イナー・シティ・ブルース マーヴィン・ゲイが聴こえる

イナー・シティ・ブルース―マーヴィン・ゲイが聴こえる

イナー・シティ・ブルース―マーヴィン・ゲイが聴こえる

  • 作者:紺野 慧
  • ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス
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『離婚伝説』

 77年3月に成立した離婚のニュースが公になったのは『ライヴ・アット・ロンドン・パラディアム』の全米リリースと同じ時期で、アンナとの離婚の成立は、公然の不倫相手だったジャニスとの再婚を意味していた。(略)[半年後に]ジャニスと結婚。ノーナに続いて75年11月に生まれたボビーを加えた新しい家族4人での暮らしもスタートした。

 本来ならいい方向に向かって流れていくはずだった。

 だが、現実は違っていた。

 アンナとの和解条項には60万ドルの慰謝料とマーヴィン・ゲイⅢはアンナが引き取るという約束事があり(略)[『離婚伝説』]の印税とアドヴァンスが慰謝料に充てられる予定になっていた。だが、そのアルバム制作と同時期に、マーヴィン・ゲイはロサンゼルス連邦地方裁判所に、自己破産と、所有するライト・オン・プロダクションの300万ドルに及ぶ負債からくる破産を申請。重ねてIRSから100万ドルを超える額の所得税滞納で査察を受けることになる。

 新しい所帯を構えた途端に表沙汰になった金銭トラブルであった。(略)

程なく"ジャニスが裁判所に離婚を申し立て、ふたりは既に別居状態。マーヴィン・ゲイはボビーとマウイ島に住み、ノーナと一緒に母親の元に身を寄せたジャニスはテディ・ペンダーグラスと恋仲になっている"といった噂も伝えられていた。

(略)

離婚訴訟の行方が定まってもいなかった[のに](略)敢えて広い屋敷と華やかな暮らしぶりにこだわったのは(略)[ジャニスと子供への]盲目的な愛情表現であった。

(略)

貧しさと父親の暴力のなかで幼年時代を過ごしたマーヴィン・ゲイは、それほどまでに夫婦の愛とか家族の愛というものに飢えていたのだった。

 20才で出会い恋に落ち結婚したアンナは彼より17才年上で、結局、子どもは諦めざるを得なかった。〈レッツ・ゲット・イット・オン〉のレコーディングの際にエド・タウンゼントの紹介で知ったジャニスは高校生だった。その16才の彼女に50才の妻との結婚生活が破綻をきたしていた33才のマーヴィン・ゲイは一目惚れしてしまったのである。

(略)

マーヴィン・ゲイ・シニアは、暴力を武器に家族を押さえ付けることで、に自らの人生への鬱積した思い折り合いをつけようとしていた。(略)

音楽の世界に入ってからは(略)ベリー・ゴーディJr.が、父親に代わってマーヴィン・ゲイの恐怖と反発を駆り立ててきた。

 だが、そのどちらとも、ギリギリのところでは闘わずにきてしまっている。(略)どこかでスルリと体をかわしてしまう弱さがマーヴィン・ゲイにはある。

 面と向かって対峙するのではなく、代替の対象を見つけだしては欲求をすり替える。幼い頃にはそれが母親だった。成長するにつれ、音楽であったり麻薬だったり

(略)

自分にも、ベリー・ゴーディJr.に立ち向かうだけの力は既に備わっている。その証がジャニスとの暮らしぶりの豪華さである筈だった。

 だが、そのジャニスは、屋敷が差し押さえにあう前に娘を連れて出ていってしまっている。

破滅

 「自分の人生が終わりに近づいているという予感めいたものが兄にはあったのかもしれない」と、弟のフランキー・ゲイ(略)「(略)そんな思いがあったからか、マーヴィンはより家庭中心の生活を送りたがっていた。(略)」

3才違いの(略)フランキーは、誰よりマーヴィン・ゲイを知っていた。

 共に叱られ、父親にムチで打たれ折檻されたワシントンDCの少年時代。そこから兄は逃げ出し、弟は残る。

 同じように歌手の資質を周りから認められながら、兄はプロの道に進み、弟は諦める。

 一方は兵役からドロップ・アウトし、一方はヴェトナムでの戦いを経験する。まるで対照的な生き方を選んできた兄弟だった。

(略)

[マーヴィンに]初めて男の子が生まれたとき、フランキーという同じ名前を息子にと頼みに行った相手である。

(略)

[2年に及んだ]ジャニスとの離婚話は、結局、ノーナとボビーをジャニスが引き取ることで決着がついた。

 最後まで執着を続けた息子をも(略)失ってしまったのである。

(略)

[82年『ミッドナイト・ラヴ』が大ヒット。83年グラミー受賞、モータウン25周年式典出席、全米ツアー開始]

逃げるようにして離れたアメリカである。そのアメリカが、果たしていまもマーヴィン・ゲイを恋しがってくれているのかの危惧は、しかし、嬉しい誤解だった。(略)多くのファンが各地の会場を埋め(略)人々は好意で彼を迎えようとしていた。

 吹いていたのは追い風であり、周囲の誰もがマーヴィン・ゲイの鬱屈の日々は終わったと信じ込んでいた。

 だが、その風向きも、すぐに変わってしまうことになる。

(略)

 「吸うというより食べるという感じ。これまでみた誰のコンサート・ツアーにも増して、マーヴィン・ゲイのツアーにはコカインが溢れていた」と、同行したツアー・ミュージシャン

(略)

[全米]ツアー・スケジュールは苛酷なものである。ショウ・ビジネスの世界から遠ざかり、40代も半ばに差しかかった自分にそれがやり遂げられるかの不安と成功させねばのプレッシャー(略)から逃れようと再びコカインに身を染める。そして(略)

使い古した"セックス・シンボル"のイメージにもすがりつく。

(略)

エンディングで舞台を降り、シルクやヴェルヴェット地のバスローブに着替えて現れたマーヴィン・ゲイが〈セクシャル・ヒーリング〉を歌うという演出(略)がいつしかエスカレートして、ついには舞台でパンツ一丁の姿を晒すまでになる。

 ジェット誌に載った半裸のマーヴィン・ゲイは決してセクシーでなどなかった。ただひたすらの足掻きであり(略)哀しい姿であった。

(略)

 ツアー・クルーのひとりがホテルの浴室でシャワー・カーテンの棒に首を吊って死ぬという事件(略)

