ミュージック・イズ・ヒストリー その2

前回の続き。

ザ・ポリス『白いレガッタ

 81年の夏、オレは映画に出た。(略)子供たちがいっしょになって地元に小さな食料雑貨屋を作る、という話だった。(略)

[ロケ地までの送迎車の]ドライバーは車にカセットを2本持っていた。スクイーズの『アージーバージー』とザ・ポリスの『白いレガッタ』。最初から最後まで何度も何度も聞いた(略)。ヒット曲も気に入ったが、より惹きつけられたのはそれ以外の曲とのバランスだった。(略)

レガッタ』のB面のポイントは、2種類の曲が交互に並んでいることだろう。最初はスティング作のヒット曲(「ウォーキング・オン・ザ・ムーン」)で、2曲目はスチュワート・コープランドの「オン・エニイ・アザー・デイ」。絶望した男の悲惨な話だ。ザ・タイムの「グレイス」に入っていてもおかしくないような、スタジオでの自嘲的なおしゃべりまでついている(「ほかのは全部最悪。陳腐な話、聞きたいか?してやろう」(略))。その次にスティングの「ザ・ベッズ・トゥー・ビッグ・ウィズアウト・ユー」が来て、またコープランドの「コンタクト」へと続く。

 レコードの掉尾を飾るのはパンキッシュな「ノー・タイム・ディス・タイム」だが、その前に入っているのがコープランドの「ダズ・エヴリワン・ステア」だ。ロケ地までの車中で数百万回聞いた感想を述べれば、この曲の奇妙なハーモニーと構成が好きだった。デモ・テイクみたいな感じで始まって、次第に肉付けされながら本編へ突入していく。その後オレは、通信販売専門のコロンビア・ハウスに(再)加入して(略)ザ・ポリスのアルバムをすべて手に入れ、歌詞を掘りさげていった。そして見つけたのは……自分自身?オレが感じていた自信のなさをこれほど正確に表現してくれた曲は、ほかにない。テーマは社会的不安だ。出てくる男は最初から緊張しているし(キミとデートする前ぼくは10回着替える)、状態はさらに悪化する。浮かべているのはジェームス・ブラウン的ではない冷や汗。感じているのはルイ・アームストロング的ではないイラ立ち。コープランドが書いたのは、ミュージカル『ハミルトン』以前では最高の「ショット」歌詞のひとつだろう(「俺のショットはミスばかり そう/俺のショットはいつもミス」)。ドラマーなら意味はよくわかるはずだ。オレはまだ10歳だったから、歌詞に表れた恋の不安より社会的な不安のほうが深く心に響いた。映画に出たこともよくなかったのだと思う。出演依頼にはワクワクしたが、おかげで仲間から孤立してしまった。当時群れからはぐれた人間は、みんなからじっと睨まれるだけだった。

 「ダズ・エヴリワン・ステア」はずっとオレにつきまとってきた曲だが、それについてはもうひとつ、音楽的な脚注がある。スティングは自分の歌に音のハズレたハーモニーをつけながら輝かしいキャリアを積みあげてきた男だ。彼があまりに大胆かつ堂々と、最初からこうするつもりだったんだよ的なピー・ウィー・ハーマン・スタイルでそんなことをやってのけたせいで、『ザ・トゥナイト・ショウ』でザ・ポリスのカヴァーをするとき、オレまで同様のハーモニーをザ・ルーツに歌わせるようになった。

(略)

 この歌は10歳のときオレの心に潜り込み、それからずっとつきまとってきた。(略)個人史を組み立てるプロセスに関する問題。自分がある出来事の中心にいたり、ほかの出来事の中心にいなかったりするのはどうしてなのか、また、自分の肌に居心地の悪さを感じていて、そのどちらも適切な選択肢とは思えないとき、どう対処したらいいんだろうか?(略)

マイケル・ジャクソン

『オフ・ザ・ウォール』が商業的に大成功したというのに、マイケル・ジャクソンはフラストレーションをためつつあった(略)

そこで、非の打ちどころのないアルバムを作ってやろうと(略)クインシー・ジョーンズと再びタッグを組んで、ウェスト・ハリウッドのウェストレイク・スタジオへ向かった。(略)

82年の秋には新作に充分なだけの録音が完了していたが、マイケルもクインシーも納得していなかった。(略)ふたりは態勢を立て直して、全曲のミックスをやりなおした。ようやくアルバムが完成したのは11月8日。店頭に並ぶ3週間前だった。

(略)

録音作業の歴史をひもとくと、おたがいに対しては必ずしも満足していなかったようだ。作業が何ヵ月も続くなか、関係は次第に悪化していった。たとえばクインシーは、マイケルがひとりでこもってダンスの練習ばかりしていると不満を感じていた。振り付けなんて誰が気にする?アルバムはビジュアル・メディアじゃないんだ!

