選択しないという選択 キャス・サンスティーン

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

 

デフォルト・ルールの設定

選択アーキテクチャーは束縛し、制限すると同時に、可能にし、容易にする(略)

 

[デビッド・フォスター・ウォレスのスピーチ]

若い魚が二匹、並んで泳いでいたところ、反対方向に泳いでいく年上の魚と出くわした。年上の魚は会釈して「おはよう。水の按配はどうだね?」といった。若い魚はしばらく泳ぎ続けたあとで、一匹がもう一匹を見て聞いた。「水ってなんだ?」

 

 人間にとって選択アーキテクチャーは、この若い魚にとっての水と同じである。気づかなくても、それはそこにある。さらにいえば、たとえデフォルト・ルールが常識だとみなされても、あるいはおそらく常識だとみなされているためになおさら、それは選択の自由が保たれる介入と理解され、命令や禁止令を課さずに、人々の選択を特定の方向に向けさせる主要な「ナッジ [柔らかく押しやること]」とみなされる。

(略)

法律制度の最も重要な役割の一つにデフォルト・ルールの設定がある。(略)

殺人や暴力を禁じるルールをオプト・アウト(拒絶の選択)することはできない。発電所が違法に高レベルの汚染物質を排出していれば、罰せられ、オプト・アウトはできない。雇用主は従業員に対して、人種差別やセクハラを禁止する規則を拒絶するように求めることはできない。しかし、最も微妙で問題の多い状況においてもデフォルト・ルールは存在するし、その重要度はかなり高い。

(略)

私が本書で検討する方式はすべて、自由を保持することを目的としている。デフォルト・ルールは選択するという選択を可能にし、また(デフォルトに頼ることで)選択しないという選択を可能にする。(略)

あなたの雇用主はデフォルトであなたを年金プランに加入させて、「あなたはそのプランのことで頭を使う必要はないが、気に入らなければ変更できる」と告げるかもしれない。

(略)

たしかにデフォルトがあまり好きではない人もいて(略)

ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の有名な一節でつぎのように主張した。

 

文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、ほかの人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない。

 情性の力

情性の力は強く、そのために本当はデフォルト・ルールが気に入らなくても、人はそれに固執することがある。デフォルトの変更が簡単だとしても、忙しい人はそこに注意を向けたがらないかもしれない。(略)

分別のある人もしくは専門家が、もっともな理由でそのデフォルトを選んだのだと、あなたは判断するかもしれない。(略)

われわれは自分が何を欲しているかを正確に理解しておらず、デフォルト・ルールが選好、価値観、願望を形成するという役割をになう。この場合、デフォルト・ルールの力は大きい。

個別化したデフォルト・ルールの問題

一つに、個別化したデフォルト・ルールは学習を促さない。選択とは筋肉を動かす行為であり、その筋肉を鍛えて強くするのはよいことだとみなすことができる。個別化したデフォルトは、過去の選択と矛盾しない結果となるように促すことによって、視野を広げるよりはむしろ、狭める可能性がある。さらに、正確な個別化したデフォルト・ルールを作ることは選択アーキテクトにとって負担となり、お金もかかる可能性がある。このようなデフォルト・ルールは潜在的選択者の利益よりも自己の利益に動かされる人々によって、都合よく利用されるかもしれない。

 個別化したデフォルト・ルールは、個人のプライバシーにとっての重大なリスクも生むかもしれない。あなたの特定の状況に合うデフォルト・ルールを設計するために、選択アーキテクトがあなたについての十分な知識を得ることを、あなたは望むだろうか?

(略)

 デフォルト・ルールが判断のコストを大幅に減らせることは明白であろう。デフォルト・ルールが採用されたなら、選択者はどうすればいいのかに注意を向ける必要がない。ただデフォルトに従えばよいのだ。しかしながら、デフォルト・ルールによって誤りのコストが増える可能性もある。少なくともそのルールが選択者の状況に合わなければ、そうなる可能性が高い。すると、デフォルト・ルールは生活が悪くなる方向に人を導く可能性がある。

 プライバシー設定を左右するデフォルト・ルール

 あなたの行動情報(たとえば、訪れたウェブサイト)は、情報共有を許可するボタンをあなたがクリックしないかぎり共有されないと、官民の組織が明言するとしよう。今度は同じ組織が、これらの情報は、情報共有を禁じるボタンをあなたがクリックしないかぎり共有されると明言するとする。結果は同じになるだろうか?とんでもない。