 「自分のツアーで死人が出るなんてことは普通の場合でもショックだが、ドラッグに浸かっていたらなおさらだ。感情の振幅が大きくなって抑制の機能も麻痺する。妄想が妄想を呼び、過剰に責任を負い込んで自分が逮捕されてしまうんじゃないかってとこまで神経がささくれ立つ」

(略)

ツアー先のホテルからカーティス・ショウに電話が入る。

「悪魔に囲まれてる」

電話口でそう洩らしたのはマーヴィン・ゲイだった。

その声の暗さに

「帰りな。フレディーに電話して、すぐにでもベルギーに戻った方がいい」とカーティス・ショウが助言する。

(略)

 ツアーの終了と引き換えにマーヴィン・ゲイの精神は彼を蝕み、母親のアルバータをして"あんなに衰弱したマーヴィンを見たのは初めて(略)すぐにでも入院が必要な状態なのに、いくら言い聞かせても駄目。(略)頑なに入院を拒んでいた"と嘆かせるほどでもあった。

(略)

[ビショップ・ウエスト牧師談](略)

「ドラッグをやると父親に突っ掛かっていく。マーヴィンはことさら父親と対等に物を言おうとするし、父親は父親で(略)俺への無礼は許せないとぶつかる。だから、マーヴィンの一家には緊張と争いが絶えなかった。(略)」

(略)

「マーヴィンが父親に手をあげたら父親は彼を撃つということを家族は知っていた。(略)」とゴードン・バンクス(略)

 牧師が更に4月1日の悲劇へと言葉を続ける。

「あの日も、明け方から深夜までマーヴィンはドラッグをやっていた。そして父親と口論になり、父親が拳銃を持っているのを知りながら、マーヴィンは挑発し、彼を殴った。(略)銃を構えたのに、マーヴィンは真っすぐ彼の方を向き、怯えもみせず命乞いもしなかったようだ」

マーヴィン・ゲイ・シニア

 マーヴィン・ゲイ・シニアの生れ故郷はケンタッキーのジャスミン・カウンティという田舎町(略)両親は(略)借地の小作人(略)貧しい家庭である。(略)

母が1918年に設立されたばかりのペンテコスト派の熱心なメンバーになったことからその宗派ハウス・オブ・ゴッドに加わり、布教の為に全米を行脚することになる。

 第一次世界大戦が終り、その勇猛さで名を馳せた369連隊がハーレムの五番街をパレードした興奮から間もない時期のこと(略)戦地から帰還した黒人兵の多くが(略)北部の大都市に住み着いていた。ユダヤ新教とペンテコスト系キリスト教のミックスした心霊的な新興宗派であるハウス・オブ・ゴッドは、そうした黒人の都市移住を背景に普及した宗派でもあった。

(略)

シニアは自分自身の教会を持つ身ではなかった。設立されてまだ日の浅い宗派なのだから、信者を開拓しなければならないし教会の数も足りない。そのぶん、牧師にはより以上の熱意と奉仕、犠牲が強いられ(略)

 「父も母も、ほとんど文無しの状態でワシントンに流れついた」

(略)

がっしりとした身体はみるからにタフで、布教にあたって神を語ることばには霊に導かれた信仰心が溢れており、会衆を前に歌う声は太くて深い。物心がついたばかりのマーヴィン・ゲイの目に、強い独立心に包まれた父シニアの姿は"他の誰より尊敬に値する"憧れの男と映り、父親はといえば、宗派の集まりで歌う息子のなかに神に仕える者の資質を見いだし未来に繋がる夢を重ね見てもいた。

 しかし、そうした父と子の関係にも軋みが生まれる。

 40年代の終わり、マーヴィン・ゲイが10才の頃(略)ハウス・オブ・ゴッドのなかに分派の動きが起き、シニアは新しいグループのハウス・オブ・リヴィング・ゴッドの結成に加わることになる。(略)

結成の準備段階であった思惑や約束とは異なり、彼を待っていたのは会衆の割り当てすらないという現実であった。結成の為の員数合わせに使われたのと変わらない仕打ち。父シニアが味わったのは裏切られたという失意の思いであり、挫折の苦さだった。

 ほどなくして(略)[盟友の]伝手で再び元の宗派に戻ることになるのだが(略)残った者と一度飛び出した者とでは自ずと立場も違ってくる。(略)

いつしか教会の活動からも遠ざかり厭世的で内に篭もりがちな男になってしまっていた。

(略)

 父シニアが挫折の果てに再びハウス・オブ・ゴッドに戻ったのと同じ49年には、ビルボード誌のブラック・ミュージック・チャートがレイス・ミュージックからリズム&ブルースへと名称を変え、アトランタでは最初の黒人経営のラジオ局であるWERDが開設されている。シカゴで、マルコム・リトルが(略)マルコムXと名前を変えた

(略)

 公民権運動前夜の時期である。

マーキーズ、ボ・ディドリー

 父の夢は息子が弁護士になってくれること(略)かつてシニア自身が憧れた職業(略)

 55年、卒業を1年後に控え(略)[高校を中退し、空軍に入隊。父親からの]逃げ場を、彼は兵役に求めたのだった。

(略)

[だが]僅か2年で性格不適合者の烙印を押され除隊。ワシントンDCへと舞い戻る(略)

 家には寄り付かず友人の家を転々としながら[歌手を目指し、マーキーズを結成]

(略)

マーキーズの面々と17番街とTストリートの角にあるハワード・シアターに入り浸っていた。(略)そこでサム・クックを観、リトル・ウイリー・ジョンの前座で出ていたジェームス・ブラウンを観たりしていたのだった。

(略)

 派手で汗が弾けるステージ・パフォーマンスに刺激されながら"ジェームス・ブラウンとジャッキー・ウイルソンのふたりにはとてもかなわない"などと思いつつ(略)何も形に出来ずにいる自分を振り返っては焦ってもいた。

(略)

[契機となったのは]

 58年のボ・ディドリーとの出会いである。(略)

憧れのムーングロウズをバックに〈ディドリー・ダディー〉もヒットさせた男である。マーキーズの全員が、初めて身近に接するスターの存在に有頂天になってしまっていた。(略)

"ボディドリーとの出会いは大きかった。ジェームス・ブラウンのようなリズミック・ジニアスが彼だった"(略)

[ボ・ディドリーの口利きで初レコーディング]

念願のレコード・デビューであったが、結果は散々。ヒットの気配もなく終わってしまった。

(略)

