- 修道院、大学、ユートピア
- ベギン会
- フーリエ、ファランステール
- ゴダン、ファミリステール
- オナイダ・コミュニティ
- キブツ
- 聖書共産主義
- コミュニティのお金の処理
- 古代スパルタの女たち
- サン=シモン派、アウグスト・ベーベル
- アレクサンドラ・コロンタイ
- ディストピアのフルコース
- すべては可能
修道院、大学、ユートピア
初期の修道士は洞窟や小屋でひとり隠者の生活を送っていましたが、紀元318年から323年頃、聖パコミオスがエジプトのタベンニシに最初の修道院を創設します。孤独に祈りを捧げていた隠者とは異なり、修道院では財産をすべて仲間と分けあい、男女別の修道院長の監督のもとで規律正しい生活を送りました。紀元530年にはヌルシアの聖ベネディクトゥスが(略)ベネディクト修道院を設立し、ヨーロッパにおける修道院の伝統を確立します。修道院はイタリアを起点に中世ヨーロッパ全体に広がり、財産を放棄して禁欲的に修道に身を捧げる人々の共同生活の場となりました。
(略)
ベネディクト会の成功を受けて、1098年には厳しい戒律で知られるシトー会の修道院が創設されました。最盛期を迎えた15世紀には、ヨーロッパ全土に750ものシトー会修道院があったと言われています。しかしやがて定住せずに各地を旅して貧しい人々と暮らす托鉢修道会(ドミニコ会とフランシスコ会)が台頭し、また(略)宗教改革が始まったことで、ヨーロッパの修道院の伝統は廃れていきました。
(略)
中世の修道院では自給自足を目指して、農地や家畜小屋、作業場や台所を保有していたほか、パンやビール、陶器や小麦粉も自前で生産していました。ユートピア的な修道院の設計図としてもっとも有名なのは、820年から830年頃に描かれた「ザンクト・ガレンの修道院平面図」でしょう。(略)教会、宿舎、食堂に加えて、庭園や厩舎、果樹園、写字堂、診療所、パン工房、醸造所、それにさまざまな工房も敷地内にあります。これが修道院の理想として描かれたのか、それともザンクト・ガレンに建設する予定の具体的な建築物の設計図として描かれたのかは、専門家のあいだでも未だに意見がわかれます。いずれにせよ(略)熟慮されたデザインは、後々までユートピア共同体の設計にそのこだまを響かせることになります。
(略)
中世に作られた大学の設計は修道院の共同生活をそっくり反映していました。オックスフォード大学で講義が始まったのは11世紀後半ですが、当初は修道会の建物が学生寮として使われていました。
(略)
中世の大学は修道院に影響を受けつつ、独自のユートピア共同体を築いていきました。ユートピアの父として有名なトマス・モアもオックスフォード大学の出身です。(略)
学生たちは広い共有スペースで礼拝をし、勉強し、食事をし、眠りました。食事しながら講義の話をし、敷地内を散歩しながら神学の議論に没頭できる、そんな特別な空間が学問を志す仲間たちの絆を強めていったのです。
ベギン会
もちろん、当時の有名な修道院や大学は圧倒的に男性中心の世界でした。修道女となった女性は閉鎖的な女子修道院で厳しい修道院長の支配のもとで暮らし、資源へのアクセスは男性管理者の手に握られていました。女子修道院はたいてい男性の修道院よりもずっと貧しく、修道女になる人の家族に持参金や管理費を請求することもありました。また女性の場合、男性の修道士よりも規則が厳格で、とくに修道院を出入りする自由はありませんでした。しかし西暦1190年頃になると、厳格な修道院とは別の形で、女性同士の共同生活を送る人たちが出てきます。ベギン会と呼ばれる女性だけの自治組織で、現在のベルギー、オランダ、ドイツ北部の都市部で集団生活を営みました。(略)修道女とは対照的に、ベギン会の女性は地域のなかで信仰生活を送ります。約4世紀にわたる各地のベギン会の暮らしを詳述した2001年の書籍『女性の都市』によると、ベギン会の世俗修道女は同時代の女性がまず得られないほどの自律と独立を謳歌していたそうです
(略)
ベギン会の会院のなかには子どもたちの学校を運営したり、レースや織物を作ったり、ビールを醸造するところもありました。(略)ベギン会ではいつでも会を去る自由がありました。なかには結婚して出ていく人もいました。また修道院では財産はすべて共有ですが、ベギン会では所有権が保たれ、出ていくときは自分の財産を持っていくことができました。
(略)
独身女性や夫に先立たれた女性がどんどんベギン会の仲間に加わっていくなかで、キリスト教の男性社会は自立した女性たちの力強い連帯に脅威を覚えるようになります。(略)カトリック教会はベギン会を異端とみなして、1311年のヴィエンヌ公会議でベギン会の解散を命じました。にもかかわらず、ベギン会の暮らしはカトリック教会の後ろ盾なしで何世紀も続いていきます。ビールや布、レースなどの生産物を求める顧客は途絶えませんでしたし、看護師や教師としての需要もつねに高かったからです。今では13のベギン会会院がユネスコの世界遺産に登録されています。最後のベギン会修道女として知られる女性は、2013年に92歳で亡くなりました。
フーリエ、ファランステール
フーリエが構想した非宗教的な生活共同体ファランステール(またはファランクス)は、ローマ・カトリック教会の修道院の暮らしから着想を得ています。
(略)
1620人の男性、女性、子どもたちが自給自足の共同生活を営むために設計された巨大な複合施設です。そこに暮らす人は理論上、自分の性格的に楽しめる仕事だけをすることになっています(子どもは何でも遊びにして楽しめるので、汚れ仕事の担当は子どもたちでした)。戸建ての家は隣人を締めだす無駄な障壁であり、疎外感と孤独を呼び起こすとフーリエは考えました。疎外感や孤独は人々を利己的にして、社会の調和を妨げます。また個々の家庭で家事をすると、規模のメリットがないので非効率になります。ひとりの女性が料理も掃除も子どもの世話もやるよりは、コミュニティ全体で必要な仕事を分担するほうが効率的ですし、家電のようなもの(当時でいえばブドウ圧搾機や調理用ストーブ)も無駄に買わずにすみます。
(略)
ファランステールは農業と工業のバランス、それに私的な生活と共同生活とのバランスを保とうと努めていました。また清貧や貞節が求められる修道院とはちがって、フーリエの共同体は物質的に豊かで、恋愛は自由、共同での子育ても組み込まれていました。全体としての豊かさが重視されましたが、私有財産と多少の社会階層の存在は認められていました。財産を多く持って共同体に入ってきた人は比較的贅沢な部屋に住み、食事は共同の食堂ですが、ちょっと高級な食事やワインを好む人たちと一緒に食べます。ある程度の不平等はいずれ避けられないというのがフーリエの見方でした。住人全員がある程度豊かに暮らしていれば、気質(あるいは「情念」)の違いはあっても嫉妬や不和にはつながらないだろうとフーリエは考えました。
(略)
19世紀にはアメリカでファランステールを作る試みが多く見られました。(略)
