民間企業からの震災復興 関東大震災を経済視点で読みなおす

幻の遷都論

震災で最も被害を受けたのは、東京よりも横浜であった。市街地の90%以上が消失(略)生糸輸出を一手に手掛けてきた港湾機能が壊滅した。

(略)

[地震発生の]世界への第一報は(略)横浜に停泊中の東洋汽船のコレア丸から発信された無線[から](略)英文電が作成されホノルルやサンフランシスコに送信された。

(略)

都内では新聞本社の社屋も焼け落ち、正確な情報を把握できなかった。

 むしろ日本を離れていた方が正確な情報をつかむことができた。(略)泰安丸に乗船していた上原勇作元帥一行である。(略)

[副官今村均回想録によると、無線傍受で状況を把握、小笠原に到着した](略)今村は、現地司令部に陸軍中央からの震災に関する電報が一通も入っていないことを知り愕然とした。(略)

[東京に上陸]日本陸軍の中央部局内ですらあまり地震の情報があたえられていないことに驚いた。今村が乗船中に知りえた情報に基づき、震災の一般状況を説明するというありさまであった。

(略)

上原は、この大震災は国家の大災害であるにもかかわらず、不逞な在留朝鮮人の動向ばかり電報で伝えているが、正気の沙汰とは思えない(略)非常時における日本人の脆弱性を表している。大和魂や武士道は景気の良い時には発揮されるが、「大勢非となると滔々として脆弱性を発揮しても恥じない」、「集団の一致行動を鍛錬する必要も大切だが、個人性格の修練を積まなければならない」と。

(略)

 ここに、現在に至るまでの日本の情報空間の問題点が浮き彫りにされているといえよう。つまり、政府や軍部中央はかなり正確な情報を把握しているにもかかわらず、現場で対応する人々になぜか正確な情報を伝えないという姿勢である。幕末に徳川幕府はペリー来航の可能性について、一年前に長崎の出島に来訪したオランダ人からの情報で知っていた。ペリーが来航した時に浦賀や下田で交渉にあたった出先の役人には事前に全く情報が伝えられていなかったことを想起させる。軍部中央が出先機関に緊急かつ重要な情報を提供しなかった点は、第二次世界大戦中にもしばしば起こり、大きな問題点として指摘されている。

(略)

 大震災が発生した時、日本には首相がいなかった。八月二四日、加藤友三郎首相が死去し、二八日に山本権兵衛に組閣の大命が下ったが、山本は「挙国一致」内閣を目指したため、九月一日時点では新内閣は発足していなかった。前内閣の外相内田康哉が臨時首相となり、連絡が取れた伊東巳代治枢密顧問官と相談し、緊急の対応を行ったのである。同日組閣された山本権兵衛内閣はさっそく戒厳令を敷き、内務大臣に前東京市長後藤新平を起用した。後藤は親任式から戻るとすぐに大震災復興のための四原則を発表した。その内容は、一)遷都は行わない、二)震災復興のために必要な予算は約三〇億円、三)欧米先進国の最新の都市計画を取り入れ、日本にふさわしい新都を造る、四)新都市計画を実行するにあたり、地主に対しては断固たる態度を取る、というスケールの大きな発想であった。

 後藤はいち早く遷都は行わないと決めたが、首都壊滅という事態に直面し、遷都論が盛んに議論された。

(略)

[「大阪朝日新聞」論説では]近畿は関東に比べ天災が少なく、台湾、朝鮮半島が支配地にあることから地理的にも日本の中心にあるといえる。再び京都へ遷都を求めるべき意見(略)

陸軍中枢部では、首都防衛という見地から検討がなされ(略)今村均少佐が三つの候補地を探った。(略)東京は、台湾や韓国を併合した大日本帝国の領土の中では東に寄りすぎていた。古くから数多くの大地震に見舞われ、富士山、浅間山など火山の噴火による被害を大きく受けていた。また東京は海岸に近く広大な関東平野があるため、防空体制を整えるのが困難な地形であった。こうした東京の欠点を補う候補地として三地点が示された。第一候補は、朝鮮半島京城(現在のソウル)の南の竜山、第二候補は兵庫県加古川、やむを得ない時は八王子付近であった。(略)

