レゲエ入門・その2

前回の続き。 

レゲエ入門  世界を揺らしたジャマイカ発リズム革命 (いりぐちアルテス008)

レゲエ入門 世界を揺らしたジャマイカ発リズム革命 (いりぐちアルテス008)

  • 作者: 牧野直也,松橋泉
  • 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
  • 発売日: 2018/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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口ック・ステディとルード・ボーイ

[65年新年ドン・ドラモントが同棲相手を刺殺、69年に精神病棟で死亡。この事件で政府やメディアから]ルード・ボーイ(ならず者)の音楽として(略)

スカは袋叩きにあって、音楽シーンから消えざるを得なくなった。

スカタライツも、事件から半年ちょっとで解散する。

(略)

 そのとき、忽然と現れたのが口ック・ステディである。
 踊り手のペースをクール・ダウンさせる、この新しいスローなビートの音楽は、1966年の春から1968年の夏まで続き、そのままレゲエヘとバトンタッチされている。

(略)
[前年の]1965年は、暴動の年でもあった。(略)
[キング牧師来島]

ルード・ボーイたちが暴動を起こす。中国人が経営するダウンタウンの商店が襲われて多くの死者が出た。ウェイラーズのシングル〈ルード・ボーイ〉がダウンタウンでヒットしたのは、らょうどその頃のことである。この小さな島でそれは6万枚も売れた。

(略)

 1966年4月には、エチオピアハイレ・セラシエ皇帝がジャマイカを訪れ、その出迎えのために空港にラスタたちが集まったので、彼らの存在が改めて国民に印象づけられた。
[同年7月、ラスタの拠点の]トタン小屋の群れが、警官隊に守られた政府のブルドーザーによって撤去されている。
 キングストンは騒然としていた。
 ロック・ステディが登場したのは、そういう時代である。

(略)

 ロック・ステディは、まずスカのテンポのスロー・ダウンとして現れた。
 テンポは大幅に遅くなったが、はじめのうち、リズム的に見ればやっていることはまったくスカと同じだった。単にスローなテンポになっただけなのである。
 スカの煽るような速いノリに、もともとアップ・テンポに強いとは言えないジャマイカの聴衆が、少し疲れを感じるようになったというところが真相かもしれない。

(略)

スカは、アップ・ビートの不断のリフを定型化したことでレゲエに到る最初のドアを開けたと言うことができ、ロック・ステディは、それをそのままテンポ・ダウンしてダウン・ビートに変容させることで、最後のドアを開けたことになる。

 実は、このロック・ステディ時代の約2年間に、後にレゲエと呼ばれるようになる音楽のほとんどすべてのアイディアは出揃っている。

(略)

 そもそも、スカ自体が変容の連続で、アップ・ビートのアクセントのポイントを少しずつずらしながら、ほんの数年の間に、ビート感覚に大きな変化を与えてきたのである。
 ジャマイカの音楽は、ほとんど落ち着くことを知らない。
 絶え間なくリズムの細分化とベース・パターンの変革を繰り返しているので、その一つだけを取ってロック・ステディあるいはレゲエと呼ぶのは不可能である。(略)

[ジャマイカ独特のリズムヘの指向性]リズムが与えるノリの雰囲気そのものを広義にレゲエと呼ぶしかない。(略)
 それは、黒人系音楽で言うところのアフター・ビート(略)のアクセント・リフを「はっきりと欠かさずに入れる」という点に表れている。それに伴って、ジャマイカでは頭抜きのノリが強調されるのだが、それは常に前後にズレた波が織り合わされたような複合的なリズム感を基調としている。

(略)