 だがマイケルはもっと大きな絵を描いていた。(略)音楽業界の征服だった。

(略)

 メディアの進化を察知したマイケルは、ニューアルバムからのビデオ第1弾を新しい方向へ推し進めたいと考えていた。パフォーマンスだけでなく、そこに物語をつけようとした。白羽の矢が立ったのは、スティーヴ・バロンという当時まだ20代のアイルランド人監督だった。

(略)

ファースト・シングルはマイケル本人が最も気に入っていた「ビリー・ジーン」。

(略)

自らの回想録に堂々と『エッグ・ン・チップス&ビリー・ジーン』というタイトルをつけたバロンだが、最初は仕事を引き受けるかどうか迷っていた。ちょっと引用してみよう。(略)

 

 この段階で僕は15本から20本くらいのビデオを撮っていた。中には当時イギリスでナンバー・ワンになったものもあった。ザ・ヒューマン・リーグの『ドント・ユー・ウォント・ミー』だ。マイケル・ジャクソンはみんなの話題の的だったわけではない。思い出してほしいのだが、これは『スリラー』が出る数ヵ月前の話だ。もちろんマイケル・ジャクソンにはハッとするようなマジックがあったけれど、僕としてはある意味ザ・ヒューマン・リーグのほうがエキサイティングだった。ちょうどそのころ、妻が初出産の間際だったこともあって、僕の最初の反応は「うーん、そんなのムリだよな」だった。「何がなんでもやらなきゃ」みたいな感じではなかった。そんな僕を説得してくれたのは妻だった。

(略)

[「ビリー・ジーン」が]ヘビー・ローテーションになったのはCBSレコードのプレジデント、ウォルター・イェトニコフが、そうしなければレーベルの所属アーティストを全員MTVから引きあげると脅したおかげでもあった。この発言は即座に反響を呼び、事態はぐんぐん加速した。

(略)

マイケルとしては1970年以来のスピードで売れたシングルだ。(略)

 このビデオが大成功を収めたおかげで、それ以降のマイケルのビデオは次々と大物が監督するようになり、予算も大幅にアップしていった。「ビリー・ジーン」のときのバロンの予算は5万ドル。それでもバロンにしてみればほかのプロジェクトの2倍だったのだが、6週間後ボブ・ジラルディが監督をつとめた「ビート・イット」の予算は30万ドル。そしてそこに83年の終わりジョン・ランディスが監督した200万ドルのミニ・ムービー「スリラー」が加わった。

 オレは「ビリー・ジーン」のビデオを、約14億971万2346回は見た。(略)

正直に言えば、いまだにこのビデオがよくわからない。布が出てきて、探偵や浮浪者が出てきて、色の変わる服が出てきて、女と都会の風景と光るものがたくさん。シュールレアリスムなのか?

(略)

マイケルの歌の多くがそうだが、「ビリー・ジーン」からは強い女性嫌悪の匂いがする――彼の歌う女性はほとんどいつも、男を惑わし、捨て去り、あざむき、だまし、裏切ろうとする。

(略)

『スリラー』はホットケーキのように売れ、その後もホットケーキよりずっとホットに売れた。『スリラー』の燃料は「ビリー・ジーン」やそれ以降のビデオだけではなかった。セールスを左右した最大ブースターもビデオではなかった(略)

83年5月の『モータウン25:イエスタデイ、トゥデイ、フォーエヴァー』だ。

(略)

マイケルが初めてムーンウォークを披露した4分間。約3500万人の視聴者が、その瞬間に変わった。昔になぞらえれば、ザ・ビートルズが『エドサリヴァン・ショウ』に出演したときのようなものだったのだろうか?(略)

この4分間が『スリラー』の売り上げを成層圏まで押しあげた(略)

ムーンウォークのあと、レコードは週100万枚のペースで売れ始めた。そうして、チェリーなんかいらないのに乗っかっているアイスクリームサンデーのチェリーみたいに、『スリラー』は84年2月のグラミー授賞式で8つの賞を獲得した。その中には、マイケルにしてみれば前回取り損ねたアルバム・オブ・ザ・イヤーと、レコード・オブ・ザ・イヤー(「ビート・イット」)も含まれていた。(略)

トーマス・ドルビー「ハイパーアクティブ!」

「ハイパーアクティブ!」のビデオのことなんて、35年くらい考えたこともなかった。だがこの本を書き始め、「ビリー・ジーン」と同じころMTVで流れていたビデオのリスト眺めていてこの曲を見つけたとき、また考えるようになった。

(略)

ドルビーといっしょに歌っていたのが、アデル・バーティというシンガーだったこと。その名前には覚えがあった調べてみると、ティアーズ・フォー・フィアーズの『ソウイング・ザ・シーズ・オブ・ラヴ/シーズ・オブ・ラヴ』ツアーでバック・ヴォーカルを担当した女性だった。そして先日偶然、ドルビーが2011年におこなったインタビューを見つけた。そこには「ハイパーアクティブ!」に関する驚くべき事実があった。

 

 この曲はマイケル・ジャクソンのために書いたんだよ。彼と会ったのはちょうど「シー・ブラインデッド・ミー・バイ・サイエンス」のビデオを作ってたころだった。向こうも廊下の奥の部屋で「ビリー・ジーン」のビデオを作ってたときでね。彼はすでにスーパースターだったけど、まだ『スリラー』がバカ売れしてマルチ・プラチナになったりする前だった。気が合って、グルーヴだとか、新しいテクニックの話なんかをしたわけさ。ふたりとも、ヒップホップみたいなことをやり始めたころでね。そのとき彼が言ったんだ。新しい曲を集めてるとこなんだけど、何かボクに合うようないい曲があったらデモを作って聞かせてくれないか、ってね。だから実際、LAからロンドンに帰る飛行機の中でヘッドホンをつけて、「ハイパーアクティブ!」のグルーヴの感じとベース・ラインを書きあげたんだよ。メロディもね。そして彼に送ってみた。最終的には、今作ってる新しいアルバムには合わない感じだ、ってことだったからその話はウマくいかなったんだけどね。でもそのころには、その曲がすごく気に入ってたから、自分でやっちまったわけさ。

