エレベーター・ミュージック・その2

前回からの続き。

レイ・コニフ

 マサチューセッツ州アットルボロに生まれ、父親のピアノ演奏をいつも気まずい思いで聴いていたコニフは、自分でトロンボーンに親しみ、通信教育で編曲を勉強した。(略)

ニューヨークに行ってボブ・クロズビーとアーティ・ショー率いるソサエティー・オーケストラに加わった。

 陸軍で兵役を勤めたのち、一九四五年にハリー・ジェイズのスタッフ・アレンジャーに。(略)ジェイムズは流行の「ビーバップ」サウンドに夢中だったが、コニフはどうもなじめなかったため、バンドを辞めて、大きな借金を抱えたままハリウッドに向かった。

 「所得税の申告のとき、総所得は二千六百ドルだった。妻と三人の子どもを抱え、家は抵当流れの通告を受けていた。私は絶望して、宅地造成地でシャベルを手に土方仕事をした」とコニフは回想する。

 一九四九年、週給はいぜん手取り三十ドルの日々に、自分の才能を葬ってしまったのではないかと悩んだコニフは、ヒットソングの作り方をひとりでひそかに研究した。

(略)

「バックグラウンドにはかならず、あるひとつのパターンがある。表の旋律の陰にある幽霊音楽と呼んでもよい。そのほかにも、もうひとつパターンがある。テンポのパターンだ。それは一種の鼓動のようなものだ。平均的な人が聴きたがっているのは鼓動だ。それも、目立つものではなく、バックグラウンドに頼もしく控えている鼓動なのだ」

 その後、コニフは知り合いのレコード・プロデューサーにかたっぱしから売りこんで回ったが、返ってきたのは丁重なことわりの返事ばかりだった。だが、ミッチ・ミラーは彼の「幽霊音楽」に興味を示してくれた。

(略) 

一九五五年十月、「幽霊音楽」のことがまだ頭にあったミッチ・ミラーから(略)ドン・チェリーのために「バンド・オブ・ゴールド」を編曲するよう依頼された。この仕事でコニフは、初めてコーラスを実験的に用いた。

 コーラスはレコーディングのあいだじゅうバックで歌いつづけた。これを聴いたミッチ・ミラーは「レイ、これはすごいサウンドだ!じつにすばらしい!」と叫びながらコントロール室からとびだしてきたという。このようにして、インストゥルメンタルにボーカルを加えるというコニフの手法が生まれ、「バンド・オブ・ゴールド」は全米ヒットチャートで五位になった。

(略)

 レイ・コニフサウンドの出現で、突如コロムビアのスタジオじゅうに幽霊が浮遊するようになった。朗々と響きわたる一方で、ゆったりとくつろいだ気分にさせてくれるスタイル。心を乱すかと思えば、やさしくなだめてもくれる。その非凡で得がたい手法は、今日まで誰にもまねすることができない。(略)コニフはつぎのように語っている。

 

ボーカルを楽器として用いたのは私が最初ではない。昔のクラシックのシンフォニーでも行なわれていることだ。けれども、ボーカルと楽器を区別できないほど一体化させたのは、私が初めてだろう。トランペットの音と女性の声はよくマッチする。というのも周波数域がほぼ同じだからだ。男性の声はテナーあるいはバリトンサックスのほうが調和する。

(略)

女の子が「ラ・ラ・ラ」と歌い、男の子が「バ・バ・バ」と歌って、人間の声が滝、そよかぜ、虫の群れる巣、電子共鳴器をまねるユートピア

(略)

一九五〇年末から六〇年初めには、シャドー・コーラスは非常に広く浸透していて、インストゥルメンタルのアーティストは少なくともアルバム一枚はコーラスをフィーチャーしなければ成功しなかったし、この強力なバックグラウンドの魔法を使わずにすませられるポップス歌手はほとんどいなかった。コーラスの歌唱法は、ジャズ、ソウル、ロック、フォークの汗まみれの情熱とはまったく正反対だった。スキャット以外の出番でも、彼らは仲間の静かで夢見るようなバイオリンのように控えめに、静かに歌詞を口ずさんでいた。

(略)

 レイ・コニフ・シンガーズのような現代のアンサンブルは、商業ポップスのためにグレゴリオ聖歌のスタイルを再創造したのである。(略)

コニフは正確さをとことん追求し、「ダ・ダ・ダ」、「バ・バ・バ」、「ドゥ・ドゥ・ドゥ」とスコアに書きこみさえした。

(略)

 一九五〇年代初めのキャピトル・レコードは、まさにセイレンのスタジオだった。コーラス隊とテレミンを同時に起用したレス・バクスターのアルバム『ミュージック・アウト・オブ・ザ・ムーン』は、ムード音楽界で初めて「見えないコーラス」を起用したといわれている。通常、そこまで高い人間の声を録音したことはないので、ポール・ウェストンの指揮するキャピトルのスタジオは心配した、とバクスターは述べている。このレコードはカルト的な人気を博することとなり(略)宇宙飛行士のニール・アームストロングは、アポロの月飛行の際にもNASAのスピーカーから流してほしいとリクエストしたという。

ベルト・ケンプフェルト

ケンプフェルトは少年時代は音楽の神童としてちやほやされ、ハンブルク音楽学校では模範生だった。(略)

 戦後はポリドール・レコードの編曲家兼レコード・ディレクターになった。

[ビートルズをトニー・シェリダンに紹介](略)

一九六〇年、ケンプフェルトのシングル「星空のブルース」は全米ホット一〇〇チャートの第一位に輝き、ミリオンセラーになった。

(略)

自伝『ワンナフル、ワンナフル!』を読むと、彼の音楽がその夜の光景にいかにぴったり寄り添っていたかがわかる。「シャンパンで乾杯が行なわれ、われわれはワルツやロマンチックなダンス・ナンバーをつぎつぎと演奏した。シャンデリアの光がすべての鏡に反射し、部屋全体がきらきらと光っているように見えた」