加古川平地は、過去に大地震に見舞われていない。一級河川加古川は水量が豊かで、水質も良好である。加えて加古川丘陵地帯の起伏は理想的な防空施設を構築できる。連接する阪神地方はすでに日本一の商工業地帯となっている。したがって米国の首都ワシントンを模範として、皇居と政府機関、教育施設だけを加古川に移転させるという案である。

(略)

九月一二日山本首相は伊東巳代治枢密顧問官と協議し、詔書案を起草させた。この結果、「東京は依然として国都としての地位を失わない」という大正天皇詔書が同日発せられた。

 これを機に遷都を口にするのは恐れ多いという雰囲気が醸成され、遷都論は立ち消えになった。(略)銀座の大地主で政友会を支持する地主たちの支持を受けていた伊東巳代治の私利私欲からというのが本当の理由らしい。

渋沢栄一の対応

 東京商工会議所よりも素早く活動したのが(略)渋沢栄一であった。(略)埼玉の生家へ戻るように勧める息子たちを「こういう時にいささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」と叱りつけ

(略)

[火災により]『徳川慶喜公伝』の原資料や幕末の栄一の書簡など一級の史料が焼失したことを渋沢は後悔した。(略)

地震が発生した翌九月二日、内田康哉臨時首相、警視庁、東京府知事東京市長へ使者を送り、被災者への食糧供給、バラック建設、治安維持に尽くすように注意を与えた。(略)

埼玉県から米穀を取り寄せるため、私邸近くの滝野川町に依頼し、調達の手配を行い、以後九月一二日まで渋沢の私邸が滝野川食糧配給本部となった(略)。興味深いのは、渋沢が食糧配給の際に、食糧調達・配給の実務を滝野川役場に担当させ、渋沢自らが取り寄せた米穀の代金を負担したことである。震災対応にも、適材適所、自助精神、コスト意識という「合本主義」が貫かれていた。これは渋沢の社会事業に共通した考え方であった。

 政府の震災復興の体制と大方針が固まるのを見て、渋沢は「民」の力を結集し素早く対応するための組織と体制作りを開始した。協調会と大震災善後会の設置である。協調会とは、一九一九年に労働者と資本家の融和を図るために設立された組織で、渋沢は副会長を務めていた。(略)

[震災三日目、後藤内相からの要請を渋沢は快諾し]

協調会は被災者収容、炊き出し、災害情報板の設置、臨時病院の確保など「官」ではなかなか手が回らないきめ細かい対策を迅速に実行してくことになった。

[自ら5万円の寄付、米国知人24人に援助依頼、巨額の義援金、大量の救援物資が届けられた]

 ここまでの初動対策を渋沢は地震発生後二週間で行った。八三歳の渋沢をここまで動かした動機は何であったのか。それは明治時代にさかのぼる。

 一八八〇年(略)「中央市区画定之問題」の検討に、渋沢は経済界を代表して加わった。(略)それは軍都であった江戸を、近代的な商都東京に変えようとするものであった。

(略)

日本一の港である横浜を外港、東京を内港として整備し、二つの都市を運河で結び、東京の商業を発展させるという内容であった。

(略)

 しかし井上馨が主導した臨時建築局の「官庁集中計画」のためにいったん改正案の審議は休眠状態に陥る。一八八八年に検討が再開されるものの、神奈川や横浜の巻き返し運動が功を奏し、結局渋沢や益田など東京の商工業者が強く望んだ国際商業都市計画は日の目を見なかった。

(略)

渋沢はあきらめなかった。後藤が復興の中心で活躍していた関東大震災後に、再び東京復興案として、東京商都案を大倉喜八郎らと提案することになった。さらに渋沢は東京の近代化のために、電気、ガス、上下水道敷設などのインフラ整備に深くかかわっていた。パリの下水道まで見学した渋沢は、水道工事にも携った。東京市上水道工事は一八九二年に開始された。この工事を巡って鉄管を国内産にするか外国産にするかで対立が起きた。渋沢は、現在の日本の技術力では決められた工期に間に合うように優れた鉄管を製造することは難しいので、鉄道やガスと同じように外国製を輸入し、エ間にその技術を学ぶことが肝要と主張した。しかし彼の意見は取り入れられず、国内製の水道管を敷設したため、欠陥が明らかになった。この時に渋沢は暴漢から襲われ、軽傷を負った。

