ミュージック・イズ・ヒストリー クエストラヴ

71年9月はどんな意味を持っていたのか

その月の大事件はアッティカ刑務所で起きた暴動だった。(略)映画『狼たちの午後』の、銀行の外に集まった群衆を鼓舞する「アッティカ!」の連呼は多くの人の記憶に残っているだろう。だが実際のストーリーはもっとずっと複雑で、血なまぐさい。状況改善を求めた囚人たちが刑務所を占拠。当初は要求のほとんどは受け入れられたものの、恩赦の保証をめぐって事態が紛糾した。ネルソン・ロックフェラー知事はこの時点で刑務所の統制回復のため州警察を投入し、看守・職員10人、受刑者33人の計43人が命を落とした。

 アッティカは独立した事件ではなく、ジョージ・ジャクソンの一件から派生した反乱だった。時を遡る70年、当時カリフォルニア州ソルダッド刑務所に服役していたジャクソンは、囚人の殴り合いに気づいた白人看守オーピー・G・ミラーがほとんど黒人ばかりの受刑者たちに向かって発砲し、3人を殺害したのを目撃した。しかし大陪審は3日後、正当防衛による殺人だとしてミラーを無罪放免にした。それから1時間もたたないうちに、ソルダッドの看守ジョン・ヴィンセント・ミルズが、殴打されたあと3階の窓から投げ捨てられるという事件が発生。ミルズはその後死亡し、ジャクソンを含めた3名の受刑者が殺人罪で起訴された。3人は「ソルダッド・ブラザーズ」と呼ばれ、ブラック・パワーや左翼系活動家のシンボルとなった。以降数ヵ月にわたって、受刑者はほとんど黒人ばかり、看守はほとんど白人ばかりというカリフォルニアの刑務所での緊張は高まり続け、ふたりの看守が人質にとられ、ひとりが死亡した。そして70年8月、ジョージ・ジャクソンの17歳の弟、ジョナサン・ジャクソンがマリン・カウンティ裁判所で審理中だった上位判事のハロルド・ヘイリーに銃を突きつけ(のちに、ダイナマイトに見せかけた発煙筒を首に突きつけただけだということがわかったのだが)、さらに数名を人質にとり、兄を含めたソルダッド・ブラザーズ3人の釈放を求めた。(略)誘拐犯と人質を乗せたバンは警察の非常線にかかり、その場で激しい銃撃戦が始まってジョナサン・ジャクソンとヘイリー判事が落命した。

 ジョナサン・ジャクソンが使った銃を購入したのは、活動家であり元哲学科教授のアンジェラ・デイヴィスだった。彼女はその後収監され、殺人共謀罪を含む容疑で裁判にかけられたが、無罪となった。ジョージ・ジャクソンは刑務所での書簡集『ソルダッド・ブラザー』を上梓し、弟の事件から1年と2週間後、サン・クエンティン刑務所からの脱走を試みて死亡。この事件では看守3人と受刑者2人も亡くなっている。一連の出来事はポップ・カルチャー、特にポップ・ミュージックに波紋を起こした。

1971 歴史の輪に引きのばされ

60年代の大部分、トニー・ウィリアムズはマイルス・デイヴィスのドラマーをつとめていた。つまり、マイルスのふたつめのグレイト・クインテットの柱だったってことだ。(略)

オレはこのアルバム[『ネフェルティティ』]を、真性ジャズ・マイルス最後の作品だと思っている。契約上ほとんどしかたなく作ったような感じ。そのことはマイルスのプレイからも、アルバムの構成からも感じられる。マイルスは退屈している。先へ進んで「ニュー・ディレクションズ・イン・ミュージック」のさらに新しい形を見つけたいと思っている。それでもまだ同じ地点に立っていなければならないという苛立ちや怒りを最もよく伝えてくれるのは、タイトル曲だろう。ジャズはドラムとベースが土台になって、鍵盤やホーンがまわりを踊る、という音楽だ。少なくともそれが通常の考えかただろう。しかしマイルスはその形をすっかり逆転させてしまう。マイルスとショーターは中心となるテーマをくりかえす。ほとんど8分間、イヤになるくらい、ソロ、なし。いっぽうロン・カーターとトニー・ウィリアムズはこのバラードが終わるまでずっと、アニメ『ルーニー・チューンズ』のタズマニアン・デヴィルのごとき暴れっぷりだ(略)。マイルスとショーターがテーマをくりかえすたび、恐れや退屈、皮肉、勇者の疲労感が伝わってくる。テーマは11回くらいくりかえされたはずだが、5、6回目にはもはや、コメディアンのアンディ・カウフマンの映画のようだ。試されるのは聞き手の忍耐力であり、なぐさめはトニー・ウィリアムズとロン・カーターが走りまわってくれることだろう。瀬戸物屋で追いかけっこをする犬と猫さながらだ。

(略)