 プライバシーを犠牲にして情報共有を選ぶかと問われたら、多くの人が拒否するだろう。(略)人は何かを失うことを嫌い(略)プライバシーの喪失は必ずしも歓迎されない。くわえて、多くの人は単にこの問いを無視するだろう。おそらく多忙、不注意、混乱、気が散っている、あるいはそこに注意を向けたくないからである。いずれにせよ彼らの情報は共有されない。これに対して、情報の共有を拒絶してプライバシー保護を望むかと尋ねても、多くの人が拒否するか、質問を無視するだろう。おそらく多忙で注意が向かないか、あるいは情報の共有がもたらす潜在的な利益を失いたくないからだ。情報の共有を切り替えるかどうか判断するために少し考えなければならず、わかりにくい資料を読まなければならず、選好を明らかにしなければならない状況でそうなりやすい。その場合、情報は共有されたままになる。

 結果的に、インターネットでのプライバシーという領域では、デフォルト・ルールに左右される部分が大きい。ウェブ・ブラウザのデフォルトがプライバシーを保護する設定になっていれば、毎回プライバシーの設定を選択しなければならない場合と比べて結果はかなり異なるだろう。一例として、グーグル・クローム(略)

[「シークレットモード」は]デフォルトではないし、利用者がこれをデフォルトに設定するのは簡単ではない。そうできない仕様になっているのだ。(略)結果としてこのモードを選ぶ回数はぐっと減る。

 デフォルト・ルールの固着

 この結果から、デフォルト・ルールは基本的な判断が難しい場合に固着しやすく、したがって専門的な分野もしくは不案内な分野でとくに有力となることが裏づけられたのだ。

(略)

人は疲れているときにデフォルト・ルールにとどまりやすいという証拠によって実証されている。これまで一時間にわたりいくつもの判断を下してきて、さらに別の判断を求められたとしよう。「判断疲れ」でまいっていると、人はなおさらデフォルトにとどまりやすくなる。ここでの重要な意味合いの一つは、時間が著しく足りない、もしくは判断するべきことがいくつもある場合に、デフォルトがとりわけ魅力を持つ点である。「どうでもいいよ」といった短絡的な対応をしないように我慢するのは難しいのだ。

(略)

[室温設定における惰性の影響]

冬季にデフォルトを摂氏一度下げたところ、選択された設定温度の平均値が大幅に下がった。惰性の力を踏まえたうえで、最も妥当な説明をするなら、職員の大半はわざわざデフォルトを変更するほどの価値はないと考えたのだ。(略)

デフォルトを摂氏二度下げたところ、選択された設定温度の平均値の減少幅は小さくなった。どうやら十分な数の職員が寒すぎると考えて、設定を好みの温度に戻したらしい。不快感が明らかになると、惰性は負けるということだ。

情報のシグナルとしてデフォルト・ルール

選択アーキテクトが明確にデフォルト・ルールを選んだのであれば、自分のしていることを理解している人によって暗黙の提案がなされたものと考える人は多いだろう。だとすると、デフォルトを変更するのが正しいと正当化する信頼できる私的な情報がないかぎり、デフォルトを離れて自分で選択するのはやめておこうと考えるだろう。自分の思うようにするのはリスクが大きく、そうするべきだという確信がないかぎり、そうしたくないのではないか。

 デフォルトで自然エネルギーが選択されている、あるいは官民の組織が職員や従業員をデフォルトで特定の年金プランや健康保険プランに自動的に加入させるとしよう。このようなデフォルトを示されると、専門家や良識ある権威者が、それらは正しい行動の指針であると確信しているものと、多くの人が考えたがる。

(略)

[非対称性]

自動加入には何が賢明か、あるいは最適かについての情報が伴うが、自動非加入にはそのような情報が伴わないと人は信じている。健康保険プランや貯蓄プランに自動加入させられる場合、加入することがその人のためになると誰かが判断したものとみなす。しかし自動加入させられない場合は、そうは考えない。非加入はなんのシグナルも伝えないのである。

 悪いデフォルト・ルール

政府がひどいデフォルト・ルール──人々が貧しくなり、寿命が短くなり、生活が不便になるなどの形で状況が悪化するような──を作成した場合、少なくとも民主制度がまともに機能しており、市民が十分に注意を払っているなら、政府は選挙で報いを受けるだろう。デフォルト・ルールは透明でなければならず、精査を受けなければならないことを思い出してほしい。そうだとするなら、公務員は悪いデフォルト・ルールについて説明する責任がある。企業がデフォルトで従業員をまずい状況に置いた場合、その企業は長く営業を続けられないだろう。選択アーキテクトにはなんらかの選択アーキテクチャーが必要であり、民主的な予防策(高度な透明性も含めた)は政府を抑制するための優れた方法である。同様に、まともに機能している自由市場は民間組織に自制を促す。

