ジェームズ・ブラウン評伝

JB評伝としてより、同時代のミュージシャンや黒人運動についての記述の方が……。

売春宿を経営する叔母

に預けられたJBは、そこでタンパ・レッドに出会いミュージシャンを夢見たりもするが

 人々は伝道師ダディー・グレイスに喝采を送るため教会に押し寄せた。ダディー・グレイスは肉付きのよい大男で、爪に赤と青と緑のマニキュアを塗っていた。そして、たっぷりした祭衣を羽織り、小山のような体で説教壇上に威風堂々と立った。貫禄のある大きな顔は長髪に縁取られ、薄い口髭がよく似合っていた。長い手には手首に至るまであらゆるところに宝石が輝いていた。ダディー・グレイスは王様のようにお付きの一団を従えて移動した。運転手、ボディーガード、秘書、弁護士。近所の子供たちは魔術師でも見るような感嘆のまなざしをダディー・グレイスに向けた。
ダディー・グレイスはジェームズが初めて見る芸能スターだった。
(略)
ダディーは1960年、自らが所有する館で死んでいるところを発見された。85室を擁する立派な建物で、内部は赤や青、白に塗られており、まるで宮殿のようだった。数ある広間は、明王朝時代の壷、彫刻、名画、豪奢な中国の絨毯で飾られていた。奥には広大なダンスホールがあり、マスコミは、ここで行われる「エロティックなミサ」についてあれこれ書き立てていた。
(略)
ダディーはプールサイドを歩く。このプールで洗礼を受ける者の体には「救世主」が入るのだ。ダディーの前に額ずくため、若者、子供、老人、浮浪者が長蛇の列を作る。陶酔した群集はプールの聖水を飲もうとする。(略)
ジェームズは幾夜夢見たことだろう。高いところに据えられた貴人用の椅子に坐り、女性や召使を周囲にはべらせている自分の姿を。

リトル・リチャード

牧師の息子だったリチャードの歌手人生は、やはり教会でゴスペルを歌うことから始まった。やがてリチャードは家を出たが、理由はわからない。リチャードの同性愛が原因だったとも言われている。リチャードはミンストレルに加わり、女装して全国を巡った。神の言葉を告げる予言者ドクター・ノビリオに仕えていた時期もある。(略)その後、「ドクター・ハドソン」と称する詐欺師に雇われた。ハドソンが道端で蛇の油を売るとき、リチャードはルイ・ジョーダンの「カルドニア」を歌った。リチャードは、興行師のクリント・ブラントレーと出会ったことによって漂泊の生活から救われた。そうでなければ恐らく悲劇的な結末を迎えたことだろう。(略)
[55年リチャードのステージの幕間にJBとボビーは乱入して売り込みに成功、クリントはフレイムズだけじゃ短すぎるとフェイマス・フレイムズと命名]

キング・レコード

[40歳までどん底だったシド・ネイサンは半値で買ったレコードやジュークボックスの在庫で始めた店が当たり、やがて自主制作を始め、1934年にキング・レコード誕生。当時は音楽家組合の力が強く]
独立系のレーベルはロイヤルティーの高騰についてゆけなかった。(略)シドはセミプロのカントリーミュージシャンを探した。[メジャーが手を出さない]「ディープサウス」のプア・ホワイトをターゲットにするつもりだったのである。(略)
彼は、アパラチア山脈一帯やフロンティアの町で活躍している優れたミュージシャンを発掘した。1948年にベンジャミン・「ブル・ムース」・ジャクソンの「アイ・ラヴ・ユー、イエス・アイ・ドゥ」を発売し、これがキングの初ヒットとなって50万枚を売り上げた。シドの目算に狂いはなかった。地方出身の白人は正統的なヒルビリーに反応した。(略)
 キング・レーベルの好調に気をよくしたシドは、黒人大衆をターゲットとするレーベルを新たに設けてクイーンと名付け、ここからブルースとゴスペルを発表した。このプロジェクトは二年で終わったが、シドはそれ以後もいわゆる「エスニック」音楽の振興に努めた。(略)
1950年に[完全な裁量権を与えて]ラルフ・バースをプロデューサーとして迎えた。ニューヨークはブロンクス生まれの謹厳な雰囲気の男だ。(略)ブラック&ホワイトとキャピトルの両レーベルで働き(略)T−ボーン・ウォーカーをプロデュースした。
(略)
ラルフは契約書と200ドルを持ってジョージアに向かった。長いキャリアの中で、これほど大きなリスクを冒したことはなかった。(略)フロントガラスに氷がついて見通しが悪くなった。車は深い夜の中を滑っていった。純白のシーツが黒い丘を覆っていた。(略)ラルフは濡れ鼠だった。睡眠不足の目に黒い顔、顔、そして好奇の視線がちらついた。黒人たちは、大学教授のような風体の白人が現れたことに驚いているのだ。ラルフは坐り、黒っぽい上着を着た六人の男を観察した。ラルフの目はボーカルのジェームズ・ブラウンに釘付けになった。ジェームズは燃え盛る炎のような声で歌いながら、柔軟でエネルギッシュなステップを踏んでいた。
[しかし小皇帝シド・ネイサンはフェイマス・フレイムズも曲も気に入らず遂にはラルフを解雇。それでもラルフは「プリーズ〜」発売を敢行、100万枚のヒットとなり、再雇用された。]

リトル・チリャード引退

[キングで冷遇されていたJBにチャンス到来。信仰の道に入り引退したリチャードの代役ツアー]
プロモーションにこんな文句が使われた。「ジェームズ・ブラウン――成功と腕のいい床屋を求めて南からやって来た野性児」。後にジェームズも認めている。「俺の髪があんまりぼさぼさだったものだから、見ている人は船酔いしたものだよ」。ジェームズは[ビリー・ワードに倣って]グループを厳しく管理しようとした。(略)ビリーは1943年に軍隊の楽団を指揮し、その経験を通じて規律を厳守するという感覚を身につけた。ビリーは後に結成したドミノズに同じルールを課した。(略)ショーのたびに軍隊式の服装点検が行われたのである。ジェームズは昔から軍隊に憧れていたこともあって、ビリーを尊敬していた。ジェームズは、子供の頃に見た、オーガスタの通りを闊歩する兵士の姿を思い出していた。なんと素晴らしいいでたちだろう。ピカピカの靴、眩いゲートル、ぴんとアイロンがきいた上着……。ジェームズ少年は兵士たちのために歌い、踊った。(略)この厳格な組織を音楽にも取り入れたらどうだろう。

キューバ危機とアポロ劇場

[真の姿を伝えるためにライヴアルバムを提案するも例によってシドは却下。そこでJBは自腹5700ドルでアポロを借りた]
ジェームズはアポロ劇場のスタッフに厳しい規律を課した。座席案内人はタキシードの着用を義務づけられ、ホールの内部はジェームズの好みで飾り付けられた。(略)彼は自分の歌手生命がこの数日にかかっていると感じ、ショーに埋没した。この頃、キューバからは危急を告げるニュースが届き、この島国とアメリカ合衆国の間に緊張が高まっていた。核兵器がこの世を黙示録に変えてしまうなら、恐らくこれがジェームズの最後のコンサートになるだろう。苦悩と危機感がジェームズを圧迫した。

ブーツィー・コリンズ

ジェームズは僕に音楽の規律を教えたが、ジョージ・クリントンは僕に正気を捨てろと教えた