各地でフーリエの信奉者がコミュニティを作り、西部に移住して賃金労働や奴隷制から距離を置く共同体主義の大きな流れに加わっていきます。この時期、社会主義や信仰を軸に集まったユートピア共同体の人々は、ときに団体の垣根を越えて協力しながら奴隷制廃止や平和主義、禁酒運動を推進し、地上の楽園を作るために尽力しました。
ゴダン、ファミリステール
フーリエの思想に触発され、フランス人のジャン=バティスト・アンドレ・ゴダンは1859年、フランス北部のギーズという小さな田舎町に最初のファミリステール(社会宮殿とも呼ばれます)を建設しました。この共同生活の試みは109年間にわたって続きます。スコットランドで労働者の協同組合運動を推し進めたロバート・オーウェンと同様、ゴダンはユートピア社会主義のビジョンを地域の工業生産と融合させて、(父権主義的なところはあるにせよ)すぐれた労働者のコミュニティを築きあげました。
(略)
ゴダンは二次燃焼式で煙の少ない鋳物製ストーブ(略)の発明で成功したあと、事業の利益をつぎ込んで理想のファミリステールを建設します。それは「自由で平穏で静謐な空間であり、便利で心地よいあらゆるものに囲まれている。とりわけ人間同士の距離を縮め、公共の利益のために団結できるような空間でなければならない」とゴダンは考えました。家族はそれぞれ独立したアパートメントに住みますが、大きなホテルのような空間は美しい吹き抜けのガラス張りの屋根に覆われ、さまざまな目的のための共有スペースが豊富に用意されています。集会場、食堂、劇場、庭園、中庭、ランドリー、プール、バー、展望台。子どもたちは全員、年齢に応じた保育や教育を受けられます。小さな乳幼児には託児所、歩けるようになったらプポナと呼ばれる保育園、4歳から6歳の子はバンビナという施設を経て、そのあと小学校に入ります。
(略)
最盛期にはおよそ2千人の労働者とその家族がギーズでの共同生活を選び、ゴダン自身もそこで家族と一緒に暮らしました。
(略)
もちろん、すべてがスムーズにいったわけではありません。労働者のなかには子どもを学校に通わせたくない人もいましたし、ゴダンが要求する水準の教育や清潔さに面食らって反発を感じる人もいました。
(略)
規則違反を繰り返す人には、選挙で選ばれた男女の委員によって罰金などのペナルティが科されます。
(略)
女性が外で働くには夫の許可が必要だった当時のフランスにあって、ゴダンは従業員の妻や年長の娘たちに積極的にファミリステール内での雇用機会を提供しました。労働者階級の女性にとって、それはかなり貴重な機会でした。
(略)
しかし、アメリカの雑誌が予測したような勢いでファミリステールのコミュニティが広まることはありませんでした。
(略)
ゴダンは亡くなる8年前、ファミリステールの所有権を書き換えて、従業員が共同で所有する協同組合的な事業に変更しました。1888年にゴダンが亡くなったあとも、彼の残した労働者のコミュニティは80年の長きにわたって協同組合を運営していきます。やがて鉄製ストーブの需要減と国際競争の激化で事業の資金繰りが苦しくなってきて、1968年に工場を株式会社化、一時期は鋳物ホーロー鍋で有名なル・クルーゼの調理器具を製造していました。工場は現在も稼働していますが、住居部分の一部は民間のアパートメントとなり、ファミリステールの共用部分は博物館として公開されています。
オナイダ・コミュニティ
[『共産党宣言』出版の]1848年、ジョン・ハンフリー・ノイズという人物がニューヨーク州でオナイダ・コミュニティを設立します。
(略)
牧師になって奴隷制反対運動を推し進めようとか考えていました。ノイズはやがて「完全主義」と呼ばれる教義に出会い、キリストの弟子たちにならって私欲のない共同生活を送ることで、人間は罪から完全に解放されうると考えるようになります。
プラトンと同じく、ノイズも個人主義は利己心のもとだと考えていました。これは個人の救済を説くキリスト教の価値観とは相容れない見方です。ノイズはその異端的な考えのせいで大学[イェール大学神学部]を追いだされ(略)牧師の道を絶たれたノイズは、仲間を集めて宗教的共同体を作り、愛を含めたあらゆるものを全員で共有することにします。
(略)
最盛期には300人のメンバーを抱え、8600平米の巨大なマンション・ハウスにみんなで暮らしていました。30年以上にわたって存続し(略)アメリカ国内でもっとも長続きしたユートピア共同体のひとつに数えられています。
オナイダ・コミュニティでは「複合婚」という制度を実践していて、コミュニティ内のすべての男性はすべての女性と結婚関係にありました。両性は平等だと考えられていたので、女性は男性と一緒に働き、自分の部屋を持ち、誰でも好きな男性と好きなときに性的関係を持ちつことができました。気が乗らなければ性行為を拒否する権利もありました。オナイダの人たちにとって、性行為は神聖なものでした。男性はみんな「男の自制」と呼ばれる一種の保留性交(挿入するが射精はしない)を実践しました。そうすれば女性が妊娠の不安なくセックスを楽しめるとノイズが考えたからです。ある文献によると、「女性メンバーは週に2回から4回、さまざまな男性と性行為に及んだ」そうです。それほど頻繁に性交をしていたにもかかわらず、初期のオナイダで妊娠した例はほとんどありません。(略)子どもが作られるようになるのは後年、新たな世代にオナイダの暮らしを引き継ごうとノイズが決意したときからです。
(略)
生まれた赤ちゃんは、生後12か月から14か月のあいだは生みの母親のもとで暮らしました。(略)離乳すると、すぐにマンション・ハウス内の別の棟で過ごすようになります。「子どもの家」と呼ばれるこの建物は3歳までの子ども向けで、日中は同じ年頃の子と一緒に遊びながら、母親以外の大人たちと慣れ親しんでいきます。そして1日の終わりには母親が迎えにきて、朝まで母親の部屋で眠ります。やがて3歳になると、子どもたちはイーストルームという棟に移されます。そこは3歳から6歳の子がみんなで暮らす場所で、夜もそのまま一緒に眠りました。
母親が子どもに会いにいくことはできますが、継続的に面会することは推奨されませんでした。親子のつながりは特別なものではなく、同年代の友人や保育士たちと同程度の関係であるべきだと考えられていたからです。(略)
6歳になるとイーストルームを卒業してサウスルームに移り、本格的な教育が始まります。マンション・ハウス内に設けられた教室で、幅広い科目が教えられました。読み書きや算数のほかに、ラテン語の授業もありました。(略)
10歳から12歳になると子どもたちは自分の部屋を与えられ、マンション・ハウスのメインの建物に移り住みます。
(略)
たいていの子はすんなりとイーストルームの暮らしになじんだようですが、当時子どもだった人の回顧録を読むと、母親のほうが子どもと引き離されてつらい思いをしていたようです。
(略)
オナイダの暮らしを調べながら、初めのうちは親としてノイズに反感を覚えました。母親と子どもの絆を見くびっていると思ったのです。妊娠中、お腹にいる娘との強い絆を私は感じていました。部屋いっぱいに赤ちゃんが並んでいたとしても、自分の子を一瞬で見つけられるはずだと思いました。(略)でも出産後(略)ベビーベッドが5列に並んだ新生児室のなかで私は自分の娘を見分けられませんでした。