ワシントンDCに帰ったマーキーズは、再び、アルバイトで日銭を稼ぐ毎日に戻ることになった。

(略)

仕事場にしていたランチ・カウンターは白人専用である。休憩の食事を取るにしても、表に出てバスの待合所や公園のベンチで食べるしかなかった。

 "ワシントンDCが嫌いだった。あの街にはやりきれない絶望ばかりが満ちている。政治の中枢があった。官僚がいて嫌になるほど多くの欺瞞も溢れているのに音楽的には何もない。たとえ志す才能があったとしても、夢を叶える道もなければ、レコード会社にも、プロモーターにも、ディストリビューターにも縁がない"街で、腹に燻るやりきれなさをなだめながら、マーヴィン・ゲイは日々を過ごしていた。

 19才の夏である。何も生み出さず、何も起きはしない街。それが彼にとってのワシントンDCだった。

ハーヴィー・フュークァ

[ボ・ディドリーの運転手をやっていたチェスター・シモンズが耳寄りな話を]

ツアー先の楽屋で「グループの中が揉めちまって参った。どこかにリードを取れる歌手はいないだろうか」とハーヴィー・フュークァがこぼした

(略)

[10歳年上の]フュークァがプロの視線でドゥワップのテクニックを手ほどきしてくれるのだからマーヴィン・ゲイは感激する。

(略)

 才能を見い出す鋭い嗅覚を備え、仕事には完璧を求める。歌手でありプロデューサーの資質も持つハーヴィー・フュークァを完璧主義者と捉えたマーヴィン・ゲイは彼に心酔。(略)

 年が明けて59年。新生ハーヴィー&ザ・ムーングロウズのメンバーとして、マーヴィン・ゲイはシカゴに移ることになった。

(略)

 ビッグ・ジョー・ターナーとエッタ・ジェームスを看板にした南部巡業への参加がマーヴィン・ゲイとドラッグとの縁の始まりになった。

 そのツアーで、差別はスター歌手にも例外ではないことをマーヴィン・ゲイは経験する。

 南部では肌の色だけが問題で、彼が何処の誰で何をやっているかなどはどうでも良いことだった。黒人だからという理由でツアー先のホテルから締め出され、車の中で寝たり野宿したりの毎日を強いられる

(略)

――マーヴィン・ゲイにとっては理不尽な差別であり、南部で経験したその現実に、彼の自尊心は傷つき、痛みが胸に突き刺さったのであった。

(略)

その頃のマーヴィン・ゲイは酒が呑めなかった。女にもまだ初心である。行き摺りの恋に沈んだ気分を遊ばせる術など知らず、理想の女性といえば母を思い浮かべる生硬さも残っていた。(略)思いは自然に内へと潜り込む。(略)ピッタリだったのが、初めて手を出したマリファナであり、その楽しさがその後の彼をドラッグに染めることになるのだった。(略)

ジェリー・バトラー&ジ・インプレッションズの〈フォー・ユア・プレシャス・ラヴ〉は(略)ビッグ・ヒットになったのだが、ヒットの凄まじさ以上にハーヴィー・フュークァの気を引いたのはドゥワップとは一線を画すそのコーラス・スタイルにあった。

 コール&レスポンスを基調にしたインプレッションズのコーラスはハーモニーがより複雑で厚みのあるものだった。

 ――ドゥワップは終わった。

 ハーヴィー・フュークァのアンテナがそう囁いていた。(略)

(略)

 59年、グエン・ゴーディとビリー・ディヴィスはアンナ・レコードを設立。(略)

フュークァが出会ったとき、グエン・ゴーディとビリー・ディヴィスは恋仲だった。一方、ハーヴィー・フュークァはレーベル・メイトのエッタ・ジェームスと恋仲だったのだが、アンナ・レコードの仕事を通しての関わりのなかで、それぞれの相手が代わり、ふたりの仲が始まることになる。

(略)

胸の裡ではムーングロウズもエッタ・ジェイムスとの恋も終わっていた。

フュークァはデトロイトに移って新しくハーヴィー・レコードを設立(略)

 抱えるアーティストはマーヴィン・ゲイである。

(略)

拠点をグエン・ゴーディの姉であるエスター・ゴーディ・エドワーズの家に定めた。彼女の夫のジョージはミシガン州の州議員(略)

エスターの家の地下室を彼がスカウトしてきたオリジナルズやスピナーズの為のリハーサル・ルームに用い、同時に、アンナ・レコードのプロデューサーとしてはジョニー・ブリストルラモン・ドジャーのレコードを制作するなど精力的な音楽活動を展開した。

(略)

ビリー・デイヴィスはデトロイトを離れてプロモーションに飛び回ることが多くなり、逆にグエン・ゴーディとハーヴィー・フュークァのふたりが一緒に過ごす時間は多くなっていた。(略)

ハーヴィーとグエンの仲が深まるのも成り行きで、恋愛関係にあった(略)ビリー・デイヴィスはアンナ・レコードから退くことを考えざるを得なくなっていた。

 その結果、60年にハーヴィー・フュークァはグエン・ゴーディと結婚。ゴーディ・ファミリーの一員に名を連ねることになる。(略)

ハーヴィー・レコードはアンナ・レコードに吸収させることで解消

(略)

[マーヴィンは]フュークァが制作するレコードの吹き込みにドラマーとして参加するだけという日々にあっても焦る気持ちはさらさらなく、むしろ、デトロイトには肌を打つ勢いがあるとその活況を楽しんでいた。

ベリー・ゴーディJr.