関西商人の東京進出、在京企業の関西移転

[多くの商人は]大阪から商品を運び通常より高い値段で売りさばき、かなりの利益を上げた。

(略) 

[一方、震災前販路拡大に苦しんだコクヨは]

このような時こそ便乗値上げやまがい物を売らず、被災民のことを第一に考えるという訓示を出し、品質管理を怠らなかった。この結果、問屋組合からの信用を獲得することができ、東京へ製品を卸し販売できるようになり、販売高は飛躍的に増加した。

 このような関西商人の東京進出と相まって、在京企業が関西に移ってしまうのではないかと政治家や財界人が危惧する新聞記事がみられる。(略)

もしそれが実現すると、災害後の東京市は容易に回復できないばかりか、日本の商工業は、永遠に阪神地方を中心に回ることになって(略)東京はわずかに政治的に残存するだけの存在になってしまう。これを東京市会議員の多くは心配し、協議会を開き、応急策を講ずることになるだろうと述べている。

(略)

[早川徳次の]発明したシャープ・ペンシルはアメリカでヒット商品になっていた。しかし大震災で早川は(略)工場と家族すべてを失った。三一歳の早川は心機一転、同年一二月に大阪へ移り、早川金属工業研究所(現在のシャープ株式会社)を設立、再起を図った。

(略)

自動車生産は、すそ野の広い産業(略)

復興需要がビジネスチャンスとなり、焼け野原は経営者や労働者を呼び戻すだけでなく、新たな人材を呼び込んだ(略)

帝都復興を宣言したため、もともと圧倒的な経済規模を誇る東京地区に、さらに自動車産業や部品メーカーなど多様な潜在需要を内包する都市経済を発達させることになった。その中心となったのは大企業ではなく中小零細工場であった。起業家精神にあふれる中小零細の企業家が(略)旧式設備を一新し、新たな需要に応えていった。

(略)

[震災前業界第三位だった資生堂は]便乗値上げせず、被災民に石鹸を配布した。これが同社に対する信用を一気に高めたのである。

横浜港壊滅

 横浜の歴史は日本の近代史と重なる。(略)

 幕末から横浜港は日本の生糸の最大輸出港であった。(略)

人的被害が最も大きかった首都東京に焦点が当たりがちであるが、横浜の方が被害はより甚大であった。(略)

 横浜財界が最も衝撃を受けたのは、横浜の誇る港湾施設が壊滅し、横浜の輸出総額の70%以上を占めていた生糸貿易が停止したことであった。

(略)

 幕末の開港以来、幕府は外国船をできるだけ江戸には近づけたくないという方針をとった。したがって東京付近に外国船が接岸できるような港湾設備はまったくなかった。

(略)

[埋立地売却で資金を捻出して東京市は1917年東京湾竣工]

横浜側は、東京市が第三期工事を完成した時には、すべての外国航路の寄港地を横浜から東京に移動させようと考えているのではないかと危惧したのであった。

(略)

[横浜は東京が主張する京浜間回漕問題を]京浜運河の開削により、解決できると主張した。

(略)[京浜運河実現の可能性が高まっていたところに震災]

横浜港は壊滅し、横浜側のシナリオはもろくも崩れ去った。

(略)

[震災後]

帝都復興院は横浜港を帝都の外港とし、東京港を内港と位置づけ、横浜第三期拡張工事の再開、京浜運河の開削、東京築港(略)を決定した。(略)

閣議では了承されたが、帝都復興審議会ではこの計画は総花的だと批判が相次ぎ、了承されなかった。(略)[帝国議会でも]批判が相次ぎ、京浜運河開削と東京築港はいずれも削除されてしまった。

 しかし、震災の結果かえって帝都の都市化は進み、すでに東京市が今まで行ってきた東京築港への準備の実績が評価され、復興の対策上からも、東京築港と京浜運河開削は止められない流れになっていた。(略)

