外なところで支持者を増やしていた。一見、威圧的な顔つきをした、スキンヘッドの若者たちである。
 坊主頭にしたこの白人青年たちは、反有色人種的な言動をとることも多かったのだが、硬派の反抗的なロックを愛好する若者たちで、後のパンクにつながるブルー・カラーの労働者が多かった。彼らに受け入れられたレゲエのことを、スキンヘッド・レゲエと呼んだりする。

(略)

 UKレゲエの世界で、デニス・ボーヴェルほど多彩な活躍をし、それぞれの場面で重要な役割を果たしてきた人はいない。ロンドンのサウンド・システム「サファラー・ハイファイ」のDJ兼セレクターであり、マトゥンビでのバンド活動があり、ラヴァーズ・ロックの仕掛け人としての仕事があり、UKダブの中心人物でもある。さらに、パンク・ロックのザ・スリッツやニューウェイヴのザ・ポップ・グループなどを含む幅広いプロデュース活動の一つとして、ダブ・ポエトのリントン・クウェシ・ジョンソンとのコラボレーションがある。
 ダブというもっともラディカルでエッジの鋭い音楽ジャンルと、ラヴァーズ・口ックというアイドル・ポップス路線の両方を、絶妙のバランスでこなしてきたところにこの人の面白さがある。ポップな感覚は彼の根本的な資質で、ダブ的な表現の中にも常に維持されている。

ラヴァーズ・ロックのはじまりについて

 ラヴァーズ・ロックという言葉は、現在では、どちらかと言えば大人のムードを持つラヴ・ソングのことを指す。けれども、もともとは思春期の少女歌手を売り出すアイドル路線の青春ポップスといったニュアンスを持っていた。
 その誕生には、デニス・ハリス、ジョン・力ーパイ、デニス・ボーヴェルの3人が深く関与している。彼らがラヴァーズ・口ックの仕掛け人である。
 ラヴァーズ・ロックという名前のレーベルを立ち上げたのはデニス・ハリスで、1977年のことだ。レーベル名はオーガスタス・パブロの曲〈ラヴァーズ・ロック〉からヒントを得て決められた。最初のヒット曲は、女の子3人組のブラウン・シュガーの〈アイム・イン・ラヴ・ウィズ・ア・ドレッドロックス〉(略)

メンバーたちはまだ少女で、メイン・ヴォーカルのキャロン・ホイーラー[15歳は、のちにソウルⅡソウルを経てソロ歌手に]

(略)

 少女歌手をアイドルにする路線自体は、少し前から始まっていた。彼らはそれをラヴァーズ・ロックと命名することで、ブームを生み出したのである。

(略)
 デニスたちのこの仕掛は、ロックやパンク、またルーツ・レゲエの世界からはいい反応が返ってこなかった。ソフト過ぎるというわけだ。けれども、ラヴァーズ・ロックは大人の歌手が参入することでより広い層に受け入れられるようになり、ついにはレゲエのメイン・ストリームの一つとなった。

サウンドシステム前史

 カドリールというのは、フランスの宮廷舞踏を起源とするョーロッパのカントリー・ダンスの名称である。奴隷時代、黒人たちはそのヨーロッパのダンスをを模倣することに熱中した。毎週土曜の夜に、彼らはダンスをすることが許されたが、そこで少しずつ踊りのパターンや伴奏が変形されていった。また、収穫祭とクリスマスには2日間の休みが与えられ、奴隷たちは夜を徹して踊り続けた。(略)

フラストレーションを解消するために行なわれたのだが、同時に、それは反乱につながる不穏な動きの温床ともなり、植民者たちにとっては悩ましい事態とならざるを得なかった。
(略)

 ジャマイカでは1834年の奴隷解放宣言(実施は1838年)によって、黒人奴隷たちは自由の身分となる。カドリール・バンドは、自作農や小作農となった黒人たちの村々に存続して、今度はほんとうに自分たち自身の愉しみのために演奏することになる。
 村のカドリール・バンドは、ョーロッパのダンス曲であるポルカマズルカ、ワルツ、リール、ジグなどを演奏したほか、黒人特有のダンス曲や遊び歌などもレパートリーに取り入れていったようだ。また、後にはキューバのソンやルンバの影響も受けることになる。ジャマイカの中で、ヨーロッパ系とアフリカ系のダンス音楽が混在しながら楽しまれたわけだ。
 例えば、ボブ・マーリーの生まれたセント・アン教区のナイン・マイル村でも、ボブのお爺さんや母方の叔父がカドリールを演奏したことが、その伝記に書かれている。ボブが最初に接した音楽もまたカドリールだったわけだ。
 これが、ジャマイカの村における「ダンスホール的なもの」の起源である。