ベリー・ゴーディJr.は(略)フュークァと同じ年令で、マーヴィン・ゲイとは10才違い(略)

 横にはスモーキー・ロビンソンがいる。

 そしてウイリアム"ミッキー"スティーヴンソン(略)すべてのミュージシャン、プロデューサー、ソング・ライターを掌握、管理する現場の責任者(略)パートナーとしてA&Rの仕事をするクラレンス・ポール

(略)

 〈マネー〉のヒットで購入した[家の](略)一階はモータウンの事務所になった。キッチンはコントロール・ルームになり、ガレージは(略)スタジオへと装いを変える。

(略)

 そこそこはヒットした〈ガット・ア・ジョブ〉も含めてエンド・レコードからベリー・ゴーディJr.とスモーキー・ロビンソンが受け取った4曲分のギャラは雀の涙。ヒットすれば儲かるという夢にはほど遠い額でしかなかった。(略)最初の苦い教訓であり、アーティストの権利がいかに弱く扱われているかというレコード業界の現実(略)[を]身をもって知らされたのだった。

 必要なのはコントロール。曲を書いて歌うだけじゃなく、組織を作り自分たちで作品を管理しなければ同じ過ちを繰り返す。このときの悔しさが、その後のベリー・ゴーディJr.の原点になったのだった。

 58年の終わりにベリー・ゴーディJr.は実家から借金して費用を工面。インディーの制作プロダクションを設立することになる。(略)

[最初のレコーディング、マーヴ・ジョンソン〈カム・トゥ・ミー〉]のレコードの配給権を、彼はユナイテッド・アーティスツに売り込み込み(略)ポップス・チャートでも30位に入るヒット曲に仕上げている。

(略)

[以後、2年弱でヒット連発]

 そして再びの苦さである。(略)アーティスト契約も含めヒットの実利はユナイテッド・アーティスツが握る。それもこれも、配給権を売り渡してしまったことが原因で招いた結果だった。

 対レコード会社との関係においては姉のグエン・ゴーディとアンナ・ゴーディの方がベリー・ゴーディJr.の一歩先を行っていた。パートナーにレコード業界の現場を知るビリー・デイヴィスがいたことで、彼女たちは配給権を売らずリース契約にすることにこだわった。

 その結果、掴んだのが〈マネー〉のヒットに見合う利益である。

 ふたりの姉の知恵が守った報酬を元手に、ベリー・ゴーディJr.はウエスト・グランド・ブルヴァード2648番地の家を購入。そこを本拠にジョベート音楽出版ベリー・ゴーディJr.エンタープライズ、ヒッツヴィルUSA、モータウン・レコード・コーポレーション、インターナショナル・タレント・マネージメントを設立することになる。

(略)

[59年]ベリー・ゴーディJr.はミラクルズの〈バッド・ガール〉を手に配給権をチェス・レコードに売り込みに行ったのだが、その時点での格はハーヴィー・フュークァの方が上である。

 年令は同じでも、レコード・ビジネスの世界でのキャリアが違っていた。

(略)

だが、その後の2年弱でベリー・ゴーディJr.を取り巻く状況はまるで違ったものになっている。

(略) 

フュークァ自身、プロデューサーとしての資質がベリー・ゴーディJr.に劣ると思ってはいないし、新しい才能を発掘する能力には自信も持っていた。だが、経営の手腕が劣っていた。既に〈シンシアリー〉のビッグ・ヒットから6年が過ぎている。その間、レナード・チェスの信頼も得、レーベルの主宰も何度か試みて来たがいまひとつの伸びがない。

 その傍らでベリー・ゴーディJr.は勢いのある活躍を見せていた。(略)義理の弟になったベリーから、プロデューサーとしてモータウンの中軸を担ってはくれないかとの誘いを受けた時、ハーヴィー・フュークァに断る理由はなかった。

 61年、ハーヴィー・フュークァはジョニー・ブリストルとスピナーズを手土産にモータウンとプロデューサー契約(略)

 マーヴィン・ゲイモータウンからのデビューはその年の5月(略)

[二週間後にアルバムも発売]

 異例の早さである。モータウンでは先輩のミラクルズですらアルバム・デビューはまだであった。(略)

ゴーディJr.とマーヴィン・ゲイにはジャズという共通の音楽嗜好があった。(略)

 そしてもうひとつ。ベリーの姉アンナ・ゴーディの後押しもある。実は、マーヴィン・ゲイデトロイトにやって来た直後から、アンナとマーヴィン・ゲイは恋に落ちていた。

アンナとマーヴィン

 出会いは60年の初め。アンナ・ゴーディ35才。マーヴィン・ゲイ20才(略)

ふたりが恋愛関係になった背景には、ハーヴィー・フュークァの計算があったのかもしれない。(略)

 人間関係の物差しを損得で左右させる傾向のあったハーヴィー・フュークァである。ゴーディ・ファミリーが殊更に家族の絆が強い一家で、身内に食い込めばビジネスへの影響も考えられるとなれば「行っちまえ」とマーヴィン・ゲイに空気を入れたということもないことではない。

(略)

 アンナと出会うまでマーヴィン・ゲイには恋愛経験がなかった。もちろん、セックスは知っていたし、ツアー先ではファンの女の娘に追いかけられたりもしている。全くの初心というわけでもなかったが(略)理想の女性像として浮かんでくるのは母親の姿であり、同世代の女の娘には魅力を感じないままで20才になっていた。

 欲しかったのは包んでくれる慈しみの愛である。(略)

理解し、往くべき道を指し示してくれる女性。(略)理想の姿を、マーヴィン・ゲイは17才年上のアンナに見出したのだった。

(略)

秋が深まりをみせ北の街に冬の気配が訪れても〈レット・ユア・コンシェンス・ビー・ユア・ガイド〉にヒットの気配はなかった。(略)

マーヴェレッツの成功で活気づくモータウン・スタッフの中にあって、マーヴィン・ゲイは蚊帳の外にあった。

 62年に入って2枚目、3枚目と出したシングルもヒットには擦りもせず、マーヴィン・ゲイはセッション・ミュージシャンとしてレーベル・メイトのレコーディングにドラムやピアノで参加する毎日を送っていた。

 楽器はなんでもこなすマーヴィン・ゲイである。特にドラムの腕は一級品との評判も集めていた。

 その腕を見込んで声をかけたのがスモーキー・ロビンソンである。(略)

ラクルズのショウのドラマーにマーヴィンを起用。マーヴィン・ゲイもまた、喜んでその誘いに乗ったのだった。

(略)

[アンナは]恋人であり母にも似た存在である。(略)[その]美しさと共に惹かれたものは、彼女が彼の良き理解者であり自信を植え付けてくれる女性だというところだった。(略)

どちらも激しい性格のふたり(略)人目もはばからず感情の変化をさらけ出す。そんな繰り返しのなかで生まれたのが63年初夏の〈プライド&ジョイ〉のヒットだった。

(略)

初めてのトップ10ヒットである。(略)その昂まりのなかでふたりは結婚する(略)[24才と44才の夏]

