エレベーター・ミュージック BGMの歴史

堅苦しい宮廷音楽を「軽音楽」に

 ムード音楽の歴史は、教会で行なわれた最初のオルガンリサイタルにさかのぼる。オルガンの調べは、説教の合間に信者の心を和ませた。大聖堂はまさしくサウンドスケープと化し、のちのショッピング・モールや、アトリウム、自動車ショウルームの設計に影響を与えたのである。

 十七世紀、ヨーロッパの貴族の世俗の生活には、つねにBGMが流れていた。バロック風庭園では水力オルガンや人工の鳥のさえずりが響き、自然に対する文明の優位を祝福した。現代のオーディオ愛好家がうやうやしく「クラシック音楽」と呼ぶものの大半は、もとをただせば高貴な方々のBGMであった。デイビッド・ワイスの小説『聖と俗』で、モーツァルトはコロレド大司教の要望について、「大司教は夕食にお客様を招かれる。セレナーデがご所望で、耳にここちよく、けれども会話や消化の妨げにならないものを、とのことだ」と言っている。

 十八世紀半ば、ドイツの作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマンは「インストゥルメンタル」BGMシリーズ「ターフェルムジーク」を作曲して、聖と俗の音楽を隔てるかつて強固であった壁を壊した。凝った協奏曲には興味なしとみずから認めるテレマンは、厳格な構造を無視し、単純なメロディーを多用して、堅苦しい宮廷音楽を「軽音楽」に変容させた。

 ヨハン・セバスチャン・バッハも、独自の方法でテレマンの軽音楽スタイルを展開してみせた。バッハの有名な「ゴルトベルク変奏曲」は、ドレスデン宮廷駐在の元ロシア大使、カイザーリンク伯爵の依頼を受けて作られたものだ。伯爵は家来のヨハン・テオフィリウス・ゴルトベルクをバッハのもとにやり、不眠症を癒すための「やさしく明るい曲想の」、「基本的な和声がつねに同じようにくりかえす」クラビーアの曲を学ばせた。おそらくゴルトベルクは、眠れぬまま羊を数える伯爵につきあって、カノンとフーガとエチュードの混じったこの曲を、控えの間でくたくたになるまで弾きつづけたことだろう。

(略)

 産業革命によって内燃機関の轟音や、発電機や空調システム、鋲を打つピストン、電気照明のうなる低周波音が生じた結果、静寂はたまに生じたとしても歓迎されざる異常な事態になった。このため、まったく新しい種類の犯罪や、工場では騒音がらみの病気が爆発的に発生した。金属をひっかく音が原因の「ボイラーメーカー病」もそのひとつである。音楽はたんなる娯楽ではなく、都市のたえまない騒音の苦しみを緩和する「音の麻酔薬」になった。のちにドイツの作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンは、公共の場所における好ましくない音を逆の波長を用いて相殺する、コンピュータ制御の「音吸収器」を提唱した。

未来派の音楽

 イタリアの未来派画家ルイージルッソロは、近代的機械の美しいノイズを賛美した。本職は画家ながら、ルッソロ未来派の音楽活動のリーダーを自負していたところがある。一九一三年に書いた「騒音芸術」というマニフェストは、ハーモニーを重んじる伝統的な音楽観を拒否して、われわれが毎日無意識のうちに耳にしている不協和音の傑作を讃えている。従来のピアノ、バイオリン、ハープ、ホルンといった楽器よりも「商店のシャッターのガシャンという音や、ドアがバタンと閉まる音、人混みのガヤガヤ、駅、鉄道、鋳鉄工場、紡織工場、印刷所、発電所、地下鉄などのさまざまな喧噪」のほうがずっとすばらしい、とルッソロは主張する。

 「すべての工場がめくるめく騒音のオーケストラになる」という夢を実現するため、ルッソロは「イントナルモーリ」(ノイズ調音装置)を発明した。これはひょろ長いスピーカー・ボックスで、まるで内燃機関が十種の全音をとどろかせているような、チェーンソー顔負けのメロディーを奏でた。ルッソロは主たるノイズを、爆発する音、割れる音、ブンブンいう音、ひっかく音の四つに分類した。それぞれの音の高低と音色は、脇のレバーで操作する仕掛けになっていた。

 未来派の音楽家フランチェスコ・バリーラ・プラテラはルッソロの装置にたいへん感銘を受け、「未来派音楽の技術宣言」を書いた。これもまた、「群衆、大工場、大西洋横断客船、列車、戦車、自動車、飛行機等々に宿る音楽の魂……機械の支配と電気の君臨」への賛辞である。

(略)

 ルッソロの「ノイズ調音装置」は、イギリスで何回か展示会を開いて作曲家のストラビンスキーとシュトックハウゼンにも披露されたが、結局は有望な発明というよりも、ただの新奇な装置という扱いを受けた。その後ルッソロはいくつかの調音装置を組み合わせて「ルッソロフォノ」という原始的な鍵盤楽器を作ったが、これも珍発明の域を出なかった。

(略)

 ドイツの「実用音楽」は、未来派ほど声高には(略)語らなかった。(略)

クルト・ワイルは、後期ワイマール共和国時代、この運動を熱心に推進して、「芸術音楽」と「実用音楽」の区別をなくすことに力を注いだ。音楽を大衆のものにするため、ワイルは「人間の単純な感情と行動を表現する」よう努めた。大衆に味方する彼の姿勢をあざ笑うお高くとまった連中をからかって、ワイルは「ジャズの要素や、表面的には軽音楽とよく似ている親しみやすい旋律を用いることで……陳腐であることに対する恐怖はついに克服された」といってのけた。

