音楽療法を考える 若尾裕

 

音楽療法家、ポール・ノードフの思想

 ノードフがはじめて音楽療法に類するものと出会ったのは一九五八年(略)スコットランドのある障害児の学校でのこと(略)[訪ねたのは]どれもルドルフ・シュタイナーの系列の施設である。ドイツの言語障害の子どもの施設を訪ねたとき、彼はそこで即興演奏を使うことの可能性を確信したという。(略)

[翌年]大学教授の仕事を辞し、四十九歳となっていた。(略)[英国]のサンフィールド・チルドレンズ・ホームで、彼は決定的な影響を受けることになる二人の人物と出会う。ひとりは終生の相棒となるクライヴ・ロビンズであり、もうひとりは当時の研究主任だったハーバート・ゴイター医師である。(略)

[クライヴとは違い]ゴイターについては、あまり知られていない。(略)

医師という立場を超えて、治療的な音楽についても、ノードフにたびたび示唆を与えているようであり、ノードフ=ロビンズの方法を理解するには欠かせない人のようだ。

(略)

[ノードフは]七四年には、ロンドンに音楽療法センターを作るということで招かれ、六カ月の連続セミナーを開いている。このときの受講者のなかに、いまヨーロッパの音楽療法界で活躍している人が多くいる。(略)

[『ポール・ノードフ音楽療法講義――音楽から学ぶこと』]を読み解いてみると、彼の思想が少しわかってくる。

 まず、彼は人智学主義者(アントロポゾーフ)である。彼が初期に関係した施設にシュタイナー系のところが多いのは、もちろんそのためだ。ただ、私がクライヴ・ロビンズに昔、人智学との関係について聞いたときには、ちょっと複雑な答えが返ってきておどろいたものだ。クライヴは、ルドルフ・シュタイナーの考えには計り知れないほどのものを負っているが、同時に人智学の世界ではたいへん異端視され、苦労したことも述べたのである。(略)

[シュタイナーの方法は]比較的簡単な音組織でできた歌を、ライアー(竪琴)の伴奏で歌って聴かせるというようなものだ。これはいまでもシュタイナー障害児学校ではおこなわれている。そこにノードフはピアノで、よりダイナミックでより近代的なイディオムを遠慮なくもちこみ、子どもとのセッションを発展させていったのである。まわりからは伝統的シュタイナー主義を無視した異端者と映ったとしても不自然はないだろう。(略)そんなときに人智学関係者で彼らの味方をしたのが、ゴイター医師であったという。

(略)

[以後、シュタイナーの施設とは密接なかかわりをもっていない]ことは、彼の方法論をひろめるうえでたいへんよかっただろう。もしノードフの方法が人智学的音楽療法という範疇にとどまっていたならば、こんなに知られるようにならなかったことは、現在のシュタイナーの施設のエソテリック(秘教的)な雰囲気をみるかぎり想像にかたくない。だが、ノードフの音楽療法のバックグラウンドには、やはりシュタイナーの考えがとても強いのはたしかだ。彼は一九七四年の講義でも、シュタイナー[の](略)音程論講義を引用して、音程が人間の心と魂にどのような影響をもっているかを述べている。たとえば長三度の自立した自我の響き、完全五度の自我の内から外に出た感じ、オクターヴの完全さなど、ピュタゴラス以来の音程神秘主義の伝統を引き継いでいるようにみえる。この伝統の線上に、たとえば完璧に調律された完全五度をずっと聴きつづけると、心身を調整し健康に良いというような、ニュー・エイジの音楽健康法のようなものもあると考えてよいだろう。

(略)

 実際のノードフのセッションを聴くかぎり、そういった音程原理主義のような印象はほとんどない。それより調性の自然なダイナミズムの利用とでもいうべきものに多く依っているといえるだろう。たとえば、ドミナントのところで止めて子どもの反応をうかがうところなどは、ノードフ=ロビンズ系の音楽療法士なら、みんなが使うテクニックだが、これは半終止のドミナントで一時停止すると、どうしても次になにかを埋めたくなる心性にうったえている。が、これがなりたつにはドミナント-トニックという調性の感性のようなものをクライエントと共有していなければならないことになる。でも素朴に考えて、たとえば四歳の自閉的傾向の子どもがそういう調性感をもちうるのだろうか?

 ポール・ノードフは、ある音程や、音システムが、なんらかの治療的意味をもっていると、少なくともある部分は信じていたようだ。彼は五音音階の治療的意味について理論化を試みている。これは、彼がジョゼフ・ヤッサーという音楽学者の音階の進化論に影響を受けたところにはじまるようだ。ヤッサーは(略)未来の音楽はオクターヴ十九音の音階となるという予言までしている。一九三〇年代初頭のことであったが、この理論はあるていど、当時のアメリカの音楽界にインパクトを与えたらしく、驚くべきことにスタインウェイ社はその音階を可能とするピアノをこしらえたという。当時ジュリアードの学生だったノードフが、そのピアノのデモンストレーションを頼まれていたというのもおもしろい。

 ノードフはその理論を、自身の音楽療法音組織や音階について考えるときのベースにしている。(略)

[このような]音楽学初期の音階論の考え方は、おそらく現在の民族音楽学者なら誰でも否定せざるをえない素朴な一元的進化論であろう。

(略)

 彼はその進化論から、五音音階(ソラドレミのような)が、どの世界の子どもにとっても普遍的な魂のふるさととなると考えるのである。(略)

今のようにワールド・ミュージックが広まるまえの一九七四年のことであることを考慮しても、ノードフの素朴な西洋中心主義的な視点は否定することはできないだろう。だが、ここでの私の意図はノードフの認識を批判することではない。彼の残した仕事はすばらしいし、新しい音楽文化を切りひらく可能性をもっていると考えていることには変わりはない。貴重なことは、彼が音楽療法のための音楽理論を、なんとか自分の知識と技術から考えようとしたことなのだ。そしてその後、その試みは誰にも継がれることなく時が過ぎ、今、われわれはやはりそれが必要であることを強く感じはじめているのだ。

(略)

 問題は(略)音の普遍主義ははたしてなりたつのか、というところである。(略)

ピュタゴラス主義やプラトンの音楽思想などのとても古い宇宙論にまで通じている考えであり、音楽療法を考えるうえで、どうみても避けることのできない重要な思想であるからである。水晶や音叉を使ったりするニュー・エイジ系のサウンド・ヒーリングなどは、だいたいはこの考え方の延長線上にあるし、現代の音楽療法でもこういった傾向をもつものもあるようだし、音や音楽の効果を科学主義的に解明しようという考えも同じところにたどりつく。はたして、あらゆる人を癒す音や音楽はあるものなのだろうか?