公民権運動、カーティス・メイフィールド

ハーヴィー・フュークァは、いまやアーティスト・ディベロップメントの中心人物としてモータウンの中核を担っている。ベリー・ゴーディjr.が絶対の王として社内に君臨し、その傍らを身内が固める。ベリーの姉エスターは副社長兼任でITM(所属アーティスト印税&興行契約管理部門)を取り仕切り、ルーシーも副社長兼任で経理を担当している。弟のロバート・ゴーディはヒッツヴィルUSAのエンジニアで、兄ジョージ・ゴーディもソング・ライターとしてマーヴィン・ゲイの〈スタボーン・カインド・オブ・フェロウ〉やマーヴェレッツの〈ビーチウッド4・5789〉のヒットに関っていた。

 善かれ悪しかれ、モータウンとはそういった体質のレコード会社である。

(略)

[スティービーワンダー13歳の〈フィンガーチップス〉が全米ヒットを賑わした夏、アメリカ各地の黒人街は公民権運動の盛り上がり―――ヒート・ウエイブ(熱波)のなかにあった。(略)

8月28日、20万を超す人の群れがリンカーン記念講堂を囲み、キング牧師の〈I Have A Dream〉の演説に酔う。60年代公民権運動をリードした主要な5つの団体が協調して組織した"マーチ・オン"の列が全米各地から首都ワシントンDCへと歩みを進めてきていた。

(略)

なにか公民権運動に与する行動を取るべきではないのか(略)せめて音楽を通して支援の意志を表すべきでは(略)

 そんな思いをマーヴィン・ゲイよりひと足先に実行に移した男がいる。

 カーティス・メイフィールドだった。(略)

[63年11月にR&Bチャート首位となった]〈イッツ・オール・ライト〉で、カーティスは憂鬱な朝でしか始まらない毎日を送っている誰かを主人公にして歌っていた。(略)

《黒人街にはやりきれなさが溢れている。(略)

そんな日々でさへ、ほんの少しのソウルを携えてさえいれば(略)

だから "It's All Right"

素晴らしき女性から愛されるに足る人生へと変化が生まれることだってあるのだし、その変化への歩みが遅く苦しげであったとしてもめげることはない》

(略)

ファルセットが美しいラヴ・ソング(略)その美しさのなかに、カーティス・メイフィールドは(略)"ジャーナリステイックな吟遊詩人"の芽を盛り込んでもいた(略)

 ショックであった。(略)

同世代の男に自らが望んでいたことを先に提示されてしまった悔しさがマーヴィン・ゲイにはあった。

 そしてそれ以上に、美しい曲を書き上げた才能に拍手を贈りたいという共感の思いも生まれる。

(略)

 数万の白人リベラル層を含む20万を超える群衆がリンカーン記念講堂前に集まり、4000の軍隊に囲まれながら整然とした集会を開いて差別の撤廃と雇用の平等を謳いあげる。

 善かれ悪しかれ63年8月のワシントン大行進が盛り上がりの頂点だった。(略)

ワシントン大行進の功績でキング牧師ノーベル平和賞を受賞することになった反面、ブラック・モスリムやマルコムXは"白人リベラル層からの資金援助に黒人闘争の魂を売り渡した茶番"とワシントン大行進を批判し、一方では白人至上主義者の反発も露になるという揺り戻しの季節がはじまっていた。[11月ケネディ暗殺]

(略)

 [64年]7月にハーレムで起きた黒人暴動は州兵が派遣されるほど大規模な騒ぎに発展し、その火は各地に拡大。"ロング・ホット・サマー"と呼ばれた暴動の日々が始まる。

(略)

8月、それまでなかなかヒットの出なかったシュープリームスが〈ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー〉で初めてポップス・チャート首位を記録。(略)[以後]連続5曲を全米チャートの首位に押し上げる(略)

"63年にはポットが煮えだしていた。それが64年に沸騰し、65年には溢れた汁がポットの縁に焦げ付くまでになっていた"とスモーキー・ロビンソン

(略)

 もちろん、成功の陰には波風もある。

 メリー・ウエルズの離脱がそのひとつ(略)ベリー・ゴーディJr.が最も目をかけ期待していた女性歌手だった。その彼女が、突然、モータウンとの契約更新を拒否(略)20世紀レコードに移籍してしまった(略)

ゴーディJr.にとってはショックであった。(略)

その後、アーティスト管理に一層の拍車をかけることで対処することになる。

(略)

[デトロイト自動車産業を手本としたモータウンの]効率的な流れ作業と徹底した品質管理(略)反応が鈍ければ切り捨て、良ければ集中的に力を注ぐ

(略)

[激烈な社内競争の中]どこか超然としたところもマーヴィン・ゲイは持っていた。

(略)

頭にあったのはナット・キング・コールを歌うというアイデアである。

 "ジャズ・ポップはデビュー盤でやって失敗してるだろ。それよりR&Bタイプのヒットを考えな"とスモーキー・ロビンソンに諭されながら、それでも諦めきれなかった企画だった。

 2年以上も温めていたそのアイデアが66年になって実現する。

 『ア・トリビュート・トゥ・ザ・グレート・ナット・キング・コール』。

(略)

 他の誰とも違う熱情に溢れた深みのある雰囲気。マーヴィン・ゲイのボーカルが持つ強すぎる個性に戸惑っていたのだろうか、モータウンの制作サイドも、そしてマーヴィン・ゲイ自身も、所謂モータヒットの路線がいいのか、それとも彼が望むジャズ・ポップのスタイルがいいのかの見極めをつけきれないままどっちつかずの作品を発表するという状態が続いていた。

 しかし、そうした状態のなかでもいつしか結果が道を照らしだす。(略)

ホーランド=ドジャー=ホーランド絡みで出した〈ハウ・スウィート・イト・イズ〉が〈プライド&ジョイ〉以来のトップ10ヒットになり、その熱も冷めないままに66年春にはスモーキー・ロビンソンとの初顔合わせになった〈アイル・ビー・ドッゴーン〉がヒットして念願のブラック・チャート首位を記録。 

 

ダイアナ・ロス

 "ベリー・ゴーディJr.は偽善者だ(略)

モータウンサウンドとはパーティ・ミュージックであり、弾けた音楽だった。その弾け具合が良さだったのに、ミュージシャン自身が弾けることをベリー・ゴーディJr.は決して許さなかった。いつも管理、管理で、洗練されたマナーや上品な態度をミュージシャンに強いる。だが、その洗練や上品の基準は白人社会の目に映る洗練だった。ベリー・ゴーディJr.がどれほどブラック・コミュニティへのアプローチを繰り返したとしても、そんなものは成功を手にするためのポーズに過ぎない"

 辛辣なことばである。(略)

