ジョン・レノン 音楽と思想を語る インタビュー1964-80

〈バースデイ〉

[1968年12月 学生によるインタビュー]

(略)

クロス グループ用の曲はどのように書いているのですか?

レノン 実は『ペパー』以降は、一緒に書いてはいないんだ。

(略)

 インドでは少しは一緒に書いた。でもこのアルバム[『ホワイト・アルバム』]では、一緒に書いた曲は一番少ない。(略)

それでも僕らは何らかの方法で、思いつく限りの共同作業は行った。何もないところからでも一節を――例えば〈バースデイ〉は、何もない状態からスタジオで書き上げたんだ。「こんな風にやろう」と言って、それでできたんだよ。(略)

『ゲット・バック』、モーグ、〈レボリューション〉

[聞き手:ハワード・スミス 1969年12月 ラジオ・インタビュー]

(略)

レノン ビートルズのアルバムは一月に出る。(略)そのあとはビートルズの映画だ。

スミス ビートルズのアルバムとは、どういうものです?オリジナルのもので?新作ですか?

レノン そう、『ゲット・バック』[のちの『レット・イット・ビー』]さ。

(略)

変わったアルバムなんだ。未完成で仕上がらなかった。テレビ番組か何かをするという意図で始めたものが、ずるずると続いていったんだ。ポールが僕らを急き立てていたけど、僕らは本当はやりたいとは思っていなかった。その気がなかったからアルバムは完成せず、曲も仕上がらなかった。そんな状態のものを出すわけだけど、僕たちがぶつぶつ言ったりおしゃべりしたり、昔のロックを歌ったりと色々と騒いだりしているんだよ。

オノ あれにはとてもいい、ちょっとした即興の感じがあるわね。

レノン うん、スーツを脱いだビートルズさ。

スミス 誰の曲を入れるかというのは、どのように決めているんですか?ジョージも曲作りをしているようですが。

レノン 僕たちは競うように作っていくんだ。それで昔は、ポールと僕が勝っていた。そこが問題でね。というのも、僕たち四人が再び揃ったビートルズの製品が今後出るかどうかは、僕個人としてはわからないんだ。僕たちはそういった決断をいつもしているけど、それが難しくなってきている。昔はポールと僕がほとんどの曲を書いていて、ジョージは多作じゃなかったから。彼にはある程度までは働きかけたんだ。僕らは無意識のうちに、自分たちのためにアルバムを作るということになっていたと言える。それが今、彼は多作になった。そこで、僕ら三人が自分たちを一四曲に詰め込もうとしているから、そうなるとちょっと……自分の曲を選ぶものだからね。

オノ それぞれが三〇曲ぐらい抱えているかしら。

レノン だから、半年はかかる二枚組のアルバムを、毎回出すことに?アルバムをひとつ出すだけで、自分の人生の半年を要するわけだ。それが理由で、僕はプラスティック・オノ・バンドを始めた――自分のものを別に作るためにね。アルバムに自分の曲を二曲入れるのを待っていられないし、それは他のメンバーにも言えることだから。

(略)

スミス 今現在、特にお気に入りのものは?

(略)

レノン 特にはいないね。最近聴いたのがジョニー・ウィンターだった。ツインギターの音が出ているようないい曲があって、驚かされたよ。リー・ドーシーのレコードも素敵だった。[太い声で]「これから僕がすることはすべて、ファンキーになる」[訳注:〈エヴリシング・アイ・ドゥ・ゴナ・ビー・ファンキー〉の一節]。

(略)

スミス 他の三人のパートナーとアルバムを実際に作っていないときは、メンバーとはどの程度会っていますか?

レノン オフィスでは――アップルのオフィスでは――たいてい互いに袖を振り合っているよ。いつも誰かひとりは、別の階で自分の人生の計画を立てているけどね。その場合は、こっちから会いに行くことが多い。それとか、リンゴの映画のプレミア上映があれば、顔を出す――そんな感じさ。ジョージが新居をどこにするかによるんだよ。もし近くなら、彼とはもっと会うことになるだろうからね。

 ジョージとはもっと顔を合わせることになる気がしている。彼はミュージシャンとよくつるんでいるけど、僕は特にどのドラマーが上手とかということを知らないから、いつもジョージを使って[誰かを見つけてもらって]いるんだ。そもそも彼が、エリック[・クラプトン]やクラウス[・フォアマン]、アラン・ホワイトを見つけてくれたようにね。僕はほとんどの場合、誰が誰だかわかっていないんだ。だから普段は、彼と会うことが多いんだよ。

(略)

スミス 『アビイ・ロード』で使われたモーグですが……あれはどういったいきさつで?

(略)

レノン ジョージがアメリカにいたときに注文していて、それを持ち帰ったから、僕たちでできるだけ使ってみたんだ。彼は何曲かで使ったよ――〈マックスウェル[ズ・シルヴァー・ハンマー]〉〈アイ・ウォント・ユー〉でね。(略)

他にどの曲で使ったかはちょっと思い出せないけど、何曲かでは使った。〈マックスウェル〉はそうだったと思う[トランペットの音を出す]。あれは本当にすごい機械だから、僕には扱えない。ジョージがマスターするだろうけど、一生かかるかもね。

(略)

個人的には、自分で扱えない楽器には煩わされたくないんだ(笑)。僕はギターでできるものが好きだから。ギターが五〇〇本あるほうがいいよ。

スミス ビートルズの音楽はどこへ向かっていくと見ていますか?今から三カ月後に、あなた方四人全員がレコーディングスタジオに戻ったと想像してみてください。何が見えますか?

レノン 想像できないよ、まったくね。ビートルズの音楽として考えてはいないから。「ビートルズ」の名前で出せるものだけが、ビートルズの音楽だからね。誰かの音楽がどこへ向かうのかということに限界はないし、ビートルズは『ペパー』以降はちょっと長らく活動してこなかったから、かなり慌てることになるだろう。そのタイミングで、僕が彼らに無理な注文をするのさ(笑)。

スミス 他の三人のパートナーの間には、そのような意識が共通してあると?