 ファンレターに目を通していたバンドの司会者フィル・デイビッドが、ウェルクの音楽を形容するのに「泡のような」という言葉がもっとも頻繁に使われていることに気づいて、「シャンパン・ミュージック」という言葉を思いついた。そのときから、ホノルル・フルーツ・ガム・オーケストラは「ローレンス・ウェルクシャンパン・ミュージック・メーカーズ」になった。

(略)

 けれどもウェルクによれば、シャンパン・スタイルは偶然と、やむを得ぬ事情の産物だったという。いつでも熟練ミュージシャンを調達できるわけではなかったため、やむを得ずドサ回りのミュージシャンを雇わなければならないこともあった。ところが、彼らは正しいピッチで長い音を演奏することはおろか、場合によってはキーを保つこともろくすっぽできなかった。ウェルクは彼らの限られた能力にあわせて編曲した。「短くて、軽くて、デリケートな音形」と元気のよいアコーディオンの組み合わせから、偶然に「はじける効果」が生まれ、大ヒットにつながったのである。

(略)

 ウェルクのテレビ番組は、一九五一年にローカル局で始まり、五五年(ディズニーランドのオープンした年)にはABCの全国ネット番組になった。『ローレンス・ウェルク・ショウ』はやがてテレビ史上最長寿番組という記録を打ち立てることになる。今日その再放送を見ると、バックの紫色の照明、ソフトフォーカスの輪郭、スパンコールの衣装、大舞踏会を思わせるラインストーンのシャンデリアなど、番組全体が七〇年代のディスコの雰囲気を予感させる。

 ウェルクはショウビジネス界で二番目にリッチなミュージシャンという栄誉に浴した。

アニタ・カー、サンドパイパーズ

メンフィス生まれのカーは一九四九年にシンガーズを結成(略)女性として初めてナッシュビルでカントリー・レコードのプロデューサーをつとめた(略)

 メキシカーリ・シンガーズをプロデュースしたときには、カーはより専門的な手法をとった。「ややバロック風」のスキャットが、マリンバ、バイオリン、トランペットの代わりをつとめて「ボーカルによるインストゥルメンタルのまね」を作り上げている。伝説によれば、カーは神秘的な偶然から彼らを発見したのだという。アリゾナ州プレスコットを三マイル過ぎたところで道をまちがえて曲がってしまったカーは、メキシカーリ村の広場に出た。そこではアルト、ファースト・テナー、バリトン、バス各一人、ソプラノ二人が村人たちを聴衆に歌っていた。(略)

ベルト・ケンプフェルトからビートルズそしてティファナ・ブラスと、つぎつぎスタイルを変えてみせた。この変化を際だたせたのがカーの幽霊のような少女の声で、ケンプフェルト風に演奏された「バイバイ・ブルース」のトランペットのまねにその特徴がもっともよく表れている。

(略)

サンドパイパーズ(略)には謎のゲストがいた。ほとんど人目につかず巧みに姿を隠したこの女性は、多くの曲のバックで歌い、ツアーにも同行した。この女性パメラ・ラムシェは、たいていはゴーゴー・ブーツを履き、ミニスカートを着て、生身の背景としてステージに登場した。(略)

「彼女はずっとバックの暗がりにいるので、サンドパイパーズの一員にまちがえることはない。彼女のスキャットのソプラノは、ボーカルよりもバイオリンの仲間という感じだ。だが彼女は、一瞬たりともじっとしていない。暗がりの小さな台の上で動きつづけているので、観客はうしろに何が隠されているのだろうと目をこらすのだ」

エキゾティカ、スペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージック

 ハワイが正式にアメリカ合衆国の州になると、それまで太平洋の楽園のことなどなにも知らなかった欧米からの何万人もの旅行客が、ホテルのラウンジやナイトクラブ、シェル・バーといった閉じた空間で、ほら貝、ウィンドベル、ウクレレ、琴、竹製の棒、南洋の鳥の鳴き声がかもしだす最高のシンフォニーを耳にした。この魅惑的で、活気にあふれ、胸が高鳴り、うんざりするようなイージーリスニングサブジャンルが「エキゾティカ」と呼ばれる音楽である。

(略)

 エキゾティカの精神をもっともよくとらえていたのが、今では伝説となっているサンフランシスコのフェアモント・ホテルにあったトンガ・ルームだった。南洋をテーマにしたこの部屋では、「正統派」の島の民謡を英語で歌う「オリエンタル」なショウがあり、カクテルのメニューにはマイタイなどの楽園の飲みものが並び、再現された熱帯雨林には一時間に最低二回、スコールが降った。

(略)

 テレビや映画の印象的なサウンドトラックで知られるレス・バクスターは、エキゾティカ・ブームの創始者兼ツアー・ガイドである。(略)バクスターの『未開の儀式』とエキゾティカのテーマ曲「静かな村」がきっかけとなって、われわれは禁じられたほら貝の音を耳にするようになった。

(略)

 バクスターはフル・オーケストラがお気に入りだったが、マーティン・デニーはもっと小ぢんまりとした方法で人々を魅惑した。木琴、チャイム、ジャングルの太鼓を使って異星人の子守歌のような音を作り出したのである。バクスター版の「静かな村」は、金管とシンバルによる野蛮なシンフォニーだが、デニー版はもっとゆっくりしており、低音のピアノの不協和音と沼地で待ち伏せする捕食者のガーガー、ホーホーという鳴き声で始まる――あまりに静かすぎる村だ。

 デニーの名声は実業家のヘンリー・J・カイザーに負うところが大きい。カイザーの所有していたホノルルのハワイアン・ビレッジのナイトクラブは、椰子の木、大皿に盛られたおつまみ、テーブルのランタンで有名なシェル・バーだった。最初のコンボのメンバーは、ビブラフォーンにアーサー・ライマン、ボンゴにオージー・コロン、ベースにジョン・クレーマー、ピアノはデニー本人。(略)

ライマンはアーサー・ライマン・グループを結成し、大ヒットアルバム『タブー』は二百万枚近い売り上げを記録した。

 甘く美しい旋律から離れることなく、曲を奇妙な方向に漂わせるというずば抜けた才能がデニーにはあった。

(略)

