サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方

はじめに

(略)

〈近代芸術〉という独特の領域は、神というものを否定してしまった結果、成り立ったと論じられることがある。ルネサンス以後、神というものが少しずつ否定されていったので、どうしてもそれに代わるものが必要になり、それが芸術というものに収斂していったというわけである。だから、その根本のところでは美学という、神学に似た形而上学的な思弁がカウンターバランスとして必要となる。ならば〈音楽モダニティ〉というものには最初から矛盾がはらまれていたことになる。

 具体的には〈人間主義〉と〈科学主義〉という二つの概念が相補的かつ対立的に働く芸術世界ができあがる。この根源的な矛盾の解決のために、音楽を啓蒙主義的に解明しようとする試みが一九世紀以来始まった。(略)

[音楽学]の主要な分野のひとつに音楽史というものがあるが、これはもともとバッハ復興期あたりに始まった、古い資料の整理がきっかけとなってできあがっていったものだ。これは偉大なバッハか同時代のB級品かを見分けるための骨董品鑑定の学としかなりようがなく、結局のところ、西洋芸術音楽の普遍的な意義を主張するためのプロパガンダにしか落ち着きようがない。

(略)

音楽心理学とは、きわめて文化依存的なものであり、古典期からロマン派の音楽を経由してポピュラー音楽で使われるようになった平均律と調的和声の情動感を前提としたものである。だからたとえばヴェーベルンの無調音楽を聞いて暗くて不気味と反応し、あるポピュラー音楽を聞いてハッピーな気分になるという心理特性は、人間の本質などとはあまり言えない、ある一時代のある地域の人間の傾向に過ぎない。だからこれは、西洋音楽という閉じられた感性によって、普遍的な人間性に迫ろうとする意図以上にはなりようがない。だから民族音楽学において音楽心理学が有効に援用されている例を目にすることはない。そもそも音楽と情動のかかわり方が西洋と異なっているので、音楽心理学という西洋音楽から発想されたものと非西洋音楽とは接続のしようがないからである。

 さらにこういった矛盾は音楽療法という領域ではもっと顕在化している。

(略)

近代の最終地点のパロディの域にまで音楽を進めた前衛音楽や実験音楽の役割は終わり、だんだん色あせたものに見え始めた。同時に、芸術という保護区における、新奇で個性的なものを珍重する精神そのものも、やや色あせ始めたようだ。

(略)

 いまでは当然視されている、録音された音楽に聞き入るという行為も〈音楽モダニティ〉のもたらした音楽行為のひとつであると考えられるのだが、なんとそれが近年終わりかけているようにも見え始めた。CDの売り上げは減じ、総じてライヴや演奏会にも人は集まらなくなり、音楽を営為としてきたひとたちもそろそろ廃業を考え始めたという話も聞かれるようになった。(略)

私には音楽という営み全体のポテンシャルが落ち始めたことの疑いを否定することは難しい。〈音楽モダニティ〉は、偉大なクラシック音楽とともにグローバル音楽ビジネスを創出させ、一世紀ほどの間はたいへん隆盛したが、どうもそれが終局に向かいつつあるかもしれないのだ。

ヒューマニズムによる音楽の疎外

(略)

「音楽を共有するためのルール」とは、そもそもはそれぞれの音楽文化におうじて異なる、ローカルなルールである。(略)

このルールのあり方は、音楽学という学問が出現し、なんとはなしにヨーロッパの視点を中心としたグローバル化へと向かいはじめてから大きく変わる。(略)

ヨーロッパの中心における音楽とその周縁の音楽を差異化するところからはじまり、芸術音楽と大衆音楽、ヨーロッパ音楽と非ヨーロッパ音楽、絶対音楽と世俗的音楽など、つぎつぎと音楽の差異化を進め、ついにはすべての音楽を欧米的・資本主義的な視点から包合する「ワールド・ミュージック」という視点にまで達した。

 「アフリカ音楽」という音楽はアフリカにはない。その土地にはその人々の音楽があるだけだ。そこには名前もない。「アフリカ音楽」は、欧米人がある地域の音楽をひとつのくくりにして差異化をおこない、作りあげたものだり。かくして、人々は(略)「太鼓を叩いて精力的に踊る」といった「アフリカ音楽」のイメージを漠然ともつようになる。

 その後、民族音楽学が出現したとき、西洋の芸術音楽以外の世界のさまざまな人々の音楽が平等な視点でながめられることが期待されたが、民族音楽学という発想そのものが、最初からヨーロッパ外の音楽との差異化からはじまったものであり、この平等主義はどこかで差別主義へと変わらざるをえなかった。

(略)

 こうしたグローバル化のコンセプトの中心にあるものはなんだろうか。いまのところ私は、これは結局、「ヒューマニズム」という言葉で表現できるのではないかと考えている。このような考えを私がもつようになったのは(略)ポストモダンの思想、とりわけミシェル・フーコーの哲学の影響ゆえであることはたしかなのであるが、同時に私が日々、音楽に接しているなかでの切実な実感からでもある。

(略)

民族音楽学者ジョン・ブラッキングのいうように、音楽に共通性を措定することには私も賛成である。異文化を理解する努力も、いうまでもなく大切だろう。ただ同時に、こうした素朴なヒューマニズムには、おたがいに理解しえないことについての配慮がどうみてもとぼしすぎよう。

(略)

平板でおおざっぱな人間理解や、音楽のとらえかたがひとり歩きし、それらがヒューマニズムというひとつの簡便なイデオロギーにまで発展して、人々を動かしている。私が問題にしているのは、このようなおおざっぱな音楽の感性のあり方である。

(略)

そんなことはジャーナリズムや商業主義のなかだけの話だといわれるかもしれないが(略)

音楽教育や音楽療法のような世界においてもこのイデオロギーが色濃く力を発揮していることを、私はどうしても放置することができないのである。

 音楽において情動が重視されるようになるのは一八世紀頃からだろうか。バッハの受難曲では、キリストの苦悩や悲しみが音楽として表現されている。それは、キリストもまた、「われわれと同じように感じ、考える」という人間観なしにはなしえなかったものだろう。そういった感性が拡張され、いまでは情動言語化されたポップスの和声進行にまで発展し(略)同じような情動効果を得るために同じような和声進行が繰り返し使われるようになったのである。そして、音楽とは一義的に情動にかかわるものであるという信念が普遍的原理となり(略)音楽心理学などの学問や音楽療法の基礎の形成にまでかかわっていたりする。(略)

クラシック音楽という生政治

[ローレンス・クレイマー『音楽の意味』でのベートーヴェン「月光」考察]

作品二七の二曲は、当時としては思い切ったコンセプトを打ち出した実験作であった。(略)二七-一のほうは、切れ切れの断片がつながってゆく、のちのシューマンのような作り方であり、当時からみればかなり大胆といわねばならない。

 問題の二七-二のほうであるが、ベートーヴェン自身とその時代の人々にとっては、このソナタの主眼は、まずは激しく速い第三楽章にあったようだ。静かで動きのないアダージョからはじまり、かわいいアレグレットをはさんで、終章でいっきに怒濤のクライマックスを迎えるという仕掛けで、その直線的かつ単純で、ちょっとパンクな感じがベートーヴェンらしい。いずれにせよ、作曲家自身にとっても、また、その時代の聴き手にとっても、勝負は第三楽章だったことは当時の評論などからも明らかのようだ。

 しかし、その後、この曲の第一楽章のみが切り離されて、リラクゼイション・ミュージックとして別格の地位を獲得する(略)