 当時にしてみればワイルの発言は革命的だったかもしれないが、彼の提唱した音楽は、今日では当たりまえの、軽音楽と映画音楽をミックスしたものとさほど変わらない。こんなデザートを想像してみてほしい。まず、数学的なフィリップ・グラスの砂糖がけ、それからパーシー・フェイスのストリングスの甘いシロップ、ボストン・ポップスのアイスを山盛り、エンニオ・モリコーネのマシュマロソース、レイ・コニフ・シンガーズのチェリーをてっぺんにのせれば、「実用音楽」のできあがりだ。

(略)

 「実用音楽」という言葉は、社会的芸術運動のために作られたものだが、やがてドイツ語の「キッチュ」という言葉と同様、軽蔑的な意味あいで使われるようになった。

サティ「家具の音楽

 未来派の大騒ぎと「実用音楽」の平民賛美に代わって、エリック・サティは都市生活に寄り添う音楽として、旋律はあっても、特定の感情を喚起しない作品を発表した。サティの音楽は、いわば未来派が反ブルジョア的音楽環境の設計をもくろんで、できあがってみたら中流階級の旗手になってしまったようなものだ。

(略)

 サティが「家具の音楽」という言葉とコンセプトを作るに至った背景に関しては、いくつかの説がある。アンリ・マティスが主題などというやっかいな代物のない芸術を作りたいと口にして、それを安楽椅子にたとえたのを、サティが小耳にはさんだのだという説もあるが、画家のフェルナン・レジェと昼食をとっていたときに思いついたという説のほうが、おそらく本当だろう。ふたりが食事しているとき、レストラン専属のオーケストラの音が大きすぎて、客が次々と帰ってしまった。レジェの話では、サティは憤慨してこういったという。

 

 家具の音楽」を創造しなければ。周囲の音の一部となって溶けこむ音楽だ。メロディアスで、ナイフやフォークの音を隠すけれども、完全に消しはしない、押しつけがましくもない、そんな音楽だ。この音楽は、ときおり訪れる気まずい沈黙を埋めることもできる。わざわざ陳腐な文句を口にしなくてもすむ。なによりも、強引に割りこんでくる町の騒音を和らげることができる。

 

 さらにジャン・コクトーに宛てた手紙では、「法律事務所、銀行などに家具の音楽を……結婚式に家具の音楽を……家具の音楽の流れていない家など問題外だ」と述べている。

(略)

壁紙の模様のように何度も繰り返される断片的なフレーズからなるこの音楽は、ただ背景となることのみを目的としており、注意を惹くことはまったく意図していない」音楽だったという。

 芸術とはかしこまって鑑賞するものだと思っている客は、サティの説明などおかまいなしに、耳をそばだてて音楽を聴こうとした。いらだったサティは、観客のなかにとびこんでいって、話したり、音をたてたり、廊下に展示された絵画を見たりするよう促した。(略)サティのいらだちは、五十年後のジョン・ケージのいらだちと対照的だ。彼は、音楽をまさに背景として聴くのに慣れきってしまった人々に、サティの「家具の音楽」を聴かせたのである。ケージは受動的な聴きかたをやめさせようと、演奏している三組の室内楽団を照らすまばらなスポットライトしかない曲がりくねった暗い廊下を、客に歩いてもらった。

(略)

ロンドンの王立音楽院教授ロデリック・スワンストンは、家具の音楽は「みずからを真剣に考えすぎる作曲家に対する反発だった」と述べている。あるいはそれは、サティがキャバレーのピアノ弾きとして過ごした不遇の時代には相手にしようともしなかった上流気取りのパトロンたちへの「最後に笑う者」の笑いだったのかもしれない。

(略)

 家具の音楽はよくあるようなダダイストの独善的な悪ふざけとは異なる。サティは缶詰音楽と映画のサウンドトラックを同時に発展させようとしたのである。

(略)

サティはルネ・クレール監督の『幕間』のために、「シネマ」と題する曲を作曲した。この曲ではフレーズのカットアップ、並置、繰りかえしという手法を用いて、各フレーズに固有の意味をもたせないようにしている。

 サティの異端指向は音楽に限った話ではない。家具の音楽を提唱するはるか以前に、深い、超自然的なあこがれを抱いていた彼は、(メロディーではなく)ハーモニーによって超越的なものに近づくことができるという結論に至っていた。

 サティは当時親独的であったフランスの中流階級のここちよい環境で育った。初期のサティの課題は、同時代の多くの作曲家を捕らえていたワーグナーの触手を振りきることだった。ワーグナーの亡霊から逃れようと、彼はグレゴリオ聖歌の単旋律を賛美した。中世への懐古趣味を、ドイツ風の過剰さに対する解毒剤にしようとしたのである。

 劇的な抑揚を削ぎおとしたサティの音楽は、グレゴリオ聖歌のようにある程度の距離感をもって聴こえるため、聴き手は周囲をよりはっきりと認識する(場合によっては、疑う)ようになる。(略)ロデリック・スワンストンは、サティの手法を同時代のふたりの作曲家と比較している。「ドビュッシーとラベルは、聴き手が耳を傾けるし、彼らも聴き手が耳を傾けることを期待している。けれども皮肉なことに、彼らが作品で用いた手法の多くは、のちのバックグラウンド音楽作曲家の手法の基礎になった」。ドビュッシーの「パラレル・コード」(それは、のちのマントヴァーニ一派において、より官能的で感傷的な音を生むことになる)とは対照的に、サティの音楽はミニマルでどこか冷淡だった。バックグラウンド音楽に対するドビュッシーとサティの方法論の違いは、今日の「イージーリスニング」と、「環境音楽」といういささか怪しげな区分と似ているところがある(「イージーリスニング」はノスタルジックなメロディーを武器とするが、ブライアン・イーノなどの「アンビエント・ミュージック」は感情を明確には表現しないことを特徴とする)。