(略)

五音音階は全音階のように、調的な三和音和声の進行が希薄であり、長短さまざまな和音をとり混ぜて、情動的な音の流れを表現することはできにくい。全音階と三和音のシステム、つまりドレミとドミソは、西洋近代の重要な発明品のひとつであり、いまの音楽の九〇パーセントぐらいはこれでできている。これほどまで流布したのは、このシステムが、うれしさ悲しさなど多様な情動を微妙に表現するのに向いていたからであろう。それに比べて、五音音階の表現内容はシンプルで、全音階に比べて一種の安心感がある。少しの差はあっても、西洋でも日本でもわらべうたは五音音階が基本である。だから洋の東西を問わず、子どもに一種のアクセシビリティがあるのは、ある意味で当然のことといえるだろう。

(略)

ノードフは、古典派からロマン派、印象派などの音楽を広く学び、そのような音楽のなかに実践された一種の音の力を自分のものにし、子どもとの音楽療法によくそれを生かすべきであることを、なんども説いている。(略)

無調や電子音楽もおもしろいが、音楽療法で必要なのは過去の偉大な作曲家の音楽のイディオムであると。そして、彼はこれらの音楽を「癒しのための遺産」とよんだのである。

(略)

 ノードフは受講者に、シューマンブラームスドビュッシーの音楽を弾き、その音楽エッセンスを自分のものとし、そのような力で自分の即興演奏をおこない、子どもに対することを求めたのである。だから、音楽療法士にたいする音楽レヴェルの要求はかなり高いところにあるといわねばならないだろう。

(略)

ドミナントは使いすぎると死んだアヒルのようになってしまうのです」彼はこういう表現を使って、使い古された月並みなやり方で、音をすり切れるまで使う音楽のありようを、強く戒めるのである。それでは音に新鮮さがなくなるし、力もなくなる。そんな音では、子どもたちを揺り動かすことはできない。そう、ノードフは繰り返すのである。

 私がノードフの考えで、まず無条件に共感するのが、この新鮮な音の生きた力の重要性についてである。

(略)

 そもそもノードフが即興にこだわったのは、譜面の再現によらない、即時的な音のなりたちによる生き生きしたエネルギーにこだわったからではないだろうか?

(略)

 ではこういった新鮮な音の力は、自閉症児などにどれほどの意味をもつのだろうか?よく、音楽教育の本などでは、まず子どもがわかるのはリズムで、次にメロディ、その後はハーモニという順であるなどと論じているものがある。この論でいくと、小さな子どものための音楽では、リズムとメロディがわかりやすければ、あとはそれほど気を払わなくともよいというような考えも出てくるだろう。これを延長すると、わが国の保育や幼稚園教育でおこなわれているような、無神経な歌の世界に行き着くだろう。(略)紋切り型の子ども像、もうこれは、ぞっとするようなアヒルの大量殺戮だ。誰かがなんとかしなければならない領域だと以前から私は思っている。

(略) 

 生き生きとした新鮮な音を投げかけること、これが音楽療法の要点だ、というノードフの考えは音楽家としての私には証明不要な、一〇〇パーセント正しいことに思える。

(略)

音楽がなりたつのは、新鮮で生きた音との出会いがあるからであり、そうでない音楽がなりたつことのほうがおかしいのである。練習しすぎて、死んだアヒルのようになったショパンが生産されるようになったことのほうがおかしいのだ。

(略)

実際に音楽療法が必要な人たちと音楽をしてみると、てんでんばらばらに、さまざまな音が聞こえてくる(略)

まずとりくまねばならないのは、そういった秩序のない混沌とした音なのである。ノードフはそういった混沌とした無秩序の音を、なんらかのかたちで組織化することを試みた。そのために、即興的方法を使ったのだ。そして、その組織化の方向が調的和声の領域だったということなのである。

(略)

一九〇九年生まれの(略)彼の作品の様式は印象派から新古典派のようなスタイルであり、彼は生涯、調的な音システムを捨てることがなかった。彼が自在に使いこなすことのできる調的和声に内在する力を信じるのは、当然のことに思える。

 彼とやや対称的なのは、もうひとりの音楽療法のパイオニアである、イギリスのメアリー・プリーストリーである。彼女もノードフとほぼ同世代である。(略)

彼女はアルフレッド・ニーマンから無調や近代の音楽の技法を使った即興演奏を学んでいるようだ。(略)

彼女の無調的音楽は、不安や葛藤など、複雑でさまざまな局面を含んだ情動を、言葉を使う以上に的確に表現するのにおおいに力を発揮している。ノードフの音楽技法は、こういったネガティヴな情動要素を表現しにくいであろうことは、彼の演奏スタイルから想像できるのだが、簡単には比較できないのは、ノードフは子どもばかりを相手にしたことであり、プリーストリーはおとなばかりを相手にしたところである。(略)

 ただ、ノードフは作品でも音楽療法セッションにおいても、いついかなるときでも、美しく明晰な響きにこだわっている。彼が、プリーストリーのような一種の表現主義的な、暗さと混沌さを認める音楽に向かうことはちょっと私には想像できない。だから基本的には、個人の音楽的素養が、そのセラピストの音楽療法に使う音楽の特質も、けっきょくは決定するのではないかと私は思う。

(略)

 最後にノルウェイ音楽療法士、ブリュンユルフ・スティーゲの議論もあげておくべきだろう。彼は(略)ある音がクライエントとセラピストの間で音楽としてなりたつとすれば、それは音そのものにおいてではなく、その音をめぐる両者の関係においてであると主張する。彼はこの議論のために、なんと後期ヴィトゲンシュタインの、言語ゲーム論をもちだすのである。(略)

簡単にいうと、言葉の意味は、ある規則にそって複数の人間がやりとりするうちに生じる、というものである。ここから音楽や音も、ある規則のなかで、やりとりすれば意味が生じることになる。こうしてセラピストとクライエントの間で、音をやりとりしているうちに、それが音楽として浮上していくと考えるのである。この論でいけば、やりとりする音はどのようなものでもよいことになり、ノードフのような、調的和声に絶対的価値をおく考えとは異なる、相対論的な議論となる。(略)

音楽療法士の音楽技術

 ノードフは音楽家らしく、当然のように高い音楽能力を音楽療法士に求めた。(略)高い演奏能力、幅広い音楽教養、自在な即興能力や作曲能力

(略)

 この音楽療法士=音楽プロフェッショナル論には、反発をおぼえる人がとくにわが国ではとても多い(略)一種の音楽エリートへの反感もあるし、音楽療法をわが国で初期から推進してきた人たちが、音楽専門家ではなかったことも大きな要因だろう(略)

[だが、その技術は]わが国の音大で教えてくれるようなものとは必ずしも一致しない。(略)私なりに単純にまとめると次の二つになる。

●音をコントロールする力

●新鮮な音楽を浮上させる力

(略)後者は、ノードフがいちばん強調しているところであり(略)一種の音楽についての感性であり、音を鳴らしたときに新鮮な音楽の息吹きを現前させる(略)能力である。

(略)

音楽はわざかこころか、という議論は音楽や音楽教育をめぐる古典的かつ普遍的テーマ[だが]

(略)

かぎりなく近代以後の西洋音楽を前提とした議論であることがわかる。(略)

西洋音楽は、メカニカルに音を並べる音楽になったから、そうするための技術が必要となっただけであり、他の音楽文化では、またわざというものの性格はおおいに異なる。

(略)

 問題は、音楽療法が、そういった文化としての音楽のさらに奥にある音楽行動を相手にしなくてはならないことであり、もっと簡単にいうと、文化にアレンジされるまえの、よりピュアな音楽のレヴェルで考えなければならないことが生じる点である。(略)