(略)
最初こそ淋しい気持ちになりますが、あるオナイダの母親は良い点のほうが大きかったと語ります。「自分には重すぎるケアの負担から解放され、別の仕事をする時間とチャンスが得られました。愛情にふりまわされて心乱されることもなくなりました」。またハリエット・ワーデンという別の女性は(略)「最初のうち、母親たちは我が子が他人の手に渡るのを苦痛に感じた。しかし彼女らの生活は新たな領域に開かれ、学業に励む時間もできた。さらに、子どもの行動や全般的な状態の改善という点からも、母親のべたべたした愛情より利するところが大きいといえる」。(略)ノイズの孫にあたる女性イモジェン・ストーンも、みずから集団保育で育った経験をもとに、その利点を強調しています。「たった二人の人間が不安定に思い悩む環境で育った場合、子どもはつらい思いをする。保護者が数多くいるほうが、開放的で快適なように思われる」
とはいえ、子どもは大人に反抗するものです。若い世代は成長するにつれて、ノイズの厳格な教義に疑問を抱き、複合婚の問題含みの側面に反感を持つようになりました。(略)女性が気兼ねなく断れるように男性は第三者を介してアプローチすることになっており、『オナイダ・コミュニティの手引き書』にも「すべての女性は相手が誰であれ、誘いを拒否する自由がある」と記されていますが、それでもやはり、上の立場の男性から誘われると断りづらいと感じる女性はいました。あるいは広く浅くではなく、特定の人と深い関係を持ちたいと思う人もいました。持続的なカップルを作ることはオナイダでは禁止されていたのです。
(略)
やがて外部の大学に通いはじめた若いメンバーは、オナイダの「完全主義」とは矛盾する考えや欲望を覚えて帰ってきました。アメリカの主流文化から外れていることを痛感し、もっと自主性を尊重してほしい、自由に恋人を作りたい、と要求するようになります。こうした内部の不満と時を同じくして、外の世界からも厳しい目が向けられました。オナイダでおこなわれている複合婚が姦通罪にあたるという声が上がってきたのです。迫害を恐れたノイズはカナダへ逃亡しました。残されたメンバーは、このままでは全員逮捕されて子どもたちも取り上げられると恐れ、次々とカップルになり結婚しました。そしてオナイダ・コミュニティは1880年に解散となります。しかし世間のネガティブな注目や批判に耐えられず崩壊していった多くのユートピア共同体とは違って、オナイダは株式会社化して生き残り、事業で大きな成功を収めました。オナイダの銀食器は現在まで世界中で売れつづけています。
キブツ
初期のキブツでは、「子どもの家」が唯一のレンガ造りの建物でした。大人が仮住まいをしているなかで、子どもの家が先に建てられたのです。この子どもの家を囲むようにテントが並び、やがてキブツが豊かになると、大学のキャンパスのようなコミュニティが作られて共同キッチンや大食堂、宿舎などが建つようになりました。キブツは徒歩圏内でたいていの用事がすむように設計されていて、周辺の畑にも自転車で出ることができます。すべての財産は共有され、メンバーはみんな共同で暮らし、一緒に働き、一緒に食事をしました。オナイダ・コミュニティとは違って、キブツでは伝統的な性別役割がおおむね保持されており、人々はカップルで暮らして自由に子どもを作りました。女性と男性はコミュニティ内で異なる役割を期待されましたが、どちらが上ということはありませんでした。
またオナイダとは違い、キブツでは生後わずか数日で赤ちゃんが母親のもとを離れ、子どもの家に移るのが普通でした。農業でやっていくには女性の労働力が欠かせないため、少数の女性に子どもの世話を一任することで、産後すぐに仕事に戻れるようにしたのです。キブツの人たちは理論的にはジェンダー平等の立場をとり、共同育児によって女性が保守的な役割から解放されると考えていました。
聖書共産主義
ヒンドゥー教や仏教の僧侶は俗世間を離れた暮らしのなかでわずかな持ち物を共有し、物にも人にも執着しない生き方を実践しています。
紀元前2世紀から紀元1世紀末にかけて存在したユダヤ教のエッセネ派もまた、集団生活を送り、財産を全員で共有していました。(略)奴隷を使うかわりに自分たちで力を合わせて働き、自給自足の共同体的な暮らしをしていました。キリスト教の修道生活の先駆けといえるかもしれません。
キリスト教にも「聖書共産主義」とでも呼ぶべき長い伝統があり、キリストが財産共有の共同生活を説いたと信じる敬虔な信者によって実践されています。新約聖書のなかでも解釈の分かれるところですが、イエスの死後まもなく、弟子たちの生活を振り返って書かれた箇所にこうあります。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」。また次のような記述もあります。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた……信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」。こうした記述に影響を受けた一部のキリスト教徒は、財産の所有をめぐって教会と意見が対立し、長きにわたって迫害されることになります。
ブルガリアでは、10世紀にボゴミル派というキリスト教の一派が生まれました。(略)教会のヒエラルキーを否定し、祈りは個々の家で捧げました。また女性の宗教指導者を認めていました。魂に性別はないと考えられていたからです。(略)ボゴミル派は禁欲と非暴力をつらぬく菜食主義のアナキストでした。その教えは数多くの人を惹きつけ、バルカン半島から西ヨーロッパへと影響を広げていきました。
(略)
当然ながら皇帝はあらゆる手を使ってボゴミル派を排除しようとします。
(略)
ボゴミル派はイタリアおよびフランスのカタリ派/アルビジョワ派に影響を与えました。この宗派の人たちもまた、男女の完全な平等を信じ、女性がペルフェクティ(完全者)になること、つまり宗教的に最高の高みに達することを認めました。ペルフェクティは聖職者というよりも仏教の菩薩に近く、みずから精神的な高みに達しながら、他の人々を同じ高みへ導く存在です。(略)
教会がカタリ派を嫌ったのは、女性に関する見方の違いや善悪二つの神を持つ異教的な世界観のせいもありますが、権威や財産を否定していることもその理由だったでしょう。フランスでは、アルビジョワ派が異端審問の最初期の標的となりました。
(略)
しかしカトリック教会といえども、聖書中の記述を削除する力はありません。私有財産をめぐる問題箇所はその後も信者に読まれつづけました。そして強欲で残忍な教会のやり口を見るにつけ、多くの信者がキリスト教における私有財産の位置づけに疑問を抱くようになります。トマス・モアのような敬虔な人物でさえ、この記述を無視することはできませんでした。1516年に書かれた『ユートピア』にもその影響がはっきりと見てとれます。「必要とするものはなんでもそこからいくらでも持ってゆく……すべての物資が豊富にあって、しかも誰も必要以上に貪る心配のないところでは、欲しいものを欲しいだけ渡してなんの不都合もないからである。けっして物に不自由することはないという安心感、この安心感がある時に誰か必要以上に貪る者があろう」。