1972 音楽はメッセージ

『スーパーフライ』は誰もが認めるヒット作となった。しかし、主に舞台俳優として活躍してきたロン・オニールが(略)ヤングブラッド・プリーストを演じたことを非難する人たちもいた。特にブラック・ピープル。全米有色人種地位向上協会ハリウッド支部のリーダー(略)だったジュニアス・グリフィンは、この映画が暴力や薬物使用や犯罪者的人生を美化していると憂慮した。いや、憂慮しただけじゃない。実際、こんなふうに疑義を呈した。「いわゆるブラック・ムービーという一連の作品を、子供たちの目に何度も触れさせるわけにはいかない。この手の映画は黒人男性をポン引きやクスリの売人、ギャング、超男性として美化するものだ」。CORE(人種平等会議)などの団体は『スーパーフライ』の公開を阻もうとし、すでに公開中の映画館に対しては上映中止を求めた。ほかの団体も白人支配の明白な象徴だと非難したし、そこまで言わなくても、白人権力が黒人をひとつのイメージにあてはめようとし、黒人がそれを受けいれてしまった典型的な例だと攻撃した。だがその他大勢の人々はこの映画に魅了され、興奮し、啓発的だとさえ感じた。

(略)

ここで、文化が社会に与える影響をめぐってすばらしい論点が生まれる。反社会的なロール・モデルの魅力とは何か。社会的なロール・モデルの不在によって作られた真空地帯を、反社会的なロール・モデルはどうやって埋めるのか。映画ではなくサウンドトラックについて語ることで、この議論に焦点を合わせてみよう。(略)

歴史からこぼれ落ちて

「シャフト」には少なくともふたつの意味がある。ひとつはもちろん映画のタイトル。そしてもうひとつは「トゥ・ゲット・ザ・シャフト」、つまり下に見られたり不当な扱いを受けたり、という意味だ。このリストには1972年だけでなく、いろんな時代の曲を集めてみた。発表当時正当な評価を与えられず(略)大衆の記憶からこぼれ落ちてぼれ落ちてしまった曲。だが名誉回復に値するリストだと思っている。

(略)

 

「ウィスパー・ソフトリー」クール&ザ・ギャング

『オープン・セサミ』1976

 クール&ザ・ギャングほどオレが研究したバンドは、ほかにない。彼らの場合ジェームス・ブラウンとは違って、低迷期と呼ばれた時代(1975-1979)に意欲的な作品を作ったりしている。このアルバムのどこを聞いても、彼らは陽気なバカ騒ぎを忘れず、同時に、音楽的なアタマのよさを感じさせてくれる。バンドのサックス奏者だったカリース・ベイヤンはレーベルと揉めたときのことをオレに教えてくれたのだが、そのときの話によれば、この曲はコルトレーンのスケール理論を4つ打ちのビートに応用したものなんだそうだ。

(略)

「リーチ・ユア・ピーク」シスター・スレッジ

『ラヴ・サムバディ・トゥデイ』1980

目立たないながらも魅力的なキーボード・プレイを見つけだすのは、実に難しい。ポスト・ディスコの時期ならなおさらだ。「リーチ・ユア・ピーク」みたいな曲だとオレは、ナイル・ロジャースのギターがやっていることより、コーラス部分のレイモンド・ジョーンズのファンキーなキーボード・ワークにまず耳をそばだてる。それ自体が記念碑的なプレイなんだ。(略)

オープン・セサミ

オープン・セサミ

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「奇妙な果実」

1930年代後半、エイベル・ミーアポルという男性が、ブロンクスのデウィット・クリントン高校で英語を教えていた。断言するが、この学校はアメリカで最も重要な公立高校のひとつだ。ミーアポルは同校を卒業してから教師として戻ってきた。教え子にはジェームス・ボールドウィンがいた(略)。

 37年、ミーアポルは新聞に掲載されたリンチの写真に触発され、一篇の詩を書いた。最初は「苦い果実」と題されていたその詩は、37年1月、教職員組合が発行する雑誌に掲載された。そこには鮮烈なイメージと、ショッキングな詩情があった。「葉についた血」や「根にこぼれた血」という言葉。そして「黒い体が南部の風に揺れている」という部分。なまめかしく、官能的で、かつ残酷だった。「苦い果実」の評判が高まりつつあったころ、ミーアポルはひとつのことに気づいた。この詩は歌にしたほうがいいんじゃないか。妻の助けを借りつつメロディをつけると評判はさらに高まっていき、ニューヨークやその周辺で演奏されるようになった。ローラ・ダンカンという黒人シンガーがこの曲をマディソン・スクエア・ガーデンで歌ったのは38年のことだ。そこから先の話はいささか曖昧になる。少なくとも、互いに矛盾するいろんな説がある。

(略)

オレたちにわかっているのは、ホリデイが楽譜を手に入れたとき、それを見たジョセフソンがクラブや聴衆にアピールするための演出を始めたということだ。彼にとって「奇妙な果実」は、炸裂する文化爆弾のようなものだった。ジョセフソンはいくつかルールを作った。まず、「奇妙な果実」をセットの最後の曲にすること。ホリデイが歌い始める前に、食べ物や飲み物はオーダーストップにしておくこと。彼女の顔を照らすスポットライト以外、店の照明はすべて落としておくこと。そうやってホリデイはこの曲を歌い始めた。そこから先は皆さんもご存じの(ある程度は検証可能な)歴史だ。