 デニーのファースト・アルバム『エキゾティカ』はホノルルのヘンリー・カイザーのハワイアン・ビレッジの一角にあるアルミニウム・ドームで録音された。半球形のドームには、三秒間の残響効果が備わっていた。(略)

本物のハワイアン・ミュージックではスティール・ギターがあまり使用されないことにがっかりした彼は、南洋の「感じ」をだすために世界中のさまざまなリズムを重ね合わせたのである。『エキゾティック・パーカッション』は、リバティーの「ビジュアル・サウンド・ステレオ」をさまざまなものと組み合わせて最大限に活用している。たとえば水、日本の琵琶、ハワイのひょうたん、ミニチュアのチェレスタ、鉄、木、ウインドベル、ビルマの銅鑼、耳に強烈に響く楽器「ブーンバン」などだ。

(略)

 航空会社で働いている仲間が世界じゅうから奇妙な楽器を持ってきてくれた。デニーはすべての音が色に対応していると考えており、また、木琴を完璧なグリッサンドに作りかえたこともあった。またあるときは、もっともおもしろい音楽を作るのは、ハーモニーではなく不協和音だと述べた。琴バージョンの「マイ・ファニー・バレンタイン」を聴いてみると、考えられないようなコンテクストに音を放りこんで、互いにきしみあわせるのを彼がどんなに好んだかがわかる。

(略)

冷戦のさなか(略)イージーリスニングであると同時に耳障りな新しいサウンドが、ハイファイとステレオの分野に押しよせた。気味の悪い「大気圏外空間」のオペラ、電子シタール、前衛的ハーモニーなどを特徴とするこのカテゴリーは、一般に「スペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージック」と呼ばれた。(略)命名したのはハリウッドの特殊効果の専門家バイロン・ワーナーで、「あり余る可処分所得があり、ステレオにうるさいひとりものの男性」のための音楽であると説明した。

(略)

都会のテクノロジーと上品なホワイトカラーの仕事で(略)軟弱になった男はステレオ完備の抱卵室で心をなぐさめ、そこでは、スピーカーが適切に配置されていることが空調と同じように大切だったのである。

101ストリングス

 デビューから三年後、101ストリングスは少なくとも二十八カ国で一千万枚を超える売上げを記録していた。彼らは世界を隅々まで演奏しつくす意志だけでなく、ステレオ・サウンドにも大いに執心し、音楽界に大きく貢献したといえる。新しい音響技術を採用し、複数のマイクロフォンによる「ステレオの深み」を実験的に使い、生演奏ではまず耳にすることのできない音を生み出すために幾重にも音を重ねる技術を用いた。こうして彼らはマントヴァーニと同じようにクラシック音楽を近代化したのである。101ストリングスのアルバムのライナーノーツには、謎めいた模様が刷られていたが、これは(人間の耳が感じとることのできる)三十から一万六千ヘルツの周波数域のグラフであった。

(略)

 一九六四年、アル・シャーマンとアルシャー・インターナショナルが101ストリングスを買い取り、レコーディングの場はドイツからロンドンに移った。以後、主としてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団ロンドン交響楽団に所属するイギリス人のセッション・ミュージシャンによって101ストリングスは構成されるようになり、メンバーは固定されなかった。

(略)

 101ストリングスが再現しようとしたのは、外国人観光客の目で見たアメリカであった。(略)アメリカが征服したと思いこみ、模倣することでへつらった世界が、アメリカに向かってへつらい返している。

(略)

 一九七〇年代初め、101ストリングスは「ジュ・テーム」ブームに乗り、多くのアーティストのあとを追ってエロスの世界に入っていった。

(略)

『ザ・サウンズ・オブ・ラブ』には、ベイブ・バードンによる「歌詞はなくてため息だけ」のセクシー・ヒット・ポップスが収録され

(略)

[次に]『『エキゾティック』サウンド・オブ・ラブ』を出した。この作品は変態度を一段と増し(略)「成人指定」という文字がでかでかと書かれたジャケットには、男性(姿はフレームの外)の手にもたれた、もの欲しげな女性の顔が描かれている。内ジャケットには、レザーに身を包み、片目にアイパッチをした若い娘が描かれている。曲は「地獄のエマニエル夫人」といったアレンジで、SM風「愛の鞭音」や、東洋の神秘的ポルノを思わせる「カーマ・シタール」などが収録されている。

(略) 

さらに『アストロ・サウンズ』では、低予算SF映画にヒントを得たノイズを満載して、宇宙にまで進出した。「ナウ・ジェネレーションを越えて、明日の斬新なサウンドへの地図のない旅」とライナーノーツは謳いあげている。

ミスティック・ムード・オーケストラ

対照的に、ミスティック・ムード・オーケストラは小宇宙を得意とした。彼らは最先端のオーディオ機材を用いて、音楽を日頃耳にする「本物」の音――雷鳴、波の音、汽車、カーレース、馬、牛、足昔、小さな虫などの背景として扱った。音楽で雑音を隠すのではなく、音楽の中に雑音を取りこむことで、ミスティック・ムード・オーケストラは耳を欺いたのである。

(略)

アイディアの源は、音響技術およびプロデュースを担当していたレオ・クルカだった。クルカは(略)一九六一年に、二本のステレオ・マイクとアンペックス社のテープレコーダーを使って寝室の窓から激しい嵐を録音し、その後、リラックスしたくなるとそのテープを流した。

(略)

一九六四年(略)スタジオを開いて、嵐などのサウンド・エフェクトとお気に入りの音楽を組み合わせる実験を始めた。組み合わせたものは、さらに四チャンネルのレコーダーを通して変換された。四つのうち三つのチャンネルを音楽と効果音が占め、第四のチャンネルにはウィンドチャイムやかすかなパーカッションを入れる。雷の音と音楽のクレシェンドが一致するように、曲と嵐のタイミングを調整した。

(略)

クルカはかつて、ミューザックのために編曲し、一九六〇年から六一年にかけてシカゴのBGM会社シーバーグ社で録音とミキシングをした経歴がある。編曲家ラリー・フォティーヌの助力を得て、クルカは正しいBGMを製作するための民間療法を編みだした。「よく知られた曲の上下と裏表を逆さまにする。その結果、たしかに聴いたことはあるけれど、響きが違うので何の曲だかわからない音楽ができあがる」