(略)

 1920年代には、ダンスホールは島の到るところにあった。都会では劇場やクラブが、小さな町では市場が、貧しい村では掘っ建て小屋のような仮小屋がダンスホールとなった。

(略)

[50年代16万人が英国に移住しバンドが激減、残ったバンドもカリブ海のリゾート地に仕事を求めたためダンスの現場で生演奏が欠乏し]

サウンド・システムの登場を促すこととなった。

[バンドがレコードになったことで、貧しい黒人が払える安い入場料が可能になり、50年代後半バンド活動が活性化しても、サウンド・システムはさらに増加] 

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ジャマイカアイリッシュ

 ジャマイカは、カリブ海に浮かぶ山と渓流の多い小さな島である。

 面積は1万1千平方キロ弱、人口は270万人ほど (2011年政府統計)。(略)面積は日本の3分の1以下、人口は約30分の1である。面積も人口も新潟県とほぼ同じと考えればよい。

(略)

1655年にジャマイカをスペインから奪ったイギリスの護国卿オリヴァー・クロムウェルは、支配下にあった農奴状態のアイリッシュ年季奉公移民という形でこの島に送り込む。(略)

黒人奴隷が大量に流入する前は、彼らがジャマイカの奴隷的な労働の一翼を担っていたわけだ。イギリスの圧政の下、音楽と踊りだけが唯一の娯楽だったアイルランド人が、この島のクレオール音楽の形成に何らかの影響を与えていることは想像に難くない。キングストンの裏山には、アイリッシュ・タウンという村がある。また、島内を回れば行く先々でアイリッシュの地名にぶつかる。(略)それより何より、ジャマイカ人の名前にケルト名の痕跡がたくさん残っている。(略)

ピーター・トッシュの本名はウィンストン・ヒュバート・マッキントッシュ、もう一人のバニー・ウェイラーの本名はネヴィル・オライリーリヴィングストンで、ともに「McIntosh」「O'Riley」とケルト名が入っている。スカタライツのリーダーだったトミー・マクック (Tommy McCook)、ヴェテラン歌手のフレディー・マグレガー (Freddie McGregor))なども名字はケルト名だ。奴隷解放で自由の身となったときにかつての主人の名を引き継いだのか、それとも家系にケルトの血が混ざっているということか、単に気に入って名乗ったものか、経緯はいろいろだろう

ラスタ

保守派からマイケル・マンリーのような左翼まで、こぞってイギリスやアメリカの白人社会を模倣するこの島の支配的な価値観に対する、ほとんど唯一のアンチ・テーゼが、ラスタファリアンの「ジャマイカ=バビロン」説だと言っていい。したがって、彼らはアフリカへの帰還を唱え、エジプトからイスラエルの民が脱出(エクソダス) したという『出エジプト記』の記述になぞらえて、バビロンであるジャマイカから脱出しようと考えるのである。教義的に見ればそういうことになるが、実際のところ、ラスタは個々の人間やグループの独立性が高く、それほど厳格な宗教には見えない。外見は「野人」のようだが、彼らの自然指向や菜食主義には、アフリカ的というより、都会生活からドロップアウトした脱社会型の黒人版ヒッピーと言っていい側面がある。ラスタとされているミュージシャンの中にも、ラスタを宗教とは見ず、「生き方」の指針と捉えている人が多い。ラスタは、ジャマイカ国内では、ほんとうに小さな集団である。世界でいちばん教会が多い国 (単位面積当たり)と形容されるこの国には、100を超えるキリスト教の宗派が存在する。圧倒的な多数派はプロテスタントキリスト教徒だ。ジャマイカには、十八世紀にイギリスやアメリカからキリスト教諸派がたくさんやって来た。

(略)