(略)
ボゴミルやカタリ派と似ているのが、中世後期にヨーロッパ中部で興った再洗礼派の諸派、たとえばフッター派や(略)トマス・ミュンツァーに触発されたグループの人々です。(略)
ミュンツァーは人々の平等を説いて、真のキリスト教徒ならば質素に暮らして財産を共有すべきだと主張しました。(略)[農民蜂起は失敗に終わり、ミュンツァーは]拷問されて処刑されました。
トマス・モアもトマス・ミュンツァーも殉教者となりましたが、中世社会を鋭く批判し、教会の蓄財に疑問を突きつけた思想はその後も生きつづけます。多くのユートピア思想がかれらに触発され、私的所有の道徳的正当性を否定することこそが、誰かの所有物とされている人々を解放するための第一歩だと考えるようになりました。
コミュニティのお金の処理
現存する財産共有コミュニティのなかでもっとも歴史が古いのは、16世紀ドイツ農民戦争の時代にトマス・ミュンツァーと改革急進派に触発された中央ヨーロッパのキリスト教再洗礼派の末裔です。ヤコブ・フッターが立ち上げたフッター派は1528年からコミューンを結成(略)異端認定されて迫害を受けます。当初は商品を製造していましたが、中央ヨーロッパの工場を追われて農業を始めました。18世紀にはロシアに定住し、やがて北米に渡ります。現在、北米には約5万人のフッター派が住んでおり、米国とカナダ各地に最大250人ほどのコミュニティを作って暮らしています。
(略)
もうひとつ、共同体で暮らすキリスト教の一派にシェーカーがあります。シェーカー教徒は1747年頃にイギリス人女性によって創設された宗教コミュニティに端を発し、1780年代のアメリカで基盤を固めました。シェーカー教徒はほぼ自給自足の集落に住み、すべての財産を共同所有します。またそれ以前のボゴミル派やカタリ派と同様、女性が重要な宗教的リーダーの役割を担うことを認めていました。質素で慎ましい生き方を大事にし、父系制や父方居住の慣習を拒んで独身主義をつらぬきました。
シェーカー教徒のコミュニティは改宗者を呼び込んだり、孤児や捨て子、あるいは未婚で妊娠した女性を受け入れて人口を維持していました。(略)
しかし、生涯独身で通す方針が、結果的に参加者を狭めてしまったのは事実です。自分たちでは子どもを作れませんから、シェーカー教徒の数はだんだん減少し、今ではメイン州のサバスデイ湖にあるコミュニティがひとつ残るのみです。
(略)
では、このようなコミュニティのお金の処理はどうなっているのでしょう。(略)
アメリカのような資本主義国で、銀行口座を持たない人たちが土地を購入して共同体を運営するのは現実的に困難だと思われるかもしれません。でも実は、思ったよりずっと簡単なのです。フッター派やブルーダーホフなどの共同体は、税法のかなりマイナーな分類にもとづいて設立され、課税されています。所得を共有する非家族集団は、内国歳入法501条d項に定められた「宗教や信仰による団体または法人で、共有の資金または共同体としての資金を持つもの」に該当します。コミュニティ全体の平均所得で判断するため、たいていは所得税の課税基準額より低くなります。(略)全体の所得をメンバー数で割った数字がそれを超えないかぎりは所得税がかからないということです。
(略)
「イスラエルのダビデの家」およびフッター派の団体が国税庁を相手取っていくつかの訴訟を起こしたあと、1936年の税制改正で宗教団体の扱いに関する特別条項が盛り込まれることになりました。これにより、所得を共有する集団はその収益が共同体の成人メンバーの生活費として公平に分配されるかぎりにおいて、農業や製造業、サービス業を自由に営めるようになりました。この501条d項の適用を受けるための条件としては、団体が法人として登記され、共通の信念や指針を持ち、共同体の資金が必ず成員の利益のために使用され、各メンバーが所得の申告時に共同体からの配分を所得額に含めることが必要です。団体が受けとった寄付金は控除対象に含まれません。また501条d項では(教会などの宗教団体とは異なり)、税制上の資格を保ったまま政治活動をおこなうことが認められています。
(略)
所得を分かちあう人たちが社会主義を助長するのではないか、「国全体の市場の価値を変える」のではないかと恐れる一部の保守派は、この税制上の地位が正式な宗教団体にのみ適用されるべきだと主張しました。聖書に基づいて暮らす人たちのほうが、無宗教のコミューンよりまだ害がないと考えたのでしょう。しかし裁判所はそれを否定し、共通の信念に基づいて財産を共有している団体であれば、宗教団体かどうかにかかわらず税制上の優遇を受けられるという立場をとっています。1986年のツインオークス・コミュニティをめぐる裁判で、租税裁判所は501条d項の団体メンバーが清貧の誓いを立てている必要はなく、また全財産を取消不能な形で団体に寄付する必要もないとの判決を下しました。
少なくとも米国の501条d項のもとでは、共同体は全員に公平に所得を分配しなくてはいけませんから、そこに男女の格差はありません。団体によって家父長制的な体質はあるかもしれませんが、所得の面では男女平等なのです。
古代スパルタの女たち
ここでもユートピア思想の元祖、プラトンから話を始めることにしましょう。
プラトンは『国家』のなかで、哲人統治者や補助者が集団婚をして共同で子育てするのがいいと公然と主張しています。「これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されない」とプラトンは言います。アテネの単婚制は妻をめぐる男性間の競争を減らして庶民の協調性を高めたかもしれませんが、家族の私的で閉鎖的な体質は、プラトンが指導者に求める無私と協働の精神を損なうものだったようです。
プラトンは集団婚の実践について、かなり細かく検討しています。指導者たちは定期的に大規模なお祭りをおこない、くじ引きで選ばれた相手と交わります。特定のお祭りのときにできた子ども、つまり約9か月後に生まれる子どもはみんなきょうだいと見なされ、そのお祭りに参加していた大人は全員がその子たちの共同の親になります(孫が生まれたら、共同の祖父母になります)。近親相姦を避けるため、親世代と子ども世代は誰であれ性的に交わってはいけません。また表向きはくじ引きですが、実は裏で担当者が手を回して、健康な子どもを産むために最適な男女の組み合わせをこっそり手配しています。というのも、プラトンは残念ながら、多くの同時代人と同じく優生思想的な考え方をしていたからです。プラトンの主張は、見方によっては女性の国有化に近いものです。ただし女性だけでなく、男性も同じく国有化されるのですが。女性も男性も、その生殖能力を国のために役立てるべきだとプラトンははっきり言っています。そのために女性は20歳から40歳までの20年間、交配の祭りに参加します。男性の場合は「疾駆の盛り」を過ぎたあと、つまり25歳頃から、55歳までの30年にわたって祭りに参加します。この年代を過ぎれば、うっかり妊娠しないかぎりは、誰とでも自由に性的な交わりを楽しめます。興味深いことに、女性は20歳から子どもを産むべきというプラトンの意見は、当時のアテネ人よりもスパルタ人の慣習にずっと近いものでした。アテネではもっと早く、10代の前半に娘を嫁がせるのが一般的だったのです。