プリンス

 80年代なかば、プリンスはしばらくのあいだずっとオレといっしょにいた。覚えている。彼のカセットを買ってきて、本当はドラムのレッスン用のレコードを聞いていなければいけない時間に、こっそりヘッドホンをつけて聴いていた。再生派キリスト教徒だった両親は、あの派手なキャラだとか、あからさまな歌詞だとかについていけなかったらしい。オレと両親とを分ける境界線はプリンスだった。そしてオレは、境界線のこっち側でワクワクしていた。このことが特に問題となったのは82年10月、アルバム『1999』がリリースされたあとだ(略)。オレはこのアルバムを4度も買い直さなければならなかった。買うたびに両親の検閲にひっかかって捨てられたからだ。捨ててもまた買うだけなんだから、いいかげん学習してくれよと思っていた(略)。

 次のアルバム『パープル・レイン』が出るころには、両親もプリンスを否定できなくなっていた。プリンスはあらゆるところにいた。ラジオ、テレビ、映画館、雑誌の表紙、チャートのトップ。そして、そう、オレの家にも。そのとき彼がやっていたツアーの最終日は、マイアミのオレンジ・ボウルだった。会場はそのときだけ、パープル・ボウルと名前を変えた。コンサートの最後、「パープル・レイン」の20分ヴァージョンを演ったあと、彼はこんなアナウンスをした。「俺はしばらくいなくなる。ハシゴを探しに行くからね[アイム・ゴーイング・トゥ・ルック・フォー・ザ・ラダー]」。

 真意はわからなかったが、不吉なニオイがした。当時はSNSなんてなかったから、ファンの陳腐な冗談が出まわることもなかったが(「プリンスは実際ハシゴが必要――背が高くないから電球が変えられない」)、オレたちは彼が引退してしまうんじゃないかと心配した。引退じゃなくても、どこかの妙な宗教団体にでもハマったんじゃないだろうか。だが彼がやっていたのは予告だった。2週間後、彼はニューアルバムを携えて再登場した。『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』。

 カヴァー・アートはまるで別世界だった。『パープル・レイン』のジャケは暗く、ほぼ全体が黒と紫で、バイクにまたがったプリンスのポートレイトがあって、そこにひと筋の黄色い光が差し(略)、花柄の壁紙が写真を左右からはさんでいた。だが、『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』は絵だった。アイデアを出したのはプリンス本人だ。彼はジャケに描かれるべきもののリストを作った。ひとりの老女(泣いている)、ピエロ(ジャグリング中)、そしてもちろんハシゴ。絵ができあがっていくあいだにも、さらに要素が足されていった。鳩。飛行機。愛国主義者の赤ん坊。プリンスとバンドの肖像。

ティアーズ・フォー・フィアーズ

 1985年、オレは、ティアーズ・フォー・フィアーズを知った。(略)

強い印象を残すパーソナルな歌詞、ソウルフルな歌、キャッチーなメロディ。彼らのスタイルは、エモの原型のようなものだったと思う。そして同時に、DJミュージックでもあった。その夏、街のどの地域でパーティーが開かれようと、多くのDJは「シャウト」の12インチを2枚、死んでも離そうとしなかった。恐ろしく堅固なドラム・プログラミングが聞けるレコードであり、フリースタイルのDJには最後の砦として頼りになる曲だ。そしてティアーズの音楽はラップ・ミュージックでもあった。「ヘッド・オーヴァー・ヒールズ」は確かにエモだったけれど、スーパーヒーローのテーマのようなあの厳かなピアノのイントロを退場時のBGMに使わないラップ・グループなんて、見つけるのが困難だったくらいだ。あのイントロはあの年のヒップホップの「大統領讃歌[ヘイル・トゥ・ザ・チーフ]」だったと言ってもいい。

「エルヴィス・イズ・デッド」

エルヴィスは自分のサウンドを作りだしたが(略)それは黒人アーティストの恩恵があったからこそだった。(略)

パブリック・エネミーなんて、89年になってもまだ怒り心頭だった(略)

「エルヴィスは多くのやつらのヒーローらしいが、俺にはクソほどの意味もねえ」。

 リヴィング・カラーも『タイムズ・アップ』でそんな流れを汲んでみせた。「エルヴィス・イズ・デッド」。エルヴィスを見かけたというデマを笑いとばす曲だ。

(略)

 しかしこの物語の根拠はずっと以前から揺らいでいる。事態を複雑にしているのは、黒人のものだったはずの「ハウンド・ドッグ」を書いたのが、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーというLA生まれの若いユダヤ人コンビだったという事実だ。エルヴィスが黒人のR&Bにタダ乗りしたのは、疑問の余地のないことだろう。しかしそれは、ミック・ジャガーがブルースに特別な親近感を感じていたこととどう違うのか。違わない、と言ってるわけじゃない。どう違うのか、と尋ねているだけだ。

(略)

もしかすると、リヴィング・カラーも(略)同じことを問うていたのかもしれない。「エルヴィス・イズ・デッド」にはほかならぬリトル・リチャードのラップが入っている。エルヴィスと同時代を過ごし、ロックンロールの誕生期をリングサイドでつぶさに経験してきた人だ。リトル・リチャードのヴァースはエルヴィスへの理解を示し、そのレガシーを乗っ取ろうとする人たちを批判するものだった。

 

プレスリーはいいパフォーマー、ステージじゃバリバリだった

病に倒れたときはファンも病気になり、死んだときは嘆いた

アイツの名前で金儲けしているポン引きども

どうやってぐっすり眠れる?恥はないのか?