まず、焦点が第三楽章から第一楽章へと移され、あのC#マイナー・コードの三連符に「崇高さ」のような概念が植えつけられる。ついで、その崇高な音楽に、悲しさやメランコリックな情動が付加される。しかし、こういった、ベートーヴェン自身の悲恋のお話や、詩人のレルシュタープが一八三二年に書いた月光とスイスの湖のイメージが付け加えられるのは、ベートーヴェンの死後のことなのだ。また、クレイマーによると、このレルシュタープが描くイメージは、当時の画家、カスパール・フリードリヒの描くような、むしろ寒々とした光景であったそうで、いまふつうに思い描かれるような幻想的なイメージは、その後、ノクターン的性格が付け加えられた段階のものであるようだ。

 そしてそのまた次の段階では(略)性愛の要素が付け加えられることになる。(略)ブルジョワ家庭の居間に置かれたピアノはたんなる楽器ではなく、恋愛や結婚生活など性愛にかかわる象徴的意味をもったのである。この時代、ほの暗い部屋でピアノを弾く女性とそれを聴く男性といった、ピアノを大道具とした一九世紀的なロマンティック・ラヴを暗示する絵が描かれたり、《ムーンライト》を小道具にしたトルストイの『結婚の幸福』のように、ブルジョワ家庭における結婚とその波乱を描いた小説が書かれたりする。

(略)

 この一九世紀に発生した「エロティックな意味を発生するメディアとしてのピアノ」という概念は、なにとはなしにわが国においては音大(音楽大学)文化のなかに温存されているような感じはあるものの、いまでは(略)リラクゼイションやヒーリングの音楽の定番として、また新たな役割が与えられている。

 この過程をみると、いかに人々が音楽にたいして恣意的に意味を貼り付けてきたかがよくわかる。(略)このような言説がなかったら、この二七-二は中期のぱっとしないソナタのひとつという評価に落ち着いていた可能性も高そうだ。

(略)

クラシック音楽とは、音楽というテキストにさまざまな言説が貼り付けられたものであるというのがクレイマーの主張なのだ。

(略)

モーツァルトの時代ぐらいまでは、音楽はなかば他愛もない遊びであったのだが、その後、音楽は道徳や倫理などを包含するようになり、私の言葉でいえば、「正しい音楽」がさまざまに発展していくことになるのである。

(略)

 ベートーヴェンはその音楽とともに、生前から正しい道徳を標榜する人として祭り上げられていき、晩年にはみずからもその気になって《第九》交響曲を書いてしまうにいたった。指揮者の岩城宏之氏が最晩年、この曲について、第三楽章の美しさはたとえようもなくすばらしいが、第四楽章の馬鹿馬鹿しさはどうしようもない、と述べていたことを思い出す。

(略)

 ベートーヴェン以後、クラシック音楽は正しい生き方とつねに重なるものとなっていき、教育や音楽療法のバックボーンとして位置づけられるようになる。

(略)

それはその音響の特性のゆえのみではなく、その背後の思想性もおおいにあずかっている。(略)

人種主義にいたる比較音楽学

 ベートーヴェンに代表されるような、モラルとかかわるものとしての音楽は、その後、他愛もない遊びのようなロココ様式のモーツァルトの音楽にも拡大され、モーツァルトは、天真爛漫な子どものような純粋さとして、モラルのストーリーのなかに位置づけられる。バッハの場合はどうだったか?一八二〇年代からはじまったバッハの復活演奏は、その当時の人々には、じつのところ、ただただわけのわからないお固い音楽に聞こえたようだ。なので、なにやらわからないけれど偉い音楽という地位があたえられ、崇高さや宗教性の深さとともに語られるようになった。これは基本的にいまも変わっていない。その後、バッハの音楽は長い時間をかけてロマン派的心性に近づけるべく工夫され、ヒューマナイズされ、いまのような演奏スタイルになっていった。

 こういった動きには一九世紀のドイツ教養主義の影響がおおいにかかわっているし(略)ドイツ音楽優位の思潮もこのあたりで作られていった(略)

 ドイツ音楽にたいしてドイツ人が特別な意識をもつようになるのは一九世紀のなかばあたりのことだが、やがて二〇世紀になり、一九三八年には第三帝国の宣伝相、ヨーゼフ・ゲッペルスが大規模な音楽集会において、音楽こそがドイツの輝かしい遺産であると高々と国民に宣言するにいたるまでになる。

 音楽学という学問の基礎が形成されていったのは、そういった第一次世界大戦後のワイマール期からナチス・ドイツの時代にかけてだった。比較音楽学と呼ばれるいまの民族音楽学のもとになった学問分野もこの時期に作られる。もちろん、ここでいう「比較」とは、さまざまな世界の音楽を比較するということなのだろうが、真意は「西洋音楽」と「非西洋音楽」の比較にある。

(略)

フリッツ・メッツナーは、ドイツ民族音楽の音感が明確に長調と三和音であるのにたいし、北欧の民謡が短調や教会音階や半音階に傾く理由を、なんと頭蓋骨のかたちに求め、短頭蓋骨系であるドイツ人は長調系、長頭蓋骨系である北欧人は短調系、という理論で説明を試みている。(略)笑い話ではなく、これは一九三八年に提出された博士論文なのである。

ポピュラー音楽が背負ったもの

ポピュラー音楽は、オペレッタやミュージカルのようなクラシック音楽と大衆音楽の中間にある音楽や、映画で歌われた歌や民衆のはやり歌のようなものを吸収しながら発展し、一九五〇年代にはいまのようなポップ・ソングのスタンダードなかたちができ、その後アフロ=アメリカン音楽のノリ(現在のエイト・ビートのポップ・ロック)を加味してグローバル化されてゆく。

(略)

アドルノは、ポピュラー音楽は芸術性や精神性に欠けるという観点から、それを低い位置においたが、ポピュラー音楽のアドヴァンテージはまさに、芸術性や精神性のようなドイツ音楽的大義から解放され自由になったことにほかならない。それにせいせいしたように、その後ポピュラー音楽はクラシックとはくらべものにならないほど大きな市場を獲得してゆくことになるが、それを可能にしたのは、杜こなてが指摘するように、その大義を現代音楽に背負わせることができたからだろうな。

 しかし、芸術性や精神性に代わってポピュラー音楽があらたに背負わされたものがある。短時間内に情動を供給するという役割である。

(略)

[クラシック音楽とポピュラー音楽の共通性は]調性と三和音による和声、そしてそれによる情動操作に依存している点だ。ちょうどそこから逸脱していくところだった現代音楽は、ポピュラー音楽にとって、芸術性というやっかいな役割を押しつけるには好都合な存在だったにちがいない。現代音楽の側も、さほど聴衆を獲得できない音楽の大義を成り立たせるには芸術性という大義に頼るしかない。

(略)

 ポピュラー音楽が現在使っている和声技法は、基本的にロマン派の音楽によって開発されたものであるが、のちにコード進行の技法へと単純化され、バークリー・メソッドのように一種の普遍原理のような体裁にまでまとめあげられるようになってゆく。(略)

クラシック音楽ではメロディとバスの関係にかすかに残っていた対位法のなごりが、ポピュラー音楽ではほとんど消滅し、一小節一和音のように和音の進行が拍節とシンクロし、より単純化したことだろう。その結果、コード進行による情動の類型的表現が発展する。当然この類型により、似かよった曲が大量に作られてゆくことになる。

(略)

 上記のような民族アイデンティティや情動の管理の問題は、人の生にたいする社会による制御という意味で、生政治的な現象と考えるしかない。確認しておきたいことは、近代西洋音楽というイデオロギーのなかに、上記のような生政治的な側面が最初からそなわっていたということであり