(略)
スパルタ人は戦士階級の人々をホモイオイと呼んでいました。みんな同じとか、等しい人々、という意味です。ホモイオイの男の子は7歳になると家族を離れ、30歳になるまで男性だけの集団で兵舎で暮らしました。その期間は労働の義務はなく、ひたすら戦士としての訓練に励みます。スパルタ軍は各地で敵を打ち破り、最強の戦士として名をとどろかせました。ホモイオイの女性はどうだったかというと、家父長制の支配こそ受けていましたが、当時の他の社会にくらべれば大きな力を持ち、性生活も自由に楽しんでいました。ホモイオイの男性は晩婚で、30歳までは家にいなかったため、家庭を取りしきる権限は妻にあったのです。
スパルタ人にとって、丈夫で健康な子どもは何よりの宝でした。そのため年輩の夫は、強い子どもを産んでもらうため、自分が見込んだ若い男性に妻と寝ることを許したそうです。また結婚は望まないけれど子どもは欲しいという男性が、他の男性に頼んでその妻と寝ることもありました。ときには兄弟が一人の妻を共有して一緒に子どもを育てました。充分に子どもを作り終えた男性が親しい友人に妻との性生活を譲ったり、妻自身に別の性的パートナーを選ばせたりすることもありました。女性のほうも、少なくとも一部の人は、健康な子どもを授けてくれる若い男性を積極的に求めたようです。こうした一妻多夫的な関係のおかげで、スパルタ社会では女性の地位が高まりました。スパルタの女性はみずから富と資源を相続し、管理し、自由に処分できました。家庭の領域で女性が大きな権力と影響力を持っていたのです。
サン=シモン派、アウグスト・ベーベル
サン=シモン派の女性のなかには、結婚外でセックスをしたり子どもを作ったりすることによって、家父長制に支配されない生活を築こうとした人もいます。フェミニストでユートピア社会主義者のポーリーヌ・ロランは2人のパートナーを持ち、幼少期に亡くなった1人を含めて4人の子どもを産みました(略)。無事育った子のうち1人目は半年に満たない短い関係を通じてできた子でしたが、下の子たちの父親とは14年にわたって自由な関係を維持しました。子どもたちには父親ではなくロランの姓を名乗らせ、経済的にも男性に頼らず独力でなんとか生活を支えようとしました。またクレール・デマールという女性もサン=シモン派の性的解放の支持者で、1883年に発表した文章「ある女性から人々への、女性の解放に関する訴え」では「結婚は合法的な売春である」と主張して人々を驚かせました。
ユートピア社会主義者のシュザンヌ・ヴォワルカンは、自由な女性として生きるために夫と離婚しました。独身女性のお産を助ける助産師の仕事に就き、いずれはシングルマザーも「本物の」母親として法的に認められ、社会の配慮と支援を得られるように願っていました。しかし当時のフランス社会は婚外子の権利に関心がなく、父親の財産を狙って騒ぐ厄介者程度の扱いでした。ロランもヴォワルカンも、やがて悲惨な貧困のなかで人生を終えます。1830年代のフランスで女性に支払われる賃金は、シングルマザーはおろか、独身女性がひとりで食べていくにもまったく足りなかったからです。クレール・デマールは家具を売り払ったお金でなんとか食いつなぎながら執筆したあと、みずから命を絶ちました。そして1832年にアンファンタンらが公序良俗に反する思想を広めたとして投獄されると、サン=シモン派コミュニティの多くは解散し、一部はエジプトに逃亡して女性救世主を探しつづけました。あとに残されたサン=シモン派の女性たちは、厳しい経済的現実を前にして、性的自由や男性に頼らない生活という理想を断念するしかありませんでした。そのかわりに結婚制度の改革、とくにフランスにおける離婚の権利および女性の親権保持という比較的控えめな目標に軸足を移していきます。
(略)
そんななかでも、女性の合理的思考力や革命を起こす力を全面的に信じていた男性がいます。ドイツの社会主義者、アウグスト・ベーベルです。ベーベルは単婚の核家族を一種の牢獄と見なしていました。女性を父親や夫や息子に経済的に依存させて、外に出られなくするからです。(略)
レーニンは後年ベーベルを「ヨーロッパでもっとも才能ある議員、もっとも才能ある組織者・戦術家、世界の社会民主主義を率いるもっとも影響力のある指導者」と評しています。ドイツ人はベーベルを「労働者の王」と呼び、その肖像画が多くの家庭に飾られました。
1871年、ベーベルは大逆罪で逮捕され、4年間の禁固刑に処されます。刑務所のなかでベーベルは執筆と読書にいそしみ(略)歴史の流れを変える一冊を執筆します。『社会主義と女性』(婦人論)は1879年にドイツで出版されてから50以上の版を重ね(略)当初は出版禁止となったにもかかわらず、1913年にベーベルが亡くなるまでに20以上の言語に翻訳されました。(略)
ベーベルも結婚と伝統的家族に反対し、教会と国家の束縛から人々の性を解放しようと望みました。(略)彼が解放しようとしたのは異性愛者の性だけではありませんでした。1898年に同性愛を罰する法律を廃止するよう国会に働きかけたベーベルは、世界で初めて同性愛者の権利を公に擁護した政治家としても知られています。
アレクサンドラ・コロンタイ
マルクスとエンゲルスの著作や、フランスのフローラ・トリスタン、ドイツ社会民主党の共同創設者アウグスト・ベーベルの思想をもとに、新たな世代の活動家が「家庭の外で働くのは女性解放のために不可欠な条件である」と主張し、有給の出産・育児休業のさきがけとなるアイデアを発表しはじめました。ドイツ社会民主党の政治家リリー・ブラウンは1897年、「出産保険」という政策を提案します。公費で女性の産前・産後の所得を保障する政策です。また産後に職場復帰したあとは、地域の保育団体に子どもを預けられるようにしようとブラウンは提案しました。長期的な経済効果のためにも乳幼児死亡率を低下させ、将来の労働者や兵士を確保する必要があるというブラウンの主張は、ドイツの中産階級の支持を得ていきます。
産業界との連携を図ったブラウンの姿勢はしかし、同じくドイツで社会主義の女性解放運動を率いていたクララ・ツェトキンと衝突することになります。ツェトキンは保育事業を慈善やボランティアに頼るべきではないと考えていました。名家の出身だったリリー・ブラウンと違って、ツェトキンは中産階級の教師の娘で、ドレスデン近郊の農村で育ちました。(略)
ブラウンが人々の慈善活動を重視するのに対し、ツェトキンは国の介入を重視していたのです。1910年8月にコペンハーゲンで開かれた第二インターナショナルの会合でツェトキンは女性のための政策ビジョンを発表し、「世俗の保育園と幼稚園の設立」、および孤児や親に捨てられた子のための施設を国が提供するように要求します。
(略)
ツェトキンの提唱した政策を本格的に実行に移したのは、ロシアの政治家アレクサンドラ・コロンタイです。ソヴィエト連邦初の社会福祉人民委員に就任してから7年後、コロンタイは世界初の社会主義国家の財源を使い、すべての働く女性を対象にした公費による集団保育を実現させたのです。