アメリカを離れ、モータウンとの契約も切れた時点でようやく言えた本音であり、60年代半ばにマーヴィン・ゲイベリー・ゴーディJr.に抱いていた思いであった。

(略)

60年代の半ば、時代の変化はカシアス・クレイで始まった。(略)

モハメド・アリを名乗ることを宣言(略)

 時の男のブラック・モスリムへの改宗である。衝撃は大きかった。

 一方ではそのネイション・オブ・イスラムから離脱したマルコムXである。

(略)

 映画の世界ではシドニー・ポワチェ[が](略)『リリーズ・オブ・ザ・フィールド』で黒人として初めてアカデミー賞のオスカーを受賞。(略)

[キング牧師が]ノーベル平和賞を受賞。(略)

 そして12月11日深夜(略)でサム・クックが撃たれて死んだ(略)

[カシアス・クレイの試合の時(略)リング上で勝利者インタビューが行われたときにはサム・クックもリングに上がり、彼の肩を抱いたカシアス・クレイが「ロックン・ロールのチャンピオン」と紹介したシーンはTVを通して世界に映し出されていた。

(略)

 年の瀬に、モータウンはもうひとつ大きな出来事を迎える(略)

シュープリームスの『エドサリヴァン・ショウ』への出演である。モータウン所属のアーティストとしては初めての出来事(略)

番組に出演することはポップ・アーティストとしてのステイタスでもあった。(略)

その後テンプテーションズ、フォー・トップス、マーヴィン・ゲイモータウン・アーティストが続々出演することになり、コパカバーナなどの高級サパー・クラブへの出演も始まることになる。

 それまでR&Bのマーケットには縁の薄かった世界である。チトリン・サーキットからロンドンやローマ、パリといった都市の劇場への進出。その中心にベリー・ゴーディJr.はシュープリームスを置いたのだった。

 65年春(略)モータウンレヴュー初の海外公演(略)

シュープリームステンプテーションズ、ミラクルズ、マーサ&ザ・ヴァンデラス、スティービー・ワンダーといった顔ぶれ

(略)

ツアー・リストから洩れたマーヴィン[に不満が募る]

(略)

 元々、ダイアナ・ロスモータウンに結び付けたのはスモーキー・ロビンソンであった。(略)

幼い頃からダイアナ・ロススモーキー・ロビンソンの姪と遊び友達で(略)家族ぐるみの付き合いだった彼女は、ハイ・スクール・バンドのチャイムス時代からスモーキー・ロビンソンを追い掛けていた女の子のひとりだった。(略)

スモーキー・ロビンソンの方も、美容師の専門学校に通っていたダイアナ・ロスの学費が足りなくなったり、運転免許を取りたいけどお金がないと泣き付かれればその費用を貸してやるといった具合に、兄代わりの気分で彼女を可愛がっていた。

(略)

 ハイ・スクール卒業直前でダイアナ・ロスモータウンと契約したのは61年(略)泣かず飛ばずの3年半であった。(略)

辛い3年余りの時期に最初に手を差し伸べたのがスモーキー・ロビンソン(略)

請われればスタジオにこもって深夜まで歌のレッスンに付き合う。その熱の入れかたは、ふたりの仲を怪しむ中傷が廻り廻ってスモーキー・ロビンソンの妻クローディットの耳に飛び込むほどのものでもあった。

 それでも結果は出ない。

 メリー・ウエルズやミラクルズのヒットの横で、スタジオをうろつき、なにか注目を集める機会はないだろうかと探し求めながら、ダイアナ・ロスは他のアーティストのバック・コーラスを務めヒットを追い掛け、その果てに掴んだ成功であった。

 ホーランド=ドジャー=ホーランドとの組み合わせも彼女のスタイルに嵌まり、なにより夢の実現にベリー・ゴーディJr.という後ろ盾もついた。(略)

スターへの道を一気に駆け登って行くのだった。

 

タミー・テレル、デヴィッド・ラフィン

[ヒットが出ても]シュープリームスたちと自分には決定的な差があるとマーヴィン・ゲイは感じていた。

 マーケットの差である。

 シュープリームスも、テンプテーションズや、フォー・トップスも、既に全米ポップを制覇しR&Bとポップスの両チャート首位の栄誉を手に入れている。だが、マーヴィン・ゲイにはまだそれがない。そのことが悔しくてしょうがなかった。

 "所詮、モータウンにあってソロ歌手はグループの陰に隠れた存在でしかなかった。ソロを通しながら生き延びる。その逃げ道がデュエットだった"

 マーヴィン・ゲイなりの計算である。

 ベリー・ゴーディJr.の発案で組んだメリー・ウエルズとのコンビはまずまずの成功だった。そのメリー・ウエルズの移籍騒ぎで新しく組むことになったキム・ウエストンとのデュエット〈イット・テイクス・ツー〉のヒットが生まれている。そして3人目のデュエット相手となったのがタミー・テレルだった。

(略)

 "彼女はジェームス・ブラウンの暴力から逃げてきた"(略)タミー・テレルと恋仲になり、同棲までしたデヴィッド・ラフィンのことばである。(略)"[モータウン]が最初にやった仕事は彼女の歯の矯正"だったといわれるほど、彼女は身も心も病んいた。

(略)

 才能ある女性歌手を見い出しては自分のショウに起用し、売り出しを図る。その一方ではツアーの間、その女性歌手を身近に置いて身の回りの世話をさせるというのがジェームス・ブラウンの常だった。(略)

 音楽がそうであったように私生活もまた抜き身のソウルそのもの(略)

思いの発露は、時にセックスとなり、時に暴力となる。(略)

ジェームス・ブラウンとの日々に疲れたタミー・テレルは、いつしか身体を傷つけアルコール依存症に精神を病む。そうした状態からの脱出を図ってのモータウンへの移籍でもあった。

(略)

[その将来に大いに期待したモータウンだったが]

デヴィッド・ラフィンの存在が妨げになったのである。(略)

テンプテーションズのリード・シンガーで、マーヴィン・ゲイをして"デヴィッド・ラフィンこそ真のアーティストたる資質を全て兼ね備えた男であり、彼のタフな声に憧れたことでミドル・レンジの咽喉を鍛え上げようと頑張れた"と言わしめた歌手である。

 そのデヴィッド・ラフィンとタミー・テレルの恋がモータウンには不都合だった。

(略)