 一九五九年、クルカはちょっといたずらな実験をした。ロングビーチの油井のピストンがたてる、ポンポンという性交を連想させる音の入ったレコードを作り、この「成人指定」の珠玉の作品集をハリウッドのニック・オデルのレストランでひそかに販売したのである。もともと好色なところのあるクルカは、その後、電子オルガンを使って「オーガズム」という題のロマンチックな作品を作ったところ、イリノイ州の郵便局長に「猥褻」であるとして没収されてしまった。こうした背景を考えれば、ミスティック・ムード・オーケストラにセクシーな活力があるのも不思議ではない。

 だが、クルカのコンセプトが実を結んだのは、サウンド・エフェクトの天才ブラッド・ミラーと組んでからのことだ。一九六五年、クルカとミラーは同じような四チャンネル・シリーズのマスターテープを作り、サンフランシスコ空港のヒルトン・インに設置した。

 ヒルトンには最上階に「タイガー・ルーム」という回転式の広いカクテルラウンジがあった。クルカとミラーはこのラウンジを四つのセクションに分け、それぞれのセクションをさらに十の窓に分けた。それぞれの窓には周波数のオクターブを十に分類するイコライザーのフィルターがついていて、色とりどりのライトにつながっていた。低音は深紅に沈み、周波数が高くなるにしたがってどんどん明るくなっていって、ついには白色光になる。クルカとミラーはテープをイコライザーにつないで、ラウンジでスコッチのソーダ割りを飲むような人々にヒッピーのライトショウの予告編のごときものを体験させようとしたのである。まぼろしの世界の効果を上げるために彼らは香水と刈りたての牧草の匂いで部屋を満たし、室温を下げるというより、雨音とのアンサンブルの効果を上げるために冷房をフルに駆動させた。

 ふたりはこのプログラムを音が見えるという意の「シネスシージア」という名で売り出したかったらしい。クルカはこう語る。「脳が混乱すると、光を見ているのか音を見ているのかわからなくなる。ヒルトンのプログラムをデザインしたときは、強いリズムを避けてメロディアスな音だけを用いたので、ライトはだいたいいつも赤かった。われわれは大編成のオーケストラとコントラバスを使った。耳はさまざまな喜びを感じる。目も同じだ。私はいつも音楽を色で見ていた」

 当初クルカとミラーは、この装置の売りこみ先として、ラスベガスのナイトクラブがぴったりだろうと考えていた。実際にラスベガスのクラブのマネージャーに見せると、何人かは気に入ってくれたが、店に設置するのは断られた。タイガー・ルームの客が、光と音に心を奪われて、酒を飲むのも忘れてしまうほど陶酔してしまう、という理由からだった。そのうちタイガー・ルームの経営側が、システムをいじりはじめた。「私たちの音楽ではもの足りないと思ったのだろう。私たちの意向に反して、ロックバンドを採用した。結果は失敗。人間の脳はあまり強烈にいじると、少々よからぬ発作を招くのだ」とクルカはいう。(略)

[ある時、てんかん]発作を起こした人がいて、ヒルトンはシステムをそっくり捨てざるを得なくなった。

(略)

 ラスベガス進出の野望がくじれたクルカとミラーは、製品のパッケージを変えて、一種の「トータル・ホーム・シアター」として一般向けにレコードの形で売り出すことにした。大成功のきっかけは、ふたりの友人であるサンフランシスコのKFOGラジオのDJ、アーニー・マクダニエルが、彼らのテープをおもしろがって取り上げてくれたことだった。

(略)

ブラッド・ミラーは、自分たちは運がよかったという。「六〇年代中頃、FMステレオは売り出されたばかりの新しいおもちゃだった。(略)ある夜、私たちがマスターテープのコピーを番組に持ちこんだら、電話が鳴りだして止まらなくなった」

(略)

リスナーの熱意に応えるため、クルカとミラーはアンサンブルの名前を募集し(略)[選ばれたのが、ミスティック・ムード・オーケストラ、だった]

(略)

マーキュリー・レコードに持ちこんだが、一笑に付されてしまった。それでもくじけずにマーキュリーの子会社フィリップスに持ちこむと、多少はましな感触が得られた。

(略)

最初のアルバム『ワン・ストーミー・ナイト』は、のちにフィル・スペクターによって有名になったスタジオ、ゴールドスターで録音された。

(略)

ミラーはつぎのように述べている。

 

当時は、ラジオ関係者の多くがサウンド・エフェクトは耳障りだと考えていた。サウンド・エフェクトをやめればもっと人気が出るのに、とフィリップスの人間もいつもいっていた。(略)私はべつにマンシーニパーシー・フェイスではない。これは特別なすき間をねらったユニークな音楽なのだ。AMラジオでは、雨音がベーコンを焼いているような音になってしまうので、まったくだめだった。コンセプト全体がハイファイとFMステレオを念頭に置いていた。リアリズムと品質、それがつねに私の強みだった。

(略)

二枚目のアルバム『ナイトタイド』は(略)ある面でより野心的な作品で(略)有名な映画のテーマ曲を、打ちよせる波から馬にいたるさまざまな音とうまく組み合わせている。それぞれの効果音はミラーが実際に現地に出かけて録音した。浜辺の音はすべてカーメルのモンタレー湾で録音された。「夜のストレンジャー」を歌うコオロギは、秋の夜にハリウッド・ヒルズを見おろす場所で録音された。

(略)

『ミスティック・ムード・オブ・ラブ』(略)には、なまめかしいサウンドだけでは足りなかったときのために、リスナーのフェロモンを高める香りを染みこませた布がついていた。

(略)

サンフランシスコでは「サマー・オブ・ラブ」へと時代の気運が盛り上がりつつあった

(略)

 ペリー&キングズレイの電子的な実験がスペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージックを形づくっていたとすれば、ミスティック・ムード・オーケストラによる特殊化したサウンドの探求は、ドラッグではなくステレオ・サウンドとの交感によって意識の拡大を図るサイケデリック・クラッシュ・パッド・シンフォニーであったと。ティモシー・リアリーは、薬物による精神の旅を効果的に行なうには「場所と雰囲気づくり」が欠かせないと唱えたが、ミスティッミスティック・ムード・オーケストラのやり方はリアリーのモットーとたいへんよく似ている。