(略)
1916年、ロシア革命が起こる前の年に、コロンタイは集団保育制度の構想を書き上げます。「幼稚園や子ども園、託児所、学校において経験豊富な保育者の保護のもとで」子どもの養育を助け、健康で幸福な子どもが育つように親をサポートしようという内容です。それ自体は過去のユートピア思想にも似ていますが、コロンタイの構想には決定的に違う点がひとつありました。国がすべての費用を負担するという点です。
(略)
「社会のすべての成員は――働く女性をはじめ、男女すべての市民は――国と地域が万人の福祉に配慮するよう要求する権利を持つ。……そのためでなければ、国家を築く意味がどこにある?現在のところ、子どもの世話を引き受けている政府は世界のどこにもない。しかし世界中の男女労働者が、社会と政府を変えようとしている。社会がひとつの幸福な家族となり、この大きな家族のもとですべての子どもが平等になり、誰もが等しくケアされることを求めて闘っている」
(略)
コロンタイが1920年に提唱した野心的な社会改革案は、労働者階級の子どもが健康で幸福に暮らせるだけでなく、離婚の自由化と中絶の非犯罪化を通じて女性が抑圧から完全に解放される社会を目指したものでした。
しかしその時期、第一次世界大戦とロシア内戦、それにつづく苛烈な飢饉によって、まだ誕生したばかりのソ連の経済はぼろぼろになります。コロンタイが尽力していた社会改革の夢も、実現が厳しくなりました。そのうえコロンタイが推し進めた離婚の自由化によって、男性が妊娠した恋人を捨てて逃げるようになり、大きな社会問題を引き起こします。主要都市には捨て子があふれ、大規模なギャングを結成して軽犯罪で日銭を稼いでいる状況でした。1926年の時点で、公立の孤児院で暮らす子どもの数はおよそ25万人。さらに30万人が路上で暮らしていたと言われます。
(略)
ソ連の指導者たちのあいだでは、伝統的な家族を取り戻すべきだ、国がお金を出すかわりに女性に無償で育児をやらせるべきだという声が強まりました。女性が仕事をやめても生活できるように、男性の養育費支払いの義務づけを強化する案も出てきました。コロンタイはそうした伝統的家族への回帰に反対し、男性の扶養で生きていけというのは女性への侮辱だ、それに養育費を実際に払わせるのも難しいと反論します。そのかわりに人民全員から一人あたり2ルーブルの税金を取り、それを財源に保育園・幼稚園や児童養護施設の資金不足を改善して、同時にシングルマザーを支援しようとコロンタイは提案しました。しかし男性党員たちは、ソ連経済の厳しさを考えると現実的な案ではないと言って却下します。そんななかで1936年、人口減少を懸念したヨシフ・スターリンが改正家族法を強制的に通過させました。それまで女性と家族に関してボリシェヴィキがおこなった改革の成果を無に帰するような法律です。離婚は困難になり、中絶は違法化されました。
(略)
コロンタイの夢は、第二次世界大戦後の東ヨーロッパでふたたび日の目を見ることになります。とくにその成果がめざましかったのは東ドイツでした。工場労働者向けの出産休暇は1901年からフィンランドで始まっていましたが、第二次世界大戦後の東欧社会主義国ではその対象がすべての労働者に拡大されました。(略)ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、建国から1年後にはすべての母親に対する母親手当を導入し、子どもが3人以上いる女性労働者にはさらに特別に育児手当を支給しました。また3か月の有給出産休暇も公費で実現させました。8年後には母親手当を増額し、さらに特別育児手当の対象をすべての家庭に広げて、少なくない額の手当を毎月支給しました。子育てにかかる費用を肩代わりすることで、子どもが2人以上いる家庭を増やそうという試みです。
(略)
コロンタイは若い妻であり母親であった自身の経験から、女性の抑圧の根源にあるのが、家庭生活を形作る制度や、既婚女性を夫の権威に従属させる法体系であることを理解していました。
(略)
ロシア革命後にソヴィエト政権が最初に出した布告のうち2つは、離婚の自由化と、教会婚から民事婚への移行を定めるものでした。
(略)
コロンタイとソヴィエトは、女性を父親および夫の所有物や従属物と定める法律をすべて廃止しました。男女が法的に平等になったのです。新しい家族法では嫡出子と非嫡出子の区別も撤廃され、すべての子どもが父親と国の扶養を受けられるようになりました。1920年には、妊娠12週目までの中絶も合法化されました。コロンタイは意図的に、家庭での家父長的権威を支える法律、慣習、制度を標的にしていったのです。
(略)
コロンタイはサン=シモン派のフェミニストの足跡をたどり、伝統的な結婚の縛りから性を解き放とうと試みます。1923年に発表した文章『翼のあるエロス――若い労働者への手紙』のなかでコロンタイは恋愛の新たな枠組みを提唱し、男性も女性もそれぞれに、感情的・知的・性的な異なるニーズを満たしてくれる相手と同時進行で関係を楽しむべきだと論じました。そのためにも強い集団的絆を持つ社会を築き、第3章で述べたように幼稚園や保育園へのアクセスを大幅に広げて、アロペアレンティングの体制を公費で整えていこうとしたのです。
コロンタイは男性も女性も、恋愛のパートナーとの関係を見直す必要があると考えました。愛情や承認、精神的サポート、性的満足のすべてを一人の相手に求めるのは無理があるからです。もっと公平で協力的な社会で暮らせば、ソヴィエトの若者たちは単婚という社会通念を超えて進歩できるのではないか、とコロンタイは考えました。もちろん嫉妬や独占欲は恋愛につきものです。浮気されたり失恋すると傷つきますし、情熱のあまりとんでもない行動に走ってしまうこともあります。それでも、友人や仕事仲間のネットワークが広く愛情とサポートを提供できれば、恋愛の傷はそこまで深刻にならないはずだ、とコロンタイは言います。「共同体のメンバー全体の絆が強ければ強いほど、結婚相手と強固な関係を持つ必要性は少なくなる」。オナイダ・コミュニティのように排他的な性的関係を禁止するのではなく、強靭な社会的関係の海で包み込むことで、恋愛という不安定な関係が引き起こす衝撃を和らげようと考えたのです。
(略)
そもそもカップルが不健全なほどにおたがいにしがみついてしまうのは、資本主義の不安定で利己的な性質のせいだとコロンタイは言います。資本主義の価値観で生きているからこそ、相手の愛情や性的関心を独占しなければと焦り、共通の目的に向かう仲間としてのふるまいを忘れてしまうのです。
(略)
コロンタイは「同志愛」を提唱し、すべての人が自由に、友人関係と同じように恋愛できる社会を望みました。(略)
「友情は性愛よりも社交的な感情である」と彼女は言います。「友人は何人でも同時に持つことができる。ふれる相手によって、震える糸はさまざまに異なるからだ」。
(略)
男性の同志はコロンタイの主張から少し距離を置いていました。(略)