 例えば、アメリカでは1966年にジェームズ・ブラウンの超スロー曲〈イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド〉が大ヒットしているが、これも依然として8分の6拍子だ。
 アメリカの黒人は、スローなテンポに移るとき、3連符系のビート感にギアを切り換えていたのだが、ジャマイカでは、もとのエイト・ビートをテンポ・ダウンして、それを2倍に細分化させてノー・クラッチで乗り切る、という方法を見つけ出したと言ってもいい。
 このやり方は、次第に革命的な変化を生み出していく。
 テンポのスロー・ダウンは、心理的な落ち着きを取り戻させるだけでなく、もっと大きな効果を音楽にもたらす。シンコペートしたノリによってリズムにゆったりとしたグルーヴが感じられるようになるうえ、ヘヴィなビート感覚も出せるようになる。
 つまり、「重くてなめらか」なノリになったのである。
 サウンドがつくり出す空間の風通しがよくなったことによって、高音部のハイハットや、低音部のベース・ラインに聴衆の耳が向けられやすくなった。その疎になった空間に、ミュージシャンたちのアイディアが手を変え品を変え、さまざまに加わってくるようになる。

 具体的には、シンバルやハイハットの刻みが、オープンからクローズに変わり、バウンスしたビートからイーヴンなビートに変わっている。いわゆる普通の均等なエイト・ビートの刻み方になったわけだが、これは、テンポがスローになったために、バウンスした刻み方では間が抜けてしまうのと[ギター・リフとのズレを避けるため]

(略)

[もう一つの]大きな変革は、ベース・ラインの自己主張である。(略)

 エレクトリック・ペースの登場は、ジャマイカの音楽を大きく変えた。
 アンプの使用によって、音の輪郭がクリアになり、音量も大きくすることができるようになった。また、ウッド・ベースよりも速弾きが可能に(略)

 しかも、そのベース・ラインに、ギターがユニゾンで加わってくる。

 ベース・ラインをそのままなぞる時もあるし、16分音符を多用して低音部を細分化する場合もある。オブリガード風に変奏が付随する時もある。レゲエ時代になるにつれ、ユニゾン・ラインを弾くギターの音色は、深くミュートされたものが好まれるようになる。(略)
 そうやって、実質上、ベース・ラインが曲のイメージを支配するという、ジャマイカ独特の音量配分が生み出される。このべース・ラインヘのギターの参加を決定づけたのは、アーネスト・ラングリンやリン・タイトである。特に、リン・タイトの貢献は大きい。
 ギターのリン・タイトはトリニダードの人で、1962年にジャマイカにやって来た。バイロン・リーが独立記念のコンサートに呼び寄せたのだが、マネージャーが金を持ち逃げしたためジャマイカに留まることになった。スティール・ドラムからヒントを得たという彼のベースヘのオブリガードは、口ック・ステディ時代のべース・ラインを飛躍的に発展させた。
(略)リン・タイト本人は1968年にカナダヘ去ってしまったのだが、この奏法はレゲエ時代を通じて無数の曲で使われた。また、耳に残るいくつものベース・パターンが考案され、それはレゲエ時代にたびたび借用された。

(略)

 ジャマイカのミュージシャンたちも、しばらくの間はあくまで、スローにしただけだ、と考えていたように見える。しかし、この曖昧模糊とした宙ぶらりん状態を続けているうちに、第3拍目にアクセントがあってもいい、と気づき始めたのだ。
 そして、長い小節を半分の大きさに区切ることの意味を自覚したのである。
 こうして成立した第3拍目の強調を、ジャマイカでは「ワン・ドロップ」と表現する。

ビート感の変革

 いまでこそ当たり前に感じられるかもしれないが、レゲエが登場した当時、エイト・ビートで3拍目(8分音符で数えるなら5拍目)にドラムスの強拍をもってくるなど考えられないことだった。2拍目と4拍目に強いアクセントを置くこと、これはリズム&ブルースを受け入れて以来のリズム的な規範である。アフター・ビートとはそういうものだった。
 ところが、ジャマイカのミュージシャンたちは、常識はずれの変革に素直にOKを出したのだ。ずっと後々まで、アメリカの黒人系ミュージシャンはこの感覚を受け入れなかった。拒絶していた、と言ってもよい。それほど、根底的なビート感の変革だったのである。

(略)
[スカのBPM128前後をロック・ステディでBPM78]ぐらいまで落として、それを2倍に細分化したのだから、レゲエのテンポがBPM156前後になったかというとそうではない。