レノン 僕たちはみんな違うから、どの程度までやるかについては、それぞれが異なる考えを持っている。僕が「できるだけ先まで」と言っても、他のメンバーが何と言うかはわからない。(略)全員が同じように考えているわけじゃないんだ。だから個々に音楽を作っているんだよ。二枚組アルバムの『ザ・ビートルズ』にあるように、〈レボリューション9〉は僕が興味を持っている曲だ。これを彼らに押しつけなきゃならなかったのさ。

オノ それでも彼らは少し削ったわね。あなたがレコーディングした、いい部分があったけど。

レノン あんな風にやっていきたいんだよ。オフビートのものがいまだに好きだから。

(略)

スミス あなたが〈レボリューション9〉を、他の三人にいわば押しつけなくてはならなかったとのことですが、レコーディングセッションで実際にどのように進んだのか、興味があります。押しつけたというのは、どういう意味なのでしょう?

(略)

レノン (略)僕が作業をしていたら、ジョージとリンゴが邪魔をしてテープを取り上げて、何もかも削っていったから、それをやるしかなかったんだ。だから僕はまるで……これは僕の被害妄想かもしれないけど、僕はまるで、彼らやビートルズの商品に、その曲を押しつけたように感じたんだよ。

オノ あなたが最後の瞬間に言った言葉を覚えているわ。

「これはちょっと短くしなきゃならない。なぜなら――」

レノン そう、そんな感じだった。僕はどうしても――。

オノ 釣り合いを考えたら、スペースなどを取りすぎてしまうからと――。

レノン それで思ったんだ。「クソくらえ。俺がやりたくなったら、別にやってやる。迷惑はかけないさ――」とね。で、他のメンバーが休暇を取っている間に、〈レボリューション[1]〉を始めたんだ――アルバムに収録されている〈レボリューション[1]〉をね。それと僕は、〈レボリューション9〉をB面として発表したかった。これは本当にメンバーがさせてくれなかったけど。

スミス そういったときは、どうするんです?みんなで揃って腰を下ろして、意見を戦わせるんですか?

レノン みんなが休暇から戻ってきたところで、僕が「実はこの曲をビートルズの次のシングルとして出したいんだ」と告げた。すると彼らは「これはシングルにはならない」と言ってきたから、僕は「そうかい、わかったよ」と答えて、〈レボリューション[1]〉をやり直していたら、〈ヘイ・ジュード〉が出来上がってきた。だから僕は何とかこの曲を〈ヘイ・ジュード〉のB面にしたけど、本当に伝えたかったのはそのメッセージだったんだ。歌じゃなくて、メッセージだったんだよ。だから、書いたままに近いものを出したて……考えたそのままのものを出したいから。

スミス そのメッセージというのは?

レノン 非暴力さ。あの曲には腹を立てた人が多かったけど、僕はそのことを言っていたんだ。

(略)

フォークソングとフォークミュージック

[1971年1月21日 レノン宅]

(略)

『レット・イット・ビー』がリリースされてからおよそ四カ月後――レノンは(略)『ジョンの魂』のレコーディングを始める。

(略)

 一〇月末にアルバム作りを終えたレノンはその三カ月後にオノを交えて、ジョージ王朝様式の自宅でタリク・アリとロビン・ブラックバーンと顔を合わせた。どちらもイギリスの著述家兼政治活動家で、アリが編集を務める左翼新聞『レッド・モール』には、このやり取りを大幅に要約したものが間もなく掲載された。ここに収録したのは元々の長いインタビュー

(略)

レノンは、革命家や社会主義者、さらには共産主義者イデオロギーについてまで、他によく知られているインタビューよりもかなり率直に語っている。

 このときのやり取りにレノンは刺激を受け(略)

「このインタビューの翌日に、彼が電話してきた」という。「そして、とても楽しかったので、この運動のための歌を書いたと言い、続けて歌詞を歌ってくれた――それが〈パワー・トゥ・ザ・ピープル〉だった」

(略)

レノン 初めの頃の僕たちには、アメリカ人の真似をしているという意識が強くあった。でも、その音楽を掘り下げていくと、白人によるカントリー&ウエスタンと黒人によるアフリカンなロックンロールが半々だとわかった。しかもカントリーの大半は、基本的にはイングランドからのもので――どれも鉄道の歌だったんだ。スコットランドアイルランドのものも間違いなくあった。基本的なフォークソングはヨーロッパからのものだった。つまりは文化交流にすぎなかったんだよ。

 それで人々がアメリカへ渡ると、曲をアメリカ風にして、鉄道で働くことを歌い、黒人は綿花畑で働くことを歌った。でも代表的な歌はどれも……ディランの代表的な歌の多くと同じで、スコットランドアイルランドイングランドフォークソングなんだ。だから僕たちも気分が晴れて、その部分を深く追求した。ただ、僕にとってもっと興味深かったのは黒人の歌だった。よりシンプルだったからね。それに、「ケツを振れ、サオを揺すれ」と歌っているような感じで、それは本当に画期的だったんだよ。

(略)

子どもの頃の僕たちは、フォークソングには反対だった。どれも中流階級的だったから――ジャズと同じでね。大きなスカーフを巻いた大学生が、ビールを片手に気取った感じでフォークソングを歌っているというものだった。[歌い出す]「ニューカッスルの鉱山で働いた」とかいったクソをね(笑)。それに、本物のフォークシンガーもほとんどいなくて……僕が好きだったのは[アイルランドのソングライターの]ドミニク・ビーアンで、リヴァプールにもフォークソングの伝統はかなり息づいていたし、カンリー&ウエスタンもあった。ただカントリー&ウエスタンには、カウボーイの手あかがべったりとついていたけどね。それがフォークソングだと、そのほとんどは中流階級の若者が、実に甘い声で歌っているというものだったんだ。