高齢者のための音楽療法、ヴァーチャルな音感

[福祉施設等で]もちいられる音楽は、だいたいにおいて、高齢者の方々が昔親しんだ音楽である、学校で習った唱歌、昔の歌謡曲、童謡などを、歌唱したり、それに簡単な打楽器などの演奏を含んだりしている。

(略)

[ドイツの高齢者音楽療法を見学したら]

演奏の難しくないさまざまな音楽療法用の楽器(略)を使っての即興的な活動だった。日本のような懐メロに相当するような歌をうたうといったことは、ぜんぜんなかった。(略)[そのことを聞いてみると]音楽療法士は、よくわからないといった表情で、そういった歌はないし、使うことはない、と返事をしたのでちょっと驚いた。

(略)

日本のように、北海道から沖縄まで全国いっせいに同じ歌を教えこんだのは、逆に特殊な文化だったのかもしれない。(略)

古いものなら一九世紀半ばあたりに作られた学校音楽が、百数十年にわたって歌いつづけられてきたというのは、よく考えたらそうとうにすごいことである。

(略)

[《ちょうちょ》や《春の小川》を誰もが知っているという]バックグラウンドを成立させるためには、大変な努力があったのだ。

(略)

柴田南雄さんがある本で指摘されていたことだが(略)

[童謡《村祭り》]は、長調でできていて、後半部分「どんどんひゃらら、どんひゃらら」と太鼓と笛を擬した言葉の表現がある(略)旋律を階名で書くと「ソッソッドドド、ミッミミソ」という長三和音の分散和音なのである。柴田さんにいわせるとこれは、明確に西洋音楽のファンファーレのようなものである。だから、この歌の作者は、言葉のうえでは日本的な情緒を表現しているが、音楽のうえでは、きわめて西洋的なブラスのファンファーレのような音を使っているのである。私は、子どもの頃からこの歌に慣れ親しんでいたので、それを読むまでは、長三和音の分散和音でできているなんて気づかなかった。だが、そう思って聴いてみると、とてもおかしなものに思えてくる。音感というものは小さいときにたたきこまれてしまうと、こんなふうに不自然さがわからなくなり、同化してしまうもののようだ。

 考えてみると、あの時代、西洋音楽の調的和声が入ってきて、教育界では、なんとかそれをとりいれ、西洋と同化しようと、たくさんのドレミ/ドミソ仕様の試作品が製造されている。(略)

おぼつかない手つきで、ドレミ/ドミソの上に日本語がのせられた《ひのまる》のような不思議な音楽が多数作られていった。そこまでならまだいいのだが、それが学校というシステムをつうじてこの国の子どもたちにたたきこまれることになった。たぶんその当時の人たちは、これがその後どういう影響をこの民族にもたらすかは、予想もしなかったにちがいない。

 つまり、このような歌は、ドレミ/ドミソの音をその西洋という土壌から切り離して無理やり、それもそうとうあやしい知識技術を使って作られたものなので、西洋でもない、日本でもアジアでもない、いまの言葉でいえばヴァーチャルな音楽なのである。だからそうした音楽によってはぐくまれた音感は、西洋の音楽にも、日本伝統音楽にも、わらべ歌にも、民謡にも、アジアの民族音楽にもどこにも行き着かない。そして、今でも少なからず、われわれはこのヴァーチャルな音感の問題をまだ引きずっている。「唱歌校門を出でず」といわれたが、それはこの音楽が堅苦しくてつまらないだけではなく、ほんとうの理由はそのヴァーチャル性ゆえなのである。

 私が子どものころのお年寄りたち(明治生まれぐらいの人たち)はまだ、歌をうたうとなると、その地の昔からの民俗音楽を、その独特の音感で朗々と歌うことができた。たぶん、この人たちは、官製のヴァーチャル音楽をたたきこまれるまえに、もっと地に着いた音楽的アイデンティティを身につけることができたのだ。こういう人たちの自然で自信に満ちた歌声は、まだ私の耳に残っている。

(略)

悲しいことに、私はこういった人たちのように自然に歌うことはできない。

 だが、その少しあとの世代(昭和初期ぐらいの生まれ)になると、がらりと様変わりする。私は音楽はわかりません、という人が圧倒的に多くなるのである。(略)

[教育現場で]校長先生など年配の先生がたが「私は音楽はさっぱりです」とか「私は音楽がわかりません」とか、よくいわれるのを耳にした。考えてみたら不思議な感じがする。たぶんそういった先生がたは「私は国語はさっぱりです」とか「算数は苦手です」とかは、恥ずかしくてそう簡単にはいえないのではないかと思うのである。

(略)

 その次の世代(戦中生まれ)になると、まただいぶ変わる。戦後、軍国主義のくびきがはずれて、西洋の音楽が自由に入ってきたころ、思春期ぐらいだった人たちだ。作曲家の武満徹は、アメリカの占領軍放送から聞こえてきたモーツァルトのレクイエムに衝撃的な感動をおぼえたことをエッセイで書いているが、そういう体験をした若者は、武満さんだけにかぎらなかったにちがいない。この年代の人たちの特徴は、西洋音楽文化へのかぎりない憧憬である。にもかかわらず、アジア人であり日本人であるという事実と折りあいをつける必要があったので、この年代の作曲家たちの仕事からは、それぞれの苦闘の跡を読みとることができる。

 その後、西洋音楽という文化は、アフロ=アメリカン音楽というかたちをとって、ある種の「世界文化」と化してしまったので、ローカルな文化との折りあいを考える必要性は減っていったといえる。(略)音楽のグローバリゼーションともいうべきこの現象は、先進国だけでみれば、ある意味すでに実現してしまっていると考えてよいだろう。

 そうするとこんどは、「グローバル音感」というヴァーチャル音感が世界全体を覆うことになるのは想像にかたくない。(略)

日本において起こったことが、世界規模でも起こらなければよいのだが。(略)

楽しい音楽活動

 わが国の音楽療法では、みんなの知っている大衆的な曲を使って、歌ったり、踊ったり、遊んだりする(略)私はこれが昔からだめなのである。(略)

こういうと(略)エリートくさくていやなやつと思われるかもしれない。(略)

 私が、ノードフ=ロビンズの創造的音楽療法から音楽療法の世界に入ったのは、それが童謡やポップ・ソングや、子どもっぽい遊びなど(略)と無縁だったからだ。

(略)

怒られるかもしれないが、歌のおにいさんのようなことはどうしても私にはできない。

 わが国では(略)「みんな幸せ」的活動をする傾向が強い。(略)

フォーク・ダンスを踊ったり(略)

ワークショップなどでは、実践現場で使えそうな気のきいた活動のネタを、みんなありがたそうに学んで帰る。

(略)

問題は、すべての人が、こういった活動でハッピーになれると考える信仰のような思想であり(略)そうあるべきだと考える一種のごうまんさである。

 このへんの感覚は、街を歩いていて、さまざまなところで無造作に音楽がかけられている感覚と共通点があるように思える。

(略)

こういった「楽しい音楽」の思想教育[が](略)

