レゲエ入門 世界を揺らしたジャマイカ発リズム革命 (いりぐちアルテス008)
- 作者: 牧野直也,松橋泉
- 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
- 発売日: 2018/08/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ジャマイカ、アイリッシュ
ジャマイカは、カリブ海に浮かぶ山と渓流の多い小さな島である。
面積は1万1千平方キロ弱、人口は270万人ほど (2011年政府統計)。(略)面積は日本の3分の1以下、人口は約30分の1である。面積も人口も新潟県とほぼ同じと考えればよい。
(略)
1655年にジャマイカをスペインから奪ったイギリスの護国卿オリヴァー・クロムウェルは、支配下にあった農奴状態のアイリッシュを年季奉公移民という形でこの島に送り込む。(略)
黒人奴隷が大量に流入する前は、彼らがジャマイカの奴隷的な労働の一翼を担っていたわけだ。イギリスの圧政の下、音楽と踊りだけが唯一の娯楽だったアイルランド人が、この島のクレオール音楽の形成に何らかの影響を与えていることは想像に難くない。キングストンの裏山には、アイリッシュ・タウンという村がある。また、島内を回れば行く先々でアイリッシュの地名にぶつかる。(略)それより何より、ジャマイカ人の名前にケルト名の痕跡がたくさん残っている。(略)
ピーター・トッシュの本名はウィンストン・ヒュバート・マッキントッシュ、もう一人のバニー・ウェイラーの本名はネヴィル・オライリー・リヴィングストンで、ともに「McIntosh」「O'Riley」とケルト名が入っている。スカタライツのリーダーだったトミー・マクック (Tommy McCook)、ヴェテラン歌手のフレディー・マグレガー (Freddie McGregor))なども名字はケルト名だ。奴隷解放で自由の身となったときにかつての主人の名を引き継いだのか、それとも家系にケルトの血が混ざっているということか、単に気に入って名乗ったものか、経緯はいろいろだろう
ラスタ
保守派からマイケル・マンリーのような左翼まで、こぞってイギリスやアメリカの白人社会を模倣するこの島の支配的な価値観に対する、ほとんど唯一のアンチ・テーゼが、ラスタファリアンの「ジャマイカ=バビロン」説だと言っていい。したがって、彼らはアフリカへの帰還を唱え、エジプトからイスラエルの民が脱出(エクソダス) したという『出エジプト記』の記述になぞらえて、バビロンであるジャマイカから脱出しようと考えるのである。教義的に見ればそういうことになるが、実際のところ、ラスタは個々の人間やグループの独立性が高く、それほど厳格な宗教には見えない。外見は「野人」のようだが、彼らの自然指向や菜食主義には、アフリカ的というより、都会生活からドロップアウトした脱社会型の黒人版ヒッピーと言っていい側面がある。ラスタとされているミュージシャンの中にも、ラスタを宗教とは見ず、「生き方」の指針と捉えている人が多い。ラスタは、ジャマイカ国内では、ほんとうに小さな集団である。世界でいちばん教会が多い国 (単位面積当たり)と形容されるこの国には、100を超えるキリスト教の宗派が存在する。圧倒的な多数派はプロテスタントのキリスト教徒だ。ジャマイカには、十八世紀にイギリスやアメリカからキリスト教の諸派がたくさんやって来た。
(略)
ところが、1860年代にジャマイカで「グレート・リヴァイヴァル」と呼ばれる熱烈なキリスト教の信仰復活運動が起こる。歌や踊りやタイコ、降霊と憑依などを取り入れたリヴァイヴァル派の儀式は、ジャマイカ黒人にとっては、アフリカ起源の習俗であるクミナに具体的で合法的な形態を与えてくれるものと映ったに違いない。実際に、クミナはこの運動から生じたポコマニア派(プックミナ派) やザイオン派に、かなりの部分が吸収されたという。