 シュープリームスを成功させて意気上がるホーランド=ドジャー=ホーランドの才能を認めながらも負けられないの意地もあったスモーキー・ロビンソンが、この男こそと惚れ込んだ歌手がデヴィッド・ラフィンで彼の為に書き上げた曲が〈マイ・ガール〉であった。

(略)

エルブリッジ・ブライアントの後釜(略)まだ埋もれたままである才能の原石。(略)

 そこはかとなく繊細なエディ・ケンドリックスのファルセットと野太くもストレートなデヴィッド・ラフィンのうた声。類い稀なツイン・リードと表情豊に溶け合うコーラス・ワークとでテンプテーションズはボーカル・グループの最高峰に登り詰め、グループの人気と共にデヴィッド・ラフィンへの評価も急速な昂まりをみせることになった(略)

他にもデヴィッド・ラフィンの才能に惚れ込んだ男がいる。ノーマン・ホイットフィールドである。(略)

ホーランド=ドジャー=ホーランドと共にノーマン・ホイットフィールドは第二世代になる。(略)

[HDHに遅れを取るホイットフィールドが]

敢えてスモーキー・ロビンソンに挑むかのようにデヴィッド・ラフィンにこだわったのだった。

(略)

 〈マイ・ガール〉からの僅か2年でテンプテーションズ時代の寵児となる。彼らの歌が、踊りが、そして垢抜けた仕草のひとつひとつがブラック・コミュニティからの憧れを呼び、なかでも一際、華と咲いたのがデヴィッド・ラフィンだった。

 そのデヴィッド・ラフィンにタミー・テレルは惚れてしまった。(略)

タミー・テレルが惹かれるのは、無軌道で枠に収まらず、奔る才能のままに生きる男たちであった。

 だから激しい恋になる。

 そして苦労する。

年令は2才下であったが、デヴィッド・ラフィンマーヴィン・ゲイと同じタイプの、しかも彼に輪をかけたような男だった。

 独立心が強くコントロールされることを嫌う。グループにあっても意識はソロ歌手としてあり、夢に貪欲で、悪いことに麻薬にも身を染めていた。

 コントロールする側には扱い難いタイプの歌手ということになる。

[50年代末、デヴィッド・ラフィンのムーングローズ参加申込みを才能の発掘に長けたハーヴィー・フュークァが断ったのは、グループの一員には収まりきれない資質を見抜いていたのだろうか]

(略)

 相次ぐヒットで体力のついたモータウン・レコードは新しいマーケットへの参入を図ってその分野のスペシャリストを社内の上層部に多く迎え入れていた。(略)

彼らの参加で、モータウンベリー・ゴーディJr.の思惑通りポップ・マーケットへの進出を果たすことになるのだが、それと引き換えに、競い合いながらも互いに手助けするというファミリー意識は希薄になり、ビジネスが全てに優先する社内体制へと変わっていた。

 マーヴィン・ゲイを始めとする多くのアーティストたちにはそれがわだかまりとして腹に燻っていたのだが、そのことで公然とベリー・ゴーディJr.とぶつかるほどの気概はなかったのだが、デヴィッド・ラフィンは違っていた。誰であろうと納得がいかなければかみついてしまうほど威勢がよく、しかも、売り出し中で勢いがある。天下のテンプテーションズを背負って立っているのは自分だとの意識から他のメンバーの神経を逆立てる振舞いが顔を出すこともあった。

 そこから生まれるイザコザがグループのなかだけで収まっているぶんには良かった[が](略)

 「グループ名をデヴィッド・ラフィン&ザ・テンプテーションズに変えてくれ」とまでエスカレートすると[ゴーディも]知らぬふりばかりもしていられない。(略)

[駄目だ!と一喝したいが]

シュープリームスの例がある。(略)

 デヴィッド・ラフィンにすれば、

「ふざけんな。ダイアナ・ロスならわがままも通るがデヴィッド・ラフィンは駄目というのじゃ納得できない」となる。

 それを面と向かってベリー・ゴーディJr.に言い放ったのだった。(略)当然、社内での締めつけも厳しいものになる。(略)居心地の悪さに胸の裡にはストレスが渦を巻く(略)そんな日々に、すぐ横に居たのがタミー・テレルだった。

 "芯が強く自立心に溢れた女性で、タミー・テレルは男の言いなりになるタイプではなかった"とマーヴィン・ゲイが評した彼女は火の女(略)

火の男と火の女。激しく燃え、火傷するほど熱い恋になる。(略)

 "ジェームス・ブラウンデヴィッド・ラフィンも、押さえ付けようとすれば立ち向かってくるタイプの女性を、激情と、時には暴力とで支配する関係に惹かれていた。だから、タミー・テレルは愛の暴力的側面の犠牲者でもあった"

(略)

 クリーンなイメージでタミー・テレルを売り出したい[モータウンの思惑](略)

[マーヴィンとのデュエットが成功しているキム・ウエストン。夫ミッキー・スティーヴンソンは、スモーキーの副社長就任、HDH、ノーマンの台頭で腰が落ち着かず、アンナはキムに嫉妬]

あれこれを見回したときに示されたひとつの道がタミー・テレルとマーヴィン・ゲイとの組み合わせだった。(略)

[デュエットは幸先のよいスタートを切るが、タミーが病に倒れる]

偽善者ベリー・ゴーディJr.

[68年秋]オリンピックの舞台となったメキシコ・シティに衝撃が走った。(略)表彰台に掲されたトミー・スミスとジョンカルロスの黒い拳(略)世界を制したアスリートの"ブラック・パワー"の主張。TVに映し出されるそのシーンを見ながら、デトロイトの自宅でマーヴィン・ゲイはある沈欝さのなかに身を置いていた。

(略)

キング牧師が暗殺されたのは同じ年の4月4日(略)

新聞にはキング牧師の母親の横で目を大きく見開いたまま涙をこぼすハリー・ベラフォンテの写真も大きく紹介されていた

(略)

キング牧師の死に怒る黒人暴動の嵐が全米125の都市で吹き荒れ、39人が死亡、2万人以上が逮捕されるという混乱を引き起こした

(略)

[マルコムXの死、ワッツ暴動]

車に火を付けては商店を襲い略奪する。怒りの捌け口を自分たちの住む街にしか向けられない黒人の姿を画面で見ながら"彼らの尻を後ろから思いっ切り蹴り上げてしまいたいほど腹が立ち"反面、マーヴィン・ゲイは"同じ時期にラジオから流れた〈プリティ、リトル・ベイビー〉を聴いたきには、状況とかけ離れたその歌詞が恥ずかしく、情けなさに心が痩せる思い"でもあった。(略)"暴力に曝され血を流すブラック・コミュニティの現実に自分の音楽は何の貢献もしていない"という恥の思い