(略)

[初期にはBPM150以上になっていたが]

70年代のルーツ・レゲエの時代には、平均的なテンポはBPM128前後に決っている。ジャマイカ人が好むテンポは、やはりこのあたりなのである。

(略)
 レゲエという音楽が、その土台となるリズムはとても細かいビートの複合で出来ているのにゆったりとした曲調とグルーヴをもっているのは、リズムの上に乗っているメロディの流れ自体は、小節が分割される前の極端にスローなテンポのままだからである。(略)
ワン・ドロップのアクセントだけに注目すれば「ゆっくりとした2拍子」とも言える。
 つまり、スネアやフロア・タムのショットとベース・ドラムのキックが、同時に3拍目(これは大きく拍を取れば2拍目ということになる)を打つ2拍子的なノリに、ギターのカッティングやピアノなどによるリフが、かつてのスネアの「偶数拍アクセント」を代行して2拍目と4拍目に入ることによって、小節内を4つに刻む4拍子的なノリが複合されるのである。そして、ハイハットやベースは、このリズムがエイト・ビートであることを主張している。

(略)
レゲエの場合、その複合感がなぜそれほど大きいのかというと、2拍子も4拍子もともにアフター・ビートで演奏されるので、強調点の重なるところが一つもないうえ、小節の頭の1拍目が抜けて隠れた拍になっていることが多いので、トゥー・ビートの2拍目の強調が突出するためである。

(略)

2拍子であるスネアとベース・ドラムは本来なら「●・●・」となるが、ジャマイカではさらに頭を抜くので「・・●・」となり、4拍子のギター・リフは「×○×○」という入り方をして、両者が複合されると「×○●○」となるのである。

 それがエイト・ビートに細分化されると、「××○×●×○×」となる。

初期レゲエ

 スローな2年間の後、初期レゲエの時代に入ってジャマイカの音楽はテンポを上げた。(略)
 このアップ・テンポを主導した人びとの中には、実際にはレゲエ・アヴァンギャルド派とスカ・ファンク派と呼んでもよさそうな二つの傾向が混在していた。前者を代表するプロデューサーは鬼才リー・ペリー、後者を代表するのは中国系のレスリー・コングである。
 この二つの流れは、長い小節の分割について言えば、前者を分割派(サード・ビート・アクセント派)、後者を非分割派(偶数拍アクセント派)と見なしてもいい。

(略)

速いテンポへ揺り戻した非分割派の初期レゲエが、スカに似たものになるのは当然だった。

 まったくの元の木阿弥に戻らなかったのは、ロック・ステディ時代に考案されたさまざまなアイディアが活かされたからだ。ベース・ラインの細分化と強化、ギターのカッティングやオブリガードの多様化、ジャズ臭の消えたドラミング、オルガンやピアノのコード・バッキングの新しいパターンなど

(略)

 この2連の「×○○○」パターンの、2・3・4の拍を均等の強さで弾けばメントになり、3を強く(あるいは弱く)してデコボコに弾けばシャッフル的になり、2・4だけを弾けばスカ、3だけを弾けばレゲエ、3・4だけを弾けばレゲエの「2つ打ち」になるのである。

ボブ・マーリー

 再度のアメリカへの出稼ぎから帰ったボブは、最新のリー・ペリーサウンドと彼のスタジオ・バンドであるアップセッターズの演奏を聴いて、一緒に仕事をしたいと申し込んだ。9歳年上のペリーは、はじめ乗り気ではなかったようだが、会って話をするとたちまち意気投合し、ボブを自分の家の一室に住まわせて、徹底的に「魔神の力」を注ぎ込むようになる。

(略)

ボブ・マーリーの声はエッジの鋭さと艶を増し、ボブ、バニー、ピーターが生み出すハーモニーは、すっきりと美しいラインを描くようになる。

(略)

ウェイラーズはここで、ジャマイカであってジャマイカでない、人工的な空間をつくり上げたと言っていい。リー・ペリーの魔術にかかって、この音空間は、ジャマイカという土地から何メートルか浮き上がったところに仮構されている。それは、いくばくか歪みくすんで、灼熱のジャマイカなのに冷たい擦りガラスを通して見たようにクールである。