 

Live at Carnegie Hall

Live at Carnegie Hall

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ビル・ウィザース

 ビル・ウィザースはホントの意味で、オレの最初のアイドルだった。彼の経歴はどこかでオレの個人史と重なっている。デビュー作の『ジャスト・アズ・アイ・アム』が出たのは7年5月。オレが生まれて4ヵ月後だ。(略)

彼の音楽や声は地球と同じくらいダウン・トゥ・アースだった。ブラック・アーティストというのは、常軌を逸した才能を持っていると、エイリアンのような異世界の存在だと見なされたり(マイケル・ジャクソン、プリンス)、ストリートから飛びだしてきて動物的本能を捨てられずにいるゴリゴリのハスラーだと見なされたりする(ヒップホップを見よ)。だがウィザースはどちらのタイプとも違った。どこにでもいるブラックだった。崇高で、繊細で、ソウルフルなシンガー・ソングライター。普通の人生のシンプルな真実を理解し、それを伝えることのできる男。

(略)

「エイント・ノー・シャイン」「リーン・オン・ミー」「ユーズ・ミー」――彼がシンプルになりすぎないシンプルさをもって人間の感情を語っていたことに気づかされる。(略)オレはウィザースを「ブラック・スプリングスティーン」と呼んできた。ヘタなジョークだが、ある程度的を射ているんじゃないだろうか。ファースト・アルバムのジャケットを見てほしい。仕事場に持参したランチボックスを手にしている。彼はレーベル契約をしてからもメカニックとして働いていた。

(略)

[『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』]

オレはこのレコードを最後の一秒まで記憶している。今でも「グランマズ・ハンズ」の歌に入るまでの2分半のしゃべりをソラで言えるくらいだ。

(略)

ハイライトのひとつは「アイ・キャント・ライト・レフト・ハンデッド」だろう。(略)

彼は、戦闘中に受けた怪我で苦しむ若い兵士の物語を綴る。イントロのラップで触れられるのは、この曲が録音されて発表されるまでのあいだに戦争が形式的には終結したこと(実際にはその後数年ずるずると続くのだが)。彼がこの曲を公式な形でアルバムに収録しようとしていたのかどうかはわからない。結局スタジオ作には未収録のままだった。はっきりわかるのは、この曲が負傷した兵士の立場から歌われるということだ。歌い出す直前、ビルはこう言う。「やつは泣いたかもしれない。やつはこう言ったかもしれない……」そうして歌へとなだれこむ。

 この曲を深読みしたりはしたくない(その必要もない)。だがここにあるのは率直で気取りのないひとつの見識だ(驚くべきことじゃない)。そしてこの曲は、黒人が軍隊という場所で体験した多くのことを、ほんの短い時間に詰めこんでみせる(こっちは驚くべきことかも)。歌の中の兵士は自分のために祈ってほしいと牧師に言い、弟の入隊を延期してくれと家族の顧問弁護士に頼む。最後に来る結末は、映画でさんざん見せられてきたものに比べれば――踏んだとたんに炸裂する地雷、ダダダダダと限りなく続く銃声、撃墜されたヘリコプター――ささいなことに思えるかもしれないが、母親に手紙を書くことを妨げる、それなりに不自由な結果で終わる:右肩を撃たれたのだ。

 

 J・ディラの死後、オレはザ・ルーツ以外のアーティストをプロデュースすることに興味を失ってしまった。人生は短い。だが同時に、プロデュースしておかなければ永遠に後悔するプロジェクトのリストも、頭にチラつくようになった。(略)トップにあったのがビルの名前だった。ビルは80年代なかば以降、録音をおこなっていなかったし、後期の数作だって絶好調だったわけじゃない(略)。そこでウィザースにアプローチ、というか、彼の知り合いにアプローチしたのだが、興味はないという返事がかえってきただけだった。ビルの心変わりを待っているあいだに、オレはアル・グリーンとレコーディングし、グラミー賞を3つもらった。これでビルもひっかかるんじゃないか?だが甘かった。オレはブッカー・Tとも仕事をした――ブッカーはビルのことを知っていた。71年、ビルのファースト・アルバムをプロデュースしたのはブッカーだ。またもやグラミーがもらえた。またもやビルは無反応だった。

 最後の最後の試みは「アイ・キャント・ライト・レフト・ハンデッド」をめぐるものだった。(略)2010年、ザ・ルーツジョン・レジェンドと作った『ウェイク・アップ!』でその曲を録音した。

(略)