 サティがグレゴリオ聖歌の実験を行なったのは、薔薇十字会とかかわっていた二年間のことである。この時期、サティは、カルトのリーダーであり、あいまいでいかがわしいジョセファン・ペラダンの強い影響を受けていた。ペラダンの教団は世紀末的なカルト集団で、物質万能主義とダーウィンの影響を拒否し、精神的な戒律、快楽主義、「自然」愛好を形而上的にごった煮にしたものを信奉していた。

 ペラダンのサロン展のために、サティは「偶然の音楽」(流れに付随するという意)を作曲した。この作品は(拍子記号と小節の縦線を省くというサティの癖によるところも多少はあるが)漫然としていて眠気を催すのが特徴である。作曲家というよりはまるで室内装飾家になったかのように、サティは楽譜に「白く動きのない」とか「青白く神聖な感じの」といった指示をたくさんつけて、謎めいた雰囲気をかもしだした。

 サティの伝記作家アラン・ギルモアはつぎのように述べている。「サティは調性やリズムそれ自体に関心はなかった。あいまいで、浮かぶような……雰囲気を作り出すことが彼の狙いだった。ゴールを目指さない音楽、ただそこにあるだけの音楽、なによりもある種の宗教的な雰囲気をもつ『家具の音楽』を求めていた」

 家具の音楽の十年以上前に、サティは三つの「ジムノペディ」を作曲している。この作品を聴くと、彼の「ミニマリスト」の作品には抑圧された感情が秘められており、これを感傷的に演奏することも不可能ではないことがわかる。

(略)

[時代状況から]彼が実体のない美学だけから家具の音楽を生み出したわけではないことがわかる。十九世紀中頃、パリはヨーロッパ諸都市の先頭を切って市場経済から消費文化に移行した。

(略)

 フランス革命百周年を祝して開かれた一八九八年の万国博覧会(略)

サティは博覧会のために建てられたばかりのエッフェル塔の下に立ち、今でいうテーマパーク風の雰囲気に魅了されて、優雅でどこか不気味な「グノシェンヌ」を作曲した。

 家具の音楽は、ペラダンからダダイズムへのサティの変化を示している。一九二〇年代には第一次世界大戦後のシニシズムのせいで、サティの信仰に陰りがみえていた。一九一六年に始まり、八年後に解散したダダイズムは(略)ヨーロッパの古い秩序をニヒリズムによって破壊した。そのニヒリズムが純粋なあまり、ダダイズムは結局みずからを破壊してしまうことになる。

(略)

家具の音楽誕生から二年後、ジョージ・オーウェン・スクェアという名の陸軍技師が、缶詰音楽をケーブルを通してレストランやタイプ室に送りこみ、その場をコンサートホールに変えるシステムを開発してサティの夢をよみがえらせた。時は一九二二年。ダダイズムが臨終の苦しみにあえいでいた年に、ミューザックは誕生した。

ハックスリー、ザミャーチン

オルダス・ハックスリーは『すばらしい新世界』で「あたりには陽気な合成音がとぎれることなく流れ、何ともにぎやかだ」と風刺した。この小説に描かれた未来社会では、「合成「音楽」が「ハイパー・バイオリン、スーパー・チェロ、代用オーボエ」の音を流しつづけ、テクノロジーで結ばれた同族意識を高揚させる。「大衆が政治権力を掌握すれば、かならず真実や美よりも、幸福が優先されるものである」とハックスリーはいう。

(略)

エドワード・ベラミーが日常のBGMを博愛主義的に思い描いていたのに対し、ハックスリーは、個人の権利を奪い、監督者の亡霊としてつきまとい、なにもない空間を「ここちよい倦怠感」で得意げに満たす幽霊シンフォニーを嘆くばかりであった。

(略)

 ハックスリー、オーウェルに先だって、エフゲニー・ザミャーチンは一九二〇年に『われら』という反ユートピア小説を書いた。かつてロシア革命を支持し、マクシム・ゴーリキの友人でもあったザミャーチンは、革命がたどった全体主義への道を痛烈な風刺をこめて描いている。(略)

ザミャーチンの仮想未来は、全員の合意を至上命令としている。生活は厳しく統制され、理性が至高のものとされ、「魂」は悪性腫瘍のような扱いを受ける。「統一国家のマーチ」にあわせて市民を行進させるべく、「音楽工場」は一時間につき三曲、「ミュジコメーター」の作曲するソナタを奏でる。(略)

「収斂、分岐をくり返しながら無限に連なる水晶のような半音階の調べと、テイラーとマクローレンが処方した合成和音。全音の、がっしりとして重々しいテンポの『ピタゴラスのズボン』、しだいに弱まっていく悲しいメロディー、太陽スペクトルの暗線による休止と交互に現れる生き生きとしたビート……なんと壮麗なのだろう!なんとすばらしい永遠の論理だろう!」

軽音楽、ビクター・ヤング、モートン・グールド

クラシック純粋主義者だけでなく、ジャズこそは都市の神経症の解毒剤だと信じて疑わないセンチメンタルな原始主義者も、ラジオからジャズが流れるのをこころよく思わなかった。

 その一方で、軽音楽は安全な中間地点に位置していた。クラシックでもなければ、ジャズでもない。ミュージカル音楽というわけでも、ワルツというわけでもない。軽音楽は、こまごまとした分類から逃げおおせることで成功をおさめた。

(略)

ビクター・ヤングはのちに映画音楽を手がけるが、一九三〇年代にはラジオ向け音楽の指揮者として活躍した。一九三一年にみずからのバイオリン独奏で録音した「スターダスト」は、ホットなジャズのナンバーからソフトなバラードに姿を変えた。ダンスナンバーを夢見るための音楽に変えることによって、ヤングは曲の音楽的な意味づけを拡げただけでなく、それまで閉じこめられていたスタイルの枠から解放して、いろいろな目的に使えるようにしたのである。