わが国の音楽療法の傾向にもちこまれているとしたら、これは私にとってはゆゆしき問題である。(略)

音楽療法のクライエントとなる人たちは、私のように逃げたり文句をいったりすることのできない人が多いのだから。(略)

 音楽というものは、もともと押しつけがましいメディアであり、とくに西洋では、近世以後この押しつけがましさをどんどん増強させつつ今日にいたっている。ドミナントを連鎖させて、人の心をうむをいわせず情動的に操作していくロマン派以後の和声技法は、ひとたび気がつけば、うっとうしいだけのものになりかねない。クラシック音楽の神話などに惑わされず、しっかり音と音楽の力を聴き分けねばならないのだ。五歳の自閉症児に、神話が通用するわけはないのだから。

 音楽療法にかかわる人は、音と音楽にじゅうぶんに意識的でなくてはならない。同じことを考えもなく繰り返したり、不必要に大きな音で弾いたり、バランスを欠いた音でピアノを弾いたり、稚拙な音楽を平気で使ったり、ひどいハーモナイズをしたりする無神経さは、たしかに「楽しい音楽」信仰に連なっているように思えてならない。(略)

音楽療法のための音楽美学

(略)

ある録音された音楽になんらかの療法的効果がある、と考える人は、音楽を参加行為としてではなく、聴くべき音の対象物ととらえる文化を前提としている。これは、一八~一九世紀あたりにおこった音楽美学から来ているものだろう。一九世紀の音楽思想家、ハンスリックが音楽を「音でかたちづくられたもの」と規定したことは、音楽美学史上よく知られている。そのあたりから純粋に音だけとりだして享受するという考え方が現れ、静かに目をつぶって音を賞味するという態度も生まれる。ここから、音のみを録音してそれを商品化するという考えに到達することができる。そして、CDを聴く音楽療法という発想も出現するわけである。(略)

こういった場合、前提としている美学的態度がいちばんの決定要素となり、音の効果の検証にどう科学性をもたせようと、意味が希薄とならざるをえない。

(略)

ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論を使った音楽の議論は、一九九〇年代後半に登場した(略)

一定の規則のなかで、ある音を複数の人が共有し使用すれば、そこに意味が生じてくるという考え方だ。コミュニケーションのむずかしい子どもなどとのあいだで、でたらめに近い音のやりとりがだんだん共有の音楽へと変わっていく音楽療法の過程を説明するには、従来の考え方よりずっとぴったりくるようにみえる。だが、この論でもちょっと困ることは、あるひとつの音をそのままいくら繰り返しやりとりしても、音楽になるわけではない、というところだ。ある音楽が音楽として立ちあがってゆくには、なにかその音響に変化や付加をほどこす必要があると私は思うが、言語ゲーム論のみでは、そういった変化による意味の発生についての説明が少し弱いように思える。

(略)

 あるとき、学生がジョン・ケージのCDをもってきて、なんど聴いてもまったくおもしろくありません、と言った。それは偶然性の作品で一九八〇年代のものだった。彼は、なにか形やまとまった音システムが情動的には働きかけてくれると思って、これをショパンの音楽を聴くように聴いたにちがいない。残念ながら、その耳にはなにも聞こえてはこない。つまり、この音楽は彼の価値観からははみ出したものだったのだ。

 窓の外の自然の騒音をただぼーっと聞くように聴いてみるように私はアドヴァイスしたが、ぼーっと聴かなければわからない音楽があるということにも、最初は当惑するにちがいない。音楽療法では、当然にはみ出し、逸脱した音楽をよく聴きとれなくてはならないだろう。そう考えると、ある現代音楽のように、異なる聴き方を要求する音楽に慣れることは、自分のなかに知らないうちにインストールされた古い美学を意識させ、音楽療法の耳をトレーニングする手段として、なかなか有効なのではないかと考えはじめている。

音楽療法の美学

(略)

森の中で交わされるピグミーの女声コーラスは、このうえもなく美しいものと私は感じるが、これはたぶん誰でも少しの習熟でできるレヴェルのものといっていい。だが、誤解を恐れずにいうが、こういったシンプルな音楽を理想として、そこにもどるということは、われわれに残された道ではないだろう。

 ただ、音楽療法における即興演奏というものを考えるとき、このことは一定の意味をもっている。すぐれた音楽療法家は、相手にはなるべく技術的な障壁のない表現の場となりうる音楽空間を作りだそうとしてきた。この場合、音楽療法家にはそうとうの専門技術が求められるかわりに、クライエントにとってはなるべく最小の技術ですむような音楽のなりたち方が考えられている。

(略)

 しかし最近私には、音楽療法家による補足によってなりたつ音楽という考え方が、どうにも西洋芸術音楽的な発想に思えるようになった。音が少なくとも、あるいは乱雑でも、そこに発生する音楽の強度のようなものに注目する音楽美学は考えられないものだろうか?(略)

音楽が発生するぎりぎりのゼロの地平から、美しさを測る視点を考えることはできないだろうか(略)

 音のかぎりなく少ない、モートン・フェルドマンや、もっと前のウェーベルンの音楽や、ずっと最近の無音派の即興演奏などが、そんなことを示唆してくれているように思えてならない。足し算ではなく、逆に音を減らしていって、どこまで減らしたら音楽ではなくなるか?そういったぎりぎりの限界点に生ずる美しさを、強度ととらえ、そこを起点として美しさを考えていくほうが、音楽療法の美学にはふさわしいように思えてならない。

調的和声音楽と資本主義

(略)

 現代の音楽療法は欧米ではじまり、発展したので、西洋音楽を基盤とし、それを当然のこととして考えてきた。そして、それがそのまま日本に伝わったわけである。

(略)

一種グローバルに通用するもの、と単純に考えられてきた(略)

使う音楽さえ替えれば、インドならインド音楽を使った音楽療法(略)がそれぞれなりたつ、と漠然とながら想像されていたようである。(略)

[だが]ことはそう単純ではない(略)

南アフリカ共和国で働く音楽療法士は、奥地で豊かな土着の音楽文化に遭遇し、どうしてよいかたいへん戸惑った。この音楽療法士は白人で、ノードフ=ロビンズの音楽療法コースの出身である。音楽の部分をアフリカ音楽に入れ替えようにも、彼女にはその知識も技術もない。

(略)

[西洋音楽は]ロマン派以後は、楽しさや悲しさといった感情を、和声という手段をつうじて、比較的細かく音にアサインさせて発展してきた。現在のポップ・ソングや映画音楽は、そのように発展した音-情動のアサイン・システムを効率よく使っている。だが、これはあくまで西洋の音情動システムなのであって、たとえばインドではインドなりのアサイン・システムがあり、それが文化なのである。

(略)

世界にはさまざまな情動のありようがあり、そう簡単に共通言語化できないのだ。

(略)

フラジャイルな音楽

(略)

音楽する行為自身が、基本的にはフラジャイルなのである。(略)

誰かがちょっと物音を立てるだけで、音楽は簡単に壊れてしまうかもしれない。(略)非好意的な雰囲気がただようだけでも、音楽はじゅうぶんにダメージを受ける。はじめての演奏の場で、見知らぬ人びとのなかで音を出しはじめるときは、どのような音楽家もとてもフラジャイルである。(略)