また1830年代のフランスと同じく、ロシアの女性の賃金は一人で家庭を支えるにはあまりにも少なすぎました。離婚が自由化されると、恋人の妊娠を知ったとたんに逃げだす男性も出てきます。父親が扶養義務から逃げるのを防ぐ意味では、離婚を認めない旧来の制度にも利点はあったわけです。ユートピア的な視点を盛り込んだ1918年の家族法は、その後の20年間で徐々に後退させられました。それでも単婚核家族を批判したコロンタイの思想は20世紀を通じてこだまを響かせ、それに感化された新たな世代の活動家たちが、国の押しつける「普通の家族」の定義に異議を唱えつづけてきたのです。
ディストピアのフルコース
20世紀の有名なディストピア小説によく見られるのが、社会の平等と調和を求めるあまりに恋愛や核家族が破壊されたという設定です。オルダス・ハクスリーが1932年に発表した小説『すばらしい新世界』がまさにそうでした。(略)
インターネット上には、この小説を題材にしてユートピアの負の側面を強調し、「完璧な社会をめざす試みの悪影響」を教える授業計画やディスカッション例があふれています。そもそもこの小説はH・G・ウェルズのユートピア小説を揶揄するパロディとして書かれたのですが、その影響力は元ネタの本をはるかに超えることになりました。
フェミニスト思想家のシュラミス・ファイアストーンが「再生産手段」の掌握と人工子宮による生殖を呼びかけるより何十年も前に、ハクスリーは人間が試験管のなかで製造され、指定された社会的役割を受け入れるようにプログラムされた世界を想像していました。
(略)
紀元2540年の世界では誰も家族を持たず、子どもたちは施設で集団的に育てられます。「母親」や「父親」という言葉は口にするのも恥ずかしく、とくに父親という言葉には「ポルノグラフィックというよりスカトロジックな下品さ」があるそうです。(略)
ハクスリーの描く新世界は生殖の完全な社会化によって女性の性が解放された世界ですが(略)薄っぺらでむなしい世界です。
(略)
オルダス・ハクスリーのもとで一時期学んでいたエリック・ブレア(筆名ジョージ・オーウェル)が自身のディストピア作品を書きはじめたとき、焦点を当てたのはやはり伝統的な家族の崩壊でした。
(略)
『1984年』はハクスリー以上に、英米の中高生の授業で必ずといっていいほど取り上げられる定番テキストです。(略)アメリカでは一般に社会主義イデオロギーの危険性を教えるテキストとして使われています。
(略)
オーウェルのディストピアも私たちの親密な関係に狙いを定め、大切な絆が国家によって破壊される恐怖を掻き立てます。
(略)
もっと年若い読者のためのディストピア小説として徐々に人気を得てきたのがロイス・ローリーの1993年の児童向け小説『ギヴァー:記憶を注ぐ者』(以下『ギヴァー』)です。(略)
アメリカの子どもたちはこれら3冊をほぼ立て続けに読まされる場合もあり、まさにお腹いっぱいになるまで反ユートピア思想を詰め込まれます。
『ギヴァー』の世界ではみんなが「同じ」であるべきと考えられているため、従来の家族が人工的な「家族ユニット」に置き換えられます。子どもたちは職業的な「出産母」から生まれますが、出産母との交流は一切ありません。生まれてすぐに養育センターに預けられて、名前のない「ニュー・チャイルド」として育てられます。1歳になると家族ユニットに引きとられ、そこで子ども時代をすごし、12歳になるとその子の素質にふさわしい仕事に任命されます(なかには出産母になる子もいます)。大人になると適合する配偶者を申請して家族ユニットを作ることができ、カップル1組につき2人の子どもが割り当てられます。子どもが大きくなると家族ユニットは解散し、子育てを終えた人は大人だけの集団で暮らします。そして歳をとると「老年の家」に移り、「解放」と呼ばれる安楽死を待ちます。児童書なのでセックスには言及されず、住人はみんな感情を抑制されて欲望も熱情もなく、そうした感情の記憶さえ持たない設定になっています。『すばらしい新世界』や『1984年』に描かれた肉体的快楽のかわりに、12歳の主人公は親友の女の子にほのかな欲望を抱き、「愛」と呼ばれる奇妙な感情に興味を抱いていきます。
これらディストピアの代表作はいずれも(略)今とは違う世界を望むならその代償として愛や性的満足を手放すしかない、そして従来の家族を破壊するしかないという描き方をしています。(略)
『1984年』では暴力的に、『すばらしい新世界』では実存的に、『ギヴァー』では感情的にという違いはありますが、しかしつねに、不可避的に悪くなるのです。物語のメッセージは明白です。現状に不満があったとしても、変えようなどと思うな。物事の「自然な」あり方に刃向かったりしたら、個人は取り返しがつかないほどに失われ、全体主義の地獄が待っているだろうと。このロジックは長いあいだ力を持ってきました。
(略)
説得力のあるディストピアはいつも、無条件の愛やぬくもりを与えてくれる拠り所の喪失という恐怖を突きつけてくるのです。
(略)
このままでは伝統的家族と異性愛夫婦が崩壊して大変なことになる、と大げさに恐怖を煽っているのは、私の住む地域でいえば主に組織化された宗教右派を代表する人たちです。
(略)
さらにそれを援護射撃しているのが、現状維持に利益を見いだす市場原理主義者です。(略)現状に挑むような試みは何であれ、自由市場を支える社会システムを不安定化させるリスクであると考えます。とはいえ「ガラスの天井を破ろう」というリベラル・フェミニズムや同性婚の合法化といった動きは、保守派にとって真の脅威ではありません。次世代を育てる仕事を私的領域に押し込める枠組みがゆるがないかぎり、市場は大抵のことを商品化し飲み込むことができます。しかし別の種類の要求、とくに社会のしくみ自体を問い直すような要求は、かれらを本気で警戒させます。
非宗教的な立場から伝統的家族を擁護する主張の典型例は、ジーン・カークパトリックが1979年に発表した悪名高いエッセイ「独裁と二重基準」に見ることができます。(略)
ネオコンで、米国初の女性国連大使となり、ロナルド・レーガン政権下で国家安全保障会議および対外情報諮問委員会の委員を務めました。イラン革命とニカラグア革命を受けて、左傾化を防ぐためなら独裁もやむなしという極端な反共外交政策を推し進めます。のちに「カークパトリック・ドクトリン」と呼ばれるようになったこの方針は、彼女自身が言うところの「『右翼』独裁や白人寡頭体制」に対する支援を正当化するものでした。
(略)
[カークパトリックの言葉を引用後]
カークパトリックは「習慣的な仕事と余暇のリズム、習慣的な居住地、習慣的な家族および人間関係のパターン」によって人々が「定められた悲惨な役目」に甘んじるようプログラムされると考えているようです。逆に言うと、そうした日々の習慣を変えれば(略)もっと公正な社会で生きたいという思いが揺り起こされ、「伝統的な生活の悲惨さ」に対抗する動きが生まれる可能性があることをこの文章は暗に認めています。
(略)
私的領域がこれまで通りのリズムで営まれているかぎりは、言論封殺、集会の禁止、適性な法的手続きの無視といった公的領域の混乱はやがて復旧可能である。彼女はそう考え、私的領域の変化のほうを警戒したのです。