アイツは試練を乗りこえ、めちゃくちゃな状態から抜け出した

さあみんなで ゆっくり休ませてやろう

 

 この直後「エルヴィス・イズ・デッド」は最高の盛り上がりを聞かせる。ポール・サイモンの『グレイスランド』のタイトル曲のパロディ部分へ移行するときだ。『グレイスランド』もやはり槍玉にあげられた作品だった。白人パフォーマーによるブラック・ミュージックの(略)吸収/収奪ではないのか。リヴィング・カラーは歌う。「確かなことだが、俺たちはみんなグレイスランドには受けいれてもらえない」。

 とどのつまり、本当にブラックなのは誰の顔なのか。ホワイトなのは誰の顔なのか。恥ずかしさで赤く染まるのは誰の顔なのか。見えているのは誰なのか。見過ごされているのは誰なのか。他者を見るのは誰なのか。自身をはっきり見すえるのは誰なのか。オレの心は『タイムズ・アップ』の最後の曲「ディス・イズ・ザ・ライフ」の最後のコトバへと向かう。「このリアルな人生じゃ/できるだけ目をあけていろ」。

ノーマン・ホイットフィールド

ザ・テンプテーションズバリトン・シンガー、オーティス・ウィリアムズが、プロデューサーのノーマン・ホイットフィールドにスライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽を紹介した。スライは新しくてリスキーな音楽をやっていた――複数のメンバーによるリード・ヴォーカル、深いファズのかかったギター、ゴスペルのハーモニー、ブレイクビーツ。ウィリアムズがプロデューサーに聞かせたかったのは、そういう音だった。最初あまりピンとこなかったホイットフィールドだったが、そのうち理解できるようになると、以降6年間スライのサウンドを土台にしてモータウン独自のサイケデリック・ソウルを創造し続けた。

(略)

しかしメンバーは、ホイットフィールドの華麗な音作りにばかりスポットライトが当たり、自分たちの比類なきヴォーカル・ワークが陰に隠れてしまったことを不満に思い始めた。曲は10分、11分と長くなり、前半部分は完全インストゥルメンタルだったりした。彼らはそのうち、モータウン社の廊下で「ノーマン・ホイットフィールド聖歌隊」と陰口を叩かれるようになった。曲がいくら素晴らしいものだとしても、そう呼ばれたグループの傷を癒やしはしなかった。最悪の侮辱となったのは――見かたを変えれば最高の到達点となったのは――73年の「マスターピース」だろう。なんとも堂々としたタイトルだが「マスターピース」という言葉は、望みなきゲットー・ライフを歌った歌詞には一度も出てこない。それは明らかにホイットフィールドの音作りを指す言葉だった。テンプスの歌だって、曲が始まってかなり時間がたたないと聞こえてこなかった。(略)

1995 いまここにある、緊張

まさに目の前で起こっている歴史をときに目撃することもある。

(略)

 ヒップホップは葬られるには早すぎた。けれど、それはおこなわれた。1995年8月、マディソン・スクエア・ガーデンパラマウント・シアターで。オレたちはそこにいた。『ドゥ・ユー・ウォント・モア?!!!??!』のリリース後がんばって続けてきたライヴ活動が認められ、あるアワードのベスト・ライヴ・アクト賞にノミネートされたからだ。

 イベントはパラマウント・シアターでおこなわれたと言ったが、実際には3つのサブ・シアターに分かれていた。つまり、座席がテーマ分けされていたってことだ。シアターに入っていくと、いちばん左側を占めていたのはバッド・ボーイのメンバーだった。当時のヒップホップで最もホットなやつら。そこには最高にホットなプロデューサー(パフ・ダディ)と最高にホットなスター(ビギー)がいた。そして真ん中の席はロサンゼルスから東に乗り込んできた、デス・ロウの仲間。居並ぶはスヌープ・ドッグ、シューグ・ナイト、ドクター・ドレー、などなど。トゥパック・シャクールは不在だった……11月に銃撃されてまだ回復中だったし、前年の性的暴行で有罪宣告を受けたところだったからだ。この銃撃のせいで東西両海岸、両陣営のあいだの罵り合いはエスカレートしていた。トゥパックは、パフィがビギーやレーベルのボス、ジミー・ヘンチマンとともに銃撃に関与し、おそらく銃撃を命じたのも彼だろうと確信していた。

 オレはハード・イーストでもハード・ウェストでもないやつらといっしょだった。サウスやミッドウェストの連中、たとえばアトランタアウトキャストがいたし、モブ・ディープ、ウータン、バスタ・ライムズ、Nasも同じセクションにいた。Nasがシアターに入ってきたときのことを覚えている。着ていたトミー・ヒルフィガーのシャツは、少なくともワンサイズはデカすぎだった。(略)そのときの姿が何かを暗示しているような気がした。

(略)

その年最大のヒット作かつ最重要作として賞賛されていたのは、Nasの『イルマティック』とビギー、つまりザ・ノトーリアスB.I.G.の『レディ・トゥ・ダイ』だ。(略)『イルマティック』は、ヒップホップ専門誌『ザ・ソース』から羨望の5本マイク(満点)の評価を与えられ、金字塔と目されていた。ビギーがもらったマイクは4つ半。

(略)