こうした状況を見て、横浜側は(略)横浜港の拡張と京浜運河開削を実現させ、東京・横浜両港の併存を図るほうが得策と考え、東京築港反対運動は沈静化した。

「横浜・神戸二大港制」をめぐる争い

 神戸にとって最大の関心事は、この際神戸港での生糸輸出を横浜の代わりに行うことであった。

(略)

神戸は(略)横浜と同時期に生糸検査場が設けられた。しかしいくつかの不祥事が起こり、生糸輸出は中断していた。神戸港では、西日本の製糸業の発達を背景に、神戸生糸市場を再開すべきという動きが第一次世界大戦後から出始めていた。いわゆる(略)「横浜・神戸二大港制」(以下「二港制」)であった。(略)

震災による横浜港の壊滅と生糸輸出の停止は、長年の希望であった「二港制」へ移行する絶好の機会になった。しかし火事場泥棒という批判を考慮して、臨時輸出港として準備を進めたが、横浜側はこれに猛反発した。

(略)

横浜は蚕糸業者に対して圧力をかけた。つまり、もし今後名義を変えても、海外進出を目的とする生糸およびくず糸の販売または輸出行為およびその幇助を、ほかの市場または港湾において行った者には対しては、本組合員は永久絶対に取引を謝絶することという強硬な警鐘を鳴らした。

(略)

 当初の予想よりもかなり早く横浜港の機能が回復したことと原・井坂をはじめとする横浜商業会議所と横浜生糸貿易復興会の強い働きかけにより(略)関西では鈴木商店を除いて、大手輸出商は神戸港利用の方針を変更し、神戸での生糸買い付けを手控えた(略)

もともと政府は横浜一港論を支持していたので、その方針を変えず、農商務省は横浜生糸検査所復旧のために、神戸市が依頼したのと同じように京都や福井検査所からの機器借り入れを計画した。このため農商務省と神戸市が対立することとなった。(略)農商務省監督官庁の立場を強調して、京都検査所の神戸市への検査機器貸与を認めなかった。

(略)

横浜の「一港制」への執着にはすさまじいものがあり、政府もそれを認めていたが、全国の蚕糸業者の多数は、「二港制」を支持していた。

(略)

 神戸側はさらに攻勢を強めた。神戸生糸輸出会社の設立計画を進め(略)

大手輸出商社の三井物産、日本綿花などは証券を確保するため、神戸で買い付けをする必要に迫られ、新しく生産された生糸から神戸での取引を開始することになった。

 こうした動きに対して、横浜側は有効な対抗策を打ち出すことができかった。

(略)

 ついに一九二四年から神戸港は生糸輸出港に復帰することができた。こうして横浜の独占体制は崩れたわけである。一九二八年からは生糸清算取引も神戸で開始された。

(略)

 商工省も神戸側の申請に対して時期尚早という態度を取っていたが、一九二七年頃から認可を検討するように変わった。

(略)

横浜側にとっては厳しい宣告となった。(略)

[震災前]全国の貿易額に占める横浜の割合は約43%(略)震災後には33%にまで低下した。さらに昭和恐慌期には25%にまで下がってしまった。

ユーハイム

 震災で横浜から神戸に移った企業もあった。(略)ユーハイムである。

(略)

洋菓子店の基礎が固まるには、第一次世界大戦ロシア革命により日本へやってきた外国人経営者の洋菓子店の開店を待たなければならなかった。それはドイツ人パン職人のハインリッヒ・フロインドリーブ、ドイツ人菓子職人カール・ユーハイム、ロシアからの亡命者のマカロフ・ゴンチャロフとフィヨドル・ドミトリー・モロゾフであった。

 一九〇九年に当時二三歳であったユーハイムは、ドイツの所有する青島市内で、ケーキ店を開業した。一九一五年日本の青島攻略が始まった。翌年ユーハイムは日本軍の捕虜となり、大阪俘虜収容所へ連行されてから、広島の似鳥検疫所に移送された。一九一九年に広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催されたドイツ作品展で、バームクーヘンの製造販売を行った。これが日本初のバームクーヘンとなった。