 そのような壊れやすさのリスクを減らすために、音楽をする場を壁で囲み、子どもを排除し、楽器の音量を強大にしていったわけである。ストリート・ミュージシャンは、そういったなかでもっともヴァルネラブルな存在だろう。

(略)

音楽行為のなかでも、とくに声を出して歌うという行為は傷つきやすいものの代表だろう。

(略)

自身の音に防御力をつけるために音の出し方を発展させる。西洋音楽の声楽の声は、個人の声を超えてテノールやソプラノといった楽器のような匿名の声をめざした。

(略)

デレク・ベイリー]の音楽は、破片が散乱したような音の連続である。そのような音の状態でなければ、表現できないような音楽を彼は求めたのである。

 音楽は、ひとつのため息、鼻歌の一フレーズのような弱々しい断片から、大きな連なりと安定度を求めて、形あるものへの増殖を求める。ほんの短いフラジャイルな音楽的モメントから一時間もかかるシンフォニーへと発展したのも、フラジリティから逃れるための努力ともとらえられる。

 当然ながら音楽療法は、もっともフラジャイルな音楽を相手にする領域である。弱々しい太鼓の音や、聞こえるかどうかといった歌声、あるいは反対になんの音楽的意図があるのかもわからないような乱暴な音や表現(略)

このフラジャイルな音を注意深く見守り、そのフラジリティと最後までつきあう行為が音楽療法である。それには、相応のトレーニングと技術が必要となる。そういった意識が欠けたら、フラジリティを排除した平凡で防御力の強い音楽へと流れてしまうだろう。音楽療法が、ややもすれば明るく大きな声で、評価の安定した既存の歌をうたう活動へ逃げこみやすいのは、そんな結果であることが多い。(略)

コミュニティ音楽療法

 簡単にいえば、コミュニティ音楽療法とは、セラピストとクライエントの閉じられた関係のなかでおこなわれてきた音楽療法というものを、もっと広い社会や文化のなかでとらえなおそうという考え方である。音楽という行為は、投薬やなんらかの施術とはちがって、社会的、文化的行為なのだ。

(略)

 もうひとつ重要なことは、音楽療法のなしうることはエコロジカルであるという、この療法特有の認識だろう。音楽療法の世界では、音楽の力によって人が変容したといういい方がされることが多いけれど、それはほんとうだろうか?考えてみてほしい。あるクライエントの自閉的傾向が、音楽療法士がピアノを弾いたていどで、一瞬のうちに変化するはずなどないではないか。それは、もともとそのクライエントが潜在的にもっていた能力を、音楽という場において発現させたにすぎないのである。

(略)

つまり、音楽はクライエントの環境を変えたのであって、クライエント自身を変えたのではないのである。その意味で音楽療法は環境的なものであり、エコロジカルなものととらえるべきなのだ。

 こういった、環境を中心に人間をとらえる考え方は、もちろんヴィゴツキー教育心理学など昔からあったのだが、いままたとても説得力をもちはじめている。障害というものもよく考えてみると、社会や文化におうじてたいへん相対的であることがわかるだろう。

(略)

 もうひとつ、コミュニティ音楽療法という考えが登場せざるをえなかったのは、西洋社会を中心に発展してきた音楽療法が、西洋以外の世界へと広がりはじめたことにもよるだろう。たとえば、南アフリカ音楽療法士、パヴリチェヴィックは、自国で文化差という問題に直面する。彼女は白人でありヨーロッパ文化側にいた人だが、ネイティヴ・アフリカンの音楽文化との出会いを体験して、自分の限界を知る。

(略)

 パヴリチェヴィックとアンスデルの共著による『コミュニティ音楽療法』という本をひもとくと、もうひとつ、コミュニティ音楽療法というものが論じられるようになったほんとうの理由が浮かびあがってくる。

(略)

ロンドンで働くサイモン・プロクターは、「音楽療法というものをなにか決まった定義でとらえるのをやめるべきときがきた。それはたんに幸福の追究のためのミュージッキングなのである」と主張する。

(略)

さきに述べたマルチ・カルチュアの問題はしごくまっとうな理由だが、この後者のほうに、最近の若手の音楽療法士の本音が出ていておもしろいなと思う。なんとなくみんな、音楽療法というワクがうっとうしくなってきているみたいに思えるのだ。俺たちがやりたいのは音楽なんだ、音楽療法はいろんな理屈をもっともらしくつけてきたが、そんなのはもうどうでもいいんだ、というようなパンキッシュな脱音楽療法宣言が聞こえてくる。正直いって、やっとこういう本音が出てきたことに、私はほっとしている。

 わが国ではいま、音楽療法士の資格化を進めて、音楽療法という制度を確立することに関心が集まっている。努力の結果、それがなされたころには、ヨーロッパでは音楽療法という分野や資格などの考え方が大きく変わっていて、従来の制度としての音楽療法はどうでもよいものになってしまっているかもしれない。(略)

 

ブリュンユルフ・スティーゲと文化中心音楽療法

 コミュニティ音楽療法を論じるときに、避けることができないのがノルウェイ音楽療法研究家、ブリュンユルフ・スティーゲの文化中心音楽療法である。

(略)

彼はサンダーネという小さな町の大学で音楽療法を教え、そのコミュニティ全体を音楽療法というコンセプトでまとめるプロジェクトを進め、研究者として文化中心音楽療法という考え方を提唱している。この文化中心音楽療法は、今後どう受けとられていくかまだわからないが、いままでになんとなくなりたってきて、当然のものとみなされるようになった音楽療法の考え方に、別の視点を導入しようとしたはじめての試みだろう。

(略)

いま多くの人がこうであると考えている音楽療法とは(略)音楽療法士がいて、療法の対象となる人がいて、この両者の関係のなかで対象となる人に望ましい変化をもたらすよう、音楽療法士は音楽を使って活動する、というものだ。

(略)

これに対して文化中心音楽療法は、従来モデルではセラピスト-クライエントの関係が密室の中のように閉じたものになりすぎていること、音楽というものが行動変容のための道具になりがちなこと、音楽を自律的なものととらえ、薬のように誰にでも同様に働きかけるものであるかのように考えがちなこと、などの点に問題を投げかける。

 そしてスティーゲは(略)[それ]に代わって、文化という視点を軸に音楽療法の構築を試みる。正直をいうと、最初に私が彼の『文化中心音楽療法』という本を読んだときには、なんとたいへんなこじつけ的理論構築をしているのだろうと思ってしまったことはたしかだ。だが、それがコミュニティ音楽療法という実践を支える理論構築の試みであり、いままでの音楽療法の極端なメディカル指向に対するものとわかれば、すぐに腑に落ちた。

 この本のなかには、ありとあらゆる文化についての理論がこれでもかとばかりに引用されていて、そのまじめさと博学には圧倒される。それでいて、人間というものは文化的存在であり、音楽という活動も文化的なものであり、それゆえ音楽療法も文化的な営みである、という、いってみればわりに普通でまっとうな主張をしているにすぎないように思えた。