あの夜、次から次へと発表される賞のすべてをビギーがかっさらっていったとき。最初からシャツの中で小さく見えたNasはますます小さくなっていった。オレの目にはやつが縮んでいくのが見えた。その顔に浮かんでいたのは、尊厳を失った人間の表情だけでなく、自分を失った人間の表情だった。オレはタリークに向かって、あいつはもう今のままじゃいられないぜ、と言ったのを覚えている。そのとおりだった。あの夜以降、Nasは自分のプログラムを完全に書きなおした。家に帰って自らを特大サイズにしたてなおし、さらにデカい仕事とさらにデカいヒットを狙い始めた。次の『イット・ワズ・リトゥン』は彼のキャリアで商業的に最も成功した作品だ。しかし、『イルマティック』よりラジオ受け狙いが透けて見えるアルバムでもあったし、自分のイメージを街のゴロツキに寄せすぎた感じだった。NasらしいNasの音というより、ビギーみたいなNasの音。皮肉にもビギーは、『イルマティック』を青写真にして『レディ・トゥ・ダイ』を作ったというのに、だ(パフ・ダディが目指したのは『ザ・クロニック』だった)。

 Nas対ビギーの戦いは、次世代ヒップホップへの流れを作りだした。ラッパーは自分の知見やコミュニティを反映した等身大の物語を語るべきなのか。それとも、もっと抽象的で野心的なものを目指すべきなのか。

(略)

出席していたウェストコーストの面々は、イーストコーストのラッパーだけでなく聴衆にも不満をあらわにした。スヌープもドレーもマーケットへの憤りを隠そうともしなかった。大成功の1年だったというのに、おまえら、さっさと背中を向けやがって、というわけだ。数字は嘘をつかなかった。『ザ・クロニック』は世界中でウケた。ニューヨーク市では特にそうだった(なぜマーケットが背中を向けたのかは難問だ。誰も何も言わなかったが、あの夜の会場からは、賞を総ナメにした『レディ・トゥ・ダイ』に対する憤りのようなものが感じられた。明らかな答えは、人々は闘争を好む、ということだ。

(略)

パフは対抗するように、「オレは東で生きてる。だから東で死ぬつもりだ」と言った。ありがたいことに、将来を予言したわけじゃなかった。アウトキャストは容赦ない嘲笑を浴びた(略)。最も議論を醸す発言をしたのは、驚きでもなんでもないが、シューグ・ナイトだった。(略)(「アーティストになりたいアーティスト、スターでいたいスター、そして、全部のビデオと全部のレコードにしゃしゃり出てきて踊ったりするエグゼクティブ・プロデューサーに手を焼いてるやつ―――みんなデス・ロウに来い!」)。

 歴史的危機がまさに目の前にあることは、このときもまた明らかだった。ほんの数年前まで、ウェストだろうがイーストだろうがサウスだろうが、ヒップホップ・アーティストはみんな仲間だった。(略)オレたちはひとつのコミュニティだった。だが、そんなコミュニティが目の前で崩壊していた。ドクター・ドレーが年間最優秀プロデューサー賞の候補者として発表されると、みんなが立ちあがったのは事実だ。しかしそれは、突きあげられるように立ったというより、ムリヤリ上から引っぱられたような立ちかただった。抗争がみんなを操り人形にしていた。あいつが受賞したらすぐに面倒を起こしてやるからな、とでもいうようなピリピリした雰囲気だった。会場の緊張が高まった。映画監督のジョン・シングルトンが受賞者をアナウンスすると、オレは突然恐怖を感じ、その場を離れようと席を立った。ドレーが受賞し、会場から一斉に大ブーイングがわきおこった。スヌープが笑えないコメントを口にした。「イーストコーストはドクター・ドレースヌープ・ドッグを愛しちゃいねえのか?」。たぶんそのとき、オレはもうロビーに出ていたはずだ。席に戻ろうなんて思わなかった。

(略)

ザ・ソース・アワードの会場から逃げだしたオレは、まだせいぜいブーイングしか起きなかったことに胸をなでおろしていた。すると見覚えのない男が俺の手に1本のカセットを押しつけてきた。(略)アーティスト本人ではなく、インディーズのストリート・チームでマーケティングみたいなことをやっている男だった。ちらりとカセットを眺めると、アーティストの名前に覚えがあった。ディアンジェロ。ア・トライブ・コールド・クエストと組んだプロデューサーのボブ・パワーが褒めていた男だ。噂だとディアンジェロはスムーズなR&Bということだったから、あまり興味はわかなかった。だが、どこからどう見ても歴史的な事件から逃げだしてきた興奮のせいで、オレはとりあえずそのカセットをもらっておいた。

 そして、これもまた歴史になった。オレは初めてその録音を聴いたとき、現代ブラック・ミュージックのあらゆる要素――ソウル、ファンク、ヒップホップ、そして彼が創り出した新しいもの――-を統合する力をもったアーティストを発見したと思った。90年代なかばのR&Bは、個人的にはそんなに好きじゃなかった。ほとんどどれも、薄っぺらくて定型的だと思ったからだ。しかしディアンジェロは違った。驚くような音だった。会場で目撃した諍いは修復できるようなものではなかった。けれどディアンジェロの音には、それを修復してしまうようなパワーがあった。会場には砕け散った破片があり、俺の手には魔法があった。(略)

マライア・キャリー自伝に驚く

 95年後半、マライア・キャリーは5作目のアルバム『デイドリーム』を発表した。それまでのキャリアで最高の評価を受け(略)売れに売れたシングルがいくつも入った作品だった。『デイドリーム』は96年のグラミー賞のでノミネートされ、事前の予想では少なくともその半分で本命視された。

(略)

 会場にやってきたマライアは、さながら戴冠式を待つ女王だった。(略)しかしマライアはひとつも受賞できなかった。(略)

勝者がアナウンスされると、ほかの人たち(敗者?)はいかにも楽しそうに微笑んで、讃えるように、ときには率先して拍手する。マライアも最初はそうだった。2度目もそうだった。しかし夜が深まるにつれ、その回数は減っていった。