ところが、1860年代にジャマイカで「グレート・リヴァイヴァル」と呼ばれる熱烈なキリスト教の信仰復活運動が起こる。歌や踊りやタイコ、降霊と憑依などを取り入れたリヴァイヴァル派の儀式は、ジャマイカ黒人にとっては、アフリカ起源の習俗であるクミナに具体的で合法的な形態を与えてくれるものと映ったに違いない。実際に、クミナはこの運動から生じたポコマニア派(プックミナ派) やザイオン派に、かなりの部分が吸収されたという。

 ラスタの運動は、これらの宗派よりずっと後に登場している。実は、ラスタがナイヤビンギ集会で用いる宗教歌の大半は、リヴァイヴァル派の聖歌をそのまま援用したものである。

(略)

 ジャマイカの大衆がもつ宗教的な精神世界は、決して単純ではなく重層的である。(略)

[奴隷達は]こころの中にアフリカの国々の部族の宗教的な心性を保持したまま、見知らぬ土地にやって来た。

 そのアフリカ的宗教心が、禁止されたり、教化されたりして、外形的にはキリスト教の衣をまとう。こころはアフリカだが、形式はヨーロッパを借りた、独特の宗教の形態ができあがる。こういう宗教的な混淆のことを「習合」とか「シンクレティズム (syncretism)」と呼ぶ。

 それらの中には、習合の度合いが低く、ほとんどアフリカそのままと言っていいほど、宗教的な儀式の形態と精神性を、遠い母国から引き継いでいる信仰も存在している。ジャマイカでそれに相当する習俗は「クミナ」と呼ばれる。(略)

ただし、クミナだけがアフリカ系の民間信仰なのではない。(略)

[マイアルの呪術信仰、エトゥやナジョといったヨルバ系の人びとの信仰]

ジョンカヌー、ブルッキンズ、ゲレー、ブル、タンボー、ディンキー・ミニーなど、混淆の度合いのより大きい習俗もたくさん存在する。 

ダピー・コンカラ

 ボブ・マーリーの初期の作品に、〈ダピー・コンカラー〉という曲がある。

 このダピーも、アフリカから引き継がれてきた死霊信仰の一つで、ジャマイカではだれもが知っている。時どき悪さをするので恐れられている幽霊のようなものである。若い頃のボブ・マーリーが、このダピーの悪夢に悩まされて金縛りにあったことは、その伝記に書かれているのでよく知られている。田舎の人びとは、オビア・マンと呼ばれる魔術師がこのダピーを操って人に呪いをかけることができると信じている。

(略)

死者を埋葬した後、その亡骸から抜け出していこうとする霊ダピーを歓待して墓地にとどまらせ、9日目の夜にうまく棺桶に迎え入れて封じ込めてしまう(略)これに失敗すると、ダピーはさまよい続けて悪戯をするのである。(略)

ところで、ボブ・マーリーの言う「ダピー・コンカラー」とは何だろう。(略)マイアル・マンやオビア・マンのことを指す。マイアルとかオビア というのは、アフリカの言葉で「魔術」を意味し、ダピーの力をコントロールできる人なのでダピー・コンカラーと呼ぶのだ。両者は混同されることもあるが、マイアル・マンは良き行ないの導き手であって、魔術で呪いをかけて人びとを惑わすオビア・マンとは対立する存在である。そして、オビア・マンがダピーにかけた魔法を、マイアル・マンは解くことができるのだと信じられている。

マーカス・ガーヴェイ

「アフリカに黒人だけの国家を作ろう」と、ガーヴェィは訴えた。これは、当時のアメリカの黒人たちにとっては驚天動地の考えだったと言える。(略)

 すでに、NAACP (全米黒人地位向上協会)のような黒人の権利の拡大と生活の向上を目指す組織は存在したが、彼らが考えていたのは、アメリカという社会でどうやって生き抜いていくか、ということだった。アフリカは、すでに遠い記憶の彼方にあった。

 一方、ガーヴェイは、アメリカ社会の中では黒人の権利が白人と同じように認められることは決してないと思い定めていた。(略)アメリカそのものに「三くだり半」を突きつける、といった考えだ。新大陸の植民地から黒人種のすべてを引っぺがして母国アフリカに帰還させる、といった発想である。当時のアメリカで、ガーヴェイはもっとも過激な活動家と見なされた。その雰囲気をよく伝えている資料がある。