 ヤングと並ぶ軽音楽のパイオニアであり、のちに「イージリスニング」と呼ばれる分野のスターとなったモートン・グールドはつぎのように回想する。

 

 いわゆるシリアスな音楽家は、あらゆるメディアの軽音楽を軽蔑したが、それにはもっともな理由がいくつもあった。軽音楽を見下せば、シリアスな音楽家はそれだけ偉くなったような気になれる。会員制クラブに入れば偉くなったような気分になるのと同じだ。(略)

当時の偉大なアーティストたちは、音響技術や初期のラジオ放送にも積極的に取り組んでいた。たとえば、レオポルド・ストコフスキー(略)はやがて、ハリウッドで『ファンタジア』の音楽を担当した。ところが純粋主義者たちは、それをよき音楽の堕落の極みだと考えた。

 

(略)

 ラジオの音質が改善され、技術的には「巨匠たちの音楽」を放送できるとプロデューサーが胸を張れるようになってからも、軽音楽は、ライト・サロン、夕食の音楽、真夜中の「まどろみの音楽」など、さまざまに名を変えながら依然として生き残った。スポンサー(たばこのチェスタフィールド、オーディオのフィルコ、タイヤのファイアストーンなど)のマーケットが拡大するにつれて、ラジオはいちばんホットなセールスツールになった。そして最大のリスナー層を引きつけたのが軽音楽だった。

(略)

ラジオが登場するまでは、オーケストラの音楽を何百万の人間が体験するとしたら、百年近くかかっただろう。けれどもラジオなら、一回の放送で、一時間あれば、同じ数の人間に伝えることができる。ラジオのリスナーは、きらびやかに着飾った人々の世界とはまるで無関係なところで、音楽作品と一対一の関係をもったのである。

(略)

 コンサートホールやオペラハウスで押しつけられる堅苦しいマナーから解放されて、ようやくごくふつうのリスナーは、自分の部屋や性格にあった音楽を自由に選べるようになった。(略)

ミューザック

 ミューザックの録音はすべて、垂直に溝を刻む331/3回転のディスク(略)にプレスされた。傷のつきやすいセラック製SP盤のかわりに、ビニール樹脂に録音したのはおそらくミューザックが最初だろう。ビニール樹脂の前は蠟管に録音していた。一九五〇年代、ミューザックがキャピトル・レコードと同居していた時代にスタジオ・セッションの音響技師をつとめていたアーブ・ジョエルは、つぎのように語っている。

 

 三〇年代の初めに、ミューザックの主任技師が「金吹きつけ法」というのを発明した。蠟盤に音楽の原盤を刻みこむ方法だ。その蠟盤から、溝の凸凹が反対になった「マザー」盤を作る。蠟盤に金の薄い被膜をスプレーして、蠟盤をはがすと、こういう原盤ができるわけだ。次にその原盤に電気メッキをして、そこからプレス型を作って、レコードを作った。ほかのレコード会社もこのやりかたに従った。そのうち銀のほうが安上がりだとわかるまではね。

(略)

 ミューザックは、より大きな目標に向かって一歩一歩前進しつつあった。その目標とは、士気が低下する時間帯用の強壮薬として、気分に応じて分類された音楽プログラムを提供することである。これはミューザックの社長ワディル・キャチングズお気に入りのアイディアだった。キャチングズは有名な投資家で、かつては「ウォール街ゴールデンボーイ」と呼ばれていた。すでに収益性の高い事業をいくつも実現していたキャチングズは、音楽をリズム、テンポ、楽器編成、楽団規模別に保管・放送できるよう、ミューザックのライブラリーにあるすべての曲に「刺激分類コード」をつけることを思いついた。

 いまだ黎明期にあったミューザックは、ザビア・クガート、クライド・マッコイ、ハリー・ホーリックといった有名どころが演奏するクラシック、セミ・クラシック、ポップ・ボーカル、ポリネシア風音楽、ジプシー音楽などの寄せ集めを流していた。一九三六年八月、キャチングズが曲順、時間帯、ボーカルの効果を研究するよう番組制作者に命じたのを受けて、よりスタンダードなフォーマットが誕生した。午後九時から昼の十二時三十分までは、ボーカル曲は流さない。十二時三十分以後は、ワルツとタンゴは避ける(時折ヒットソングを入れるのは可)。一般に、スローな曲は避ける。使用する場合は、プログラムの一区切りのまんなかか最後で用いること。

 レストラン用の典型的なプログラム(略)

朝食タイム(午前七時-九時)には、朝日のように元気のよい音楽と、カフェイン入りのリズム。九時から正午までは、ランチの食欲をそそるBGMでつなぎ、ランチタイムには、ちょっぴり気取った軽クラシックとスパイスのきいた音楽。午後二時からは、ふたたびつなぎのBGM。午後五時からのカクテル・チューンには、ピアノや、ビブラフォンのようなエキゾチックなサウンドが混じる。午後六時から九時のディナータイムは、控えめで静かなクラシックで栄養をつけ、夜のダンスナンバーに備える。夜が更けるにつれて、音量は大きくなり、テンポもアップしていく。

(略)

 一九三〇年代にスティーブンズ工科大学が行なった先駆的研究の結果、「実用音楽」によって職場の欠勤が八八パーセント減少し、早退が五三パーセント減少したことが指摘された。

「缶詰音楽」と戦ったペトリロ

 一九三八年、ミューザックはワーナーブラザーズ社に買収され、より大きな事業の中に組みこまれていった。(略)

けれども一年後、ワーナーはこれらの会社を野心的で如才のない三人の企業家に売り払ってしまった。その三人とはワディル・キャチングズ、アレン・ミラー、ウィリアム・ベントンである。利益のためならどこへでも出かけていく男、と称されたミラーは、イギリスで、ミューザックと同じように電話回線を利用して音楽を配信する会社、レディフュージョン社の設立に協力した。宣伝のスペシャリスト、ベントンはこの三人組の中でもとりわけ大物で、のちにコネチカット州から上院議員に選出された。