(略)

どの曲も、楽器の音や声が極端なまでにチープに歪められ、そのことによって「われわれは石を投じに来たのだ」という異和の姿勢が明瞭に伝わってくる。 

UKレゲエ

 [砂糖価格暴落&ハリケーン被害による不況、英政府の移民受け入れ政策で58年には英国のジャマイカ移民は12.5万人に]

67年にイギリス政府が移民を制限するようになるまでそうした動きは続いた。(略)

[極右団体に煽られた若い白人失業者が4日にわたり「黒人狩り」を行った]ノッティング・ヒル人種暴動(略)

[61年]ジャマイカではちゃんと名の知られたセッション・ミュージシャンだった[リコ・ロドリゲスが英国にやってきたが](略)

下宿屋には「黒人とアイリッシュはお断り」と貼り紙がしてあって、露骨な拒絶が横行する中、フォードの自動車工場などで働いて生活を支える日々が続いたのである。(略)

[ジャマイカでも混血として苛められ]それに嫌気がさしてイギリスに渡ったと本人が回想している。

(略)

リコのトロンボーンは、温かく柔らかい音色でスムーズに吹かれる。

愛称の「スアベ」はスペイン語で「滑らか、穏やか」の意である。

(略)

 プラネトーンより大きな規模で、積極的にジャマイカ音楽のプロモートをしたのが、ユダヤアメリカ人エミール・E・シャリットのメロディスク・レーベルだ。[46年設立、当初はビートニク、ジャズ、50年代に入り]アフリカなど世界各地のマイナーな音楽を扱い始めた。(略)

若いマネージャーであるシギー・ジャクソンの意見を入れ、1960年にブルー・ビート・レーベルをスタートさせた。当時、ジャマイカ系のリズム&ブルースは、ジャマイカン・ブルースとかブルース・ビートと呼ばれていたが、シギー自身の回想によると、それをもじって「ブルー・ビート」と命名したのだという。
 毎週、新譜を1枚ずつリリースするというハイ・ペースの活動で、ブルー・ビートは有力なレーベルヘと成長し、ロンドン在住のカリブ海出身者のこころを掴んでいく。

(略)
 1962年の8月にジャマイカがイギリスから独立すると、クリス・ブラックウェルがアイランド・レコードをジャマイカからロンドンヘ移転させてくる。(略)
[67年にトレジャー・アイルと契約、トロージャンを設立]

多くのジャマイカのレーベルと契約を結び、イギリスでのジャマイカ音楽の総卸問屋のようになっていく。

(略)

 1960年代末から1970年代はじめにかけて、レゲエは意外なところで支持者を増やしていた。一見、威圧的な顔つきをした、スキンヘッドの若者たちである。
 坊主頭にしたこの白人青年たちは、反有色人種的な言動をとることも多かったのだが、硬派の反抗的なロックを愛好する若者たちで、後のパンクにつながるブルー・カラーの労働者が多かった。彼らに受け入れられたレゲエのことを、スキンヘッド・レゲエと呼んだりする。

(略)

 UKレゲエの世界で、デニス・ボーヴェルほど多彩な活躍をし、それぞれの場面で重要な役割を果たしてきた人はいない。ロンドンのサウンド・システム「サファラー・ハイファイ」のDJ兼セレクターであり、マトゥンビでのバンド活動があり、ラヴァーズ・ロックの仕掛け人としての仕事があり、UKダブの中心人物でもある。さらに、パンク・ロックのザ・スリッツやニューウェイヴのザ・ポップ・グループなどを含む幅広いプロデュース活動の一つとして、ダブ・ポエトのリントン・クウェシ・ジョンソンとのコラボレーションがある。
 ダブというもっともラディカルでエッジの鋭い音楽ジャンルと、ラヴァーズ・口ックというアイドル・ポップス路線の両方を、絶妙のバランスでこなしてきたところにこの人の面白さがある。ポップな感覚は彼の根本的な資質で、ダブ的な表現の中にも常に維持されている。