ラスタの運動は、これらの宗派よりずっと後に登場している。実は、ラスタがナイヤビンギ集会で用いる宗教歌の大半は、リヴァイヴァル派の聖歌をそのまま援用したものである。
(略)
ジャマイカの大衆がもつ宗教的な精神世界は、決して単純ではなく重層的である。(略)
[奴隷達は]こころの中にアフリカの国々の部族の宗教的な心性を保持したまま、見知らぬ土地にやって来た。
そのアフリカ的宗教心が、禁止されたり、教化されたりして、外形的にはキリスト教の衣をまとう。こころはアフリカだが、形式はヨーロッパを借りた、独特の宗教の形態ができあがる。こういう宗教的な混淆のことを「習合」とか「シンクレティズム (syncretism)」と呼ぶ。
それらの中には、習合の度合いが低く、ほとんどアフリカそのままと言っていいほど、宗教的な儀式の形態と精神性を、遠い母国から引き継いでいる信仰も存在している。ジャマイカでそれに相当する習俗は「クミナ」と呼ばれる。(略)
ただし、クミナだけがアフリカ系の民間信仰なのではない。(略)
[マイアルの呪術信仰、エトゥやナジョといったヨルバ系の人びとの信仰]
ジョンカヌー、ブルッキンズ、ゲレー、ブル、タンボー、ディンキー・ミニーなど、混淆の度合いのより大きい習俗もたくさん存在する。
ダピー・コンカラー
ボブ・マーリーの初期の作品に、〈ダピー・コンカラー〉という曲がある。
このダピーも、アフリカから引き継がれてきた死霊信仰の一つで、ジャマイカではだれもが知っている。時どき悪さをするので恐れられている幽霊のようなものである。若い頃のボブ・マーリーが、このダピーの悪夢に悩まされて金縛りにあったことは、その伝記に書かれているのでよく知られている。田舎の人びとは、オビア・マンと呼ばれる魔術師がこのダピーを操って人に呪いをかけることができると信じている。
(略)
死者を埋葬した後、その亡骸から抜け出していこうとする霊ダピーを歓待して墓地にとどまらせ、9日目の夜にうまく棺桶に迎え入れて封じ込めてしまう(略)これに失敗すると、ダピーはさまよい続けて悪戯をするのである。(略)
ところで、ボブ・マーリーの言う「ダピー・コンカラー」とは何だろう。(略)マイアル・マンやオビア・マンのことを指す。マイアルとかオビア というのは、アフリカの言葉で「魔術」を意味し、ダピーの力をコントロールできる人なのでダピー・コンカラーと呼ぶのだ。両者は混同されることもあるが、マイアル・マンは良き行ないの導き手であって、魔術で呪いをかけて人びとを惑わすオビア・マンとは対立する存在である。そして、オビア・マンがダピーにかけた魔法を、マイアル・マンは解くことができるのだと信じられている。
マーカス・ガーヴェイ
「アフリカに黒人だけの国家を作ろう」と、ガーヴェィは訴えた。これは、当時のアメリカの黒人たちにとっては驚天動地の考えだったと言える。(略)
すでに、NAACP (全米黒人地位向上協会)のような黒人の権利の拡大と生活の向上を目指す組織は存在したが、彼らが考えていたのは、アメリカという社会でどうやって生き抜いていくか、ということだった。アフリカは、すでに遠い記憶の彼方にあった。
一方、ガーヴェイは、アメリカ社会の中では黒人の権利が白人と同じように認められることは決してないと思い定めていた。(略)アメリカそのものに「三くだり半」を突きつける、といった考えだ。新大陸の植民地から黒人種のすべてを引っぺがして母国アフリカに帰還させる、といった発想である。当時のアメリカで、ガーヴェイはもっとも過激な活動家と見なされた。その雰囲気をよく伝えている資料がある。
[マイルス・ディヴィスは自伝で]こう回想している。《おやじはアフリカとのつながりも持っていた。NAACPのやり方よりは、マーカス・ガーヴェイのほうが好きだった。一九二〇年代の昔に、黒人を一致団結させたんだから、ガーヴェイのほうが重要だと考えていた。(略)