 彼女は傷ついた。それから10年間、グラミーの授賞式では歌わなかった。

 

 2020年現在、オレは『ザ・ミーニング・オブ・マライア・キャリー』という彼女の自伝を読みながら、いささか驚いているところだ。まず何より、自分がマライアの自伝を読んでいることが驚きだった。確かに彼女はこの30年間ポップ・カルチャーの大スターであり続けてきたが、オレとしては彼女の自伝なんて読んでどうなるんだと思っていた。

 ところが、どうなるどころの騒ぎではなかった。その内容の深さ、そして率直さやユーモアのセンスに魅せられてしまった。人種差別を「ファーストキスの真逆」と形容するような冴えた文章があちこちにあった。子供時代のことは読んでいてつらかったし(略)ソニー・ミュージックのボス、トミー・モットーラとの結婚生活を語るときの調子はダークなユーモアにあふれていた(略)。

 多くは明かしたくない。読んでみてくれ。それともオレが後半部分でやったように、オーディオ・ブックを聞いてみてもいいだろう――ある意味、そっちのほうがいいかもしれない。マライア本人が朗読しているので、彼女の思いが声から直接伝わってくる。本当に強調したいのはどの部分なのか、強調していると思わせておきたいのはどの部分なのか。真にドラマチックなのはどの部分で、単なるメロドラマなのはどの部分なのか。どれが皮肉でどれがユーモアなのか。

 最も心を惹かれたのは、曲作りのプロセスに関する部分だった。特に、実生活での出来事が大ヒット曲のベースになっていたこと。マライアはくりかえし書いていた。90年代中盤を代表するR&Bソング・マシーンが連発したヒット曲は、当時いかにもコマーシャル・プロダクトのように思われながら(略)実は個人的な経験に根ざしたものだった。98年にアルバム『バタフライ』からシングル・カットされた「ザ・ルーフ」は、屋上での逢い引きを歌った曲だ。てっきり『ロミオとジュリエット』の現代版のようなファンタジーだと思っていたのだが(略)デレク・ジーターと屋上でキスをした事実が背景にあったことがわかる。モットーラとの結婚生活にヒビが入り始めたころだ。「自伝的楽曲」を書いたのはそれが最初だったという。この場合、キスはただのキスではない。ジーターとの絆は深かった――彼女にとっては単なるお遊びではなく、バイレイシャルであることに対する自分の気持ちを確かめる手立てでもあった(ジーターもマライアと同じく、白人の母親と黒人の父親のあいだに生まれている)。

(略)

マライアとモットーラとの結婚生活がうまくいかなくなるにつれ、ソニーはサポートに力を入れなくなり、彼女が自伝的な意味をこめてアートを表現することに興味を示さなくなった。アーティストとレーベルの緊張関係が頂点に達したのは、98年、ふたりの離婚が決定的になったときだ。『バタフライ』の次のアルバム『レインボウ』でマライアは、かなりパーソナルな「キャント・テイク・ザット・アウェイ(マライアのテーマ)」をシングルにしようとしたのだが、ソニーはこれを拒否し、もっとアップテンポな(そしてプライベートな部分を抑えた)曲がいいのではないかと提案した。レーベルが意志を尊重してくれないことに苛立ったマライアは自分のサイトでファンに向かって、「キャント・テイク・ザット・アウェイ」を次のシングルにするようレーベルヘリクエスト(あるいは要求)してほしいと呼びかけ始めた。睨みあいが続いた。結局まばたきしたのはソニーのほうだったが、シングルは限定リリースの形になり、そのせいでチャートの順位はあがらなかった。(略)

悲しみの『ザ・ラヴ・ムーヴメント』

まだ5、6歳のガキだったころ、両親がバンドでツアーに出てしまうと、オレはおばあちゃんに預けられた。そのせいで、いくつかの曲が永遠に悲しみや寂しさと結びつくことになった。(略)

(たとえばルーファスの「マジック・イン・ユア・アイズ」。これを聞くといきなり、玄関を出て行く両親の背中を見ていた小さくて悲しいガキに戻ってしまう)。

(略)

 ザ・シルヴァーズの「ニュー・ホライズンズ」もまた、しばらくのあいだ悲しき6歳のオレの記念曲だった。しかしその曲がさらに悲しみをかきたてるようになったのは、98年、ア・トライブ・コールド・クエストの『ザ・ラヴ・ムーヴメント』でサンプリングされているのを聞いたときだ。ミュージシャンとして出発しようとしていた若いころのオレにとって、トライブはとてつもなく大切なグループのひとつだった。バンドのファッションや哲学、オレの名前に至るまで、すべて彼らに影響された。なのに『ザ・ラヴ・ムーヴメント』は聞きとおすのがツラいアルバムだった。彼らの音楽への恋心のようなものが突然裏切られた気がした。B面のなかばまで来て、気づいた。このアルバムには一貫性がない。オレが求めていたマジックは、ここにはない。最初聞いたのは、タリークとドライブしているときだ。そうやってトライブのアルバムを聞くのは、オレたちにとって儀式であり、ほとんど宗教だった。

(略)

どのアルバムもすごいエネルギーにあふれていた。オレたちふたりとその友情にエネルギーを注入してくれた。だが『ザ・ラヴ・ムーヴメント』は違った。エネルギーが洩れだしていた。B面なかば、「ホット・4・ユー」が始まるころには、ガス欠したみたいに車が遅くなった感じがした。

(略)