 本物の労働者が歌っている、とても古いレコードは少し聴いたことがあるし、今でもテレビではそういった曲を歌うアイルランド人を時々見かけるけど――毎日働き、そのような曲を歌うためにパブへ行く本物の人たちで――彼らのパワーたるや素晴らしくて、僕も少し興味を持ち始めた。でも階級に関する僕自身の偏見では、フォークソングというのはBBCでいつもやっている甘い声のもので、フォークミュージックとは無関係なものだった。古い伝統を続けさせるためにクラシックを再現しているみたいだったんだ。バレエなんかのように、ひどく退屈で……現在のフォークソングは、アメリカを真似ようというものではあっても、ロックンロールだった。その点は最終的には重要じゃなかったけどね。当時の僕たちは自分たちで曲を書いていて、そこは変わったわけだから。

アーバン・ブルース

レノン アーバン・ブルースなどの大半のものは、主にセックスのことや、女をめぐって通りでする喧嘩についてだった。フィールド・ソングは主に自分たちの苦しみを表すだけだった。僕はそこが好きでね。彼らは自分たちのことを知的に表現できなかったから、自分たちに起きていることはごくわずかな言葉で言わなくちゃならなかった。それこそが本物の自己表現だったんだ。(略)

元々は田畑でのものだったのが、人々がシカゴなどに移るにしたがって、アーバン・ブルースへと発展していった。自分たち個人の苦しみを表現する点は変わらなかったけど、黒人全般についてではなくて、解決策は与えられないというものだった。常に「神がお助けくださる」という内容でね。(略)

それだから、答えは与えられなかったと、僕は思っていて……。

(略)

人ができる最初のことは、自分の立場を明らかにすることで、彼らが歌でやったのがそれだ。そして次にできることは、自分と同じように考えている人を見つけることであり、そうするとこれがグループになって、それが今では発展を見せている。さらにごく最近になって始まったのが、戦争や黒人やあらゆる種類の革命について歌うことだ。ニーナ・シモンのような人たちを除いてね。ただほとんどの黒人は、[コメディアンで政治活動家の]ディック・グレゴリーが言ったように、いまだに踊っているだけなんだよ。

 それでも今は、大きな変化が起きている。[一九七〇年に〈黒い戦争〉がヒットした]エドウィン・スターなどがさらにレコードを出して、黒人の立場や黒人は美しいなどといったことを表明していて、大きな変化になっているからね。それもこのほんの二年間で起きたことだよ。こうして今は、彼らは自分たちの考えを完全にしっかりと表明し、「苦しいんだ」と言うだけではなく、その境遇について意見を述べているという段階に到達した。「自分たちは苦しんでいる。その理由はこれこれだ」と言っているんだ。

曲作りの方法

[「ディック・キャヴェット・ショー」1971年9月24日放送]

(略)

客席の男性 曲作りの方法と、最初に始めた頃から自分の曲がどう上達したと思うかを訊きたいです。

(略)

レノン 方法はたくさんある。思いつく限りの組み合わせでね。ピアノに向かって座り、曲を書きながら歌詞を生み出すこともあれば、ギターを弾きながらということもある。ギターのコードをいじりながらという場合もね。組み合わせは色々さ。ひらめきによるものが、たいていは一番だけどね。思ってもいないときに頭に浮かぶ感じで、そのあとはすべてを一気に書き上げることになるから。

(略)

最初の頃のポールと僕は、イギリス版のゴフィン&キングになりたいと思っていてね。(略)

ポップソングを書いていった。若者向けのバブルガムのようなポップソングだったけど、それが現実だった。それからは、脳の片方で『絵本ジョン・レノンセンス』や『らりるれレノン』といった本を書き、もう片方でポップソングを量産したんだよ。

 そのあとで、ディランが出てきたり、何人かの興味深い人たちに会ったり耳にしたりするうちに、急に自分が馬鹿なことをしていると気づいた。曲作りや歌詞に全エネルギーを注ぐべきだとね。だから、自分にある作曲能力は完全に曲に注いだ。すると歌詞はよくなり、歌詞の構成も上達して、それらがメロディと同じくらいに重要なものとなったんだよ。

(略)

客席の男性 今のほうが、音楽はよく聴きますか?もしそうなら、何を?

(略)

レノン たぶん、ほとんどのアーティストと同じで、他の人の音楽を聴く時間は少なくなってきている。(略)

自分の音楽を聴くよりも作るほうに時間をかけているよ。それこそが僕が打ち込んでいることだから。当然ながら、ヨーコのような人は好きだよ。ザッパとか何人かも。ドクター・ジョンもね。(略)

自分の好きなタイプのレコードというものはある。僕はいまだにロックンロールのファンなんだ。初期のプレスリージェリー・リー・ルイスといった人たちのね。僕が本当に好きな音楽がロックンロールなのさ。すごい音楽なんだよ。

(略)

売れる前は「生のいい音楽」、ロックは終わってると言われた

[聞き手:ハワード・スミス レノン宅 1972年1月23日 WPLJ-FM放送]

(略)

レノン 僕が一番懐かしく思うのは、グループで集まったり演奏したりすることだね。(略)エレファンツ・メモリーと(略)一緒に演奏したりとか、リハーサルとかちょっとふざけたりするだけで、キャヴァーンでの初期の頃が思い出されるんだよ。しっかりしたグループを組めたのは、実によかった。彼ら[エレファンツ・メモリー]自体がグループという点もよかったし、一緒にやれて本当に楽しかったからね。