(略)

ダンスホールにさよならして、サウンドの響きわたる、雨は入りこまないけれど雨音はポタポタ聴こえる穴の中を漂う、そんな喜びに若者を誘い入れること。とぎれることのないバックのノイズと対話を織りあわせたピンク・フロイドの音楽物語『狂気』は、彼らから間接的な刺激を受けたのかもしれない。

 ミスティック・ムード・オーケストラのアルバムでは、性的な雰囲気がつねに重要な部分を占めていた。サウンドバード社という販売会社が『タッチ』という再発シリーズを出した七〇年代には、エロチックな冒険はソフトコアポルノへと変化した。(略)折り込み式のジャケットを広げると、今まさに抱きあおうとしている裸の恋人たちが描かれていた(これはもしかしたらジョンとヨーコの「トゥー・ヴァージンズ」へのオマージュなのかもしれない)。

 ミスティック・ムード・オーケストラはさまざまに生まれ変わりながら、二十枚近いアルバムを発表した。

(略)

 八〇年代初め、『ビルボード』誌主催のニューエイジについての一大シンポジウムで、音楽プロデューサーのドン・グレアムが、ニューエイジ音楽のコンセプトの発祥はミスティック・ムード・オーケストラであると発言した。「サラウンド・サウンド」やワイドスクリーン・シアターやテーマパークのアトラクションなどの実験が大流行している今日の状況を見ても、ミスティック・ムード・オーケストラは時代を先取りしていたことがよくわかる。

 

Moods for a Stormy Night

Moods for a Stormy Night

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J・G・バラード

私はまったく音楽的ではない。レコードプレーヤーもカセットテープも持っていない。じつのところ、旅行をするたびにガールフレンドにあきれられていた。というのも私は缶詰音楽が大好きで、ホテルの部屋でいつも流していたからだ。ムードを制御するというテーマはじつに魅力的だ。BGMの意図というのはあからさまに政治的であると私は思うし、政治権力の所在が、投票箱から有権者が投票用紙に印をつけられないような領域へと着々と移動していることの証でもある。未来においては、もっとも重要な政治選択が意識的に行なわれることはけっしてないだろう。おもしろいことに、BGMのなかには驚くほど攻撃的なものがある。とくに消費者苦情窓口、銀行、航空会社、あるいは電話会社で流している音楽までもが耳ざわりで、リズミカルではなく、よそよそしくて、まったく利用者のことを考えていない……。

  ―― J・G・バラード

サブリミナル

ドイツのシュトゥットガルトの売春宿(略)ミューザックのアップテンポな「産業向け軽音楽」セレクションでは客の回転が不十分で、儲からなかったからである。やむを得ず売春宿の主は、一時間の第二、第四クォーター(十五~三十分/四十五~六十分)にはもっと威勢のよい音楽を、という特別の注文を出した。

(略)

なかには獣の心を鎮めてほしいというなんとも興味深い注文もあった。(略)

イリノイ州の全米家畜取引センターで、黒ずんだ豚肉が多発する事件があった。豚が恐怖のためにアドレナリンを出して血が固まってしまい、肉が変質したのが原因だった。ところがミューザックを導入してみると、家畜は安らかにあの世へ行くようになった」

(略)

 一九七二年頃、ミューザックの技師ポール・ワーナーは、世界じゅうの時計を同調させて一秒たりとも無駄にしない「ミューザックによる時間統制システム」なるものを考案した。

(略)

ワーナーは、ミューザックがサブリミナル手法を用いたことがあるかというおなじみの質問に「音楽がかぶさっているから、われわれはラッキーだ」と答えた人物でもある。

(略)

 一九八一年、ミューザックはウェスティングハウス社の傘下に入り、理想的なオーナーを見つけたかと思われた。なんといってもウェスティングハウス社は、労働者および消費者の特異な傾向を探るための市場調査に出資した先駆けだったからである。それなのにウェスティングハウス社は不可解なことに――運営委員会にミューザックのスタジオを見学させ、担当者の面接を行なって、ミューザックが心理操作を行なっていないことをわざわざ確認した。

(略)

[番組編成担当エルフィ・メアン談]

ウェスティングハウス社はなかなか厳しかった。人々を洗脳しているのではないかと訊いてきた。私はかんかんになって、そんなことはないと答えた。テレビと同じでまったくそんなことはない、と。私はウェスティングハウス社が作っている原爆のことを持ち出して、そちらは洗脳ではなく脳を破壊することに興味があるようですな、と言ってやった。ずいぶん嫌な顔をされたがね」

(略)

[エイミー・デニオ談]

「ときにはサブリミナル・テープを受けとることがあった。奇妙なチラシ類も受けとった。サブリミナルに一番近かったのは、ワシントンDCのシンクタンクからのホワイトノイズの注文だ。ホワイトノイズが創造的な志向を増進させ、問題解決を促進するという触れこみだった」

 音楽の場でありビジネスの場でもあるミューザックは(略)移り気な上層経営陣と、(比較的)芸術指向の番組編成部の平社員とのあいだで、つねに、その場しのぎの交換取引をしながら、驚くほど効果的に機能してきた。

(略)

 歴代のミューザック社長のなかでも、派手で影響力もあったのがウンベルト・V・ムジオで、一九六六年に同社の社長に就任するなり「現代環境としての新ミューザックの誕生だ!マントヴァーニやストリングスの時代はもう終わった」と高らかに宣言した。

 以前にエアコンメーカーのフェダーズ社の重役をつとめていたムジオは、室温管理技術の原理をムード管理の分野に応用しようとした。

(略)

「ミューザックが、たんにCMの入らない感じのよい穏やかなBGMであるとはもはや考えていない。わかわれは今、音楽は原料であると考えている。ある種の効果を上げ、実用的な目的にかなうよう曲順をアレンジすること、それがわが社の使命だ」

(略)