 この考え方は、社会的に開かれた場で仕事をしている音楽療法士には、じつは昔から自明のことだった。障害者施設や病院などで集団を対象に音楽療法(他の療法も同じだと思うが)をおこなう場合、その活動のその集団や施設内での意味や、対象者がそのなかでどう変わっていくかは文化社会的なものである。もし、その活動の結果、極端な話、対象者はまったく変化しなかったが、そのまわりが変化したという場合も重要な意味をもっている。たとえば、ある音楽療法の対象者が、普通のアマチュア合唱団に入りたいと希望をもったら(略)

合唱団はどのようにしたら、この人を受け入れることができるのだろう?(略)

この人が入ってもなりたつような新しいかたちの音楽を作ることにしたら(略)

その結果がうまくいき、この合唱団が新しいかたちの音楽活動にとりくんでいくことになったとしたら――。

 こんなふうに進んでいったとしたら、これはじつは変化したのは合唱団のほうであったことがわかる。そしてこの変化はこの対象者にとって、たいへんなエンパワメントになりうるはずである。環境や文化や社会が変わることのほうが、対象となる個人が変わるよりも、じつは意味が大きいことが多いのだ。

(略)

 文化中心音楽療法は、異なる文化どうしの融和というおもしろい視点も提供してくれるかもしれない。(略)

音楽療法士が対象者の音楽文化を受け入れて変化してゆき、また対象者のほうも音楽療法士の音楽文化を受け入れるように変化してゆき、その結果なんらかの音楽を共有するにいたるなら、それも興味深いプロセスかもしれない。いや、というよりすべての有効な音楽療法は、双方の変化を前提にしていると考えたほうが正しいように思える。

(略)

文化中心音楽療法という考え方をどんどん延長していくと、そのような文化と文化の出会いと融和というところに達するにちがいない。

(略)

 もっと簡単に、本音のところで話すなら、文化中心音楽療法とは、誰かといっしょに音楽することの意味をそのまま認めるための考え方、といってしまってもまちがいではないだろう。(略)

ガムランと障害者

 マルガサリというガムラン音楽のグループが、タンポポの家という障害者施設の人びとといっしょに大阪でおこなったパフォーマンスを見聞した。

(略)

かつては、健常者が障害者を援助するという方針が主であったのだが、今では障害を一種の異文化として捉えて、対等の立場から新しい表現の創出を目標とするものも多くなった。今回の企画もそのような視点から企画されたものである。こういった変化には、美術や造形の領域で、さまざまな表現のあり方がアウトサイダー・アートとして社会的に認められるようになったことの影響が大きいだろう。

 今回見ていて即座に感じたことは、ガムランのアンサンブルという形態がもつ、そのシステムの優秀さだった。少々のイレギュラーさがどこかに生じても、隙間や余裕によってびくともせずに吸収してしまう、なんだか一種の免震構造のようなものが、音楽のシステムのなかにあるかのようだった。

(略)

 西洋のオーケストラのようなアンサンブルでは、こうはいかない。各奏者のだす音があるていどの精度にそろわなければかっこうがつかないし、音楽もうまくなりたたない。どうみてもガムランに比べて、はるかにきちきちで遊びが少なくて、のびのびできない、じつに脆いシステムだということがわかる。

(略)

 ガムランは、少々のずれやいいかげんさが、かえっておもしろさを作りあげることのできる音楽のシステムで、この部分については西洋音楽よりも、ある意味でテクノロジーが進んでいると考えるべきかもしれない。いっぽう、西洋音楽の場合、同じ高さの音をそろえて同じタイミングに出すということでなりたつように作られているので、能力に差がある人たちが、短時間で適応するにはとてもむずかしい。この部分では西洋音楽は遅れているとも考えてもよいのではないか?

 じつは、ヨーロッパではじまった音楽療法が最初にしなければならなかったのが、こういったいいかげんさを可能とする柔軟な音楽システムの開発だった。西洋音楽のリソースを使ってなんとかそれをなしとげるには、優秀な音楽家の力業に頼るしかなかったわけで、それがいまの臨床的即興演奏のような音楽療法技術となっていったわけである。だがこれはいま考えると、とても不器用なやり方にみえる。逆に、よくこんなにひどく不向きな音楽を使って音楽療法なぞやってきたものだと感心してしまう。

(略)

西洋音楽がそのかわりに発展させたのは、システムの標準化による扱いやすさだった。そのいちばんのテクノロジー平均律の導入だ。すべての楽器の音階とピッチが共通化され標準化されているので、どの楽器を持ってきてもアンサンブルができる。ガムランでは、楽器のセットによってチューニングがばらばらなので、おいそれと隣村といっしょに合奏を楽しむわけにもいかない。

 また西洋音楽では、調、和声進行、拍節など法則化された部分も多いので、その規則さえ読みとれれば比較的扱いやすい、というところもある。それから、細かく譜面に書いてあるので、再現性が高いというところも大きな特徴だ。

(略)

これまでだって、あれこれ考える音楽家の実践から、新しい音楽が開発されてきたことも事実だからだ。(略)人工言語エスペラントが、それほど成功していないようであることを考えてみても、合理的思考によって音楽療法向きの改良音楽システムを生みだすのは、言葉以上に難しそうな気もするのもたしかだが。

 ただ、二〇世紀に入ってから、この種の柔軟度の改善の試みは、いくつか実践されてきていることも事実である。音楽教育におけるオルフやコダーイの方法(これらは明らかにヴァーチャルな音楽だ)、近現代音楽やジャズにおけるモード技法の開発などである。これらはすべて一八~一九世紀に細密化した和声システムに対して、モード・システムというもう少し柔軟性のある大ざっぱなシステムを導入するというかたちをとっているのがおもしろい。音楽療法家であるポール・ノードフも、このモード・システムの柔軟性にはいち早く気づいて、その活動の初期から応用しているのも、こういった動きともちろん連動していよう。

 そう考えてみると、アフロ=アメリカンのリズムにモーダルな響きで作られたクラブ・ミュージックやポップスが、だんだんどの文化においても広まってきているのは、そういった一種の国際的改良音楽システムへの指向を示しているものにも思えてくる。

 

ジャン・デュビュッフェの音楽

(略)

 デュビュッフェは、ご存じのように、子どものなぐり書きのような独特なスタイルをもった、生のエネルギーに満ちた絵や立体作品を多く残したが、最近ふたたび脚光を浴びはじめたのは、彼が(略)アウトサイダーが作った美術作品に興味をもち、「アール・ブリュット」(生のままの美術)というよび方で積極的に評価したからである。もちろんこれは、彼自身がプロの手垢のついたような美術ではなく、もっと無垢で生な表現に惹かれたためだ。

(略)

 さて、そのデュビュッフェの音楽作品であるが、これは一九六〇年に友人のデンマークの美術家、アスゲール・ヨルンと自宅ではじめた即興演奏からはじまっている。(略)

当時の家庭用テープ・レコーダーとマイクで録った音そのままで、音質などはまったく気にもとめていないようである。それどころか彼は、プロフエッショナル用の機材や技術を使うことで失われるものが多いので、そんなことにはまったく興味がない、とまできっぱりいっている。