 オレたちのカヴァーはビルを隠れ家から誘いだした(略)ビル・ウィザースの友人だった元NBAスターのビル・ラッセルが(略)スターバックスでオレたちのヴァージョンを聞き、オレたちのことを調べ、ビル・ウィザースに知らせてくれた。「これ、いったい誰だ?」と彼は言ったらしい。その後ウィザースはオレたちのヴァージョンを手に入れてすばらしいEメールを送ってくれ、そういったことがすべて重なって、ザ・ルーツのロサンゼルスでのライヴをついに見に来てくれる運びとなった。終演後、彼は楽屋に姿を現した。70歳を超えていたはずだが、10歳は若く見えた。最初は無口だったけれど、次第にいろんな話をしてくれるようになった。そのあいだじゅう、オレはふたつのことだけを考えていた。(1)今オレの目の前にいるのは、あのビル・ウィザースだ。(2)今オレの目の前にいるのは、これまでずっとオレといっしょにやることを拒んできたあのビル・ウィザースだ。話のあいだにふとした間が生まれた。オレはその隙を逃さずに伝えた。あなたの作品はこれまでずっと重要な役割を果たしてきたし、それは今でも変わらない。あなたの作品をこのまま歴史に埋もれさせてはいけない。なのにこのままだと、あなたが歴史からこぼれ落ちてしまう可能性だってある。何をしゃべったのか、はっきりとは覚えていない。だが、とにかくボールを投げてみた。

 だが彼は投げられたボールを見送った。静かに、じっと動かず、注意深く。

「ノー」。彼はそう言った。

 

全体か一部か

「シー・ザ・ライト」アース・ウィンド&ファイアー

ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド/暗黒への挑戦』1975

(略)ここではすべてが美しい。Dマイナーで8分の7拍子のイントロ。特にホーン・アレンジが野生の象みたいに走りまわっている。だがここにはいろんな断片があって(チャールズ・ステップニーがロータリー・コネクション時代に培った手腕を見せる)、すべてが均等ではない。長いドライブをしながらこの曲を聞いていると、本当の意味で風景が感じられる。

(略)

「チョコレート」ザ・タイム

『パンデモニアム』1990

 ディアンジェロのアルバム作りでオレたちは、ドンカマをプログラムし、そのあと酔っぱらってメトロノームのまわりを踊るようにしてリズムパターンを作ったりした。プリンスはその逆をやっている。すべてカッチリ作っておきながら、ハンドクラップのようにシンプルな音で人間的要素を披露する。

「サー・デューク」

 スティーヴィー・ワンダーに深い影響を与えた3人目のミュージシャンは、デューク・エリントンだった。(略)

 「サー・デューク」(略)「ベイシー、ミラー、サッチモがいて、すべての王、サー・デュークがいる/エラの声が響きわたれば、バンドは失敗なんてしない」

(略)

[74年5月エリントン死去]

ティーヴィーが『ファースト・フィナーレ』を発表したのはその2ヵ月後だ。(略)ファースト・シングルが「ユー・ハヴント・ダン・ナッシン[あんたはなんにもやってない]/悪夢」だった。彼はバック・ヴォーカルにザ・ジャクソン5を引き連れ、堂々とリチャード・ニクソン批判をおこなった。ニクソンが奈落の底に沈んだのはあたりまえ。

(略)

 アルバムが出たのは7月。シングル・リリースは8月7日。ニクソンの辞任は8月9日だった。こりゃありがたい!曲はすぐにチャートを上がり始め、11月には1位へ。同じ週におこなわれた中間選挙では、ウォーターゲートで打撃を受けた共和党に対し、民主党が大勝した。

 『ソングス・イン・ザ・キー・オブ・ライフ』(略)

「ブラック・マン」はアメリカの人種的多様性に関する集中講義だ。曲が終わりに近づくころ、訓示的なブレイクダウンが聞こえてくる。スティーヴィーが著名なアメリカ人の名前を挙げていき、そのたびにバックコーラスの子供たちがその人の人種を明らかにしていく部分だ。(略)

開拓時代にルイス・アンド・クラークを助けたサカガウェアは「レッド・ウーマン」。首都設計に携わり最初の暦を作ったベンジャミン・バネカーは「ブラック・マン」。脳神経外科のパイオニアだったハーヴィー・ウィリアム・クッシングは「ホワイト・マン」。

(略)

 エリントンが芸術的なレベルでブラック・アメリカの象徴として讃えられる、というのは、納得できる話だ。しかし政治的なことになると、話は複雑になる。彼の作品にはいつだって、社会正義や人種平等への願いがこめられていた(41年のミュージカル『ジャンプ・フォー・ジョイ』は時代の遙か先を行くものだった)。若いころは共産主義に共感を示したこともあった。にもかかわらず、エリントンは生涯、共和党支持者だった。(略)テリー・ティーチアウトはエリントンの伝記『デューク』にこう書いている。「広く知られていることではなかったし、それは今でもそうなのだが、事実彼は……生涯共和党支持者だった」。(略)もちろん、今ここで言っているのは当時の共和党だ。そのころの共和党には現在の民主党と重なる部分があった。今「共和党」というコトバを聞くと、思い浮かべるのはMAGA(略)だが当時は違った。デュークが名声を誇っていた40年代、50年代、そして60年代、民主党の大統領は彼と一定の距離を保った――デュークだけでなく、多くのブラックの有名人ともそうだった――民主党体制を支えていたのが南部だったからだ。1934年、ホワイトハウスでの演奏に際してエリントンは民主党大統領ルーズベルトのために序曲を作った。反応は、よく言っても冷ややかなものだった。やはり民主党の大統領だったケネディが暗殺されたあと、彼は自分のオーケストラで追悼曲を演奏することを思い立ち、再びワシントンに打診した。ホワイトハウスは無反応だった。