[マイルス・ディヴィスは自伝で]こう回想している。《おやじはアフリカとのつながりも持っていた。NAACPのやり方よりは、マーカス・ガーヴェイのほうが好きだった。一九二〇年代の昔に、黒人を一致団結させたんだから、ガーヴェイのほうが重要だと考えていた。(略)

「[NAACPの]ウイリアム・ピケンズなんかクソくらえだ。あの大馬鹿野郎はマーカス・ガーヴェイを嫌ってやがるが、ガーヴェイは黒人のために何かやろうと黒人を集めただけだ。しかもあの時が、この国で一番黒人が集まった時なんだぞ」(略)。おふくろはおやじと違って、黒人達の前進を支持してはいたが、NAACP寄りの考え方だった。おふくろは、おやじのことを急進的すぎると思っていた》

(略)

 マイルスの父がガーヴェイを支持したのには、それなりの理由があった。

セントルイスは、1917年7月に、大規模な人種間の抗争事件が起き、数十人の白人と数百人の黒人が殺された(略)

このとき、NAACPは強い抗議の姿勢を示さなかったと言われる。しかし、ガーヴェイは即座にハーレムの街頭に立ち、白人の優位に抗して黒人が団結すべきことを訴え、奴隷となる前のアフリカ黒人には輝かしい歴史があったと語りかけた。この決断力のある行動によって、ガーヴェイはアメリカの下層黒人に受け入れられるようになっていくのである。

初期のラスタ 

初期のラスタの歴史は、ジャマイカ政府との闘争の歴史と言っていい。

 その中心人物は、レナード・ハウエルである。(略)

ジャマイカも、世界大恐慌の余波をまともに受けて失業者が増大した。

 そういう厳しい時期に、ラスタファリアニズムは産声をあげた。

 レナード・ハウエルは、まず西キングストンのスラムで布教を始める。そこで支持者を獲得した後、全島に組織を拡大するための資金稼ぎに、ハイレ・セラシエの写真を印刷したカードを売り出したところ、折りからのエチオピア熱も手伝って瞬く間に数千枚が売れたという。そのエチオピアから迎えの船がくると、人びとに語ったとも伝えられている。(略)

[キングストンで]野外集会を開いたときに、イギリスとジャマイカ政府を侮辱する煽動を行なったとして、1933年末、彼は逮捕される。(略)

[出所後]未開地に拠点をつくる。

 それが、ラスタ運動の実質的な原点とも言える「ピナクル・コミューン」である。

 このコミューンでは、500人を超えるラスタが共同生活をしていたが、1941年に、ガンジャ栽培などの容疑で警察の手入れを受け、大量の逮捕者を出す。(略)[懲役刑を受けた]ハウエルはピナクルを再興するが、1954年と1958年に同様のことが起きてコミューンは壊滅する。(略)

[キングストンのスラムで仲間を増やすことに]

髪の毛を「ドレッド・ロックス」にするようになったのも、このコミューンでのことだったようだ。ハウエルはインド人との交流が深く、ガンジャ (ヒンドゥー語) の吸引や髪形には彼らの影響があったとも言われる。

 ハウエルは、最終的には精神病院に入れられてしまう。

(略)

 1966年、ハイレ・セラシエのジャマイカ訪問の直後に、バック・オ・ウォールの掘っ建て小屋は政府のブルドーザーによって撤去された。ラスタは再び拠点を失い、スラム街のトレンチ・タウンや丘陵地帯に小さな共同体をつくって活動を続けていくことになる。

メント

 音として記録されたジャマイカ音楽の歴史はメントから始まる。

 メントは、汎カリブ海的な黒人系フォーク・ソングあるいはダンス曲と言うべきもので、トリニダードカリプソとよく似ていることで知られる。どちらも、ヨーロッパのダンス音楽や歌曲と、黒人のシンコペートするビート感覚が融合してできた混血音楽である。

(略)