(略)

 ウィリアム・ベントンは一九四一年(略)『源泉徴収方式』の著者で経済学者のビアズリー・ラムルのアドバイスに従って、わずか十万ドルでミューザックの支配株式を取得し、経営権を完全に掌握した。

(略)

 ベントンが一九四五年に国務省の広報担当副長官の職につき、米国のプロパガンダ機関「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)を推進したことは注目に値するだろう。(略)[ユネスコ]の創設にも積極的にかかわったが、皮肉なことにこの機関は、のちに公共の場におけるBGMの使用を公然と非難することになる。

(略)

 ミューザックは戦時中に強大な影響力をふるい、アメリカには欠かせないものとなっていった。兵器工場に音楽を配給するだけでなく(略)戦時情報部に協力して、訓練の指示の伝達にも一役買った。

(略)

 ミューザックと米国音楽家連盟(AFM)とのあいだのいざこざは、しだいに大きくなっていった。最大の敵は、連盟の悪名高き会長ジェイムズ・シーザー・ペトリロだった。元ピアニスト兼バンドリーダーのペトリロは、誰彼かまわず厳しい要求をつきつけて、音楽業界に混乱を引き起こした。(略)

楽家の生計を脅かすことを理由に、シカゴから「缶詰音楽」を一切閉め出そうと、ミューザックを相手に長く厳しい戦いを展開した。

(略)

一九四〇年(略)RCAの訴訟に対して、ラジオでのレコード演奏は著作権を侵害しないという裁決を下した。ペトリロはこの裁決に不満で、レコーディングと放送によって音楽家が失業することを証明しようと、ベン・セルビンに依頼した(略)がセルビンは(略)連盟の団体行動は解決策にならないという報告書を提出した。なぜなら、機械化された音楽を閉め出すことははや不可能であり、スタジオ・ミュージシャンはレコード会社から何百万ドルという金を支払われて十分補償を受けているからだ。セルビンの提案に、連盟に所属するミュージシャンは、みな立ちあがって拍手し、支持を表明した。

 セルビンは弁護するよう依頼されたペトリロの策略を覆してしまったわけだが、それもそのはず、彼はミューザック創成期の番組制作主任だったのである。(略)

一九四二年八月一日、ペトリロはストライキを命じ、すべてのミュージシャンをスタジオから閉め出した。レコード会社がペトリロを降参させるには四年の歳月を要した。音楽史の専門家のなかには(略)このストライキのせいで、多くの有望な演奏家の芽をつむことになり、ビッグバンド時代が終わりを告げたと考える者もいる。

トーキーの音楽、プロダクション音楽

 『グランド・ホテル』の終盤、グレタ・ガルボ(略)

はなんとなく悪い予感がする。「音楽が止んだ。今夜はなんと静かなのだろう。グランド・ホテルがこんなに静かなのは、はじめてだ……」

 ガルボが不安を感じるのも無理はない。それまでは映画の始まりからずっと、スィートルームの見えないスピーカーから流れてくるラフマニノフのロマンチックなピアノ協奏曲第二番が、彼女の感情の起伏を際だたせてきたのだ。音楽という支えがなくなった今、飾りをはぎとったありのままの人生を見つめなければならない。

(略)

 MGMが一九三二年に公開した『グランド・ホテル』をきっかけに、あらたに始まったトーキー時代に音楽はどのような役割を果たすべきかをめぐって、厄介な論争が繰りひろげられることになった。登場人物が嘆いたり、キスしようとするたびに、バイオリンやハープや金管による幽霊のようなシンフォニーがどこからともなく流れてくると、まだトーキーに慣れていない観客からは、ばかにしたような笑いが起こった。そのため監督やプロデューサーも、蓄音機、ラジオ、生オーケストラなどの音源が物語に書きこまれているときしか音楽を使わなかった。

(略)

 当初から映画音楽の技術は、BGM業界のニーズを明確にする役割を果たしてきた。初期の映画一般、特に『グランド・ホテル』のサウンドトラックにヒントを得て、ミューザックがわれわれの生活を彩る音楽のアレンジ方法を編みだしたということも大いにあり得る。「ミューザックの音楽」は、ハリウッドの映画音楽のように、目覚めているときも、夢を見ているときも休みなく演奏され(略)

BGMは空間と時間の不連続性を最小化し、不信感を休止させた状態に主体を引きずりこむ。

(略)

 ミューザックの曲の内容が、聴き手の感情や状況と一致することがあるとすれば、それはまったくの偶然(略)

けれども公共の場では、同じ音楽でも、そこにいる人の数だけさまざまに解釈されることになる。(略)さまざまな時間、場所、都市、州、国で、ミューザックがシンクロする瞬間がたしかにある。エレベーター、オフィス、空港、デパートで流れてきた音楽が、突然、まるで自分のために演奏されているような気がするときがあるはずだ。

 人々がようやくトーキーの音楽に慣れた一九三四年ごろ、映画製作者は「アップ・アンド・ダウナー」という装置を大いに利用するようになった。これは、サウンドトラックに会話の信号が入ると、自動的に音楽の音量を下げる装置である。

(略)

ヘンリー・マンシーニは自伝で、ユニバーサル・スタジオで過ごした薄給時代のことを語っている。当時は、低予算の西部劇や時代物の映画音楽に数人の編曲家が同時にとりかかり、撮影所のライブラリーにある昔のスコアをつぎはぎして大量生産していたという。

(略)

一九四〇年代、アメリカの作曲家アーロン・コープランドはつぎのように書いた。映画の「バックグラウンド」音楽は「作曲しても報われない音楽だ。なぜなら、それはせりふのうしろ、または下にある音楽であり、観客がじっと耳を傾むけることはなく、音楽があることすら気づかない可能性もある。(略)