 音楽の内容は、現代音楽にも似ているし、フリー・インプロヴィゼイションにも似ているが、そのどれでもない感じもする。これはもうアール・ブリュットの音楽版といってよいだろう。デュビュッフェの音楽経験は、昔ピアノを習ったことがあり、その後エリントンなどのジャズを弾いたことがあるだけだという。おもしろいことに、彼は十二音技法の音楽や、電子音楽やミュジック・コンクレートなど、いわゆる現代音楽について、当時はなにも知らなかったと語っている。

 彼は自由に無調的にピアノを弾き、どこやらの民族楽器を奏で、なにやら声を出し、それをテープ・レコーダーで録音してゆく。最初はシンプルに二人で合奏して録音していただけだが、そのうちテープをハサミで切ってつないで編集したり、もう一台テープ・レコーダーを買ってきて、ひとりで多重録音を試みたりするようになる。最初からプロの音楽などに媚びる気のない、筋金入りの堂々たる表現で(略)じつにすっきりとしたすがすがしさに感銘を受ける(略)

 同じような美術家の音楽の試みで私の知るものには、ヨゼフ・ボイスのものがある。ボイスも、自分の美術会場でピアノを弾いたりするし、声のパフォーマンスをしたこともある。私からみると、ボイスのほうが、ややプロ的な芸術表現に近い気がする。このどちらもじつはウェブで聴くことができるので、興味のある人は見つけて聴いてみられたい(右リンクをクリック→UbuWeb Sound)。

(略)

ケージの録音にも、ものすごいものがある。(略)

[とある講演]自分の日記をぼそぼそと朗読するというパフォーマンスで、これがじつに二時間ほどつづく。(略)あんのじょう、しばらくすると会場はがやがやしはじめ、そのうちにヤジが飛びかいはじめ、さらに壇上に乱入してケージのマイクをとりあげて叫ぶなど、なにやら昨今の荒れた成人式のような状態になっていく。ケージはそんななか、ただ淡々と、ぶつぶつと朗読をつづける。しかし終わったときには盛大な拍手がまきおこる。これは、なにも意図のない音のハプニングなのだろうが、この二時間の出来事すべてをひとつの作品と考えれば、これはもうケージの勝ちである。

 どれも、自分がおもしろいと思っていることをためらいなしにしていて(略)なにものにも媚びない潔さがあり、そこに、プロがどんなに技を尽くしても得られないなにかがある。

(略)

こういった無邪気な表現をとりもどすことは、とても意味あることに思える。プロのアーティストは、たぶん誰でもみずからのプロの手垢にうんざりした経験をもち(略)無垢な表現を夢見たことがあるにちがいない。同時にまたプロであればあるほど、その夢を実現することがどんなに難しいかもわかるはずだ。デュビュッフェ自身が、なんどか挫折して美術の世界から離れては、また戻ったりしているのは、そのことを示しているだろう。

(略)

音楽療法の世界でも、アウトサイダー・アートと同様、クライエントの表現を美としてどう価値づけるかという議論が進行中である。

(略)

デュビュッフェやボイスやケージなどの試みは、音楽療法というミュージック・ブリュット(生のままの音楽)になにかの手がかりを与えてくれるような気がしてしかたがないのだ。(略)

コミュニティ・ミュージック

(略)

 コミュニティ・アートというものは、基本的に手作りで、草の根的色彩が強く、市民が直接創作にかかわることや、結果でなくプロセスを重視することなどが特徴とされている。

(略)

[イギリスの友人の作曲家]トレヴァー・ウィシャートは、一九七〇年代から、子どもや地域とかかわる活動を多くおこなってきていた。(略)

あるときロンドンで声と言葉を使った電子音響音楽の講座をしていたのを見にいったことがある。受講者はおもに高齢者が中心で(略)

まず詩人が受講者に、自分の夢や体験をもとになんらかの詩を作っていくようにうながし、ついで作曲家のトレヴァーがその音声を使って、サウンド・ポエムのようなものを手伝いながら作っていく。(略)

ある日、起きたら一面に青いチューリップが咲いているの、とおばあさんは夢で見た話をする。詩人はおもしろがって、それをいろいろ発展させようとする。読まれた彼女の詩は録音され、サンプラーにとりいれられ、加工され、電子音響作品に変わっていく。(略)彼女の声は、シュールな音響詩となって空間をただよう。

(略)

こうした講座は芸術家にとっての働く場として意味があるが、若いアーティストは経済的にもおおいに助かっているにちがいない。

 たぶん日本にはこんな高齢者向け講座はあまりないだろう。だいたいは詩吟や大正琴や生け花といった伝統的な種目が並んでいる。これは(略)

とても残念なことというしかない。なぜなら、美術であれ音楽であれ、表現者として「いま」と直面しながら生きる芸術家が、非専門的な人たちと接することは、たいへん重要なことだと思えるからだ。

 今の表現の前線を生きる芸術家の仕事と、趣味の領域とでは、表現というものについての緊張感がまるで異なる。この緊張感は、その表現行為がおこなわれるコンテクストとのかかわりから生まれるもので、一種の歴史意識というべきものだ。芸術家はさまざまな芸術表現の歴史が堆積した、その最前線で仕事をするしかない。

(略)

表現行為というものは、コンテクストの意識なしでは意味が薄く、力が弱いものにならざるをえない。どんなにうまく弾けたとしても、ある種の音大生のピアノがおもしろくもなんともないのは、そういったコンテクストのなかでの緊張感が欠けているからである。表現者としての資質を高めるためには、現代の演奏行為とはなにか?なぜこの楽譜をこのようなスタイルで弾くのか?グレン・グールドはなぜあのようなスタイルで演奏をしたのだろう?などといった問いかけについて考えることが必須となり、さもなければ少なくとも表現者としては、お稽古ごとのレヴェル以上には達しない。

(略)

イギリスのコミュニティ・アートにあって、日本にないものは、こういったコンテクストへの意識かもしれない。集まってきた人たちの誰もが、いまという時代を生きる表現者であり、そのコンテクストにおいて自分の声をいかに明瞭に外に出すかが目標と考えられるべきだろう。そのうえでなら、合唱でもバンドでも、どのような活動もオリジナルな表現行為としてなりたつことだろう。

 こうしたコミュニティ・アートが、趣味としてではなく、現代の表現行為の重要な領域としてなりたつことは、なんとなくプロの芸術分野に元気がなくなってきている今日、新しい芸術ジャンルとして、とても期待がもてる。

 ここから、コミュニティ音楽療法までは、ほんの一歩の距離である。

小さな音で音楽をする

(略)

 クラシック音楽で、音の強弱の幅が意識して使われはじめたのは、そう昔のことではない。それまでは大衆音楽やポップ音楽のように音の大きさに無頓着だった(略)

ジョヴァンニ・ガブリエリの《フォルテとピアノのソナタ》という金管楽器のための作品で、この曲ではじめて音の大きさが譜面に記されたとされる。ときに一五九七年のことだが、まだこのときには大きい小さいを使い分けるだけで、クレッシェンド、ディミヌエンドという、さらに芝居がかった演出法は発見されていなかったようだ。

(略)