 カリブ海クレオール音楽の中でも、ジャマイカのメントは実態が掴みにくい。

 トリニダードカリプソ系音楽などは1910年代から録音され、外国に流布されたのに、ジャマイカの場合はそうした古い音源がまったくないからだ。最初の録音が1950年前後というのは、カリブ海の島々の中でも極端に遅い。ジャマイカ音楽は出遅れたと言える。

 文献によれば、十九世紀の終わり頃までには、メントはある形式をもった音楽として成立していたという。主としてフランスのダンス曲[持ち込んだのはイギリス人]であるカドリールから発展したもので、カドリール・バンドは二十世紀の後半まで、ジャマイカの町や村ごとに存続していたようだ。

(略)

リール、ジグ、ポルカマズルカ、ワルツなどのダンス曲が演奏され、踊りのステップも忠実に守られた。カドリール・バンドというのは、その伴奏バンドのことだ。

(略)

一般に、ジャマイカの音楽は、メントから、スカ、ロック・ステディ、レゲエと発展していったというような言われ方をする。しかし、メントがスカに移行するためには、そこに大きな跳躍が必要だった。スカからレゲエに到る変化は、ある意味では一本道で明瞭なのだが、メントとスカの間には、実は大きな断層がある。

 そのことを理解するためには、絶えず変化していく「リズム・パターン」と、それでも保持されていく「曲想」や「ノリの感覚」という、二つの軸を立てて見ていく必要がある。

  ジャマイカでは、メロディとして意識される曲想は、時代的にゆったりとしか変化していかないのに、その土台で鳴っているリズムのパターンや楽器の編成は、国外からの影響などを受けて、それよりもずっと早いスピードで、しかも大胆な変化を遂げているのだ。

 この二つのものは、構造的にかなりはっきりと異なった発展の仕方をするのだと理解することが、ジャマイカ音楽に生じた事態を把握するためのキー・ポイントである。

(略)

庶民の娯楽である「田舎のメント」は、近代的な大都市に変貌していくキングストンや北海岸のリゾート地では「都会のメント」にとって代わられ、演奏される機会がほとんどなくなって、本来の居場所である田舎の村でわずかに受け継がれることになったと考えられる。

 やがて、1950年代にカリプソが世界的に大流行したとき、ジャマイカの音楽もその流れに飛び込んだ。管楽器が活躍し、「頭抜き」の伴奏は用いられなくなる。その頃のカリプソはマンボの影響を受けて、リズム面はキューバ色が濃い。その点、メントとカリプソは融合しやすかった。メントの曲想はトリニダードのイギリス系カリプソに近いので、またその人気に便乗する必要もあって、ジャマイカでも「カリプソ」の呼称が使われるようになった。

 こうしてメントとカリプソは、境い目のあやふやな兄弟音楽となる。

(略)

カリプソ風メント」は、人びとに「都会のメント」よりさらにモダンなポピュラー音楽と受けとめられた

「スカ」の時代

 1950年代の後半に、彼らはもう一度、大胆な乗り換えを決行する。

 新しい車はアメリカのリズム&ブルースという、8気筒エンジンの新型車である。

 かつて手に入れたキューバ系のコンガ・パターンを捨て、今度はエイト・ビートのシャッフル系リズム&ブルースに乗り換えようというのである。(略)またもや、リズムの「総入れ替え」が行なわれようとしているのだ。

 そして、ここから「スカ」の時代が始まるのである。

 リズム&ブルースに乗り換えた後、そこに跳ねあげるようなアフター・ビートと頭抜きのノリというジャマイカらしさが染み出てくるプロセスが、スカの生成過程である。

 こうしてみると、小節の頭にアクセントを置きたがらないこの「頭抜き」のアフター・ビートへの指向性は、ジャマイカ人のもっとも原形的な「音楽的個性」ということになりそうだ。(略)

 この二度目のリズムの総入れ替えによって、ジャマイカの音楽から、カリブ海域の植民地音楽につきまとうクレオール音楽的なニュアンスが完全に一掃された。

 その意味で、メントとスカの間には断層がある。

 ジャマイカにおいては、変化とは「リズム」のことである。変わらぬものは「頭抜き」のアフター・ビート感覚である。この「変わるもの」と「変わらぬもの」とをうまく分離し、その連関の構造を捉えてはじめて、ジャマイカの音楽の変遷は理解することができる。 

次回に続く。