 それでもなお、最もうまく機能している民主制度においても知識の問題と公共選択の問題は現実に存在する。市場圧力が強い場合でさえ、民間組織が有害なデフォルト・ルールの利用を許されていることも、私は力説した。その理由の一つが行動バイアスである。人々が非現実的なほど楽観的である、もしくは注意を払っていない場合、彼らは好ましくないデフォルトの犠牲となるおそれがある。

(略)

デフォルト・ルールは変化しにくく、人々の状況が時とともに変化するのであれば、デフォルト・ルールが最初に課されたときは目的にかなっていたとしても、変化しにくいルールは理想的でなくなるかもしれない。デフォルトの健康保険プランは、二〇代では賢明な選択だとしても、五〇代ではまったく合わなくなるかもしれない。プライバシーに関する好みは時とともに変わるかもしれない。これに反して、能動的選択は選択者の選好の表明を定期的に要求するように設計できる。 

解説 大屋雄裕

(略)

だが複雑化した現代社会において人々はつねに多様な選択肢にさらされており、それらすべてについて十分に考慮したうえで選択することを個々人に求めることは──時間的にも能力的にも──非現実的である。自分にとってそれほど重要ではなかったり、十分な判断能力を備えていない問題については自分の利益が相当程度に守られることを前提として他者に委ね、それによって生じた余裕を本当に関心のあること・重要なことに注ぐほうが合理的だし、個々人を幸福にするだろう。「選択しないという選択」の価値はその点にあると、サンスティーンは主張する。

 われわれはこれを、やはりサンスティーンのシカゴ時代の同僚であった憲法学者ローレンス・レッシグアーキテクチャー論に対する応答だと考えることができるかもしれない。(略)

たとえばファーストフード店の堅い椅子は客を長居させないための(略)アーキテクチャーだと理解することができる。この例からもわかるようにアーキテクチャーは適切な目的のために利用されることも十分にありうるのだが、制約される個人から意識されることなく・不服従や違反の可能性を物理的に消し去った完全な支配をしばしば実現するという意味において危険性を秘めた存在であり、悪用されないよう社会的に統制されなくてはならないというのがレッシグの主張であった。

 だが、どうすればそれを実現することができるだろう。(略)

そのような意図を告げる必要がないのがアーキテクチャーの特徴である。行政や司法はしばしば適切な能力を持たず、民主的な正統性を欠いている。政治は本来「われら人民」の意見を反映する重要な経路だが、現実には利益集団化することによって腐敗している。結局この状況は「出口なし」なのではないかというのが、レッシグの焦燥であった。

(略)

 だがそれに対してサンスティーンは、アーキテクチャーの威力を利用して個々人の利益・幸福を守りながら、その副作用を避けて善用していくことは可能なのだと主張しているように思える。(略)

[室温設定のように]アーキテクチャーが人々の利益を損なえばそれに反する行動を人々が能動的にとるようになり、デフォルト・ルールとしての意味を自動的に失ってしまう。問題が生じる場合には、簡略な能動的選択を用いればよい。(略)

[エコー・チェンバー]を防ぐために、多様な偶然の出会いを保障するようなセレンディピティアーキテクチャーを構築することもできる……。

 その際にサンスティーンが強調するのは、すでに中立的な場所などないということである──「人が気づいているかどうかに関係なくデフォルト・ルールはいたるところにあり、デフォルト・ルールなしに生活するのは不可能である」。

(略)

一定の利益をもたらすようなデフォルト・ルールをあえて採用しないことは中立的な選択ではなく、なんらかの価値(略)のためにその利益を断念するという価値判断を意味しているだろう。

(略)

個々人の選択に委ねることは、一定の干渉を加えれば彼が得られたかもしれない利益を放棄させるという積極的な意味を持ってしまう。何もしないという選択肢は、実は中立や公正を意味していない。だとすればわれわれにできるのは、さまざまな処方箋の特性、たとえば個人の利益や幸福を保障するかわりに自主性を損なってしまうとか、プライバシーを守るために利用可能な情報が制約されて一定の不利益が放置されるとか、そのような長短を考慮し、間違った場合の被害が大きかったり判断が難しい場合には自主性よりも利益を重視するといったように「判断のコストと誤りのコスト」を調整していくことだけなのだというのが、アーキテクチャー論に対する彼の反応だということになるのではないだろうか。