 もっとも小さな音の楽器はといえば、私の知るかぎり、バロック時代の鍵盤楽器クラヴィコードだろうか。よくあんな小さな音でその昔はコンサートを楽しんだものだと思う

(略)

大きな音の追求は、力とエモーションによる表現を促進させ、今日のような音楽ができあがっていったのだが、逆に小さい音に注目してみる試みはまったくといっていいほどなされなかった。

(略)

 音楽において小さな音の可能性をようやく実現させたのは、アメリカの現代作曲家、モートン・フェルドマンだろう。最近では、アヴァンギャルドで自由な即興演奏をおこなう演奏家のなかで、杉本拓さんや江崎將史さんのように、もっぱらとても小さく静かな音ばかりを扱う演奏をしている人たちが登場している(無音派あるいは弱音派などとよばれる)。こういった音楽家について、極端な話では、一時間に数回ぐらいしか音を出さなかったという話も聞いたりする。あまりに沈黙が長すぎると音楽の流れが消滅してしまうので、ときおり池に小石を放り投げるようにして音を出す。音楽のもつ持続性をどんどん希薄にしていく音楽の可能性は、たぶんいままで試されたことのなかったものだろう。

 こういった音楽を聴いたり、あるいは演奏したりしてみると、すぐに気がつくのが、いままでいかに音楽を「力」と「攻撃性」という概念でとらえていたかということだ。自分の主張を強くしたければ、音を大きくするしかない。これをどんどん進めていけば、大音量の主張どうしの大激論のような世界となる。人の出す音を消さないという条件で即興演奏してみると(略)平和な状態が現出する。いままでの音楽は静かなものでも、どこか戦闘的なのだ。(略)

路上の音楽

(略)

 音楽を分類する方法は、いままでいくつもあった。西洋音楽民族音楽、芸術音楽と大衆音楽、絶対音楽標題音楽、娯楽音楽とシリアス音楽等々。でも最近まで、劇場の音楽と路上の音楽という分け方はなかったのではないかと思う。(略)

最近、多くの人が、この路上の音楽という考え方に興味を示しはじめているのはとてもおもしろいことだ。

(略)

音楽がもっとも流通されてきた路上という場所から、しだいに(略)音楽が放逐され、劇場という安全な場所へと追いこまれていき、そしてさらにCDという商品やマスメディアのなかへと追いやられていった閉塞感のようなものによるのではないだろうかと思う。そのような状況のなかで、自由で誰もが音楽できる平等な場としての路上に、ふたたび人びとが興味をもちはじめたのは、ある意味で必然的なことかもしれない。

(略)

路上の音楽は一般に、あるていどの音量とスピード感をもち、やわではなくタフなものだ。路上の騒音のなかで奏でられても、その騒音を地にして自分の音楽を図へと変換してしまうだけの強さをもっていなければならない。楽器も壊れにくく、運びやすいものが基本だ。

(略)

 路上の音楽とは、匿名のミュージシャンが、さまざまな人と音楽を共有することをめざすものであるならば、劇場の音楽は音楽を所有する者が一方的に音楽をおこない、選ばれた観客がそれを消費するものだ。路上の音楽が行為とプロセスの音楽だとしたら、劇場の音楽はモノとしての音楽を消費する音楽だ。

 こんなふうに、路上の音楽のことを再考しはじめたのは、コミュニティ音楽療法についていま考えているからだ。音楽療法はあまりよく考えることもなく、劇場音楽のほうをモデルにしてしまったようだが、その結果、その音楽は消費的な面が強くなり、閉じた関係のなかの音楽になってしまったのでないだろうか?さまざまな人びとをいっしょに結びつけたり、相互にコミュニケートしたりするなら、音楽のヒエラルキーの少なく、音楽の関係性もより民主的な路上の音楽の力は、どう考えても考慮に入れるべきものだろう。

 いままで西洋型音楽では、さまざまな音楽の新製品が生みだされていったが、それらはすべて劇場の音楽の枠内でのことであった。音楽をするコンテクストが考えられることは、それに比べて、驚くほど少なかった。ジョン・ケージの音楽も基本的に劇場の音楽だったが、晩年には列車のなかでやったり、プロアマを問わずさまざまな音楽家が入りまじって同時進行を繰りひろげる縁日の夜店的音楽、ミュージサーカスのような大きな開かれた場でおこなわれるような作品も試された。カナダの作曲家のマリー・シェーファーは、サウンドスケープの提唱者だけあって、森の中や公園や駅などさまざまなコンテクストで音楽をしている。音楽の技法そのものはそれほど新しくはないが、そのコンテクストのおもしろさにはいつも感心させられる。

 コンテクストを重視するコミュニティ音楽療法でも、さまざまな場や人間関係のなかで音楽をなりたたせなければならないので、音楽の路上性はこれからおおいにとりくむべき課題だろう。このあたりは、西洋の音楽療法研究家たちはまだあまり念頭にないように思える。(略)

あとがき

 この本は、カワイ音楽教育研究会が発行する『あんさんぶる』という小冊子に、ほぼ毎月書いた記事のなかから音楽療法にかかわりのあるものを選び、それに大幅に加筆修正を加えて作りました。(略)いちばん古い記事で二〇〇二年三月(略)執筆期間は三年十ヶ月にわたっています。

(略)

この本で議論されたような領域では、この四年ほどのあいだに、ほんとうにさまざまなことが動いている、ということです。私自身の意識も、連載の最初のほうで書いた文と、いまのそれとではだいぶ違ってきていますし、なにより、問題のとらえ方がより鮮明になりました。

(略)

音楽への見方が一九九〇年頃から急激に変わってきているからだと思います。たとえば、私はこの四、五年、とくに音楽療法を哲学や美学の方向から考えはじめて以来、音楽療法だけでなく関連する音楽学の領域で、いままでに読んでいなかった、新しい知を刺激する本を数多く発見することになりました。それらは新音楽学とよばれるものだったり、音楽のカルチュラル・スタディーズだったり、ポスト・コロニアリズムの影響下の音楽研究だったり、ポスト・モダンの哲学の影響下にあるものだったりします。

 たとえば、民族音楽学のなかにはアフリカ音楽研究という領域がありますが、それそのものが、最近では逆に研究の対象になったりしているのです。つまり、アフリカ音楽というものじたい、じつは西洋が作りだしたものであり、それを比較研究の対象とすることによって、逆に西洋が非西洋へ投げかけた視点を明らかにしようという意図をもっています。同様に、「優れた知的遺産としての西洋音楽」という虚構を、西洋社会がどのように作りあげてきたかを追究しようとする視点も、多く登場してきています。

(略)

 音楽心理学も変わりはじめています。当然のように正当なものと考えられてきた、音楽を楽しさ、悲しさなどの感情と結びつける音楽の情動の研究においても、やや慎重な姿勢がみえはじめましたし、すでに情動そのものを歴史学的・社会学的に研究しようとする動向も無視できなくなりつつあります。音楽心理学というものは、西洋音楽によって惹起される情動には普遍性があるという考えに端を発しているので、これも西洋音楽中心主義という根は同じものとして、異議が出されはじめているのです。

(略)

 二〇〇六年九月 芦屋にて 若尾裕