ラヴァーズ・ロックのはじまりについて

 ラヴァーズ・ロックという言葉は、現在では、どちらかと言えば大人のムードを持つラヴ・ソングのことを指す。けれども、もともとは思春期の少女歌手を売り出すアイドル路線の青春ポップスといったニュアンスを持っていた。
 その誕生には、デニス・ハリス、ジョン・力ーパイ、デニス・ボーヴェルの3人が深く関与している。彼らがラヴァーズ・口ックの仕掛け人である。
 ラヴァーズ・ロックという名前のレーベルを立ち上げたのはデニス・ハリスで、1977年のことだ。レーベル名はオーガスタス・パブロの曲〈ラヴァーズ・ロック〉からヒントを得て決められた。最初のヒット曲は、女の子3人組のブラウン・シュガーの〈アイム・イン・ラヴ・ウィズ・ア・ドレッドロックス〉(略)

メンバーたちはまだ少女で、メイン・ヴォーカルのキャロン・ホイーラー[15歳は、のちにソウルⅡソウルを経てソロ歌手に]

(略)

 少女歌手をアイドルにする路線自体は、少し前から始まっていた。彼らはそれをラヴァーズ・ロックと命名することで、ブームを生み出したのである。

(略)
 デニスたちのこの仕掛は、ロックやパンク、またルーツ・レゲエの世界からはいい反応が返ってこなかった。ソフト過ぎるというわけだ。けれども、ラヴァーズ・ロックは大人の歌手が参入することでより広い層に受け入れられるようになり、ついにはレゲエのメイン・ストリームの一つとなった。

サウンドシステム前史

 カドリールというのは、フランスの宮廷舞踏を起源とするョーロッパのカントリー・ダンスの名称である。奴隷時代、黒人たちはそのヨーロッパのダンスをを模倣することに熱中した。毎週土曜の夜に、彼らはダンスをすることが許されたが、そこで少しずつ踊りのパターンや伴奏が変形されていった。また、収穫祭とクリスマスには2日間の休みが与えられ、奴隷たちは夜を徹して踊り続けた。(略)

フラストレーションを解消するために行なわれたのだが、同時に、それは反乱につながる不穏な動きの温床ともなり、植民者たちにとっては悩ましい事態とならざるを得なかった。
(略)

 ジャマイカでは1834年の奴隷解放宣言(実施は1838年)によって、黒人奴隷たちは自由の身分となる。カドリール・バンドは、自作農や小作農となった黒人たちの村々に存続して、今度はほんとうに自分たち自身の愉しみのために演奏することになる。
 村のカドリール・バンドは、ョーロッパのダンス曲であるポルカマズルカ、ワルツ、リール、ジグなどを演奏したほか、黒人特有のダンス曲や遊び歌などもレパートリーに取り入れていったようだ。また、後にはキューバのソンやルンバの影響も受けることになる。ジャマイカの中で、ヨーロッパ系とアフリカ系のダンス音楽が混在しながら楽しまれたわけだ。
 例えば、ボブ・マーリーの生まれたセント・アン教区のナイン・マイル村でも、ボブのお爺さんや母方の叔父がカドリールを演奏したことが、その伝記に書かれている。ボブが最初に接した音楽もまたカドリールだったわけだ。
 これが、ジャマイカの村における「ダンスホール的なもの」の起源である。

(略)

 1920年代には、ダンスホールは島の到るところにあった。都会では劇場やクラブが、小さな町では市場が、貧しい村では掘っ建て小屋のような仮小屋がダンスホールとなった。

(略)

[50年代16万人が英国に移住しバンドが激減、残ったバンドもカリブ海のリゾート地に仕事を求めたためダンスの現場で生演奏が欠乏し]

サウンド・システムの登場を促すこととなった。

[バンドがレコードになったことで、貧しい黒人が払える安い入場料が可能になり、50年代後半バンド活動が活性化しても、サウンド・システムはさらに増加] 

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