死んだような気分になった。愛していたものが失われてしまった。オレは何年もかけ、『ザ・ラヴ・ムーヴメント』とそのひとつ前のアルバムを分析してみた。トライブがJ・ディラを招いて作ったのはこの2枚だけだ(略)。ディラが参加した2枚に問題があったのだから、彼がトライブをダメにしたというのが当然の見かたなのだろうが、コトはそんなに単純ではない。実際のループをサンプルするときのトライブは最高だった。やつらがポップなメロディをくりかえすと、そのメロディが頭から離れなくなった。しかしディラと作ったアルバムにはそんな要素がなかった。もっと過激な作りだった。だがそれもこれも、事実が成立したあとの批評でしかない。事実とは、オレが喪失感に包まれた、ってことだ。

(略)

『ザ・ラヴ・ムーヴメント』が出たのは、ザ・ルーツが新作『シングズ・フォール・アパート』のマスタリングを終えた日だった。オレはトライブのアルバムのせいで動揺していた。ずっと彼らのファンだったのに、そんな反応しかできなかった自分がいた。もし、オレたちがファンにそんな反応をされたらどうなる?事態はさらに複雑だった。オレたちはトライブのあとを追い、彼らからインスピレーションを受け、ある意味そのイメージにひっぱられたグループだった(オレはトライブにちなんで自分の名前を考えた社会病質者なのだが、トライブのティップがそのことを信じていないなんて信じられない)。もし『ザ・ラヴ・ムーヴメント』がトライブのサウンドの死なのだったら、オレたちもあとを追う運命にあるんだろうか。その日はアウトキャストの『アクエミナイ』の発売日でもあったわけだが、それはまた別のサウンドの誕生を意味していたのかもしれない。同じ日、大勢のヒップホップ・スターがハーレムのブラウンストーンの階段で一堂に会した『XXL』誌の撮影もおこなわれたことは言うまでもない(「1986年」の章参照)。1998年9月22日:永遠の屈辱にまみれた一日。オレはその日、そんなすべての思いを胸に新作のマスタリングをやった。

(略)

オレたちは『シングズ・フォール・アパート』を歴史に残るものにしなければならなかった。でなければザ・ルーツは歴史に残れないと思っていた。前のアルバムは「ホワット・ゼイ・ドゥ」のビデオのおかげで好評だったが、商業ヒップホップと中道左派ヒップホップとの違いを明らかにしたせいで、何人かの怒りを買った(ビギーもしかり。彼はインタビューで、オレたちを見かけたらシメてやる、とのたまった)。売れ行きは40万枚くらいとまあまあの数字だったが、それはつまり、オレたちが実質3枚目だと考えていた次の作品でひとつ上のレベルにあがらなければならないということでもあった。失敗は許されなかった。オレは、ハナシを聞いてくれる人全員に言ってまわった。この勝負に勝てなきゃ、フィッシュボーンになっちまうかもしれない。言いたかったのは、誰も聞いたことのない最高のバンドになんてなりたくない、ってことだ。それを忘れないために(話を聞いてくれる人にも忘れさせないために)、フィッシュボーンのステッカーのロゴを『ゴーストバスターズ』のシンボルに描きかえたくらいだった。

 アルバムはスパイク・リーの映画『モ・ベター・ブルース』から拝借した会話で始まる。デンゼル・ワシントンの演じたジャズ・トランペッター、ブリーク・ギリアムが、黒人ってのはいつも大衆に迎合するエンターテインメントに走っちまう、と嘆く。仲間のサックス・プレイヤー、シャドウ・ヘンダーソン(ウェズリー・スナイプス)が反論する。アーティストってのは、アートをやってるフリをして実は自分に酔ってるだけなんじゃないか。このシーンが心に残ったのは、それがまさに、ずっとオレにつきまとってきた問題だったからだ。何が有意義な芸術的創造であり、何が無意味な商業的迎合なのか。少数の人たちに深く伝わるものと、浅くても多くの人たちに伝わるもの、どちらがいいのか。ザ・ルーツというバンドが持っている才能を理解し、そして限界を理解していたからこそ、この問題はずっとオレを悩ませてきた。中道左派的アーティスト宣言をすることも、10分の思想的フリー・ジャズで世界の印象を要約してみせることも、簡単だった。難しかったのは、スヌープ・ドッグの「ドロップ・イット・ライク・イッツ・ホット」みたいな曲を作ることだ。ものすごくシンプルだからこそ、ものすごく効果的な曲。

(略)

結局のところ、『ザ・ラヴ・ムーヴメント』に欠けていると思ったのはそういうことだったのではないか?(略)

オレはオレ自身を……どう観るのか?

「ザ・シャレード

ディアンジェロ&ザ・ヴァンガード

『ブラック・メサイア

(略)

オレの知るかぎり、『ブラック・メサイア』の録音が始まったのは2003年ごろで、『ヴードゥー』からわずか数年あとだ。完成まで、とんでもなく長い道のりだった。「リアリー・ラヴ」の録音でオレがエレクトリック・レディ・スタジオへ行ったのが06年。次に行ったのが09年。その時点でオレたちはほとんど話などしていなかった。珍しいことじゃない。オレたちには、ちょっと仲違いをして1、2年話をしなくなる時期がある。スケジュールが合わなかったこともあった。そのころオレは『ザ・トゥナイト・ショウ』を始めたばかり。平日の、それも昼間の仕事だった。ところがヤツはそのときもまだ午後7時に始まって午前7時に終わる世界で生きていた。録音のやりかたは『ヴードゥー』を始めた最初のころから変わらなかった。ヤツがキーボードを弾き、オレがドラムを叩いて、楽しみながらジャムる。だが最初のふた晩はうまくいかなかった。