表に出てはならない音楽を作るのは、作曲家にとってたやすいことではない。ふつう、作曲家は、できるだけ表現豊かであろうとするものだから」

(略)

 ムード音楽ライブラリーは、初期の映画音楽と同じように、演奏者やジャンルではなく、直観的にずばりわかるようなテーマ別に曲を分類することが求められた。「大騒ぎ」、「もやのかかった」といった説明的な題名がついていれば、放送局の担当者は曲のイメージをつかむことができる。演奏者にしても、いわゆる「巨匠」である必要はなく、その場かぎりのセッション・ミュージシャンが集められた。グループ名にしても「音の鍛冶屋」のような間に合わせのもので、そもそも名前がないこともあった。

(略)

 プロダクション音楽には、覚えられてしまった曲や、有名になってしまった曲はスクラップにするという昔からの伝統がある。なぜなら、音楽が耳につくようになると、映画や演劇、広告そのものから聴き手の注意がそれてしまうからだ。

(略)

 一九五〇年代、テレビ局がまだ独自のスタジオ編曲者を雇っていない時代に、プロダクション・ライブラリーは、わずかな費用で著作権を心配する必要のない音楽を無尽蔵に提供した。

ポール・ウェストン、ジャッキー・グリースン

 一九四〇年代末のこと。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、サンシメオンの豪邸で愛人マリオン・デイビスと食堂でディナーをとったあと、家庭劇場で映画を楽しむのを日課としていた。毎回、映画の始まる前に、映写技師は『夢の音楽』という驚くべき新アルバムを一枚まるごとかけなければならなかった。このエレガントに演奏されたセンチメンタルな人気曲集は、エジプトの彫刻や博物館級の骨董品に囲まれた邸内で、ハースト氏と愛人をゆったりとくつろいだ気分にさせる最高の鎮痛薬だった。アルバムの作者であるポール・ウェストンがこの逸話を知ったのは、一九八六年になってからのことだ。

(略)

ビング・クロスビー、ダイナ・ショア、(やがて彼の妻になる)ジョー・スタッフォードといった歌手の伴奏をつとめながらも、ウェストンは神経をかき乱すような音楽をかねてから偏愛していた。一九四四年、産声をあげたばかりのキャピトル・レコードのレコード・ディレクターになったときも、彼の音楽生活は、変化に富むフリーフォームのテンポや、耳をつんざく金管、バディー・リッチやジーン・クルーパが叩く猛スピードのドラムスにどっぷりとつかっていた。ウェストンはつぎのように回想している。

 

(略)フランク・シナトラドリス・デイがバンドよりも有名になって、音楽もどんどんスローになっていった。ジルバはすたれて、私の作るアルバムはどれも行き場を失ってしまった。

 

 雰囲気が変わったことを察したウェストンは、一九四五年に『夢の音楽』を録音した。(略)緩慢なテンポのやさしいスイング、ほどほどの音量、弦楽器とピアノの陰に隠れて金管は目だたない。歌もぐっとソフトになった。(略)当時としては天文学的な十七万五千枚の売り上げを記録した。

(略)

 ウェストンは、自分のムード音楽のアルバムは、大人のジャズと壁紙音楽とのあいだのきわどい一線にあることを認めている。

(略)

 

私はインストゥルメンタルのソロと対旋律を用いた。枠組みはダンスバンドだが、それにストリングスを加えた。ロバート・ファーノンならクラシックなオーケストラを使って、ジャズの要素はまったく取りいれないだろう。パーシー・フェイスも、コステラネッツも同様だ。このように、皆がまったくジャズっぽくないストリングスを多用したことが(私自身はバラードにもジャズの風味を用いた)、のちに「エレベーター・ミュージック」という言葉が大半のムード音楽を象徴するようになったゆえんではないだろうか。

(略)

 太って、陽気で、メランコリーで、大酒飲みだったといわれるジャッキー・グリースンは、「華麗なムード」という言葉の意味をさらに押し拡げることになった。

(略)

彼が『ジャッキー・グリースン・プレゼンツ』シリーズにどれほど関わっていたかは、意見が分かれるところだ。(略)

ゴードン・ジェンキンズによれば、グリースンは「アレンジ係に指揮を任せ調整室で太い葉巻をふかしているような」影の人物だったという。

(略)

 グリースンのレコードは、通俗的な男の欲望に臆面もなく媚びている。アルバムジャケットに描かれているのは、シルクとレースをだらしなくまとってソファに横たわる官能的な女性、誘うような唇で色目を使う妖婦、宝石で着飾ってバーのスツールにまたがっているファム・ファタール、暗い森にひそむ北欧のニンフ。

(略)

 一説によると、これらのレコードを製作するための資金の大半を、グリースンは自分でかき集めなければならなかったという。だが、やがてキャピトルも発売に同意し、ファースト・アルバム『恋人たちの音楽』は当時としては驚異的な五十万枚の売り上げを記録した。一九五二年から一九五五年にかけて、『ジャッキー・グリースン・プレゼンツ……』シリーズに、アメリカ国民は少なくとも二百万ドルを支払ったのである。

 『音楽、マティーニ、メモリー』は、無数のカクテルパーティーのBGMに使われ、『恋人たちのポートフォリオ』(略)にはバーテンダーのためのレシピがついていた。

マントヴァーニ、コステラネッツ

 五〇年代になると、生々しさを抜かれ、幾重にも音を重ねて音響処理を施した華麗なストリングス・アレンジが巷にあふれた。

(略)