 一九二〇年に捕虜から解放されたユーハイムは青島から妻子を呼び寄せ、横浜へ来て、一九二二年に店を開いた。翌年の関東大震災で店を失い、神戸へ移り再び店を開いた。店は繁盛し、ユーハイムゴンチャロフモロゾフと共に、洋菓子を神戸の新しい魅力の一つに育てた。(略)一九四〇年に日独伊三国同盟が結ばれると、ユーハイムにとってはさらに追い風が吹いた。(略)

カールは一九四五年終戦直前に死去した。まだ四六歳であった。戦後連合国の占領下に置かれたためカールの妻エリーゼは国外退去処分になった。ユーハイムが営業を再開するのは、占領期が終わり、エリーゼが再来日した時まで待たなければならなかった。

震災手形問題

 火災保険よりも大阪経済全体に深刻な影響を及ぼしたのは、震災手形の償還であった。震災手形とは、関東大震災のため支払いができなくなったため、一時的に政府が肩代わりをした手形を指す。

(略)

 しかし実際には第一次大戦後の不況のなかで、不良債権になっていた手形がどさくさに紛れ、震災手形として紛れ込んでいた。一九二〇年代に繰り返し発生した恐慌により体力を弱らせていた会社にとっては、震災手形の償還は命取りになる危険があった。そのため政府も償還時期を延ばし延ばしにしていたがついに一九二七年には償還期限を迎えた。しかし震災手形善後処理に対する政府法案にたいしては様々な批判が出た。

 たとえば武藤山治率いる実業同志会の反対論である。(略)「正直者は馬鹿を見る政商保護法案」と題し、法案に対する反対声明書を読み上げ、反対演説をした。ここでいう政商とは和田豊治のように、震災による自社の損害を火災保険金の支払いにより救済してもらおうと考え、政府圧力をかけた大企業経営者であった。

(略)

今回政府が提案した震災手形一億七〇〇万円の中には、大部分が震災に関係ないものである。日本銀行において割引した手形は総額四億三〇〇〇万円ほどであったが、そのうち二億二三〇〇万円はすでに取り立てられて、残っていたのは救済する理由のないものばかりである。政府が震災手形の所有者名と金額を公表しないのは、世論の反対を受けることを恐れているからだ。

 ここからわかるように、震災で被害を受けた者は大部分が救われず、かえって震災手形の口実の下に大実業家を国民の負担により救済しようとするものである。

(略)

 事実、台湾銀行の約二億円にも上る不良手形が含まれていたのである。

ソ連からの救援物資

 これほどまでにソ連関東大震災に対して全力を挙げ支援体制を築いたのは、暗礁に乗り上がっていた日ソ国交樹立交渉を進展させる思惑があったことは間違いないであろう。

 加えてボルシェビキ革命の成功に自信を持ったソ連が、米国とは違った意味で、新外交を展開しようとしていたのである。つまり、日本の労働者との連帯意識の確立や社会主義思想の宣伝という戦略が背景にあったのである。この点がソ連からの支援物資受け入れの際に障害となった。

(略)

 こうなると、日本政府や陸軍は震災に対する救援物資だからといって、国交のない社会主義国から無条件で受け入れることは難しくなった。

(略)

 しかしソ連側は、日本の外務省の杞憂などお構いなしに、支援物資の運送を開始した。

(略)

 レーニン号が横浜に到着すると外務省の心配は現実のものとなった。日本側は神戸に寄港するものと考えていたので、横浜に来たことに驚いた。そのうえ上陸した船員が、日本の労働者階級を救うという内容の話をしたことが大きな問題となり、内務省や陸軍は態度を硬化させた。これに対して外務省と海軍は救援物資だけは受け取り、乗組員の上陸は認めず、帰らせるつもりであった。しかし両者の話し合いはつかず、結局陸軍の意見が通り、救援物資は一切受け取らず、レーニン号を追い返すという最悪の事態を招いてしまった。幕末に薪や飲料水の補給を求め来航した米国漁船を、異国船打払令により追い返したのと何ら変わりなかった。

 こうした外務省とソ連側の意思疎通の悪さや日本の内務省・陸軍と外務省・海軍の受け入れに対する考え方の違いとそれを調整するリーダーや機関の不在は、日本の意思決定の欠点であるが、情報活動の問題点ともいえよう。