 だから、それを懐かしく思うんだ――グループで一緒にやるということがね。でもビートルズの場合は、ツアーをやめてからはグループらしさが薄れてしまい、そのうちに集まるのもレコーディングのときだけになった。つまりレコーディングセッションが、ほとんどリハーサルでもあったんだ。要は、レコーディングセッションで演奏をすべて行っていたわけなんだよ。それには時にうんざりした。運動選手のようなもので腕が鈍らないように、常にやり続けないといけないからね。それなのに僕らは一ヵ月のオフのあとにスタジオ入りしたら、いきなり再び正確さを求められた。リラックスして一緒に演奏できるまでには、数日はかかるものだよ。そういうわけで、晩年のビートルズは音楽的には一緒ではなかったけど、技術はたくさん学んだ。いいレコードは作ることができた一方で、音楽的には初期の頃のようには一緒ではなかった。僕らの誰もが懐かしく思っているのがその部分だね。

 もし君が僕らの誰かと一緒になったら(略)――ジョージとリンゴとポールのことで、ポールは先週はこっちにいたけど――僕らが過去について話すときは、内容は決まって成功する前のことなんだ。(略)

僕らはいつだって、キャヴァーンやリヴァプールダンスホールのことを話しているよ。自分たちが音楽的に本当に熱心だった頃のことだからね。それとハンブルクだ。それ以降のことは話題にしないけど、それは僕たちにとって音楽が存在するのをやめてしまったからなんだよ。ダンスホールを離れて劇場へ移った僕たちが、それまでは一時間とか二時間の演奏をやっていたのに、二〇分程度のショーをしなければならなくなって、生の音楽が存在するのをやめたんだ。

 つまりは、急にすべてを二〇分で終わらせなければならなくなったのさ。しかもその二〇分間で、ヒット曲をすべてやらなくちゃならない。さらには、ひと晩で二回の公演を行う。劇場には三千人しか入らないからね。こうして、生の音楽が葬られていった。僕らが話すときというのは、言ったように、成功する前のことなんだよ。自分たちが生のいい音楽を作っていた頃だからね。

(略)

 君が見つけた海賊盤のような感じなんだよ。デッカのオーディションと、〈[アイム・ゴナ・]シット・ライト・ダウン・アンド・クライ〉が入っているやつさ。僕たちがまだ音楽的に一緒だった頃のものでね。初期の感じが耳にできるし、録音状態はあまりよくないけど、力強さがあって、音楽面では力を合わせて演奏している。それに、ハンブルクダンスホールでやっていた感じに、よく似ているんだ。

(略)

〈ラヴ・ミー・ドゥ〉(略)をポールが書き始めたのは、一五歳ぐらいのときのはずだ。それから何年かかけてみんなで仕上げて、レコーディングした。思い切って自分たちでやってみた最初の曲だったよ。他人の名曲はそれまでにたくさんやっていたけどね。

(略)

リヴァプールハンブルク時代に自分たちの曲を披露し始めたんだ。他人の名曲ばかりをやっていたから、かなり衝撃的なことだったね。レイ・チャールズや[リトル・]リチャードなんかをやっていたんだから。それがステージに上がるや、いきなり〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を歌い始めるというのは、ちょっと大変だった。僕らはみんな、自分たちの曲のことを少し湿っぽいように感じていたから。でも徐々にそれまでのスタイルを崩していって、自分たちの曲をやってみることにしたんだ。

スミス 話に出た、そのデッカのテープですが(略)オーディションを受けたときのものですね。

レノン 落とされたやつだよ。僕も聴いてみた。あの当時じゃなかったら、僕なら落としていないね。いい音を出してるし、最後の部分は特にいい。あの頃は……あんな風な音楽をやっている人は皆無だったから。

スミス 当時はみんな、かなりがっかりしましたか?(略)

レノン ああ、きつかったよ。(略)

これでもう終わりだと、みんな本当に思ったものだよ。

(略)

オノ 向こうにしてみたら、音が斬新すぎたとか、そういうことだったのかしら?

レノン ブルース的すぎるとか、ロックンロール色が強いというのが常套句で、「もう終わったものだ」とは、よく言われたね。(略)

僕が初めてロックに興味を持った頃や、プレスリーの〈ハートブレイクホテル〉がイギリスで出てからの半年の間には、ロックは今に終わると何かと言われていた。「あとを継ぐのはカリプソか?」なんて、当時はよく言われていたんだ。ハンブルクでもドイツの会社のオーディションをいくつか受けたけど、ロックやブルースはやめて、他のものに専念したほうがいいと言われたよ。ロックは終わったと思われていたからね。でも、彼らは間違っていた。ロックは死んだって、いまだに言われているけどね。

(略)

スミス ポールと会ってどうでしたか?(略)久々のことだったでしょうに。

レノン 長い間で久々だったかな?そうか、電話ではよく話していたから、実際には会っていないということを忘れていたんだと思う。特に問題はなかったよ。話したのは主に仕事のことだったけどね。すべてを済ませたいと、お互いに思っていたから。

(略)

 彼らが基本的に望んでいるのは、僕らが望んでいるのものなんだ。(略)

とにかく、ポールと僕、そしてリンダとヨーコは、くだらないことはやめると決めたのさ。

オノ (略)リンダと私との間に、口論は一度もありませんでした。(略)そういうことはまったくなかったんです。(略)

セッションなんかがあったときは、ぶらぶら待ちながら仲良くたくさんおしゃべりする、ふたりの女の子という感じだったんです。彼女が不満を露わにした唯一の機会が、アラン・クレインが現れたときでした。

(略)

スミス では、大きな争い事は一度もなかったわけで?