(略)

マックス・ヴェーバーが指摘したように、近代西洋音楽が合理性という道具的理性によって突き動かされてきたことがあげられる。啓蒙や合理性が一種の暴力性をもちうることは、アドルノとホルクハイマーの指摘やアウシュヴィッツの悲劇をもちだすまでもなく、もういまでは誰もが空気のなかに感じていることにちがいない。

ノイズの排除と共存

(略)

 歌ったり、リズムを打ったりすれば、自然界のノイズからは弁別できうるサウンドが立ちあがる。ドゥルーズ=ガタリの言葉を借りれば、これがリトルネロであり、領土化の第一歩ということになる。

 音楽はノイズから立ちあがり、なんらかの発展をしていった、というのがここでの議論の前提である。いまではノイズ・ミュージックなどが盛んで、ノイズにも充分な発言権が認められるようになってきているが、それを理解するには、それ以前に無反省に進められてきたノイズの追放という思想を振り返る必要がある。

 音楽のはじまりが、ノイズから弁別されうる音の探求だとするなら、次にはその音からノイズ性をできるだけ消去し、さらにピュアな信号となることをめざすだろう。かくして楽器は、明瞭なピッチを生みだせるよう、あるいはその音の信号成分をできるだけ明瞭にするよう、つまりノイズ成分をできるだけ抑えるように改良されてゆく。

(略)

 近代の西洋音楽文明では、ノイズの排除のために科学がふんだんに動員されることになる。(略)それはやがて音楽の構成システムにまでおよび(略)そのもっともはなばなしい成果は十二平均律の発明だろう。

(略)

 こういった西洋音楽の姿勢にたいし、非西洋世界では、楽音とノイズの関係を宿命のごとく受け入れ、一種の共生関係を成り立たせる道を求めた。(略)

歌えば息の音はするし、音程もはずれる。どんなものからも非整数倍音は生じるし、どんなに正確に打っても拍は不均一になる。このようなノイズ要素との共存は、音楽というものを、あえていえば一種平和なものにしている。うまいへたは多少あっても、誰でもが参加可能だし、気軽に楽しむことができる。これは、西洋音楽が捨ててしまった潜在性のひとつである。いまとなっては、これを取り返すことはけっこうな難題だ。

(略)

ノイズの排除によって獲得されたのは、一種の合理性と普遍性であるだろう。ガムランのアンサンブルは楽器のセットごとに調律が異なるので、隣村のアンサンブルと合同演奏をしたいと思っても無理な話だ。(略)

西洋音楽文化においては(略)どの国のどのメーカーでも、ホルンの調律は同じだから(略)別の場所に譜面をもっていっても再現できる。このような合理性ゆえに、西洋音楽とその考え方は世界中に普及することになった。これがノイズの排除という生政治の成果の一端である。

音楽からの身体性の排除

 ノイズの排除という思想は、楽音からのノイズの排除のみならず、音楽の構造や微妙な口承的要素の合理化にまでおよんでいった。装飾音などにみられるパフォーマンス・プラクティス(演奏習慣)は標準化され、記譜によって明示されるものとなり、譜面化できない即興性も排除されていった。こういったことをもう少し概念化していうなら、それは音楽からの身体性の排除ということになるだろうか。(略)

啓蒙思想の普及と並行して(略)音楽から祝祭の狂気や暗黒や静寂の危険が消えてゆく。それに代わったものが絶対音楽や音楽の自律性や芸術至上主義といったヴァーチャルな場である。そして宇宙にまで解放された自由さとその代価としての一種の危険さを秘めていた音楽は、芸術という安全でヴァーチャルなリングのなかでの闘いへと移行する。音楽からは危険さは失われ、芸術という安全なゲームがはじまる。音楽は生政治の管理下におかれ、武装は解かれたのだ。

(略)

 ブルースという音楽は、こういったノイズの排除について考えるときに、ある有効な視点を提供してくれると思う。レッドベリーなどの初期のブルースからもっとのちの一二小節パターンへの整理の過程は、もちろん上記の合理化によるノイズ排除の原則に従うものだ。(略)

しかしながら、ブルースという音楽のハイブリッド性は、そんなにヤワなものではなかった。ブルースの音階とそのハーモニーのあいだのずれは、いまでも合理化をはばんでいる。たとえば長三和音上にのっかる短三度の音程は、b10thとも#9thとも説明されるが、これではなんの説明にもなっていないし、その不合理さを回収しきれてもいない。西洋近代の発想による理論化という生政治的管理をくぐり抜けたブルース(略)

バップ・ミュージシャンがジャズ語法に、プレスリーが軽薄な恋歌に、ビートルズストーンズが意味ありげなロックに、ジェイムズ・ブラウンがノリだけのファンクに、さらにR&Bに……いったいどれだけの音楽がここから生成されてきたのだろう?

 これははからずも、西洋音楽のドレミとドミソのシステムに、異種の音楽をむりやり詰め合わせた結果生じた矛盾ゆえに生まれた力である。ブルースはこの力によって、西洋近代音楽の生政治からかろうじて逃走しえた数少ない例外のひとつかもしれない。(略)

「楽しい音楽」思想が生むもの

 西洋音楽という管理化された音楽から生じたもののひとつが、「楽しい音楽」という思想である。

(略)

 初期の音楽心理学では(略)「人は長調で軽快なリズムを、明るく楽しいと感じる」といった説に定式化する傾向があった。

(略)

[言葉の整理をすると]

私にとっては「音をすることは楽しい」と言葉にできるのだが、それは一般的に悲しい音楽といわれている音楽(たとえば葬送行進曲)を弾くときでも楽しい、ということだ。この場合の「楽しい」は、興味がある、刺激的である、おもしろい、という意味に近い。明るく、高揚した気分をさす「楽しい」と、よく混同されて使われる。「楽しい音楽」というときの意味はいうまでもなく後者のほうである。

(略)

たとえば、バリ島のケチャは楽しい音楽なのだろうか、それとも悲しい音楽なのだろうかと考えても、それは無意味な問いである。バリ島人にきいても質問の意味からしてわからないにちがいないもちろん、バリ島のケチャには、前述したような刺激的、おもしろいという意味での楽しさはあるが、後者の意味はあるように思えない。

 

 ならば「楽しい音楽」は、西洋音楽に特有のものということになる。では昔からこの思想があったのかというと、少なくともグレゴリオ聖歌などの旋法音楽では、楽しいか悲しいかを問うてもあまり意味はなさそうである。音楽で楽しさ、悲しさの表現を意識するようになったのは、平均律と三和音が使われるようになった、もう少しあとのことのようだ。

 そして、いつしか「楽しい音楽」は、動物行動学でいうようなリリーサー(自動的に固有の反応を引き起こす信号刺激)のように人にはたらき、人を明るく楽しく幸せな気分にするという信仰のようなものができあがった。ここから出現したのはミューザックやBGMのような、チアフルな音楽群である。

(略)

 もちろんこういった現象にたいし、サウンドスケープ論のような批判的立場が生まれ、それがある程度認められてはきている。ただ、マリー・シェーファーサウンドスケープ論の問題点は、ものごとをあまりにも単純に音響と人間のかかわりでとらえすぎているところだ。都市の音環境が劣化したのは、現代人の耳が劣化したから(だけ)ではない。もっとも重要なことは、音文化の中心的位置にある音楽にかんする感性が変化したことだ。