(略)
ごく普通の家庭生活が現状維持の支柱になっているというカークパトリックの考えは新しいものではなく、家庭とは君主の絶対的権威を尊重する姿勢を学ぶ場である、と見なす政治理論の長い伝統に基づいています。(略)
『リヴァイアサン』のなかで(略)強力で完全な国家に率いられなければ、人の生活は「汚く、野蛮で、短い」ものになるとホッブズは言います。そうしたホッブズの理論を支える理念が、共和制ローマの家父長権です。(略)家庭内で父親の絶対的権威を教え込まれた子どもは、ホッブズによれば、公的領域において強力な指導者に服従する大人に育ちます。つまり家父長制的核家族は、従順な政治的臣民を作るのに欠かせない装置なのです。
(略)
「ユートピア」という言葉を軽蔑的な意味合いで使うのは、保守派にかぎった話ではありません。(略)野心的な夢想家を前にすると、中道派も左派も文句を言いたくなるようです。(略)慎重な変化を目指すべきだと主張し、その証拠として『すばらしい新世界』や『1984年』のディストピア世界に言及するのです。
(略)
最近では政治的な激変が公正で持続可能な社会につながるのではなく、白人至上主義ファシズムや、『侍女の物語』に出てくるギレアドのような宗教原理主義国家を生むのではないかと恐れる人も多くなっています。(略)スラヴォイ・ジジェクはそれを「危うい夢を見る」と表現します。危うく夢見るよりも小さな改善をめざそう、あるいは(略)チョムスキーがかつて言ったように、自分たちを囲む檻の面積を広げることに注力しようというわけです。
(略)
完璧を目指すより実現可能なことをやろうとするうちに、政治的想像力の選択肢を狭められてはいないでしょうか。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウは、私たちの遠い祖先がいかに多様な政治的・経済的生活を営んでいたかを一望する著書のなかで、こう言います。「人類史のなかで、なにかがひどくまちがっていたとしたら、おそらくそのまちがいは、人々が異なる諸形態の社会のありようを想像したり実現したりする自由を失いはじめたときからはじまったのではないか」。現実を見据えた漸進的改革は、希望を抱く能力を強く縛りつける結果にもなりうるのです。
一方、徹底した革命や反乱を求める左派にとっては、ユートピアこそ別の意味で中途半端な、避けるべき態度かもしれません。マルクスとエンゲルスはユートピア社会主義に着想を得ましたが、フーリエやサン=シモン主義者やフローラ・トリスタンのことを、古い世界の死骸のなかに新しい世界を作ろうとしているといって批判しました。過去との決別を主張する人たちから見ると、ファランステールやインテンショナル・コミュニティといった理想の共同体づくりには変革的価値が欠けていると感じられるようです。ユートピア主義者はよく言えば無知な夢想家、悪く言えば金持ちの善行ごっこというわけです。
こういう軽蔑的な態度はTikTokのコメント欄にも見られます。都会生活に幻滅して持続可能な農場に移住したZ世代の若者たちが#communelife(コミューンライフ)というハッシュタグで日々の生活を発信しているのですが、そのコメント欄に中傷を書き込むユーザーが大量に発生しているのです。(略)
「どこに住んでるか知らんけど、どう見ても金持ちだろ(略)」「親の金でそんな暮らしができていいですね」「見るからにセレブ」「実家が太いってすごい特権だな」「あんたらが金持ちなのはよくわかった」
(略)
ヘイターの反応を深読みするなら、ユートピア思想がはらむ政治的逃避主義への危険性を恐れているともいえるでしょう。エコビレッジやその他のインテンショナル・コミュニティで暮らすことを選んだ人はそこで満足して、社会変革のための大きな運動には積極的に関わらないかもしれません。あまりに多くの人が社会の中心から逃げだして、小さな村での抵抗に引きこもってしまったら、残された私たちはどうやって腐りかけたシステムに立ち向かっていけばいいのでしょうか。ある意味でかれらの告発は的を射ているかもしれません。少なくともアメリカでは、ユートピア的な共同体に住んでいる人や、伝統にとらわれない家族の形を選ぶ人、コリビングやコハウジングで暮らす人の多くが、比較的高学歴で中流階級以上の白人だからです。
私もアメリカの名門大学で教鞭をとってきたので、学校をやめてデモ隊のキャンプに行ったり共同体的な暮らしに参入できるのがかなり恵まれた層の若者であることは知っています。挫折したり気が変わったりしたら、親というセーフティネットに頼って「社会復帰」するのも難しくないでしょう。(略)
しかしだからといって、かれらを叩くのは見当違いでしょう。そもそも歴史に名を残すユートビア思想家のなかには、非常に恵まれた立場の人が少なからずいました。
[この手の本にネタバレもないですが、以下はこの本の最後からの引用になります]
すべては可能
[『スター・トレック:ディスカバリー』]第3シリーズ冒頭、ディスカバリーの乗組員たちは930年後の未来に飛ばされます。そこには惑星連邦の姿はありませんでした。かつて連邦で豊かに暮らしていた人々が、今は貧困と暴力に苦しみたがいに切り離され孤立しています。物資は欠乏し、緑色と青色の異星人が結成した犯罪組織エメラルド・チェーンがその流通を支配しています。(略)紀元3189年に放りだされた乗組員たちが見たのは、希望の失われた世界でした。いつか惑星連邦が復活して宇宙に平和と繁栄をもたらしてくれると信じているのは、一握りの「信者」だけです。この第3シーズンから第4シーズンにかけて描かれるのは、深く傷つき分断された人々の疑念や敵意に直面しながら、ディスカバリーのキャプテンと乗組員たちが惑星連邦を再建しようと一歩一歩進んでいく姿です。
(略)
惑星連邦のコヴィッチ博士はティリーに言います。「ディスカバリーがとつぜん現れたとき、誰も君たちを信用しなかった。なにせ930年も昔の船だ。だがそれだけじゃない……その振る舞いだよ。何だって可能だと信じている、そんな世界で育った様子。正直、しゃくに障った」
(略)
宇宙船ディスカバリーと「何だって可能だと信じている」クルーの存在は、世界はまだ変えられるという思いを人々の心に呼び覚まします。過去を取り戻すことが別の未来の創造につながるのなら、いま私たちはかつてないほどに、過去のユートピア思想や実践の再発見を必要としているのではないでしょうか。そしてうまくいかなかった部分は捨て、うまくいった部分を救いだし、新たな形でよみがえらせるのです。
学校は子どもたちにディストピア小説ばかり読ませるかもしれません。メディアはひたすら陰鬱なアポカリプスを描きつづけるかもしれません。だからこそ、そんな流れに立ち向かうためにも、私たちは夢を見るべきです。
進歩は一直線には進みませんが、それでも社会は変化しています。かつては不可能とも思われた家族に関するユートピア的アイデアが――保育園、離婚の自由、同性婚の権利など――今ではかなり当たり前のものになりました。どんな変化もその原動力となるのは、別のやり方が可能だと信じる不屈の意志です。
(略)