オノ ええ、一度もね。

レノン 大きな争い事なんて、実際のところは多くなかったんだ。言い争いはあったけど、それは主に弁護士が絡んだ言い争いや……マスコミに出された声明とかでね。

〈ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン〉

レノン (略)[ラジオのボリュームを上げる]ああ、これはいい!この曲は絶対にかからないんだ。〈ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン〉だよ。

オノ あら、私もこの曲は大好きだわ。彼がこの曲を作っていた日のことを覚えているんです。私たちがケンウッドにいたときで。この曲はケンウッドで作っていたわよね。

レノン うん、そうだった。[聴きながら]この部分が好きなんだよ。(略)

これはドラッグについての曲だなんて言われたけど、そうじゃないんだ。[歌う]「シュート、シュート!」

(略)

 わざと大げさに表現しただけなんだよ。この曲は、ある意味ではロックンロールのすべてを網羅していると思ったんだ。様々な面をね。

オノ コラージュ――これはコラージュだったのよ。

レノン (略)あの二枚組のアルバムを作っていたときに、ジョージ・マーティンがスタジオに持ってきた銃の雑誌にあった言葉なんだ。その最初のページに「幸せとは温かい銃のことである」と書かれていて、発砲直後の銃の写真があり、[銃口から]煙が出ていたんだよ。それで思ったんだ。「人物を撃ったばかりの熱い銃が幸せだなんて、どうかしている」とね。だからこの曲を書いたのさ。

 前半は、[歌う]「彼女はあまり寂しがる子じゃない」とあるように、僕がヨーコと初めて会ったぐらいのときの彼女とかすかにつながるものを書いていた。そういったものは曲の一部分でしかないけど、別々の曲にあったそういうものをすべて組み込んでひとつにまとめて、小さな模型のように作り上げた結果――。

オノ だからコラージュなのよ。

レノン そう、コラージュだ。『ペパー』のようなアルバムのコラージュじゃなくて、一曲の中ですべてを行ったんだよ。それにロックの様々なスタイルを踏まえているし、ヘロインなどではなくて銃についての曲でもある。当時の僕は、ヘロインのことはまったくわかっていなかったからね。見たことがなかったし、手を出したり常用したりしている人もひとりも知らなかったんだ。

(略)

オノ 歌詞にある「女子修道院長」というのは――。

レノン マザー・スペリアーとは君のことだったんだ。(略)いつものように車の中で何かぶつぶつと文句を言っていたから、僕が「ああ、マザー・スペリアーがまた先走っている」と言ったんだ。彼女はいつだって一歩先走んじているからね。

(略)

〈ホワッド・アイ・セイ〉

[聞き手:デニス・エルサス 1974年9月28日 WNEW-FM放送]

(略)

エルサス ここにあるのはジョージによるニューアルバムで――。

レノン スプリンターだ[編注:ジョージ・ハリスンがプロデュースを行った二人組のボーカルグループ]。

エルサス 新しいレーベルで、ジョージのダーク・ホースです。

レノン そう、ダーク・ホースだ!なかなか良さそうなレーベルだろ?

エルサス これは……彼らとは会っておられるので?あとの三人とはお会いに?

レノン ポールとジョージ、ポールとリンゴとは、今年はよく会ってるよ。彼らがこっちに来ていたからね。ポールは一ヵ月ほど前にこっちに来たから、僕らがまだ三八歳程度だった頃の思い出話にふけりながら、ボジョレーワインを飲み交わす夜を何度か過ごした。それからリンゴともよく会ったけど、彼はこっちでレコーディングしていたからね。(略)僕は自分のアルバムの最中にひと休みすると、足を運んで彼のニューアルバム用に書いた曲をやったんだ。それからカリブー[ランチ]へ行って、エルトン・ジョンと〈ルーシー・イン・ザ・スカイ〉を歌い、戻ってくると自分のアルバムを仕上げた。だから……ポールとリンゴには会っている。ジョージとは会っていないけど、彼は一〇月にリハーサルで来るから、そのときは会いに行くつもりさ。

エルサス 関係は友好的なもので?

レノン そうさ、とても熱烈で温かみのあるものだよ!

(略)

ひとつの部屋に何とか三人が揃ったことはあったけどね。あれはポールとリンゴ、そして僕だった。夏のことで、ハリーのアルバムの最中だったよ。

(略)

一緒にやる可能性は常にあるんだ。だって、お互いに顔を合わせたら、そんな気分になりがちだからね。ただ、一緒にツアーをするとかといった自分たちの姿は想像できない。そんなことは話題にしたこともないんだ。レコードを作る姿は想像できるけどね。

(略)

 今夜、[クラブの]ジョイント・イン・ザ・ウッズには、誰が出ると思う?今日はレディースナイト――いや、この言い方は気に入らないかな。ウィメンズナイトだ。刺激的な八人編成で女性だけのグループのアイシス(略)女性は全員、入場料が半額だ。これはいい、ボウイなら入れるよ[笑うエルサス]。(略)

金曜はT・レックスで、これはいいバンドだ。彼はちょっと――彼のレコードも何枚か買ってね――気苦労のあまり太ってきているけど。一〇月四日の金曜はマーサ・リーヴス。彼女はすごいよ。

(略)

天気はやるかい?

エルサス お任せします。

レノン 度数は変化している。おや、この数字はいいぞ。気温は六九度だって[大きく息をする]。(略)湿度は九〇パーセント。ナンバーナインで、これもいい。(略)

南東の風が吹いていて、風力は六。どれも六と九だ――深い、これはとても深いよ。

(略)以上、UPIでした。

(略)

 別のアメリカ人のレコードにしよう。こっちにいる僕の知り合いが、誰も耳にしたことがないようなものをね。リッチー・バレットの〈サム・アザー・ガイ〉だ。はるか昔の六一年に、キャヴァーンだかでかなりひどい声でこの曲を歌っている、ビートルズの変な海賊盤があるんだよ。この曲も僕は、「〈ホワッド・アイ・セイ〉の息子」とか「〈ウォッチ・ユア・ステップ〉の息子」、「リックの息子」と呼んでいて(略)