 この「楽しい音楽」思想が現代社会の音楽状況全体に大きな影響力をもってしまい、音楽も教育や音楽療法の土台にも忍びこんでしまっていることは、驚くほど見過ごされているのだが、これについては、また別に論じることにしたい。(略)

画一化される情動と、その再生産としての音楽

 たとえばポピュラー音楽の情動は、それを買う消費者の意向を反映していると通常考えられているが、それは商品としての音楽とその消費という単純な図式のなかでのことである。その消費者の意向はどこからきているのかについては、あまり議論されていない。あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである。

 いまとなっては、わずかの幸福な例外をのぞけば、音楽の情動は資本主義による「世界音楽」という都合のよい管理機構の傘下に管理されており、人々はそれを買うことによって自分のものにするのであり、さらにその情動が消費者によって濾過され純化され、次に生産される音楽にフィードバックされる。この濾過フィードバックによって情動はどんどん画一化され、それをリニューアルした音楽の再生産がループのように続く。この過程では、音楽の情動はすでにフライト・アテンダントの笑顔のように精選され管理されているので、まちがっても晩年のマーラーのような不健康な情動が混じる隙はなく、咀嚼しやすいファミレスのメニューのように整理され、売られているのである。(略)

これ以上、音楽を作る必要があるのか?

(略)[大学を]卒業するまで毎年課題作品を提出しなければならなかった。(略)

世の中にこんなにたくさんの曲があるのに、私のようなものが新しい曲を書く意味はなんだろう、という(略)タブーに近い自問自答を、心のなかから追いはらうことができなかった。

(略) 

[友人の美術大学では卒業生が持ち帰らなかった絵を保管するスペースがなくなると]

適当に焼却処分するのだという。(略)美術品というものは究極的にはゴミなのだと思った。

 世界に画家といわれる人が何人いるのかわからないが、彼らが年間に生産する絵画の量はどれくらいなのだろう?(略)身動きがとれなくなるほどに絵でいっぱいになってしまった世界。それは漫画的な妄想でしかないが、一面の真理もある。(略)

 音楽は絵のように場所をとらないので、このような状況はさほど想像しにくいが、ある時代からこっち[どんどん蓄積されてきている](略)

バッハの時代には、作品を末永く残そうという意欲はあまり強くなかったようだ。新作された作品の楽譜でさえ、いちど演奏がすんだら、さほど注意深くはあつかわれなかった。そのようにして、バッハの作品は完全に忘れ去られていった。

 だが、ご存知のように一〇〇年ほどへたのち、彼の作品はふたたび注目の対象となりはじめる。(略)忘れ去られていたバッハの作品の楽譜を収集していたほんのひとにぎりの好事家の私的なコレクションから、まずは復興がはじまった。その後、各地でバッハ作品の発掘がはじまる。音楽学という学問は、そういった収集、鑑定、整理のための方法論が必要となったことによって生まれた。こうした書誌学的な研究は、いまでも音楽学のなかの重要な部門といってよいだろう。

 このように多くの努力がはらわれてきたにもかかわらず、いまだにすべてのバッハ作品が、発見され整理されアーカイヴ化されているわけではない。最近でもヨーロッパのどこかで、知られざるバッハ作品が新発見?といったニュースが耳目を集めることがある。古い教会や貴族の館の物入れからほこりをかぶった大作曲家の手稿を発見するのは、いまなお音楽史学者の見るインディ・ジョーンズ的夢のようである。

 こういった過去の作品の発掘と保存は(略)啓蒙思想や歴史意識の発生、さらにはヘーゲル的な――世の中が右肩上がりに進歩するという――世界観と深くかかわる現象である。またここには、西洋芸術音楽をそのほかの世界の音楽から切り離して特別あつかいするため、合理的な歴史的説明が必要とされたという事情もおおいにかかわっている。金字塔のごとくそびえる西洋芸術音楽が、みずからの成立についての説明を必要とするのは、京都あたりの老舗が室町時代あたりからの店の縁起をまことしやかに吹聴するのとさほど変わらない。

 もうひとつ、作曲というものをささえているのは、芸術家の創作というものにたいする無条件の肯定である。弟子にたいして作曲に専心しているかどうかを問う先生の意識には、芸術家が作品を作りだすことは(たとえ生まれたものが駄作であろうと)、貴重な営為である、という強い信念のようなものがある。

(略)

私が学生であった時代、作曲科の学生が書くべき音楽は、「現代音楽」という社会的にさほど認められていない領域にかぎられていた。ほとんど需要もなく、見返りも悲惨なほどに期待できないジャンルである。にもかかわらず、彼らが創作を続ける意義は二つある。ひとつはこの西洋的モダニズムにおける創造というイデオロギーへの信仰にたいして帰依を示すこと。もうひとつは、そんな狭い市場のなかでのわずかなチャンスをものにするため、という現実的な理由である(作りつづけなければわずかなチャンスもめぐってはこない)。

 われわれ作曲の学徒が、人々から見向きもされない新しい音楽を作りだすそのいっぽうで、市場ではバロック音楽や、マーラーブルックナー交響曲といった、これまた見向きもされていなかった多くのレパートリーが再開発され、芸術音楽のアーカイヴに組みこまれ、ふくらんでゆく。しかし、データベースがいくら巨大になっても、とりだされ消費される量がそれほど増えるわけではない。消費されるデータ量がかぎられるのは、人々の感性が時代や社会の世界観に制限されるからである。当然ながら、時代の流行からもれたものは見捨てられたままに終わる。かりに音楽作品の博物館が作られ、優秀な館員の努力により、完璧なコレクションができあがったとしても、その大部分はとりだされることなく終わるだろう。(略)

芸術自身の「自分探し」

(略)音楽は進歩しなくてはならず、つねに新製品が開発されなくてはならないという、西洋芸術音楽にたいする一八世紀以後のやや強迫的な意識は、どうも終わりはじめているようである。(略)音楽産業は新しい企画よりも、いままでのレパートリーを再利用する消極的なビジネスに終始している。

 人によってはこれを音楽の衰退と考えるかもしれないが、西洋近代の音楽(や芸術)の大きな物語が凋落したことの表れと考えるほうが順当だろう。いま問われるべきなのは、たんなる技法上の可能性のなかでのラディカルさではなく、上記のような物語に頼れなくなった状況において、新しい音楽の姿を考えることである。

 作曲家の近藤譲は、音楽は多面的なものであり、いまだに多くの謎を秘めたものであるがゆえに、その謎への問いを立てるところにこそ作曲という行為の意義があると述べているが、これは西洋近代のイデオロギーのなかのある部分を逆手にとって、もう無用となりつつある作曲にあえて意義をみつけようとする試みに思える。前衛的な芸術は社会から孤立し、その自律性を貫徹することによって、社会にたいする鋭い刃となるという、晩年のアドルノの考えかたとも似ている。大きな物語に依存しない問題提起のありかたとしては、このような姿勢もありうるかもしれない。

 近藤のこのようないいかたは、美学者、A・C・ダントーのいう、それまでは表現の可能性の追求であった美術が、一九六〇年代以後はみずからの存在意義を探すための哲学と化してしまったとする芸術終焉論とおおいに重なる。そう、いまの芸術は芸術自身の「自分探し」になってしまったのである。

 近藤自身はみずからの作品において、音と音の関係性を、それまで存在してきた音楽のエモーションやクリシェから解き放ち、異なるコンテクストでの音どうしが結びつく可能性を探究している。様式という大きな物語に依存することを拒否したその姿勢には、ほかにはない独自性がある。しかしながら、近藤の主張するように、作曲という行為によって音楽とはなにかを問うことは、ほんとうに可能なのだろうか?