 ムジオは重役陣の先頭を切って、経営ツールとしてのミューザックの役割に力点を置き、「実用音楽」という言葉を強調した。そのときの発言と彼の設定した優先事項は、やがて同社が「ミュージック・バイ・ミューザック」には美的な価値があると主張しだしたときに企業イメージを傷つけるもとになった。ふたつの例を挙げよう。ひとつはミューザックは耳に入るものであって耳を傾けるものではないという、ムジオの馬鹿げた主張。もうひとつは「退屈な仕事は退屈な音楽によって退屈さを減じることができる」というミューザックの意地悪な(それゆえ廃止された)スローガンである。

 これは何人かの社員が鋭くも指摘していることであるが、ミューザックは、意図的でないにせよ、ある種のスタイルの音楽を創造してきていて、それを業界の主流アーティストが模倣するようになっていた。ミューザックは「芸術」から距離をとることで、ある独特な芸術の形態に近づいていたのである。ミューザックで番組編成を担当していたエルフィ・メアンはこのパラドックスを承知しており、よいことだと考えている。「邪魔にならないよう控えめにしながらも、いい音楽を提供してミューザックを利用しつづけてもらわなけれげならなかった。だれが社長になろうとも、つねにそうした意気ごみがあった」

 ミューザックで番組編成を担当していたジェーン・ジャービスはつぎのように語っている。「音楽は編成しだいでちがったように聴こえる。スローな曲を二曲つづけて流すと、ちがいはほとんどわからない。刺激はテンポの変化と音調から生まれる」

(略)ジャービスは、ほとんど独力で同社の音楽ライブラリーをコンピュータ化して、何万もの曲を刺激促進上昇カーブと同調するメモリー・バンクに収め、二十四時間以内に同じ曲が繰り返さないようにした。また彼女は、ミューザック用のオリジナル曲も数曲作っている。

(略)

ジャービスは番組編成の仕事以外に、ミルウォーキー・カウンティ・スタジアムとシェイ・スタジアムのふたつの野球場でオルガンを演奏していた。ミルウォーキーブレーブスニューヨーク・メッツの華麗な動きをBGMで引き立てていたというわけである。

(略)

「私を裏切り者だと思っているミュージシャンも大勢いた。でも、バッハしか聴くものがなかったら世の中はずいぶん退屈でしょう?だからこそ、わが社に貢献し、やっていることを理解してくれるトップクラスのミュージシャンを讃えなければ」

そのミュージシャンとは、ディック・ハイマン、グレイディ・テート、ニック・ペリート(略)、フランク・ハンター、リチャード・ハイマン、エリオット・ローレンス、アーサー・グリーンスレイド、トニー・モットーラなどであった。

「ビューティフル・ミュージック」

アダルト・コンテンポラリー」という近年爆発的に増えているフォーマットは、じつはかつて栄えた「ビューティフル・ミュージック」の領分を横取りしているのである。

 六〇年代半ばから末頃に始まったビューティフル・ミュージックは、ソフトで邪魔にならないインストゥルメンタル曲を綿密に構成されたスケジュールで流し、CMによる中断も最小限に抑えていた。

(略)

 ムード音楽供給会社は自社の利益のためにラジオの電波を利用したが、一方の主流の商業ラジオ局は、しだいにミューザック風のフォーマット(略)を採用するようになり、しかも無料であった。

(略)

 FMムード・ラジオの出現は、「ビューティフル・ミュージック」の名づけ親、ジム・シュルクの努力に負うところが大きい。(略)

シュルクは音響機器メーカー、マグナボックス社の広告部長時代に、FM局の放送時間を大量に買い、それをブロックに分けて興味のある広告主に転売する方法を考えだした。FMは儲かる新領域であると見抜いたシュルクは、年間使用料を支払ってFMを使用する契約をNAFMB(全米FM放送局連合)との間で結んだ。

(略)

 やがてシュルクはQMIという会社を設立し、FM独立局に代わってスポンサーと契約を結ぶ事業を始めた。その後、契約局の聴取率を上げ、さらに多くの代理契約を獲得するためにSRPを設立(略)

 並べると対比のはっきりしすぎる曲や、テンポや音調の違いすぎる曲を演奏することをシュルクは禁じた。気が散るほど圧倒的なボーカルが入っている曲は禁止。アンディ・ウィリアムズのボーカルや、アニタ・カー・シンガーズ、ジョニー・マン・シンガーズなどのコーラスのように、さほど情熱的ではないものに限って認める。

(略)

音の雰囲気を壊したり各広告主のメッセージのインパクトを損なうことを恐れたため、皮肉なことにCMの数を制限しなければならなかった。

(略)

DJには演奏曲のアーティスト名を言うことを禁じたが、これはよけいなおしゃべりを避けるためだけでなく、ラジオ局のライブラリーにストックされているアーティストが少ないので、やむを得ず同じ曲を繰り返し流していることをリスナーに気づかれないようにするためでもあった。ターゲットとするリスナー層は十八歳から四十九歳の女性が大半を占めており、ソフトなストリングスがもっとも確実に支持を集めることができた。「女性は男性よりもより高い周波数を聴く能力がある。女性のほうが音質の良さに敏感だ。男女の区別はとても重要であり、ダイナミック・レンジが損なわれれば、女性リスナーを失うことになるという結論に達した」とシュルクは語っている。

(略)

イージーリスニング」というのは著作権のある言葉でもなければ登録商標でもなく、出所も不明である。六〇年代末にはビルボード・トップ四〇チャートのカテゴリーに用いられるようになり、軽インストゥルメンタルとボーカル(略)を表していた。

(略)

SRP社の影響は非常に広範囲に及び、一九七九年の秋には、ビューティフル・ミュージックは全米ナンバーワンのフォーマットである、と『ビルボード』誌の巻頭でほめ讃えられたほどだった。

(略)

攻撃的なジョン・パットン社長の率いるボンヌビル社は、イージーリスニング最大の配給元になろうとシュルクの領分を侵略した。(略)一九八〇年の春には、シュルクの顧客の多くがボンヌビル社に奪われてしまった。