イントロが〈インスタント・カーマ〉に少し似ていることに気づくと思うよ。

[リッチー・バレットによる〈サム・アザー・ガイ〉に続いて、レイ・チャールズによる〈ホワッド・アイ・セイ〉のライヴバージョンがかけられる]

レノン (略)知る限りでは、僕が聴いた中でエレクトリック・ピアノを初めて取り入れたレコードなんだよ。それに〈ホワッド・アイ・セイ〉は、あらゆるギターリックのレコードの嚆矢だったように思うね。僕らは誰もエレクトリック・ピアノを持ってなかったから、みんなギターでこの低音を出そうとしたものさ。それにこれ以前は、リトル・リチャードのロックンロールのレコードにあるようなリックがほとんどすべてだった。〈ルシール〉にあるようなリックで、サックスの部分とギターで奏でているところだ。それが〈ホワッド・アイ・セイ〉がまったく違うことを始めて、これが現在でも続いているんだよ。僕が言うべきことは以上さ!

(略)

プロデュースするなら、シングルが好き

[聞き手:ピート・ハミル 1975年2月 レノン宅]

(略)

――リチャード・ペリーはあなたについて、超一流のプロデューサーではあるが、かなり急ぎすぎのようだとも言っています。

 「それは事実だね(笑)」

――ですが、言われているところでは、ビートルズのレコードを作る際には、あなたは念入りにゆっくり進めていたとのことですが。

 「いや、僕が念入りにゆっくり進めたということはなかったよ。僕が〈アイ・アム・ザ・ウォルラス〉を作ったときのスピードは、〈真夜中を突っ走れ〉をプロデュースしたときと変わらなかった。(略)

自分の才能を時に邪魔立てするような性質があるとすると、すぐにやらないとあっという間に飽きてしまうという部分だね。それでも、〈アイ・アム・ザ・ウォルラス〉は素晴らしい出来に聴こえるし、〈ストロベリー・フィールズ〉はビッグ・プロダクションに感じられる。ただ僕は、できるだけ素早くやるんだ。それも、感覚と、行き先を見失うことなくね。個人的に一番長く時間をかけたのは〈レボリューション9〉で、これはテープループなどといったものを多用した抽象的な曲だった。それでも一度のセッションでやり終えたよ。けど、その批判は受け入れるし、自分で自分に対する批判もある。ただ、念入りにやりすぎるあまり、飽きてしまうということにはしたくないんだ。けれども僕も[息をつく]、もう少し考えるべきなんだろう。たぶんね。でもその一方で、リチャード・ペリーのような人に対する僕の批判としては、彼はすごいけど、彼も念入りにやりすぎるというものになるだろう。あまりに巧みだから、僕はその中間あたりを狙いたいけどね。僕には、完全に自分だけでプロデュースを行った自身のアルバムは、二枚しかない。それでもそのたびに、気づくことはある。僕はプロデュース業を学んでいるところなのさ。この業界にはかなり長くいて、ジョージ・マーティンポール・マッカートニージョージ・ハリスン、その他のみんなの力を借りて、自分の曲をプロデュースしたことがあってもね。自分の曲は自分で責任を持つ。でも、自分だけでプロデュースするというのは僕はほとんどやってこなかった。自分に欠けているものをいつも知ることになるから、逃げ出したくなるんだよ」

――どなたかプロデュースをしてみたいという人はいますか?例えばディランとか?

 「ディランなら面白そうだね。彼は『血の轍』というすごいアルバムを作ったから。けど僕は、バックの役回りにはまだ関心がないんだよ。彼のプロデュースはうまくできるだろうけどね。それと、プレスリーだ。エルヴィスをよみがえらせてみたいよただ、彼のことをあまりに怖がってしまって、自分にできるかどうかわからないけどね。それでも、是非ともやってみたい。ディランならできるけど、プレスリーとなると緊張するね。(略)

プレスリー相手にやることは、自分ではわかっている。ロックンロールのアルバムを作るのさ。ディランの場合は素材は必要ない。ちゃんとしたバックをつけるだけでいいんだから。だから、ボブ、もしこれを読んでいたら、いいかい……」

(略)

――最近はどのようなグループをお聴きに?

 「僕はいまだに[シングル]レコードの人間でね。腰を据えてアルバムを通して聴くことができるという人は、この世界には僕も含めていないよ。ひとりもね。同じ声が続くのは……誰にも耐えられないから。ロックンロールのファンだった一五歳の頃ですら、通して聴いたアルバムはほとんどなかった。僕の敬愛したエルヴィスとか、カール・パーキンスやリトル・リチャードでもね。飛ばして次に移るという曲が、いつも何曲かあったよ。というわけで、じっと座ってアーティストのアルバムを通して聴くということはしないんだ。友人のものじゃない限りはね。レコードは好きだよ。〈シェイムシェイムシェイム〉は気に入っている。シャーリーとその仲間のね。ディスコ関係でも好きなものはある。いいものさ。僕は個々のレコードが好きなんだ。去年、僕が好きだった曲のひとつは、ビリー・スワンの〈アイ・キャン・ヘルプ〉だった。往年のエルヴィスを本気で真似たレコードだよ。僕はシングルが好きなんだ。ジュークボックスの音楽がね。それに興奮したクチだったから、それが今でも好きなのさ」(略)

フィル・スペクターとの顛末、『心の壁、愛の橋』

[聞き手:フランシス・ショーンバーガー 一九七五年三月、ニューヨーク]

(略)

 この当時のレノンは、よりを戻したヨーコ・オノと暮らしていて、彼女の妊娠についても知っていたはずだ(略)

レノンは、このあとに入る五年間の隠遁生活について既に検討していたようで、現時点で一番心が安らぐものを訊かれて、「静けさ、それにピアノ」と答えている。

 ショーンバーガーは、彼女の滞在先だったニューヨークのパークレーン・ホテルに単身で現れたレノンについて、「驚くほど上機嫌でした」と語っている。レノンは、一月末にリリースされたリンゴ・スターの曲〈ノー・ノーー・ソング〉を口ずさんでいたという。

(略)

ショーンバーガー オールディーズのアルバムについてですが、なぜオールディーズばかりをやったのですか?