 それが可能であるためには、作曲という行為が、みずからが属する音楽文化からのがれ、外部に立脚することが可能であることが前提であるように、私には思える。なぜなら作曲という行為がその属する文化のルールに埋没しているかぎり、その文化にたいして有効な問いを立てることは困難としか思えないからである。目は自分の目をみることはできない。

 西洋音楽のその芸術性を成立させてきたのは、ローレンス・クレイマーのいうとおり、美学や評論などその音楽をめぐるディスクールという装置にほかならない。音楽の音響だけではその価値をささえることはできない。西洋音楽は評論されたり論究されたりすることによって、その芸術的価値を維持してきたのである。つまり、近藤のように問いを立てることは、ある意味では昔からおこなわれてきたことともいえる。むしろ一面では伝統的な思想に回収することもできるのである。

 作曲と哲学を同一視しようとする議論は、ヴァッケンローダーやシュレーゲルなどドイツ・ロマン派の時代から多くみられるディスクールである。たとえば、E・T・A・ホフマンはベートーヴェンの《第五交響曲》論のなかで、音楽が未知の世界を示してくれる可能性について熱っぽく語っている。近藤の主張は、どこかこういったロマン派時代の議論と似かよったものを感じさせる。

記譜できない音楽は作曲できない

(略)バッハやハイドンがおこなった作曲とは、場や必要性におうじて音楽を現実化する「アレンジメント」という意味合いが強かった。啓蒙主義時代以後になると、その上に、それまではさほど重要なこととはされていなかった「個性」「独自性」「創造性」といった地層が積み重なることになる。

(略)

[作曲行為の加速化に]大きな役割をはたしたのは、記譜法というものである。記譜法が作曲をうながしたといってもいい。逆にいえば、そもそも作曲は、記譜法が可能にした、音楽の構想と具現化の可能性の範囲を超えることはできないのである。ヴィトゲンシュタインの「いいあらわせないことには口をつぐむしかない」という言葉になぞらえていうなら、記譜できない音楽は作曲できないし、書きあらわせない歌はうたえない。

(略)

[近藤譲の]「問いを立てる」という哲学に似た作曲行為も、こういった西洋音楽のアート・ワールドのルールにしばられることになり、この限定を超えた謎はあらかじめ排除されていることになる。それゆえ近藤の試みはやはり、新しいテイストをもった音楽を開発するための方法論のひとつ、というあたりにとどまらざるをえないだろう。

(略)

いくら問いを立てたとしても、それは芸術音楽というエクリチュールを反復することにならざるをえないだろう。近藤の音楽には、音の迷宮をさまようような独特のおもしろさがあるのだが、どこか閉じた空間のなかでのゲームのような感じがするのは、それがどこにもたどりつきそうもないデリダ的迷宮を音にリアライズしているからかもしれない(そしてそれは充分におもしろいものなのだが)。(略)

しきたりとしての和声学

(略)

アメリカの音楽学者のスーザン・マクレアリは、これについて、やはり「しきたり」であることには変わらないとあっさり論じている。われわれの音楽の前提となっている、調的和声はひとつの思い込みのシステムであり、パラダイム、政治的無意識、神話学など近年の思想家がさまざまに呼んできたものと同じものということなのだ。このフェミニズム音楽学者のいうことはいつも明快だ。

 調性が成立したのは一八世紀であり、それには、和声進行がひとつの目標点をめざし、ひとつのユニットとして完結する構造、つまりカデンツが必要であった。そしてこのカデンツというユニットは、啓蒙主義時代精神における明確な目的性とその実現や解決というひとつの理想を具現化しているものであり、目的に向かって音は進行し、心のなかに欲動が生じ、そしてその解決という報いをえる、と彼女は論じる。

 一八世紀当時の音楽家マッテゾンは、感情表現を音楽の最重要目的と位置づけ、現在にも続く音楽思想を著書にまとめている。彼は音楽の情動を何種類かに分類しているが、これはなんと二〇世紀の音楽心理学と似ていることだろう。しかし、この時代(バロック期)の音楽の情動はいまのものと同じとはいえない。(略)

オペラなどは勧善懲悪が基調で明快であり、最終的には王様や神様が正しい結論をひっさげて登場し、大団円におちつくものばかりだ。(略)

われわれがいまヴィヴァルディやコレルリなどのバロック期の音楽を聞いても、いちおうは情動的には共感できるものの、なんだかもの足りない感じがするのは、これがいまの時代の音楽情動よりひとつ前の感覚だからであろう。

 一九世紀になると(略)表現者たちも、このようなある種無邪気な啓蒙主義時代的な調和を旨とする調的和声の世界を目の敵にしはじめ、あるものは調性そのものの破壊さえしはじめる。そして音楽表現は、個人を主体とする感情表現の時代を迎える。(略)一九世紀以後いまなお、音楽に恋歌が多いのは(略)[人間の本性ゆえ]だけではない。恋愛というものが、個を少々は体制のしがらみから解放してくれるゆえである。「目を閉じよう、そしたら世界は僕らだけ」と歌うボズ・スキャッグスの歌みたいな世界観は一九世紀のロマン主義時代の現実逃避的感性から遠くはない。クラシック音楽もポピュラー音楽も、西洋音楽はこのユートピアイデオロギーにまだ色濃く支配されつづけているものなのだ。

「いまはこういう時代ではないのですよ」

 ジョージ・ロックバーグ(一九一八~二〇〇五)は、アカデミックに作曲を学び、長らくペンシルヴェニア大学音楽学部教授を務めたアメリカの現代音楽の作曲家のひとりである。その門下からは多くの作曲家(とてもヴァラエティに富む)を輩出しているから、きっといい先生だったにちがいない。彼はアメリカの正統的な作曲家の多くと同様、初期には十二音技法など無調の様式で作曲していた。だがあるときから(子どもの死がきっかけという)、彼は調的和声(つまりドレミとドミソ)による作曲に向かいはじめる。やっぱり感情を素直に表すには調的和声だね、と。彼は、前衛音楽は覚えにくく、記憶という基本的な作用によってできあがる「音楽的時間」の成立の本質に反していると述べている。同様のことは、前衛音楽への批判としてよく指摘されることではあったがことではあったが、それを自身の作曲のなかで彼のように堂々と実践し、認められた人はあまりいないだろう。

 彼の作品のなかでもとりわけ話題になるのが、有名なパッヘルベルのカノンをテーマにした変奏曲である《弦楽四重奏曲第六番》の第三楽章だ。この曲は基本的にニ長調で書かれ、たいそうロマンティックで美しく、サウンドとしてはブラームスあたりを思い起こさせる。これを耳にした誰もが、それが一九七八年に作られた音楽とはすぐには信じないにちがいない。

 アメリカではこの作品については、「高度な歴史意識」、あるいは「ある意味で進歩的」などと賞賛されもするのだが、いっぽうでは「無意味」、あるいは「不適切」と切って捨てられたりもした。たぶん、この作品が音楽大学作曲科の提出課題として(略)提出されたなら、「美しいし、よく書けています。でもね、いまはこういう時代ではないのですよ」(略)[と]最優秀の成績は逃すことになるだろう。

(略)

[かつては前衛主義の秩序への反乱が物議を醸したが]

なぜ美しい調的和声の音楽が、こんどは批判の対象になってしまったのだろう。

 この批判は、いまの時代、調的和声によって音楽を作ることは、映画音楽やポピュラー音楽の世界なら問題ないが、芸術音楽の領域においては無意味と判断される基準があるということを意味している。これはポピュラー音楽とシリアスな音楽のあいだに引かれた不思議な線引きであり、棲み分けといえよう。