「[NAACPの]ウイリアム・ピケンズなんかクソくらえだ。あの大馬鹿野郎はマーカス・ガーヴェイを嫌ってやがるが、ガーヴェイは黒人のために何かやろうと黒人を集めただけだ。しかもあの時が、この国で一番黒人が集まった時なんだぞ」(略)。おふくろはおやじと違って、黒人達の前進を支持してはいたが、NAACP寄りの考え方だった。おふくろは、おやじのことを急進的すぎると思っていた》
(略)
マイルスの父がガーヴェイを支持したのには、それなりの理由があった。
東セントルイスは、1917年7月に、大規模な人種間の抗争事件が起き、数十人の白人と数百人の黒人が殺された(略)
このとき、NAACPは強い抗議の姿勢を示さなかったと言われる。しかし、ガーヴェイは即座にハーレムの街頭に立ち、白人の優位に抗して黒人が団結すべきことを訴え、奴隷となる前のアフリカ黒人には輝かしい歴史があったと語りかけた。この決断力のある行動によって、ガーヴェイはアメリカの下層黒人に受け入れられるようになっていくのである。
初期のラスタ
初期のラスタの歴史は、ジャマイカ政府との闘争の歴史と言っていい。
その中心人物は、レナード・ハウエルである。(略)
ジャマイカも、世界大恐慌の余波をまともに受けて失業者が増大した。
そういう厳しい時期に、ラスタファリアニズムは産声をあげた。
レナード・ハウエルは、まず西キングストンのスラムで布教を始める。そこで支持者を獲得した後、全島に組織を拡大するための資金稼ぎに、ハイレ・セラシエの写真を印刷したカードを売り出したところ、折りからのエチオピア熱も手伝って瞬く間に数千枚が売れたという。そのエチオピアから迎えの船がくると、人びとに語ったとも伝えられている。(略)
[キングストンで]野外集会を開いたときに、イギリスとジャマイカ政府を侮辱する煽動を行なったとして、1933年末、彼は逮捕される。(略)
[出所後]未開地に拠点をつくる。
それが、ラスタ運動の実質的な原点とも言える「ピナクル・コミューン」である。
このコミューンでは、500人を超えるラスタが共同生活をしていたが、1941年に、ガンジャ栽培などの容疑で警察の手入れを受け、大量の逮捕者を出す。(略)[懲役刑を受けた]ハウエルはピナクルを再興するが、1954年と1958年に同様のことが起きてコミューンは壊滅する。(略)
[キングストンのスラムで仲間を増やすことに]
髪の毛を「ドレッド・ロックス」にするようになったのも、このコミューンでのことだったようだ。ハウエルはインド人との交流が深く、ガンジャ (ヒンドゥー語) の吸引や髪形には彼らの影響があったとも言われる。
ハウエルは、最終的には精神病院に入れられてしまう。
(略)
1966年、ハイレ・セラシエのジャマイカ訪問の直後に、バック・オ・ウォールの掘っ建て小屋は政府のブルドーザーによって撤去された。ラスタは再び拠点を失い、スラム街のトレンチ・タウンや丘陵地帯に小さな共同体をつくって活動を続けていくことになる。
メント
音として記録されたジャマイカ音楽の歴史はメントから始まる。
メントは、汎カリブ海的な黒人系フォーク・ソングあるいはダンス曲と言うべきもので、トリニダードのカリプソとよく似ていることで知られる。どちらも、ヨーロッパのダンス音楽や歌曲と、黒人のシンコペートするビート感覚が融合してできた混血音楽である。
(略)
カリブ海のクレオール音楽の中でも、ジャマイカのメントは実態が掴みにくい。
トリニダードのカリプソ系音楽などは1910年代から録音され、外国に流布されたのに、ジャマイカの場合はそうした古い音源がまったくないからだ。最初の録音が1950年前後というのは、カリブ海の島々の中でも極端に遅い。ジャマイカ音楽は出遅れたと言える。