外国人から見た関東大震災

震災から一年が経過(略)復興にあたり外債を引き受けた英米が日本の信用をどのように見ていたのかは興味深い。

(略)

英国では、著名な銀行家や実業家は皆口をそろえて、日本国民が天災に対して発揮した勇気と決意を激賞した。(略)

 特に金融業者が日本の公債が高値を維持し、投資家の信用を保っているのは、今まで日本が公債の条件を忠実に守っているからだと説明した。

(略)

マンチェスター・ガーディアン」紙経済部長は、具体的に三つの点を指摘した。まず貿易の復活が迅速で、輸出入ともに震災以前の状態に戻っている。次に震災に伴う通貨の膨張と物価高騰の勢いを阻止して、むしろ反対の経済状態を誘致している。三番目に円の為替相場は一時下落したものの、すでに回復し安定している。さらに、九月二日に募集した外債が発行高よりも四ポイント高値を示していることから明らかなようにすでに日本の海外からの信用は回復している。

(略)

 米国はどのように日本を見ていたのであろうか。震災直後、日本の財政を健全なものにするためには、第二回の外債を米国で募集しなければならなくなるのではないかと危惧したが、日本当局が第五回外債により得た資金を実にうまく配分した手腕を高く評価していた。特に銀行筋は、後藤新平内相が焦眉の必需品を世界の市場に求めたのはやむを得なかったが、その後必需品、特に復興材料を求める際、値段が折り合う時期まで待ったことは、賢明な招致であったと称賛した。日本政府に対する信頼も厚く、今後も、実業界の思惑取引を徹底的に取り締まることを日本政府に強く求めていた。

日本の情報空間の問題点

[情報収集の甘さと情報発信の統一性の問題について的確に指摘したのが]

英国人特派員ヒュー・バイアスである。

(略)

日本語をほとんど理解できないバイアスは、もっぱら英語による日本情報と、英語に堪能な日本人から聞いた話を、その取材源としていたという。

(略)

 一九三一年の満州事変以降、日本が国際連盟を脱退し、孤立化への道を歩み始める。外国人特派員の情報源が徐々に制限されていくなかで、国際派の政治家、軍人、財界人、知識人からの情報を重要視した。井上準之助高橋是清幣原喜重郎池田成彬団琢磨鈴木貫太郎新渡戸稲造らであった。彼らはみな英語に堪能で、ヒュー・バイアスら英米特派員と緊密な関係にあり、日本情報を提供した。しかし当時こうした人々の国際認識や見識が必ずしも日本の主流であったとは言えなかった。

 ともあれ第一次世界大戦の始まった一九一四年から(略)バイアスは二三年間日本を取材し続けた。

(略)

日本では英米における意味での報道の自由はないが、概して自由に日本社会の出来事を取材し、本国へ送信することができた。しかし特定のテーマについては本国への公表や送信が禁じられていた。もちろん陸海軍の装備や軍の移動に関しては、どこの国でも機密扱いになっている。日本では、共産主義思想の波及や共産主義者の逮捕などについては、その捜査が完全に終わるまで公表を差し止められた。ただし、何日か経つと確実に情報が得られたので、公表の遅れが日本のイメージをゆがめることにはならない。

 批評家の中には、日本当局の秘密主義をとらえて、戦前の日本を全体的に暗いイメージで描きたがるが、バイアスの特派員生活での経験からは、それは日本社会のごく一部分を過剰に拡大している。ともかく政府批判をモットーとしている米国の編集者や国民に、海外情報を提供しなければならない特派員にとっても、それほど仕事がやりにくいところではなかった。日本の官僚も自分たちの立場を配慮した建設的な記事ならば、歓迎することも多かったと述懐している。

 では日本の情報発信の問題点は何かというと、それは「原則のない検閲(blind censorship)」で、それはつまり恣意的で意味のない秘密主義であった、とバイアスは指摘している。「原則のない検閲」とは、だれがどのような基準で行っているのかわからない匿名の検閲のことを指す。この恣意的な検閲は特派員たちに不要のいら立ちを起こさせた。例えば、軍や軍艦の行動については一般的に報道が禁じられているが、日本の報道機関が及ばない国々からニューヨークやロンドンへは情報が自由に入ってくる。こうした時期に、日本から検閲した白々しい内容の電信が届くと、かえって不信感や猜疑心を増幅することになりかねないのであった。