(略)

一八世紀あたりまでの音楽の歴史的変遷は、比較的緩慢だったのだが、それをすぎる頃から様式の変遷は急速化する。作曲家たちはいつまでも甘い響きにひたっているわけにもいかなくなり、次々と新しいサウンドの追求に駆り立てられる。

(略)

[進歩主義的音楽観が相対化されだした1960年代]

彼の音楽が少々の物議をかもしたのは、臆面もなくロマンティックな和声音楽を作り、進歩という近代主義のルールにある意味背いたからだ。ややこしい音楽は現代音楽にまかせて、安心して調的和声を好き放題にしていたポピュラー音楽業界からも多少は当惑されたかもしれない。(略)

彼の態度は(略)近代を相対化したポストモダニズムの現象として、ときおり議論されることになる。

 同時にこの現象は、現代音楽というものの不思議で窮屈な成り立ちかたを意識させてくれるし、同時にポピュラー音楽というものの資本主義的な不思議な倫理にしばられた、ある意味不自由な姿も同様に浮かび上がらせる。(略)

これは(略)ジョン・ケージがやったことと内容は正反対にみえるが、意味としてはとても似ている。

「感動ビジネス」はいつはじまったか

(略)

 音楽の感動はさまざまであるだろうが、わかりやすいのは(略)

一九世紀に発達したドミナントを連続させる半音階的和音進行とクレッシェンドによる方法だ。これに管弦楽を動員する(略)ダイナミズムの効果は

(略)

映画音楽やミュージカルなどに欠かせない技法なのである。このテクノロジーの萌芽は、バロック期や古典期にもみられるが、より洗練され効果的なものになるのは一九世紀のことである。つまり忘れるべきではないのは、少なくともこの種類の感動はその時代に発明されたもので、けっして普遍的なものではないことである。この和声法と管弦楽法にかかわるテクノロジーは、才気あふれる楽想を作れるかどうかとはさほと関係なく、技法としては学びやすいものに属するだろう。そしてこの感動テクノロジーは映画音楽の作曲家らによって多用されることになり、うまくいけば観客全員の涙腺をゆるませることができる

(略)

 少し困ることは、感動をつかさどる私たちの脳の部位には、巨匠の作った芸術音楽の感動と、ハリウッド・コンポーザーが計算づくで作った感動とを識別する能力が、残念ながら欠けていると思われることである。

(略)

ということは、聴覚体験だけで芸術音楽と非芸術音楽は判断できないことになる。

(略)

つまり、その音楽の時代背景とか、作曲家の高邁な精神だとか、さまざまな付随的説明が必要となるわけだ。

 だから、ローレンス・クレイマーのようなポストモダン音楽学者が西洋芸術音楽のことその音楽についてのディスクールによって成り立っている音楽と指摘したのは正しい。クラシック音楽のコンサートのプログラムに曲目解説があるのは、その曲を知らない音楽初心者のための啓蒙としての意味だけではない。それは、みなさんがこれから味わう感動は芸術という領域のものであり、映画やドラマの音楽のものなどではありませんよ、ということを示す感動補助装置でもあるのだ。

 というわけで、いまシリアスな音楽というものは、じり貧なのはわかっていても、生き残りをかけて感動ビジネスに徹するわけにもいかない、微妙なビジネスであるようなのだ。まだまだこれからも新たな感動補助装置が開発されてゆくのだろうか?それともその市場そのものがもちこたえられなくなるのだろうか?

視覚優位の西洋芸術音楽

(略)

あるときから、音楽はとても視覚的になってきたといえるかもしれない。多声部で書かれた音楽は、譜面にしたためながらでないと作り上げることは難しい。つまり譜面という視覚化に頼らなければ成り立たない音楽なのだ。そして、譜面をながめているうちに、そのテーマを上下ひっくり返した反転形や左右を逆にした逆行形や、それを何倍かに拡大した拡大形やその反対の縮小形などを思いついたのだろう。こういったことはけっして耳では構想できえない。そしてそれをこのへんにこう配置して、向こうのほうではこういうふうに細工を施して、と設計図をみながら全体を考えることになる。つまり西洋のルネサンス以後の音楽はおどろくほど視覚的なのである。

 この視覚優位の音楽の構成方法は、対位法時代が終わっても楽式というかたちでそのまま引き継がれる。二〇世紀になると音楽哲学・社会学者のアドルノは、正しい音楽の聴きかたをしめし、それを「構造的聴取」とよんだ。これはただ漫然と音楽を聴くのではなく、テーマとかその発展とか、終結部とか曲の構成をちゃんと意識した聴き方のことで、彼はそれを正しく望ましい音楽の聴き方としている。もちろんこれは頭のなかで音楽要素を視覚化できる能力のことをさしている。

 不思議なことに、二〇世紀半ばとなり、録音装置が開発され、それによって電子音響の記憶と構成はテープのような録音媒体上でおこなわれるようになってからも、こういった視覚的構成観はそのまま持ち越され、電子音響音楽を作るときにも図形楽譜などの設計図という形で、姿は変わっても用いられる。さらにミュージック・コンクレートの創始者のピエール・シェフェールは、「音のオブジェ」や「音響的目」などの言葉にみられるように、最初から考え方が視覚優位である。(略)

記譜法という枠組み

(略)

 五線のような記譜法の発展は、対位法音楽からの要請によるところが大きいと考えられる。何声部にも分かれたべつべつの旋律をうまくハモるように作るには、どう考えても頭と耳だけでは限界があり、設計図のように紙に書いて細部を調整しなければならない(しかしながら昔の対位法職人の耳の構想力が、いまの作曲家たちの比ではないのは、フランドル学派などのポリフォニーの譜面をみたり、その音を聞くとよくわかる。これは、あの当時の建築家や画家や彫刻家の構想力とその実現技術のすごさと同類ともいえるだろう)。

(略)

セリエル音楽(十二音技法)という技法にいたっては、もう聴覚よりも視覚、直感より計算のほうがはるかに重要な要素になってしまった。

 音楽のスコアは芝居の台本と建築の設計図を足し合わせたようなものになり、作曲家の仕事はそのような設計図をせっせと書きしたためる、緻密できちょうめんな仕事になってゆく。逆にいえば、そういうことが得意な人の仕事になっていったともいえるだろう。作曲家は、稲妻のように霊感に打たれても、それをひとつの曲に仕上げるまでには何日もかかる地道で骨の折れる譜面書きの作業に耐えねばならないのである。そして作曲家のテクニックとは、求める音をいかに精密かつ的確に譜面化できるかに変化してゆく。ラヴェルの書いたスコアをみると、誰もがその美しく隙のない楽譜に目を奪われるにちがいない。

 そしてフランスの作曲教育にはいつしかエクリチュール(書式)という、美しいスコアを書き上げる伝統ができあがる。作曲家のなかには、この地道な作業のほうに適性があり、どうみても霊感に恵まれたとは思えないフレーズを素材に、緻密で説得力のある音楽を構築するだけの役人のようなひとも現れ、隙のない事務報告書のような音楽もいっぱい登場するようになる。というか、作曲コンクールなどで賞をとるのは主としてその類の音楽である。(略)

神秘主義者ケージ

(略)