(略)

43年、ホワイトハウス詣でをあきらめ、カーネギー・ホールで最新作『ブラック、ブラウン・アンド・ベージュ』を初演。「私たちはこれをアメリカン・ニグロの歴史に呼応するものだと思っています」と彼はコンサートで言った。「そしてもちろん、これは長い物語です」。3つの色が示していたのは、肌のトーンの違いだけではない。色が明るくなるにつれて歴史的な苦しみも変化する、という意味だ――ブラックのセクションは奴隷制について。ブラウンは奴隷解放アフリカ系アメリカ人の軍事貢献について。そしてベージュは現在(今ではそれも遠い過去だが)。希望は見えてきたがまだ悲惨な面もある時代について。

 反応はヌルいものだった評論家たちも賛否両論。しかしそんな彼らも、「カム・サンデイ」というセクションのすばらしさだけは認めざるを得なかった。アフリカ系アメリカ人の生活の中心にあった教会と、その役割を表現した部分だ。エリントンは『ブラック、ブラウン・アンド・ベージュ』をその後15年間寝かせておき、その間ついにホワイトハウスを訪問。ピアノは弾けたがジャズ・ファンではなかったハリー・S・トルーマンと会見した。『ブラック、ブラウン・アンド・ベージュ』をアルバムとして発表したのは1958年。ヴォーカルを担当したのはマヘリア・ジャクソンだ。63年、今度は「カム・サンデイ」を仕立てなおして(別のセクション「ザ・ブルース」とともに)、アフリカ系アメリカ人のを歴史をテーマに作ったステージ・ショウ『マイ・ピープル』に組み入れた。ショウが上演されたのは、シカゴの「黒人進歩の世紀」という博覧会でだった。奴隷解放宣言署名100周年と、高まりつつあった公民権運動を讃えた博覧会だ。

(略)

キング牧師暗殺事件(略)

黒人下院議員だったジョン・コンヤーズはすぐに、キングの誕生日を国民の祝日にすべきだと発案した。そんなの議論するにもあたらない、と思うだろう?ところがその案は当初、問題が多すぎると見なされ、その後、問題にもされなくなった。いくつかの州(イリノイコネチカットマサチューセッツ)が個別に休日にしただけ。全国的な決定はおこなわれなかった。70年代の終わりにも、キング牧師の未亡人(略)連邦議会へ向かったものの、議案は下院で審議されるにとどまった。

 そこでお助けマン、スティーヴィーの登場だ。80年の『ホッター・ザン・ジュライ』(略)精神的なアルバムの柱となっていたのは「ハッピー・バースデイ」だった。キングとその遺産を讃え、国民の祝日案をついにゴールラインへ押しこむために作られた曲。大成功だった!スティーヴィーとコレッタ未亡人は600万人分の署名を集め、下院議長ティップ・オニールに嘆願書を提出。88年11月、ロナルド・レーガンが署名して法案は成立した。

 

 レーガンがようやくキングの祝日を認可したとき、スティーヴィーはどんな気持ちだったんだろう。そして何より、リチャード・ニクソンがデューク・エリントンに大統領自由勲章を授与したときは、どんな気持ちだったんだろう。(略)

ニクソンは実はちゃんとピアノの弾ける人であり、61年、テレビの『ジャック・パー・ショウ』で腕前を披露したくらいだった(略)。ニクソンホワイトハウスイーストルームにある(略)スタインウェイのグランド・ピアノに向かい、エリントンのためにぶっつけで「ハッピー・バースデイ」を弾いてみせた((略)昔からあるあの曲だ)。

 そのあとでフォーマルなコンサートが開かれ、エリントンの代表曲が披露された。中にはキング・トリビュートではなく、「カム・サンデイ」もあった。(略)

最後はジャム・セッション。ディジーガレスピーベニー・グッドマンアール・ハインズという錚々たるメンバーが参加し、演奏は真夜中をかなり過ぎるまで続いた。ホワイトハウスで大盛り上がりのジャズ・パーティー?おまけに大統領は共和党?想像するのは難しい。でも、楽しい。

 エリントンとニクソンの――少なくともニクソンアメリカの――ダンスはそれからもしばらく続いた。71年秋、ニクソンデタント政策を支援するため、エリントンは17人編成のバンドを引き連れ、ソビエト連邦へと旅立った。

(略)