 八一年、SRP社をコックス放送に六百万ドルで売却したものの、シュルクはあいかわらず音楽に全力を注ぎつづけた。(略)

シュルクは彼の局を聴いていた熟年層がさらに歳をとってしまい、購買力が衰え、収入も固定されてしまったことに気づきはじめた。イージーリスニングが衰退に直面したというまぎれもない徴候を、シュルクはこう語っている。

 

一九八〇年にはビューティフル・ミュージックは傾きはじめ、リスナーが歳をとるにつれて急速に衰退していった。(略)

SRP社をコックス放送に売却したのは、『ビルボード』誌がビューティフル・ミュージックをナンバーワンだと讃える直前のことだった。石油が漏れる前に油井を売ってしまったといって責められたが、新しい需要を満たすなにかを私は求めていた。調査を重ねた結果、「シュルクII」というソフトなボーカルのプログラムを考えだしたのである。

(略)

[調査結果に]基づいてシュルクⅡはボーカル曲が大半を占め、そこに時折インストゥルメンタルが入るプログラムの放送を開始した――ビューティフル・ミュージックのちょうど逆であり、今日のライトFMやアダルト・コンテンポラリーの先駆けであった。

 ミューザックのプログラム編成を担当していたロッド・バウムはいう。「ライトFMがビューティフル・ミュージックの棺桶の蓋に釘を打ちこんだ。ビューティフル・ミュージックは時代の変化についてゆけずに、感傷的すぎると感じられだした。人々はボーカルのほうを好むようになった」

(略)

 あくまでもイージーリスニングにこだわる人々は、必死に代案を出しつづけた。

(略)

クラシックやジャズのFM局は、ビューティフル・ミュージックの原則を採用してイージーリスニングをしのぐようになった。それらの局は知的な高潔さというイチジクの葉をつけたまま、よりライトでより輪郭だけになった協奏曲を指向した。『ニューヨーク・タイムズ』紙でジェイムズ・B・オーストライクは「クラシック音楽は芸術としてではなく、娯楽やBGMとして扱われるようになるだろう」と嘆いた。

スペース・ミュージック、ニューエイジ音楽

 ニューエイジ音楽は、たしかに一時代前の「ビューティフル・ミュージック」とは明らかに異なってはいる。ニューエイジ音楽は異質で流動的な「音の風景」にこだわり、ビューティフル・ミュージックのもつ親しみやすいメロディー、シンセサイザー抜きのフル・オーケストラや、郷愁にずばり訴えかける手法を避けた。(略)

[デイビッド・ランツ談]

「長三度で和音の響きを決めるよりも、むしろ基音、二度、五度、属七度を用いる。それによって長調短調の両方が示唆され、よい効果を生む。一種の禅のようなものだ」

(略)

考え抜いたうえでアンビバレントな音を作っているにもかかわらず、マスコミでは繰り返しエレベーター・ミュージックと比較されてしまうことには、なにかまっとうな音楽上の理由があるのではないか。スペース・ミュージックは、じつは記憶喪失を伴ったイージーリスニングというべきなのではないか。その愛好者が未来の音として聴いているものは、じつは過去のエレベーター・ミュージックと無意識の絆を保っているものなのではないか。

(略)

ジョゼフ・ウッダードは『ミュージシャン』誌で、ニューエイジ音楽を「ヤッピーの交尾儀式のための音楽」と評した。もはやロックからは刺激を受けないし、クラシックとは疎遠なヤング・アダルトがこの種の音楽に熱を上げた気持ちというのは、戦後まもなく家庭を築いた世代がスウィング・ジャズを捨ててムード音楽に執心した気持ちと同じなのである。

 初期のニューエイジ音楽の製法は、ピンク・フロイドのトリップしているようなアート・ロックと、マハビシュヌ・オーケストラのジャズ=ロックのフュージョンと、タンジェリン・ドリームシンセサイザーによるブレインスケープを混ぜ合わせて、シンセサイザー、ハープ、電子ピアノなどの催眠術のようなエフェクトをつけ加え、よりソフトで浮遊するようなスタイルに作り替えたものであった。

(略)

 ニューエイジサウンドの先駆けとなったのは、一九六四年にトニー・スコットが非公式にこの運動を始めるきっかけになったアルバム『禅の瞑想のための音楽』であった。

(略)

ウィンダム・ヒル・レーベルのスターであるジョージ・ウィンストンの録音した、自称「音の香」が、あまりに夢うつつの境地へ誘うものだったため、キース・ジャレットはこの世界から遠ざかるべきだと感じて、つぎのように批評した。

 

彼(ウィンストン)の音楽の意味するところは興味深い。なぜなら音楽が瞑想、リラクセイション、睡眠、会話のために用いられているからだ――それは私の演奏する理由のまさに正反対である。音楽が鳴っているときに眠ったり瞑想できるとすれば、そこにあるのは私の考える正しい音楽精神とは異質のものだ。

 

(略)

 宇宙の力による治療を高らかに謳うニューエイジ音楽を聴いていると、どうしてもある疑問におそわれる。魂を癒し背骨を矯正する高邁なサウンドは、数十年前に仕事を終えたあとでマティーニを飲む人々を慰めたイージーリスニングと、いったいどこがちがうのだろうか?

アンビエント・ミュージック

 BGM界に知性の化身、ブライアン・イーノが登場して、深い思索や切迫した運命という感覚を促すような、ためらいや揺れをはらんだ音の旗手となったのは、ようやく七〇年代半ばになってからのことであった。ときにニューエイジ音楽の父と讃えられることもあるイーノだが、彼はこの呼び方を非常に嫌っている。というのもニューエイジの作品には、彼の作品に広がる「悪と疑い」の感情が欠けているというのである。イーノによって処理された冷たく金属的な音の影には、感情的に中立の状態とはほど遠い、恐ろしくて陰鬱な世界がある。

(略)