 生まれたばかりの軽音楽の世界では、スタジオの新技術を利用して、無数のストリングスによる音のタペストリー作りが盛んだったが、なかでもマントヴァーニはそのチャンピオンだった。とぎれることなく続くエコーのかかったバイオリンのハミングの音は霧状に広がり、のちのスペース・ミュージック期のシンセサイザーによる和声を予感させる。

 ベネツィアに生まれたマントヴァーニは、トスカニーニコンサートマスターをつとめ、ベネツィアとミラノの音楽学校の教授でもあった父ベネデット・パオロと同じ道に進んだ。(略)子どものころに、一家はイギリスに移った。(略)初めての仕事は十五歳のとき、バーミンガムのレストランで演奏したことだった。やがてプロになり、母親の旧姓「マントヴァーニ」を芸名として使用した。

 マントヴァーニの音楽のスタイルは、一九二〇年代中頃に、バイオリニストのフリッツ・クライスラーから強い影響を受けたという。

(略)

 マントヴァーニはクラシック・バイオリンの素養とクライスラーの大衆的なスタイルを合体させて、たくさんの曲をホテル向けにアレンジして演奏し、一九二七年にはBBCの仕事をするようになった。

(略)

 マントヴァーニの特徴である「滝のような」サウンドが誕生するのは、五一年、デッカのアメリカ部門であるロンドン・レコードからワルツのアルバムを依頼されたときのことだ。(略)

 「アメリカで聴き手の心をつかむには、どうすればいいか考えた」というマントヴァーニは、四十人編成のオーケストラ(うち二十八人は弦楽器)をデッカの最新スタジオシステムで処理して、中世の教会の音響を二十世紀によみがえらせた。

(略)

「(略)私はビオラとチェロをたっぷり使って、クラシックなストリングスの音色を出したかった。きめ細かなハーモニーが欲しかった。大聖堂で演奏しているような、音が重なり合う効果が欲しかった」

(略)

かくしてマントヴァーニは(略)「百万ドルの音楽帝国」を築きあげたのである。

 マントヴァーニは、アメリカでステレオ録音のレコードを百万枚売りあげた最初のミュージシャンである。一九五三年から七二年の間に、五十一枚のアルバムを売り上げトップ五○に送りこんだ

(略)

 マントヴァーニの成功は、初期の頃からずっと録音技師をつとめたアーサー・リリーの力によるところが大きい。たとえば、耳をつんざくロックンロールを録音するためにデッカのスタジオにカーペットが敷かれていたような場合、マントヴァーニが録音の準備をしているあいだに、リリーは率先してカーペットをはがし、エコーの効果を高めた。フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」並みの残響効果を得るために、彼はストリングスだけでも最低九本のマイクを使った。また、マントヴァーニは、戦時中に開発されたデッカの「FFRR」(Full Frequency Range Recording=高音域録音)の恩恵も受けている。この技術開発の歴史をさかのぼると、ひとつはドイツ・グラモフォン社がしばしばその音響効果を利用していたベルリンのイエス・キリスト教会にたどりつく。ドイツの復興期にアメリカがRIAS(アメリカ管理区ラジオ)を設立した際、ある技師がこの教会を発見したのがきっかけで、その「聖なる音」が近代録音の世界に応用されるようになったのである。

(略)

 チャペルのプロダクション音楽ライブラリーの所長をつとめたこともあり、軽音楽オーケストラ界の大物たちとも親しく交際していたアーサー・ジャクソンは、マントヴァーニについてこう回想する。「気さくに話せる人物だったが、壮大な妄想を抱いているところがあった。三十五年たった今でも、彼との会話は一言残らず思い出せる。『アーサー、なかなかいい評を書いてくれたね……でも、私がほかのだれよりもすばらしいってことが、読者に伝わっていないじゃないか』ってね」

(略)

コステラネッツの天才的なテクニックが証明されたのは、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときのことであった。コステラネッツは志願して軍楽隊の指揮者になり、ドイツからビルマまで慰問演奏を行なった。このとき彼は、演奏者が自分の耳に頼らなくても、音程が合っているかどうかを知らせてくれる装置を導入した。マサチューセッツ工科大学は、この装置を潜水艦を探知するソナーに応用した。大西洋海戦の勝利に寄与したとして、コステラネッツはのちにイギリス海軍省から讃えられた。

エセル・ゲイブリエル、パーシー・フェイス

 『ムード・イン・ミュージック』シリーズの制作スタッフの顔ぶれをみてみよう。最重要のアレンジャーはウィリアム・ヒル・ボウエン。ほかにロバート・シャープルズ、ロバート・アームストロングもアレンジを担当した。けれども真の立役者は、女性プロデューサーの草分けのひとり、エセル・ゲイブリエルであった。

(略)

女の子にしては珍しくトロンボーンに興味を示し、すでに十三歳のときにはダンス・バンドのリーダーだった。

(略)

「(略)ボブ・アームストロングを起用したのは、五種類の楽器からすばらしい和音を作りだす才能があったからだ。ボブはピッコロを基本にして、低音部、中音部、高音部まですべての音域に音を広げてみせた」とゲイブリエルはいう。

(略)

 リビンリビング・ストリングスのメンバーの多くは、BBCや口ンドン交響楽団の出身だった。初期のリビング・ストリングスの曲はイギリスで録音され、しゃれたアルミ箔のカバーでパッケージされていた。音楽はゲイブリエルの考案した、スタジオ外の環境を利用した「室内サウンド」エフェクトの処理を施されていた。当時のレコーディング・アーティストがよく録音に使っていたニューヨークの一九丁目にある教会を、リビング・ストリングスも利用したのである。ゲイブリエルは回想する。

 

当時はエコーが重要だった。六〇年代初めにドイツでエコー室が作られるまでは、最高のエコーが得られるのは二四丁目にあるRCAのスタジオの男子便所だった。マンハッタン・センターのような場所でトスカニーニがレコーディングするときなど、音楽をそこに通してからスタジオに送りこんだものだ。