 さらに日本の検閲自体にも合理的なルールが欠けていた。例えば報道規制の目的が達成された後にも、不必要な規制が延々と続くことがあった。

(略)

[英国王族コノート公アーサー来日をめぐる報道規制]

大戦中でドイツのUボートが大西洋を荒らしまわっていたため、皇太子の行動は秘密にされていた。ところが検閲にミスがあり、日本のある新聞が皇太子の出発日を紙面に堂々と公表してしまったのである。これは大問題であったが、後の祭りであった。その後皇太子がカナダのバンクーバーを出航したため、英国大使館はその旨を日本の外務省に連絡し、ニュースを公表した。ところが、なぜか日本政府はこの時になっても報道規制を解かず、このニュースを掲載しようとした東京のある英字新聞は、政府から発刊を差し止められてしまった。だが、同じ記事を掲載した別の英字新聞は何の咎めも受けなかった。

 この二つの新聞の違いは、前者が経営者が日本人で、後者は、外国人経営であっただけであった。同様なことは他にもあった。神戸では報道規制されたのに、東京では自由に報道されたり、満州の軍関係から報道されていたことが、日本の国内では当局の検閲によって差し止められたり報道されなかったといった具合であった。

 つまり日本では、「ニューヨーク・タイムズ」が唱える報道の自由は存在しなかったのである。軍関係情報を秘密にする必要性は認めるが、原則として情報は公開するべきであり、国民にはそれを知る権利がある。報道規制が行われる場合には、明白な理由がある場合に限られ、はっきりとしたルールに基づいて実施されなければならないという考え方であった。当時の日本では、往々にして軍関係者は何事も秘密にしたがる。それに比べて日本の各省庁は信頼できる報道関係者からの問い合わせに対して、適切な情報を提供してくれた。合理性を欠いた秘密主義は、かえって日本の立場を悪くすると結論付けた。

 さらにバイアスは、より根の深い問題点を指摘した。それは日本社会には公の議論を回避する傾向があることであった。報道の自由とは、ただ正確な報道をするだけではなく、国民の利益に影響を及ぼす様々なアイデアに対して寛容であること、つまり知的活動の自由を保障することを意味する。日本は自然科学や産業分野では、大胆なまでに新しいアイデアを取り入れるのに、新しい政治思想を取り入れることに対して驚くほど臆病である。例えば、バイアスの体験によれば、旅行者のカバンを開けさせて少しでも日本にとって好ましくない立場から社会問題を議論している本を見つけると没収する。日本に言論の自由がないのは、法律や役人のためではなく、国民性によると断定している。(略)

本人は心の中では根拠のない規制や検閲に対しておかしいと思っていても、公には議論したがらないのである。

エピローグ

関東大震災により何が変わったのであろうか。(略)

 まず、東京、横浜を中心とする首都圏の地位が定着した。(略)

遷都をせず、大規模な復興計画をもとに再建させたことにより、東京の首都としての地位は不動のものとなった。

(略)

 歴史でイフを語ることは好ましくないとされているが、あえて首都加古川を考えてみよう。加古川には、米国のワシントンD.C.のように、立法、行政、司法の政府機能だけが移転され、皇居は京都に戻ったかもしれない。このスリムで機能的な首都加古川が今日まで続けば、現在のように東京に政財官が集まり、ほとんどの大企業や報道機関の本社と大学、研究機関が東京首都圏に集中し、一都四県に全人口の三分の一以上が住むような一極集中の国にはならなかったであろう。

(略)

 とくに関西以西の経済界は、震災の被害はあくまでも東京、横浜の地域的なものであり、関西中心の通信・輸送ルートを復活させれば、十分日本経済は回っていくとみていたのである。

(略)

被災地である東京、横浜もこれを契機に地盤の固い郊外に次々と新しい住宅地が醸成され、住民を都心に運ぶ私鉄は路線を拡大していった。(略)

その意味では大震災は鉄道の普及を後押ししたのであった。

(略)