 ニクソンはエリントンのファンであり続けた。エリントンが亡くなったとき、ニクソンはこんなコメントを発表している。「ウィット、趣味のよさ、知性、エレガンス。デュークはそういったものを音楽にもたらし、そのせいで、国内外のいかなる人々から見ても、アメリカ最高の作曲家となった。デュークがいなくなった今、我々は誰しも以前より貧しくなってしまった」。

 これってたぶん、ニクソンだって「何かをやった[ドゥーイング・サムシン]」ってことなんじゃないだろうか。

 

1977 フューチャー・トゥ・ザ・バック

『スター・ウォーズ』に先だって、この年の初頭に特大級のヒットとなった『ルーツ』(略)

総視聴者数は、人口2億2千万人のアメリカで1億3千万人。(略)

全部の回を見た。単に見たんじゃない。ムリヤリ見せられた。黒人家庭の子供たちはこのドラマを見ることを強制された。中には感想文を書かされたケースだってあった。6歳だったオレには、見ているものを完璧に理解することなんてできなかったが、過激なシーンは今でも脳裏に焼きついたままだし、ドラマのインパクトは衰えていない。このドラマからバンドの名前をつけたくらいなんだから!

(略)

避けようのない未来を拒むことなく過去を語るには、どうすればいいのか。過去を否定することなく大胆に前へ進むには、どうすればいいのか。ここ数年間、オレたちは過去への過剰な思い入れを目にしてきた――国民に向かって、我々がまたいろんなものを偉大にするんだとのたまったヤツだっていた。こんな調子だと、過去の亡霊や悪魔が甦ってくる。影にひそんでいたものが表に出てくる。

(略)

1977年の出来事でオレがもうひとつ覚えているのは、イリノイ州シカゴ郊外のスコーキーでナチがデモをおこなおうとしたことだ。覚えている、なんてのは実は錯覚で、数年後の映画『ブルース・ブラザーズ』でジェイク・ブルースが吐きてた「イリノイのナチなんか大嫌いだぜ」というセリフが印象に残っただけなのかもしれないし、映画のプロットのその部分が、ナチの行進を認めた最高裁の決定を受けて作られたものだと誰かに教えてもらったせいかもしれない。もしくはその1年くらいあと、ナチがデモ行進できるようになったという記事を読み、カギ十字を飾ることは物理的な暴力に等しいという考えかたが否定されたことを知ってしまったからだ。だがどちらにせよシカゴ郊外をきっかけにして、77年、クー・クラックス・クランの集会はあちこちで開かれた。アラバマ州モービルでは黒人による抗議デモとの衝突も起きた。

(略)

フェイズ・Oとオハイオ・プレイヤーズ

EPMDがサンプルした(略)フェイズ・Oはオハイオ・プレイヤーズから派生し、プロデュースもオハイオ・プレイヤーズのホーンだったクラレンス・サッチェルが担当していた。うねるような高音のシンセが入っていたのは「ライディング・ハイ」という曲だ。

(略)

 何年もたって、オレはオハイオ・プレイヤーズのドラマーだったジェームス・"ダイアモンド"・ウィリアムズと知り合った。(略)

当時、スタジオのレンタル代は高く、時間は貴重だった。スタジオにいられる時間は、レコード制作の一環として予算でしっかり制限されていた。だからひとつのバンドが休憩しているあいだ、ほかのバンドがこっそりスタジオを使うこともあったようだ。たいていの場合、こっそりスタジオを使うのは地元の後輩バンドとか、目をかけてもらっているデビュー前のグループだった。フェイズ・Oは、オハイオ・プレイヤーズが『エンジェル』を録音しているあいだ、休憩中にスタジオを使わせてもらったバンドだったわけだ。この手のバンドがスタジオに入る場合、スポンサーの提供した楽器や機材を使わなければならないという奇妙な慣わしがあった。先輩バンドが録音中なのだから、設定をあちこちいじることもできなかった。だがフェイズ・Oの場合、逆にそれがよかったのだと思う。音質に関して言えば、オレは『エンジェル』より『ライディング・ハイ』のほうが好きだ

 

1978 ディスコ・テク

ベトナム戦争が終わり、もしかするとさらに重要なことには徴兵制が廃止されたせいで、プロテスト系の音楽は抗議する対象を少しばかり失い、カーティス・メイフィールド、スライ・ストーン、ジェームス・ブラウンといったアーティストの作品に聞かれた社会的メッセージも勢いをなくしていった。問題がすべて解決したわけではない。むしろ逆だった。犯罪発生率は高くなり、薬物使用者は増え、経済が停滞し、人々は生活レベルをリセットしなければならなかった。だから現実を直視するのが嫌になってしまった。みんな、パッと行きたくなった。加えて、ゲイの権利や女性の権利もどんどん認められるようになった。パーティーの準備は整った。