(略)

「リビング・シリーズは、音楽を愛しているけれども、少しでも高尚になりすぎると、とたんに理解できなくなってしまうような人に合わせて調整されている。リビング・ストリングスとメラクリーノによって、私はラジオのイージリスニングの少なくとも九五パーセントは支配した」

 ゲイブリエルはさらに守備範囲を広げようと、のちにニューエイジの時代に盛んになった音によるセラピーの先駆けである『禁煙するための音楽』というアルバムを制作した。このアルバムは、ゲイブリエルをはじめとする業界関係者が「コンフォート・ゾーン」と呼ぶ環境を作り出すよう設計されている。音による心理操作を狙ったと思われるのを嫌って、この件に関するゲイブリエルの発言は控えめだ。

(略)

心を落ちつかせるためには、安定したムードの助けが必要なことは知っている。今日、じつに多量の情報が飛びかっているけれども、平均的な人間は情報に対して無防備だ。ニュースではありとあらゆることが大げさに報じられている。絶えず頭の切替えを要求されて、ストレスと緊張に対処しきれない。感情面の成長が技術面の成長に追いつかないのだ。だからストリングスが、感情を支える杖の代わりになってくれる。音楽は洗脳だ――一部の人間はこのことを知っている。プレッシャーをかけ、強制的に聴かせれば、マインド・コントロールができる。だからこそ、抱きしめ、愛撫してくれる音楽がまた求められるはずだ。

 

 そのもっともよい例がパーシー・フェイスだ。マックス・スタイナー作曲「夏の日の恋」をフェイスのポピュラーなアレンジで演奏したバージョンは、センチメンタルで人畜無害なBGMの典型といえるが、フェイス自身はけっしてこの作品を好まなかった。じつのところ、彼好みのラテン風のパンチが効いたかつてのヒット「デリカード」ではなく、「夏の日の恋」のほうが代表曲になってしまったことをフェイスはくやしく思っていた。けれども、彼の意に反して「夏の日の恋」は世界的なセンセーションを巻きおこした。グラミー賞を受賞しただけでなく、一九六〇年の一年間、この曲は一度もヒットチャートから落ちなかったのである。

(略)

 メロウになりすぎず、騒々しくなりすぎないというフェイスのデリケートなバランス感覚は、天性の音楽の才能であると同時にキャリアの上では災いでもあった。甘いバイオリンを扱わせれば右に出る者がないのに、その点ばかり評価されるとかえって警戒してしまうのが常だった。けれども一九五〇年の発言には、そのような不安は見られない。当時彼は、自分の目標は「自宅でくつろぐ静かな夕べというアメリカならではのひとときを大切にして、安楽椅子と室内履きとよい音楽こそくつろぎだと考えるような何百万もの人を満足させること」であると述べた。だが、こんなにここちよい感慨を語った当の本人は、あまりに快適になるのを嫌ったのである。

 

Four Classic Albums

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フェランテ&タイシャー

クルト・ワイル=ベルトルト・ブレヒトの「モリタート」(のちの「マック・ザ・ナイフ」)のアレンジでミューザックのお気に入りになったディック・ハイマンは、もともとはジャズ畑出身であったが、ジョン・ギールグッドのシェイクスピア朗読の伴奏や、テレビのゲーム番組『バック・ザ・クロック』でオルガンを弾くうちにムード音楽寄りになっていった。

(略)

ドイツのホルスト・ヤンコフスキーはベルリン音楽学校でコンサート・ピアニストの資格を得て、戦後の若者世代のひとりとして登場した。十八歳のときには、すでに自分のジャズ・コンボを結成していた。カテリーナ・バレンテの伴奏者としてヨーロッパを回り、マイルス・デイビスオスカー・ピーターソンのディレクターをつとめたあと、親しみやすいインストゥルメンタル曲「森を歩こう」で本来の才能を開花させた。

(略)

 大衆へのアピールを追求したことから生まれたクリエイティブな作品を語るには、アーサー・フェランテとルイス・タイシャーを欠かすわけにはいかない。マンハッタンのジュリアード音楽院で神童と呼ばれたふたりは、アヴァンギャルド界の腕白小僧から、近代音楽史上もっとも成功し、もっとも多産なイージーリスニング界の大立者に成長した。

(略)

「……私たちが二台のピアノのための新しい作品の実験と創造に手を染めたのは、教師をしていたときだった。目新しい音楽を求めて、ピアノに紙や棒きれ、ゴム栓、メゾナイト線、ボール紙の楔、紙やすりなどをつめこんで、銅鑼やカスタネット、太鼓、木琴、ハープシコードに似せた(ジョン・ケージ風の)奇妙な効果を出そうと苦心した。(略)今の私たちの演奏が、昔のジュリアードの同僚をいささかたじろがせるのはまちがいない」

 『ブラスト・オフ!』『ヘブンリー・サウンド・イン・ハイ・ファイ』といったタイトルのアヴァンギャルドなアルバムを何枚か出したあと、一九六〇年にユナイテッド・アーティスツと契約したのを機に、ふたりは大きく軌道修正した。

(略)

「映画音楽やショパンチャイコフスキーラフマニノフの人気曲を単純化したバージョンが大成功したので、私たちはいかにもクラシックのピアニストというようなレパートリーをやめて、広告のうたい文句も『ピアノ・デュオ』から『ふたりのショウ』に変えた」

 一九六〇年から七〇年のあいだに、ヒットチャートのホット一〇〇に入った彼らの曲は十一曲。

(略)

「クラシックを『捨てた』ことは後悔していない。私たちのよさは『シリアスな』時代と少しも変わっていないが、当時は演奏会に出かけてくるごく少数の人にしか知られていなかっただけだ。より軽い音楽に移ったことで、生活のために教師をしなくてもよくなった」

次回に続く。