レノン これは七三年にフィル・スペクターと始めたものでね。僕は『マインド・ゲームス』を終えたところだったけど、そのアルバムは僕にとっては、異常なまでに政治に熱狂した自分と、ミュージシャンに戻った自分との間に位置する、中間的なレコードだったんだ。両方を足して二で割ったみたいなね。僕は本当に心理戦をやっていた。まさにマインド・ゲームスだった。深く考えようとするばかりで……「どうして楽しむことができないんだ?」と。僕の考えでは、音楽で楽しむとは歌うことだった。どんなものだろうと歌うのさ。それに僕がスタジオで歌うときというのは、自分の個人的な深い曲は歌っていなくて――いつもロックンロールを歌っていた。だからそこから始めたというわけなんだよ。

 そこで考えた。自分には何をすべきかがわかっている。スタジオでテイクの合間にいつも歌っている歌で、ロックンロールのアルバムを作ろう。でも、プロデューサーなんてやりたくない。フィル・スペクターと組もう。彼とは前に組んだことがあるから、とね。彼ならプロデュースできると説き伏せるまで、三週間かかったよ……『イマジン』などのように、僕が権限を絶対に手放さないような共同プロデュースにはならないと。だからこう言ったんだ。「君がやるんだ。僕はただ、ロニー・スペクターとかシフォンズとか、誰でもいいけど、その存在でいたいだけなんだよ。僕はその場に座って歌うだけ。君がテープに録るまでは、始めもしない。チェックも何もやらないバスドラムだとか、僕の好きなドラムも……君の好きなようにやれるんだ。僕は歌うことに徹するよ」とね。それで、最初は見事に進んだ。あの場にいたフィル・スペクターは、僕が任せた以上のことをやってのけていた。生演奏する二八人のミュージシャンを完全にコントロールしていたんだ。僕にとってそれは(略)六〇年代初期のスペクターのセッションを見ているような感じだった。彼は本当にすごかったよ。

 ところがこれが、常軌を逸してきたと思ったら、ついには駄目になった。崩壊したんだ……みんな酔いつぶれたんだよ。ほんのふたりほどを除いてね。飲んだくれて大混乱と化したんだ。しかも、彼はテープを持って姿を消して、僕はそれを手に入れることができなかった。彼が自宅にしまい込んだからね。それから、彼がワーナー・ブラザーズかどこかを通じて、密かにセッション代を払っていたこともわかった。これは、僕がまったくあずかり知らないことだった。僕のセッション代はすべてEMIかキャピトルが出しているから、僕はそんなことを考えたこともないんだよ。こうして、セッションが頓挫しただけでなく、テープも失ってしまって……楽しむつもりが、まったく楽しいものではなくなったんだ。それだから僕は、ロサンゼルスで何カ月もぶらぶらと過ごした。彼が穴蔵から出てくるのを待ちながらね。

(略)

そのうちに、僕もうんざりした。飲んだくれることにうんざりして、落ち込んだ。僕はスタジオにテープを置いていくことはない。未発表の作品なんてないんだ。頭がどうかなりそうだったよ。そこで心を決めると――ハリー・ニルソンとはしょっちゅう酔っ払っていたから酔ったある朝に、彼にこう言ったんだ。「自分たちで何かやろうじゃないか。問題を起こす代わりに。(略)何か建設的なことをしよう」と。この「建設的なこと」というのが、「よし、ハリーのアルバムを作ろう」というものになったんだ。僕はそれで構わなかった。自分のアルバムは作りたくなかったし、そんな気分じゃなかったからね。(略)

みんなで――リンゴ、ハリー・ニルソン、クラウス・フォアマンと――一緒に暮らして、何とかしてキース・ムーンもそこに加えようとね。この素晴らしいアイデアを僕が考えたのさ。みんなで一緒に暮らして、一緒に作業をしてもらおうと。

(略)

ところが最初のセッションのあとにハリーが僕のところにやって来て、声も何もまったく出ないと言ったんだ。「どうしたんだよ?」と訊いても、彼は本当に声が出なかった。あれが心理的なものだったのか何なのかはわからない。そういう面も少しはあったんだろう。ということで僕は、声の出ない優れた歌手と、飲んだくれた変人だらけの家を抱えたわけなんだ。だから僕は途中で、急に酔いが覚めたんだよ。責任者は僕だ、プロデューサーなんだから!とね。しっかりしなくちゃならなかったから、しっかりした。僕がきちんとしなければならなかったし、みんなも僕のことをそのように見ていたから……すぐに僕は孤立せざるを得なかった。距離を置くために、寝室に閉じこもったよ。そうしてこのアルバムを仕上げると、僕は[ニューヨークに]戻って『心の壁、愛の橋』に取り掛かったんだ。そのときには、僕はすっかりまともになっていた。酔っ払った人の姿を目にするだけで、しゃんとするには十分なのさ。

 『心の壁、愛の橋』に取り掛かる前日にある取引が成立して、フィルがテープを送り返してきた。例のロックンロールのやつをね。レコーディングしていたものは八曲ほどあった。八ヶ月かけてだよ!このときは彼の相手はできなかったから、自分で『心の壁、愛の橋』を仕上げた。それからその八曲に取り掛かった――聴きたいとも思わなかったけどね。そのうちの四曲ほどは救うことができたけど、残りは……調子外れもいいとこで……ひどいものだった。あんなものは使えないよ。二八人のミュージシャンが調子外れの演奏を繰り広げているんだから!使えるものだけを救い出したけど、僕の気持ちは沈んでいった。僕に何ができる?EP盤を作るか?アメリカにEP盤はない。一曲ずつ出していくか?シングルになる質があるのかも、僕には十分な確信がなかった。問題ない曲もあったけど、自信を持てなかったんだ。