 そしてパーティーが始まった。しばらくのあいだ、終わらなかった。大衆がさらにアゲアゲの気分になったのは、文化的ランドマークのせいでもあった――77年末に公開された『サタデイ・ナイト・フィーバー』。この映画は76年夏の『ニューヨーク』誌に掲載された1本の記事をもとにしたものだ。イギリスのジャーナリスト、ニック・コーンが書いた「新しきサタデイ・ナイトの部族儀式」という記事。コーンはこの中で、ニューヨークのディスコ文化と、ディスコとは縁遠い生活を送りながらクラブに集まってきた若者たち、特にブルックリンのベイ・リッジ地区のイタリア系アメリカ人たちを同時に描こうとした。コーンはディスコのことをよく知らなかったから、自分が若かったころ出会った北アイルランド、デリーの人々と比較しながら仕事を進めた。登場人物は架空の存在だった。この記事は何十年ものあいだジャーナリスティックな作品だと思われていたが、コーン本人が最終的にほとんどフィクションだったことを認めている。

 しかし、フィクションだって真実になりうる。記事は映画になり、映画は現象になって、主役だったジョン・トラヴォルタと音楽を担当したザ・ビー・ジーズのキャリアを成層圏にまで押しあげた。

(略)

ディスコのアルバムやシングルに向けられた批判のひとつは、どれも同じに聞こえるというものだった。(略)

正確に言えば、ディスコは商品であることを喜んで受けいれ、自らの意志で、似たようなテンプレートに乗っかった曲を次から次へと生みだしていったのだと思う。ロックンロールやソウルでは、強い個性でのしあがってきたスターの力量がモノを言ったが、ディスコは個の表現を捨てて情け容赦なき効率性へと走った。もちろんスターはいた――先ほども触れたザ・ビー・ジーズや、ドナ・サマー、シック――けれど、すばらしいディスコのレコードを作るのにスターなど必要なかった。ディスコ・サウンドの設計技師はカサブランカサルソウルといったレーベルであり、ラリー・ラヴァンやトム・モウルトンといったDJだった。(略)

スライ&ザ・ファミリー・ストーン「サンキュー」

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「サンキュー(フォレッテンミー・ビー・マイス・エルフ・アギン)」は音楽史の中で最も重要なファンク・ソングのひとつだ。最重要じゃなかったら、いったいなんなんだ。それはある意味、精神的な辛さとスターであることの危うさを歌った暗く深いスライの歌詞のせいでもあるし(略)

この曲が70年の『グレイテスト・ヒッツ』にボーナス・トラックとして収録されていたからかもしれない。アーティストってのは普通、こんな形で自分の代表作を世に出したりしない。だからスライはこの曲を次のアルバム『暴動』で「サンキュー・フォー・トーキン・トゥ・ミー・アフリカ」として再録したりしたのだろう。テンポを落として雰囲気をさらに暗くしたセルフカヴァーだった。しかし「サンキュー」が重要である最も大きな理由は、この曲がEマイナーを神格化したことだ。

 この曲のキーがEマイナーだったせいで、ほかの無数の曲のキーもEマイナーになった。この曲の前に、このキーのダンス・ソングはほとんどない。この曲のあとに、このキーでないダンス・ソングはほとんどない。当然だろう。第一に、Eマイナーは初心者のベース・プレイヤーにとっていちばん弾きやすいキーだ。ナチュラルにファンキー。そこに居つづければ心ゆくまでビートに乗っていられる。だがそのせいで生じるリスクもある。スライが立てた旗は単純明快ではない。Eマイナーで書かれた曲の多くは、あまり曲とは言えない。ダラダラ続くリフ。減退する効果。メロディを見つけることを忘れたグルーヴ練習。Eマイナーってのはオレに言わせれば、映画『テルマ&ルイーズ』に出てきたような崖からジャンプしまーす的キーだ。やってみるのはいい。だがほとんどの場合、谷底へ真っ逆さま。

1980 ティーチ・ザ・チルドレン

スティーリー・ダンの「ヘイ・ナインティーン」(略)この歌の中で語り手は、年下のガールフレンドに鼻高々な感じでポップ・カルチャーの解説をしようとする。「ヘイ・ナインティーン、あれが(ア)レサ・フランクリン/でも彼女はクイーン・オブ・ソウルを覚えてない」。もちろんここが歌詞のキモだろう。

(略)

 この曲に関して、オレの思いはぐるぐる回ってきた。最初は笑える歌だと思った――「ヘイ・ナインティーン」と呼ばれる女の子がオカシかったからだ。その後違う感想を持った。誰かがパーティーでしゃべっていることを歌ったような歌。ほぼありえない話。だってこの歌が世に出たのは2280年ではなく1980年だ。いくら17歳だって、(ア)レサのことくらい知っていたはずだろう。彼女を知っているかいないかが問題になるのは、ほかの理由があるからだ。

 その後語り手の年齢域に達すると、オレはすべてを考えなおした。「ヘイ・ナインティーン」が本当に年上のボーイフレンドの話を理解できなかったのだとしたら、どうだろう。そういうケースだってあるんじゃないか?