文献によれば、十九世紀の終わり頃までには、メントはある形式をもった音楽として成立していたという。主としてフランスのダンス曲[持ち込んだのはイギリス人]であるカドリールから発展したもので、カドリール・バンドは二十世紀の後半まで、ジャマイカの町や村ごとに存続していたようだ。
(略)
リール、ジグ、ポルカ、マズルカ、ワルツなどのダンス曲が演奏され、踊りのステップも忠実に守られた。カドリール・バンドというのは、その伴奏バンドのことだ。
(略)
一般に、ジャマイカの音楽は、メントから、スカ、ロック・ステディ、レゲエと発展していったというような言われ方をする。しかし、メントがスカに移行するためには、そこに大きな跳躍が必要だった。スカからレゲエに到る変化は、ある意味では一本道で明瞭なのだが、メントとスカの間には、実は大きな断層がある。
そのことを理解するためには、絶えず変化していく「リズム・パターン」と、それでも保持されていく「曲想」や「ノリの感覚」という、二つの軸を立てて見ていく必要がある。
ジャマイカでは、メロディとして意識される曲想は、時代的にゆったりとしか変化していかないのに、その土台で鳴っているリズムのパターンや楽器の編成は、国外からの影響などを受けて、それよりもずっと早いスピードで、しかも大胆な変化を遂げているのだ。
この二つのものは、構造的にかなりはっきりと異なった発展の仕方をするのだと理解することが、ジャマイカ音楽に生じた事態を把握するためのキー・ポイントである。
(略)
庶民の娯楽である「田舎のメント」は、近代的な大都市に変貌していくキングストンや北海岸のリゾート地では「都会のメント」にとって代わられ、演奏される機会がほとんどなくなって、本来の居場所である田舎の村でわずかに受け継がれることになったと考えられる。
やがて、1950年代にカリプソが世界的に大流行したとき、ジャマイカの音楽もその流れに飛び込んだ。管楽器が活躍し、「頭抜き」の伴奏は用いられなくなる。その頃のカリプソはマンボの影響を受けて、リズム面はキューバ色が濃い。その点、メントとカリプソは融合しやすかった。メントの曲想はトリニダードのイギリス系カリプソに近いので、またその人気に便乗する必要もあって、ジャマイカでも「カリプソ」の呼称が使われるようになった。
こうしてメントとカリプソは、境い目のあやふやな兄弟音楽となる。
(略)
「カリプソ風メント」は、人びとに「都会のメント」よりさらにモダンなポピュラー音楽と受けとめられた
「スカ」の時代
1950年代の後半に、彼らはもう一度、大胆な乗り換えを決行する。
新しい車はアメリカのリズム&ブルースという、8気筒エンジンの新型車である。
かつて手に入れたキューバ系のコンガ・パターンを捨て、今度はエイト・ビートのシャッフル系リズム&ブルースに乗り換えようというのである。(略)またもや、リズムの「総入れ替え」が行なわれようとしているのだ。
そして、ここから「スカ」の時代が始まるのである。
リズム&ブルースに乗り換えた後、そこに跳ねあげるようなアフター・ビートと頭抜きのノリというジャマイカらしさが染み出てくるプロセスが、スカの生成過程である。
こうしてみると、小節の頭にアクセントを置きたがらないこの「頭抜き」のアフター・ビートへの指向性は、ジャマイカ人のもっとも原形的な「音楽的個性」ということになりそうだ。(略)
この二度目のリズムの総入れ替えによって、ジャマイカの音楽から、カリブ海域の植民地音楽につきまとうクレオール音楽的なニュアンスが完全に一掃された。
その意味で、メントとスカの間には断層がある。
ジャマイカにおいては、変化とは「リズム」のことである。変わらぬものは「頭抜き」のアフター・ビート感覚である。この「変わるもの」と「変わらぬもの」とをうまく分離し、その連関の構造を捉えてはじめて、ジャマイカの音楽の変遷は理解することができる。
次回に続く。