イーノが「アンビエント・ミュージック」を作り出したのは偶然からで、予定されていたロバート・フリップとの即興演奏の準備のためにバックグラウンドのエフェクトをまとめていたときのことだった。「長さの違うふたつの矛盾しないメロディー・ライン」をデジタル・リコールに記憶させ、エコー・デイレイ・システムを通して再生した。誤って機械のスイッチをつけっぱなしにしてしまったイーノは、その音がとりわけ可聴値以下のときに、周囲にまるで呪文のような力をおよぼすことに強い印象を受けた。その結果生まれたものが、基音とする調を固定しないコード進行が繰り返される作品『ディスクリート・ミュージック』であった。

 ミューザックと芸術を隔てる偽りの境界線をぼかしてしまうイーノの才能が公に認められたきっかけは、『ミュージック・フォー・エアポート』である。イーノははっきりと反ミューザックの立場をとっていたにもかかわらず、このプロジェクトはありふれた缶詰音楽と本質的には変わらない。『ミュージック・フォー・エアポート』は物憂げなピアノのフレーズと超自然的なコーラスを織りつむいでいるが、これはジャッキー・グリースンが何十年も前に完成させた「オー」とか「アー」とかいう官能的な声だけで作品全体を構成するテクニックを借用したものである。ミューザックは口ずさみたくなるようなメロディーを、たんにもう一度作りなおすだけだが、イーノはドイツの作曲家カールハインツ・シュトックハウゼン(略)を思わせる。これほど高度な才能が示されている『ミュージック・フォー・エアポート』なのに、批評家のケン・エマーソンからは「アバンギャルドなミューザック」と一見ほめているようでじつは侮辱的な評価を下されてしまった。

 

ディーヴォモーガン・フィッシャー

 ディーヴォのいう「退化の改新」のコンセプトを編み出す哲学者であるマーク・マザースボーは、ミューザックをはじめとする各種イージーリスニングの熱烈なファンである。彼のいう「インフラ=ミュージック」誕生のいきさつを、つぎのように説明している。

 

ミューザックはぼくの音楽革命戦略の形成に役だった。ビートルズ、バーズ、ボブ・ディランのミューザック・バージョンを聴いたとき、自分の音楽には他人にやられる前よりも先に自分の手で同じような加工をしようと心に決めたのさ。ぼくらの『イージー・リスニング・ディスク』ができるまでにはおもしろい歴史がある。ぼくらはファースト・アルバムが出る前から、曲をミューザック風にアレンジしたものを作っていたんだ。七六年ごろ、『イン・ザ・ビギニング・ワズ・ジ・エンド ディーヴォ革命の真実』という短い映画を作った。これはアン・アーバー・フィルム・フェスティバルで優勝した。ビートルズの曲を周波数分析機にかけて録音したりもした。イージーリスニング・チャンネルからとってきた曲も、この装置にかけた。するとミューザック風の曲が、とんでもないロボット・バージョンに変身したんだよ。ぼくらはミューザックを突然変異させたわけさ。

バンドをはじめたばかりのころ、「ディーヴォの夕べ」みたいなものをやりたいと思っていた。ちゃんとショウアップしたものをやりたかったんだ。コンサートに来た人たちにトーキング・ヘッズみたいなものを聴かせるのはいやだったからね。だから「ディーヴォ再教育計画」の一環として、自分たちの曲のミューザック版を演奏した。『アンディー・グリフィス』や『ビーバーにおまかせ』のテーマ曲も加工した。するとテープを買いたいという人が音響担当のところに大勢やってきた。それでファンクラブのためにいくつか録音したんだ。最初の『イージー・リスニング・ディスク』が飛ぶように売れたので、二年後には第二弾を作った。ロックンロールは破産してだめになってしまったから、みんなやけになってこうした領域を発掘しているというわけさ。

(略)

スペース・ニグロズは、八七年に(略)『スペース・ニグロズ、六〇年代のアングラ・パンク/サイケデリック・ソングの人気ナンバーの包括的にエスニックなミューザック・バージョンを演奏する』という、ぶっ飛んだタイトルのアルバムを発表した。スペース・ニグロズを結成したエリック・リンドグレンは「サウンズ・インタレスティング・ミュージック・ライブラリー」という独自のムード音楽楽団を所有していて、イーストパックなどのコマーシャルのBGMを作曲している。アルバム・ジャケットにマクドナルドやKマートの水彩画が描かれているところからしても、この作品は安っぽいアメリカ風物への一種幻想的な賛美になっている。このアルバムには「民族的かつ包括的に正しい」バージョンの「フライデイ・オン・マイ・マインド」、ストウージズの「ウィ・ウィル・フォール」、バルーン・ファームの「ア・クェスチョン・オブ・テンパラチュア」が収録されており、「はるかかなたの土地のイメージを喚起するよう」すべてダルシマー、コンガ、マンドリン、神秘的な詠唱による音づくりが施されている。

(略)

 ジョン・レノンは殺される少し前に、オノ・ヨーコが外出しているときは家で一日中ミューザックを聴いて楽しんでいる、と『ローリング・ストーン』誌にうちあけた。それから十年後、モーガン・フィッシャーはレノンが作ったメロディアスな曲をインストゥルメンタルで演奏した『エコーズ・オブ・レノン』というアルバムを発表した。シンセサイザーとかすかなパーカッションを用いて、ソフトでゆったりとした幽霊のようなスタイルで表現しているため、原曲がほとんどわからないものもある。当初からフィッシャーのプロジェクトに熱心だったオノ・ヨーコは、いかにも彼女流の詩的な言葉でこのアルバムを絶賛した。「音楽をぎりぎりまでスローにすることで、モーガン・フィッシャーは空間に音符を宇宙の大きさで漂わせることができた」

(略)

フィッシャーは、自分がムード音楽に興味を持つようになったのは、ロックを出発点として音楽をやってきた必然的な結果だったと考えている。

 

日本画には「間」という伝統があって、見る人を空っぽでくつろいだ状態にすることを絵画の目的としている。私はこういった考えを音楽に組み込もうと試みてきた。小休止につながる音。その音がなければ、聴く人が小休止を感知することはできない。それと同じで、私がハード・ロックをあれほどやらなかったら、ほんとうに静かな音楽を演奏することはできなかただろう。おそらく、極限までとことんやったことのない人の作った音楽よりも、私の音楽はより多くの空間とくつろぎを作り出すことができるはずだ。

 

Echoes Lennon

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