ドイツの美術史家ホルスト・ブレーデカンプの『ジョン・ケージと偶然性の原理』における指摘を簡単にまとめるとこうなる。ケージは禅の哲学や易経に啓発されて偶然性の音楽をはじめたと繰り返し述べているが、じつはその前にデュシャンによるチャンス・オペレーションの使用(たとえば『三つの停止原基』)について知っていたのではないか。そもそも西洋の芸術文化には偶然性の伝統はさまざまにある。それに、ケージは一九四〇年代後半に鈴木大拙をつうじて禅を学んだといっているが、鈴木の講義を聴いたのはじつは一九五二年以後であったはずである。いくつかの偶然性の作品はそれ以前に書かれているから、禅を援用したのは後づけの理論武装ではなかったか。ようするに、自分の仕事の神秘化のために禅をもち出したにすぎないのではないかというものである。

(略)

 ブレーデカンプがもっとも指摘したかったのは、偶然性というコインには、全的な自由の反対側に全的な支配という片面もあり、そこに彫られているのは「空白」という名の、西洋的な――つまり西洋芸術伝統のなかに昔から存在してきた――もうひとつの神のあり方なのだ、という点にあるのだ。そして、ケージはその権威主義的思想を、禅というオリエンタリズムでカムフラージュしたのではないかと批判することで、その背後に隠れたモダニティを露わにしたかったのだろう。

 いっぽう、オーストラリアの社会学エドゥアルド・ド・ラ・フエンテの『二〇世紀音楽とモダニティの問題』のなかの「ジョン・ケージ神秘主義者としての作曲家」では、ケージを(略)聖者を演じる神秘主義者としての人物像を浮き彫りにしようとしている点が、ブレーデカンプと少し異なる。(略)

ケージのソフト・ヴォイス、人のよさそうな目、ブルーのワーク・シャツとジーンズ、支持者やファンへのかぎりない寛容さなどなどが、あの聖者のようなオーラを醸し出している。彼が終生貫いたそういった話し方や態度は、どうみても鈴木大拙から学びとったものだ。ケージは逆説的な人物であり、いろいろな意味で有名になるのを楽しんだいっぽうで、エゴを捨て、存在を消すことも望んだ。また彼は、人格を芸術にとって意味のないものとしたにもかかわらず(略)自身のキャラクターを効果的に使った。(略)

[フエンテは]社会批評家クリストファー・ラッシュの論を援用しながら考察を進める。ラッシュによれば、ケージは新しい芸術的文化的タイプの神のありかたと一致するものだ。それは自己と外部との実存的な分離(デタッチメント)を特徴とし、そのいっぽうで内的平和を得るニルヴァーナへの近道であり、自己と外部との一体性の回復の試みである。これと対照的なのがポロック、デ・クーニングなどのアメリカ抽象表現主義であり、こちらはファウスト的あるいはプロメテウス的態度といえる(略)

ケージはその道をとらず、エゴの消失と偶然性を受け入れることにより、困難なく美的救済をもとめる道を選んだ。

 しかしながらフエンテは、このラッシュの論に次のような反論を加えている。ミニマル・セルフは新しいものではなく(略)

モダニティが作った自我の美学化であり、カリスマ的エンパワメントの一形式でもあり(略)

その精神的態度はオスカー・ワイルドなどの一九世紀後半の正統性にたいするウィットやアイロニーや、チェスと旅行に人生を費やしたマルセル・デュシャンや、そしてケージを経由してウォーホル、ボブ・ディランルー・リードなどに引き継がれている、とする。

 そのうえでフエンテは、最終的にケージを神秘主義ミニマリストと規定するだけでなく、アメリカ的福音主義プロテスタントの類型と結びつける。ケージは医者の待合室においてさえ仕事をするほど勤勉だった。彼にとって人生は仕事であり(略)

趣味のきのこ採りにおいて(略)毒キノコを試食して病院に運ばれたことさえあった。そのどうしようもない生真面目さこそ、プロテスタント倫理そのものであるとフエンテは述べる。

 さらにケージは、自身をアメリカン・プロテスタントと比較されることを嫌がってはいなかった。「私は根本主義プロテスタント牧師の衣鉢を継いでいるだろう」とも語っている。これはアメリカ文化では繰り返し登場する、形式的倫理を排除したプロテスタントたち――ジョナサン・エドワーズエマソン、デューイなどの流れとかかわるものだろう。いっぽうではこういった熱狂的なプロテスタントたちが、中世や東洋の神秘主義に惹きつけられていたりしたことも、ケージと共通している。そして最終的にフエンテは、ケージを非生産的で神秘主義的な、異端のプロテスタントと位置づける。(略)

 この結論については(略)やや肩すかしのような印象も残る。というのも、ケージをアメリカ超越論者の系列に位置づける議論はこれがはじめてではないし、ケージ自身、ソローについて折にふれて言及しているからである。(略)

ケージとノイズ

[ダグラス・カーン『ノイズ・水・肉――諸芸術における音の歴史』によれば]

《四分三三秒》(略)以降、聴衆は、この不条理な沈黙に不平をいわず、じっと座って「音楽」が立ち現れるのを待たなくてはならなくなったのである。(略)

「ケージは音楽で満たそうとしたのではない。彼は音楽の外に、音の鳴る(あるいは音の鳴る可能性のある)場を残さず、音としての音楽を再生産する手段を残さなかった。彼は解放の大づめへと音楽を開いてしまったのだ」。結果としてケージは、望まれないノイズを閉め出してしまったことになる。すべての音が良きものなら、どうして不愉快なノイズが存在できよう。

(略)

 この指摘は、ケージがノイズを解放し、新しい意味へと開いたと考えてきたケージアンにとって、ちょっとした衝撃となった。すべての音を肯定するなら、社会にたいする本質的な異物としてのノイズは消滅してしまうことになる。言い換えれば、すべてのノイズがお茶の間化されてしまったら、ノイズ・ミュージックもインダストリアル・ミュージックも、すべてケージのように、にこやかに享受すべきものになるのだろうか?少なくともケージ自身がそうでなかったことは、爆音系現代音楽のグレン・ブランカの作品について苦言を呈しているところからも明らかだ。結局のところ、ケージの沈黙は、やはり芸術音楽文化の枠内で成り立つものであり、もちろんパンク・ロックなどとは相容れない、一種上品な世界にととまったものでしかない。

 こういったノイズをめぐる議論は、管理社会についてのポストモダン的議論とどこか重なる。つまり、ケージをはじめとするさまざまな前衛や実験の試みは、ひと昔前のマルクス主義のように、モダニズムという閉塞的状況からの出口を示唆した一種の理想主義という意味合いをもっていたのだが、結局のところそれは、期待されたような結果をもたらさなかった。そして、マリー・シェーファーサウンドスケープのような思想をはじめとする、一種の自然音ユートピア主義ともいうべきサンクチュアリを生み出すまでで終わった。

(略)

ジュディ・ロックヘッドは、ケージ、ライヒ、バビットらを、それぞれ実験音楽、反復音楽、セリエル音楽と立場を異にするものの、作曲家の意図とおりに聴かれるべき聴取のあり方を、聴き手の側にゆだねるあり方に変えてしまったことを、モダニスト的特徴と指摘し、それを「解釈的転向」と呼んでいる。

(略)

この「解釈的転向」と、前述のブレーデカンプの「空白という神」、フエンテの「ミニマル・セルフ」の表現としてのケージの音楽、およびカーンのケージのノイズ論をすべて重ね合わせてみると、そこにはケージを含めた現代音楽が長らくかかえてきた問題――つまり「聴取による理解」の不可能性(つまりわけのわからなさ)の意味が浮上してくるような気がする。端的にいえば、それはカントの「崇高なるもの」やロマン派的な「名状しがたいもの」が姿を変えたものだったのだ。(略)