 そこで、五日間でさらに一〇曲をレコーディングして、それをひとつにまとめてみた――それで出来上がりさ。楽しもうとして始めたものが、最後には……最後には楽しいものになったけどね。その五日間のセッションは大いに楽しめたから。ひと晩に二曲か三曲だけやって、いっぺんにはやらなかった。リラックスした状態でロックしたよ。楽しいものとして始まり、それが地獄になったけど、最後は楽しいものとして終わった。なかなかの展開だったね。レノンとスペクターによる名盤という期待があったのに、初めてのことだけど、あやうく出せないということになりかねなかった。それで、人に聴かせてみた。関係者じゃない人たちにね。それと、関係者じゃなくて、何も耳にしていないレコード会社にも。すると彼らは、「問題ない。気に入った」と言ってくれた。友人たちも気に入ってくれた。問題ない、悪くないよと。気に入ってくれた曲もあったんだ。みんな、以上が顛末だよ……。

歌詞の書き方、ジュリアン

ショーンバーガー では、現在のあなたの計画は?一九七五年には?

レノン 七五年は生き長らえること――それが僕のモットーさ。よくわからないけど、かなりいい感じには思えている。七四年は最悪だった。ひどいのひと言だよ。七四年は三年間にも感じられて……そのごく一部は、七五年まで持ち越された。けど今はいい感じだし、いいものが書けている。つまりハッピーなのさ。

ショーンバーガー 書くというのはどのようにされているのでしょう?気分が乗ったときに書くのですか?頭の中はいつも書くことを考えているわけで?

レノン 僕は常にその気分でね。一番いいものは、たいてい衝動的に出てくる。もしくは、ひらめきさ。そのことを考える必要は特にないんだ。ただ、常に書いてはいる。僕は頭の片隅に(略)しまい込んでいるんだ。歌詞とかアイデアをね。僕が何も書いていないときは、ほとんどない。書いているという意識は、自分にはないけどね。さあ座って書こうという意図的な時間というものはないんだ。

(略)

僕が先延ばしにするものは多くない。時々忘れたせいであとに残るものもあるけど、それも思い出して、一部を使うんだ。

ショーンバーガー 歌詞はどのように書くので?

レノン 紙切れに書き殴るだけさ。それを重ねるように置いておいて、それがかなり興味深い感じのものになってきたら、タイプライターで打ち出してみる。そのタイプの段階でも、手を加えることはある。打ちながら変えていくんだ。タイプライターに向かうときというのは、三度目の下書きというのが普通でね。簡単に仕上がるかどうかによるんだ。「書きながらタイプする」というようにできた曲ならいいけど、一般的な曲なら、さらに何度かタイプすることになる。ただ、最終版となるのはレコーディングしたときのものなんだ。僕はぎりぎりまで、いつも単語をひとつかふたつ、変えるから。

ショーンバーガー 歌詞が先で、それから曲ということですか?

レノン 普通はね。そのほうがいいんだよ。自分でもね。曲の部分は、簡単ともいえるんだ。僕はエルトン・ジョンをうらやましく思うことがある。バーニー・トーピンが大量の歌詞を送ってくるから、彼はすべての曲を五日間で書き上げるんだ。それは僕にもできる。けど僕は、あまりに自己中心的だから、他人の歌詞は使えないんだ。そこが問題でね。つまり、僕自身の欠点なんだよ。僕は黒人音楽もディスコミュージックもいまだに好きで……〈シェイムシェイムシェイム〉とか〈ロック・ユア・ベイビー〉を書けるんだったら、どんな犠牲も惜しまない。ただ、それが僕にはできないことなんだ。言葉にこだわりすぎるから、〈ロック・ユア・ベイビー〉は書けないんだよ。できたらなとは思うけどね。僕は知性もないのに、知的すぎるのさ。自分のことは作家のように感じているんだよ。だから曲の部分は簡単なんだ。音というのはあらゆるところにあるんだからね。

(略)

[ジュリアンの話題になり]

ショーンバーガー 一一歳の男の子にとって、父親がジョン・レノンというのはどんなものなのでしょう?

レノン 生き地獄に違いないよ。

ショーンバーガー そのことをあなたに言ってきますか?

レノン それはない。彼自身がビートルズのファンだから。だって、当然だろ?彼は僕よりもポールのことが好きだと思うんだ……ポールが父親だったらなと、彼が思っているという変な感覚があるんだよ。でも残念ながら、彼にいるのは僕だ(略)

彼は賢い子で、音楽が好きなんだ。特に勧めもしなかったけど、もう学校でバンドを組んでいる。ただ、歌うのはロックンロールさ。先生が僕の年代だからね。だからその人が彼らに、〈ロング・トール・サリー〉とかビートルズの曲をいくつか教えているんだ。息子はバリー・ホワイトやギルバート・オサリヴァンが好きでね。クイーンも好きなんだけど、僕はまだ聴けていない。(略)

 電話したら、「クイーンは聴いた?」って言われたから、「いや、それは何だい?」と答えた。名前は聞いたことがあった。あの人は見たことがあって……ピアノを弾くヒトラーのような人に……あれはスパークスだね?スパークスアメリカのテレビで見たんだ。それで電話したときに、「スパークスは見たかい?ピアノを弾いてるヒトラーみたいな人を?」と訊いたら、「ううん。悪くないけどね。で、クイーンは見た?」って言うから、「クイーンって?」と答えると、教えてくれる。彼の年齢層は音楽に詳しくて……僕が一一歳の頃は、音楽は意識していたけど、それほどじゃなかったのに。

(略)

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