(略)

オレたちはひとことも口をきかなかった。97年のエレクトリック・レディ・スタジオではいろんな意見をぶつけあったものだった。「この曲、知ってるか?」「オマエがこの曲を知ってるなんてな」。恋に落ちたみたいだった。しかし09年の再会はほとんど沈黙に包まれていた。最初の夜は何も生まれなかった。2日目の夜になると、もうすべては明らかだった。「オレはやれるかぎり最高のドラムを叩いてるのに……どうしてオマエはそこからなんのアイデアもつかめないんだ?」と思った。何かが起きる気配はなかった。3日目の夜、ヤツはオレに「シュガー・ダディ」を聞かせた。オレが参加していない曲のひとつだ。叩いたのはジェームス・ギャドソンだった。オレは内心嫉妬した。こいつ、オレを置いていこうとしてやがる。ただ置いていこうとしてるだけじゃない。かわりに連れていくのはジェームス・ギャドソン。ビル・ウィザースのバックで叩いていたドラマーだ。オレのアイドルを使ってイヤがらせしようってのか?ディアンジェロが面白くて新しい音を出せる人間を見つけたことを知り、当時いっしょにやっていたザ・ソウルクエリアンズのポラロイド写真からオレの姿が薄れていく気がした。おまけにギャドソンが叩いていたのはドラムでさえなかった。「シュガー・ダディ」があんなにユニークな曲になったのは、ドラムセットに座ったギャドソンがプレイバックを聞きながら膝を叩いていただけだったからだ。「それでオッケー」とDが言った。「ええ?」とギャドソンが応じた。「オレはまだドラムなんて叩いてないぞ」。「完璧だったよ。曲に必要なのは膝を叩くことだけだったんだからね」。「シュガー・ダディ」を聞いたとき、オレはディアンジェロが正しかったことを理解した。そしてそこから次の考えにたどりついた。アルバムには、ヒットなどしなかったというのにヒット曲をすっかり霞ませてしまうような曲がある。頭に浮かんだのはシーラ・Eの「ア・ラヴ・ビザール」。いや正確に言えば、アルバムでそのひとつ前に置かれた「ディア・ミケランジェロ」だ。好きだから聞くような曲ではない。目玉の曲へと至るまでの盛り上げとして流れる曲。だが、そんな通念を捨ててみようと思った。盛り上げ曲を目玉曲と同じくらいいいものにしてやろうじゃないか。

(略)

2000 物事はひとつになる

 クリエイティヴな人々を引きよせるクリエイティヴな環境を作ること。それがリッチのアイデアだった。ヤツは正しかった。まずコアとなるグループが集まってきた――ザ・ジャジーファットナスティーズ、キンドレッド・ザ・ファミリー・ソウル、ダイス・ロー、370009。だがすぐにフィラデルフィアのあちこち(さらにそれ以外も)からいろんなやつらがやってきて、遊んだり歌ったり演奏するようになった。まだ高校生ながらユニークなスタイルで歌えるやつがいた。シンガー・ソングライター志望のピザ配達人がいた。(略)ときおりアコースティック・ギターを持ってやってくるアトランタ出身の女性がいた。マリク・Bを通じて目にとまったMCがいた。ある程度時間がたつと、全員がレーベルと契約した。正体は順に、ミュージック・ソウルチャイルド、ビラル、インディア.アリー、ビーニー・シーゲル。オレたちのセッションがひとつのシーンを生み出すと、そういったことが頻繁に起きるようになった。

(略)

「サウス・ストリートのデニム・ショップ、ってか、Gパン屋で働いてる友達がいるんだけど、その子、呼んでいいかな?」。もちろん、とオレたちは答えた。ダメなはずないだろ?会ってみると、スターになれるだけの力がある子だった。のちに、Gパン屋の女性の名はジル・スコットだということがわかった

(略)

 彼女はある意味、『シングズ・フォール・アパート』にも参加していた。収録曲の中からオレたちがファースト・シングルに選んだのは「ユーゴット・ミー」。最強の候補であることはわかっていたし、レーベルも可能性を感じて同意してくれた。しかし問題がないわけではなかった――この曲にはヴォーカルのフックがあるのだが、そこを名前のあるシンガーに歌わせたいというのがレーベル側の意向だった。スタジオでそのパートを歌ったのはジルだ。共作者でもあったのだから当然だろう。だがジルはまだスターではなかった。ソロ・アーティストとしてデビューさえしていなかった。レーベルは、ジルのかわりにエリカ・バドゥにこのパートを歌わせろと言ってきた。(略)誰がそのことをジルに切り出すのか?誰がすべての作業を投げ出してダラスまで行き、エリカのヴォーカルを録ってくるのか?

(略)

エリカは喜んで歌ってくれたが、耳のある人なら誰で言うことを言った。ジルの歌をはずすなんて、あんたたち、どうかしてるんじゃないの?ツアーに出ると、ジルは何ヵ月もライヴでそのパートを歌った(略)。

 ジルはまもなくソロ・アーティストとなり、2000年、デビュー作の『フー・イズ・ジル・スコット?ワーズ・アンド・サウンズVol.1』を出した。「ラヴ・レイン」はオレにとって、ピカイチのバラードだった。詩的で、遊び心があって、そしてときに胸が痛くなるような恋の歌。

(略)

 ジルのデビューから20年もたったなんて、信じられない。心のどこかでオレは今でも、スタジオで「ユー・ゴット・ミー」を作っている。