(略)

オレにも、新聞のニュース欄なんて読まない時期があった。別に恥ずかしいことじゃない。自分の中に沈潜していこうとする10代の若者や、レコード業界でブレイクを目指す20代の青年なら充分あり得ることだろう。また今のオレにはどうがんばっても、新人をすべて知ることなどできない。「ヘイ・ナインティーン」に知らないことがあったのだとしても、それを責めるのは語り手にとって天に唾するようなものではないのか。責めるオマエに盲点はないのか。

(略)

物語の外の問題もあった。少なくとも、この曲を聞いたアレサ・フランクリンは(略)激怒し(略)訴訟さえ考えたそうだ。

 妹のキャロリンには姉の怒りが理解できなかった。(略)おそらくこう言って説得しようとしたはずだ。(略)アレサをバカにした歌ではない。むしろ、讃えられてしかるべき文化アイコンとしてアレサをとりあげた歌だ。するとアレサはこう言って反論しただろう。わたしはずっとポップ・スターとして生きてきた。ソウル&ヴォーカル・ミュージックの伝統の保護者でもあるけれど、それよりもまず、最新のトレンドをとりいれてきた商業アーティストだ。そうじゃないなら、どうしてプロデューサーを次々と変えてきたわけ?カーティス・メイフィールド、ヴァン・マッコイ、ルーサー・ヴァンドロス、ナラダ・マイケル・ウォルデン。(略)このころのアレサは約1・5枚にひとりの割合でプロデューサーを変えていた。望んでいる形でヒットが出なければ――彼女にとって70年代終わりから80年代にかけてはそういう時代だった――さっさと次へ進んだ。アレサはこう思ったにちがいない。「ヘイ・ナインティーン」はわたしを引き合いに出しながら、趣味のよさとか才能とか、そういうことを言いたかったんだろう。それはいい。だが、若いガールフレンドの興味を惹かないようなら、もともとの目的は果たせていないではないか。それだけではない。年上のボーイフレンドは「ヘイ・ナインティーン」に向かって虚勢を張り、なんとか優位に立ちまわろうとしている。ってことはこの男、いつか自分が捨てられるんじゃないかと恐れているのかもしれない。だったら、わたしの身に同じことが起きても、なんの不思議もないはずだ。

(略)

『ステラが恋に落ちて』という映画、ご存じだろうか?(略)

アンジェラ・バセット演じる40歳の女性ステラは休暇でジャマイカに遊びに来て、テイ・ディグズ演じる若い男と出会う[が](略)つきあえないんじゃないかと悩む。母親でもおかしくない年齢(略)であるだけでなく、育ってきた文化的背景がまったく違うからだ。友達とならマーヴィン・ゲイや『ソウル・トレイン』やスケートの話で盛りあがれる。でもウィンストンとはムリだ。

(略)

[友人の]ヴァネッサは目の前で続く都会の暴力に疲れきっている。「クソッタレどもがまだあっちこっちで死にまくってんのよ(略)救急医療で働くの、ホント、うんざり。だって、ギャングが殺し合いしてんだもん。こんなバカなことがもうどれくらい続いてるか。あたし、もうヤだ。マジで」。

 するとステラは、歴史の大切さを教える超一級品の答えを披露する。(略)

 

今のアホウみたいな親たちって、みんなベイビー・ブーマーでしょ?(略)だからマルコムだとかマーティンのことははっきり覚えてるはずだし、子供たち――特に息子たち――に、何がどうなってるんだか、ちゃんと教えてあげるくらいのことはしていいはずよ。もし教えてたら、若い子たちも街のあちこちで脳みそを吹き飛ばしあったり、刃物で殺しあったりしてないと思う。(略)『マルコムX自伝』を課題図書にすればいいんだよ(略)

 

何がどうなってるんだか、子供たちに教えてあげることの重要性。ここで「ヤング、ギフテッド・アンド・ブラック」を引用しておくことには、意味があると思う。アレサの72年のアルバムのタイトル・ソングだが、オリジナルはニーナ・シモンだ(彼女は60年代なかば(略)マルコムXの家族の隣に住んでいた)。歌詞を書いたのは作曲家でもあり劇作家でもあったウェルドン・アーヴァイン。ニーナはそこにぴったりのメロディをつけた。「ヤング、ギフテッド・アンド・ブラック」は若い世代の意識向上を目指して作られた歌だ。自分の才能にスポットライトを当て、可能性を知り、「すごく暗い気分」のときも前へ進んでいこうという歌。

 アーヴァイン/シモン/(ア)レサが教えてくれるのは、教育が大きな意味で緊急課題を抱えているということだろう。嫌味な年上のボーイフレンドが辛抱強い年下のガールフレンドに何かを教えようとしている場合でも、ベイビー・ブーマーの両親がギャングの息子に何かを教えようとしている場合でも、それは変わらない。実際、コトは教育の課題だけにとどまらず、今や歴史の課題でもある。事実は大切だが、それより大切なのはどんなことにも動じない心だ。情報は大切だが、それより大切なのは信頼性。文化的な言及は大切だが、それより大切なのは自信や自尊心。

次回に続く。