 

Carpal Tunnel Syndrome

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デレク・ベイリー追悼

(略)

そもそも音楽というものは、ある共同体でそのエートスとルールが共有化されていないと成り立たないものだろう。インドやイランの音楽では即興演奏はきわめて重要なものであるが、それが成り立つのは、ラーガやターラやマカムといった様式やルールと、それについての心的態度がそのコミュニティに共有化されているゆえだ。即興演奏をするためには、誰でもそういった様式やルールをきわめ、守らなければならない。ベイリーは、はじめてそのことに挑み、様式もルールもない即興音楽をめざした音楽家だった。この試みはいかに画期的なことだったろう。

(略)

彼はお手本をどこにも求めようがなかった。わずかに手がかりとなったのは、ウェーベルンという第二次世界大戦直後に亡くなったオーストリアの作曲家の作品だった。ウェーベルンの音楽は、情緒的な連関を断ち切るように独立した一音一音がつなぎ合わされたようなコンポジションである。ベイリーはある音と別の音が連なって、因習的な音の流れを作ることを、ともかく排除したかったにちがいない。

(略)

それを大上段にふりかざすこともなくたんたんと挑み続けたベイリーの殉教者のような姿勢には、なかなかに共感したくなるものがある。

(略)

その死の数ヵ月前に、『手根幹症候群』というCDを出している。(略)

[最初のトラック、自身のナレーションで]

指や手が自由に動かせなくなってしまった自分の手の障害についてたんたんと説明し(略)ピックをもてなくなっても、指やほかのものを使って別のやりかたで演奏し、新しい試みができないかということに興味があると述べている。

(略)

[思ったようなサウンドが出せないところから]だんだんとその体の状態と自分の音楽表現をなじませていきながら、自分の音楽を作り出してゆく過程を読み取ることができる。また、その過程を一種の音楽的進展として聴くことも充分に感慨深い。

(略)

 ベイリーのとった態度は、自分の身体が変化したのだから、音楽そのものをそれに適合させて変えてしまえばよいというものであり(略)[即興音楽としては]じつに順当な発想ということができるだろう。

(略)

 では、ベイリー自身、一〇〇パーセント自由な即興演奏というものを実現できたのだろうか?もちろんその答えは「ノー」だ。ベイリーの演奏は、フリー・インプロヴィゼーションを聴き慣れた人なら、すぐにベイリーだとわかる独特の流れとサウンド感があるし、手くせもある。ひとつの音を片隅にポツン、少し離れたところにまた別の音を無と置いてゆくようなギター・サウンドに、「あ、ベイリー節だ」と思う人もいるだろう。ということは、それはある種のスタイルがあるということだ。(略)

[即興演奏だとわかるなら]フリー・インプロヴィゼーションという様式感があるということなのだから、ひとつの矛盾である。

 が、そこにはいつも自由とは何かを、ぎりぎりまで問いつめたサウンドがある。ジャンルを捨て、技術を捨て、くせを捨て、自分を透明化していき、それでもそこに残るピュアな音楽の息吹を現前させようとした、自己にたいする対峙の仕方の厳しさがある。(略)

物語性からの離脱

(略)

 《四分三三秒》以前の音楽では、映画や芝居のように物語性をもつことが、当然と考えられてきた。そういった起承転結を形式化したソナタ形式というパッケージングの方法も開発され、簡潔かつ巧妙に音のドラマが繰り広げられる方法論(つまり作曲法)の確立も試みられた。しかし、物語性による時間上の構築が強く意識されるようになったのは一八世紀頃からだろう。

 この音楽における物語性は西洋音楽史上、長い因縁の論点でありつづけた。まずはオペラのような芝居の付属品として音楽が成り立ち、その後それは器楽中心となり、そして言葉や物語の直接的な拘束から自律し、ついには絶対音楽という特殊な音楽のスタイルに向かうが、その間さまざまな議論がなされてきた。

 ロマン派後期にはそれが肥大化し、一時間を超えるような交響曲が平気で作られるようにもなった。こうした絶対音楽は、理念としては物語も筋もない、ただただ音による純粋な構築物を目指したわけだが、実際には、その構成原理は、脱却をめざしたはずの演劇的構成の方法論に頼らざるをえなかった。これはまだ一九世紀には物語性を超える方法論をみいだすことができなかったからにほかならない。いずれにせよ、絶対音楽は最初から矛盾を背負って出現してきたものであり、破綻すべき運命にあったのだ。

 そういった物語性からの離脱を明確に構想できるようになったのは《四分三三秒》以後であり、音楽はじょじょにその離別の方向を試行するようになる。ケージのはじめた偶然性とは、物語性からの離別のための明解かつ具体的、そして簡単な方法論だったのだ。誰でもこれを使えば、とりあえずは物語からは逃れることができる(バロウズは、自身の小説を文字どおり紙面として切り刻み、貼りあわせることによって偶然的に再構成し、物語性から逃れようとした。同じようなことはいろいろな人が試みている)。

「へたくそな音楽」

(略)

 音楽療法という分野で、どうしても考えなければならないことは、そこではある意味で「へたくそな音楽」と必然的にかかわらなければならないということだ。障害や疾患をかかえた人とおこなうミュージッキングは、ふつうの音楽活動のようにいかない

(略)

では、そういった「不全な音楽」とは何か?と考えてみると、それが成り立つのは、その反対の「完全な音楽」というものがあるからである。

(略)

 「完全な音楽」の代表格に考えられるのが、いわゆる西洋のクラシック音楽である(略)正典化され、正しいヴァージョンとして譜面に固定され、それを一音符も変えないで正確に演奏することを旨とする、地球上の音楽としてはかなり変わった音楽といえるだろう。

(略)

 それと対抗するようにはじまったのがポップ・ロックである。だが、それは反エリート主義という点では明確であるものの、アマでもうまければプロになれるという、いわばプロの領域の拡大と考えるべきであり、首尾一貫した「へたくそ音楽」はパンク・ロックの登場まで待つ必要があった。

(略)

 他方で、ジョン・ケージは独自のやりかたで反エリートの道を開拓する。(略)

彼の提示した「偶然性」の音楽は「へたくそ」とはやや意味が異なり、因習的な技術重視の音楽の価値観の変換をめざしたものであり、技術ではなく概念を重視する音楽のあり方の道を開いた。

(略)

 もうひとり、「へたくそ音楽」思想にとって重要な人物に、美術家のジャン・デュビュッフェがいる。彼は素朴でプリミティヴな表現を追求した美術作品を多く作るいっぽう、障害者などの絵をはじめとする創作に大きな関心を寄せ、みずからそれらの作品を多く収集し、それを「アール・ブリュット(なまの芸術)」と呼んだ。これはその後、アウトサイダー・アートと呼ばれるようになり、いまでは多くのひとたちの関心を集める領域となった。

 その彼が「ミュージック・ブリュット」とでも呼ぶべき音楽をみずからやっていたことはあまり知られていない。彼は、一九五〇年代に家庭用テープ・レコーダーをつかい、手に入れたさまざまな民族楽器や音のオブジェや声をつかって、わけのわからないノイズ音楽の制作を試みている。彼はプロ的な気配のするものはすべて嫌っていたようで、人にプロの録音機材を使うようにすすめられても断固拒否した。なので残っている彼の録音はとても低音質である。彼はエリート主義の芸術家を「犬」呼ばわりするほど、文化によって汚染された芸術すべてを激しくののしった。この彼の「へたくそ」そのものに価値をみいだそうとした態度は、パンク・ロック以上かもしれない。