(略)

[ベトナム戦争反対]

キング牧師は受賞したノーベル平和賞の栄誉を賭け、モハメド・アリは世界チャンピオンの座を賭けての意思の表明だった。

(略)

マーヴィン・ゲイはというと、ベトナム戦争に反対の意志を持ち"ブラック・パワー"への共感の意志を持ちながら、ヒットを追いかけ相も変らず歯の浮くようなラヴ・ソングを歌っている。

(略)

[モータウンのオフィスはダウンタウンから高層ビルに移転]

66年に起きたデトロイトでの暴動が引き金だった。(略)

市街戦さながらの衝突が続き、燃え上がる煙の匂いや銃声が風に乗ってウエスト・グランドのスタジオに届いてくるほど[の騒ぎ](略)

 あの時、ベリー・ゴーディJr.は怖がっていた。怖がり、デトロイトに背を向けた"

 そう語ったマーヴィン・ゲイのことばを裏書きするように[モータウンはLA移転]

(略)

ベリー・ゴーディJr.はキング牧師やストークリー・カーマイケル、オシー・デイヴィス、ラングストン・ヒューズ、リロイ・ジョーンズらのスピーチ集をレコードでシリーズ化してもいる。

(略)

キング牧師の葬儀の後に行なわれた"貧しき者の自由への行進"のイヴェントに[所属アーティスト]を出演させ、自らもコレッタ・キングやハリー・ベラフォンテと並んでアトランタからワシントンへの行進に参加(略)

単なる成功者ではない意義ある男のイメージを醸し出していたのだった。

 外からの目はベリー・ゴーディJr.をそう見ている。

 だが、内にいるマーヴィン・ゲイは違う目で見ていた。

(略)

 これまで、計算の成り立つ場面では、ベリー・ゴーディJr.は黒人社会にコミットした行動を取ってきた。(略)

足元で燃え上がった炎を消そうとするのではなく手に入れた富と名声を根こそぎ担いで逃げ出そうとするベリー・ゴーディJr.の姿が、マーヴィン・ゲイの目には"自らの成り上がりにコミュニティ運動を利用した偽善者"と映った

離反、残留、不信

 "ベリー・ゴーディJr.の心がデトロイトを離れLAに向かった頃から多くの仲間がモータウンを去っていった。まずミッキー・スティーヴンスンとクラレンス・ポールが去り、次がホーランド=ドジャー=ホーランド。そしてハーヴィー・フュークア。

(略)

 67年にグエンと離婚してゴーディ一家との姻戚関係を清算したハーヴィー・フュークァが、スティービー・ワンダーの〈イエスタミー・イエスタユー・イエスタデイ〉を置き土産にモータウンに見切りをつけRCAに移籍してしまったのだからマーヴィン・ゲイの心も揺らぐ。

 ――出てしまうべきなのだろうか。

(略)

[モータウンは黒人解放の]動きに寄り添っているように見えながら(略)古い体質が罷り通るレコード会社でもあった。

 "モータウン、つまりはジョベートが曲を出版して権利を握り、ソング・ライターは時給程度のギャラしか貰えない"というシステム(略)アーティストの自由と権利はまだまだ確立されてなかった。

 "初めから、ベリー・ゴーディJr.が出版権をひとり占めする仕組みになっていた。確かに、曲を書きたいといえば書かしてはくれたが、印税は別。それは会社のものというのがモータウンのやり方で、多かれ少なかれ、誰もがその仕組みに腹を立てていた"(略)

その綻びの最大のものが[HDHとの裁判沙汰](略)

 68年、モータウンはホーランド=ドジャー=ホーランドのソング・ライター・チームに対し契約不履行を理由に400万ドルの損害賠償を請求。訴訟を起こした。(略)

それに対し[HDHが]逆提訴。本来支払われるべき印税の未払い分を含む2200万ドルの支払請求を起こし、互いが相手を罵り合うという裁判闘争は77年1月の和解成立まで4年間続いた。

 そうした騒ぎのなか[マーヴィンは残留](略)

 納得ずくで残ったのではなかった。

 引き摺り出してくれる者がいないと一歩を踏み出せない弱さ――踏ん切りがつかなかっただけのことだという思いが引っ掛かり、傷となってマーヴィン・ゲイの胸に残る

(略)

[68年11月〈悲しいうわさ〉が]

デビュー以来の念願だったポップス・チャート首位(略)

 喜びは格別だった。

 加えて(略)発売まで2年近くを要したという難産の経緯もある。

(略)

[モータウンからボツにされ、納得のいかないノーマンがグラディス・ナイト&ザ・ピップス版を発表、250万枚を超える]

 本来は自分がオリジナルなのに他人の歌でヒットする。(略)マーヴィンの悔しさもノーマン・ホイットフィールドに負けず劣らず半端なのものではなかった。(略)

ようやく発売に至った曰く付きの曲が、彼女たちを上回る400万枚[とモータウン最高を記録。その一方で](略)

"嬉しかったことはデトロイト・タイガースが出たワールド・シリーズで国家を歌ったことぐらい"と語るほど(略)暗い気分のなかにいた。(略)

 "キング牧師の暗殺で人々はアメリカの罪悪の核心に気付いた"と語ったマーヴィン(略)68年という年は(略)アメリカへの不信がより強く激しいものになった時期でもあった。

タミー・テレルの死、隠遁

 タミー・テレルが倒れた直後にはバーバラ・ランドルフを代役に残ったスケジュールをこなしてきたマーヴィン・ゲイだったが、その後はコンサートを拒否。既に1年以上も舞台には立っていなかった。ファンがどれほど望んでも、タミー・テレルが復帰するまで、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルのステージは見るに見れない夢の舞台になっていた。

 だからこそ、余計に曲はヒットする。(略)

加えて〈悲しいうわさ〉のヒットである。(略)

ソロで、デュエットで、この期を逃さずマーヴィン・ゲイを押す。それがモータウンの戦略となった。

[1年半でアルバム6枚、シングル11枚]

(略)

 悪くいえば寄せ集め。素材が足りない状態でのリリース・ラッシュであった。

 そしてタミー・テレルである。

(略)

"やるべきことではなかった。タミー・テレルに対しても、ファンに対しても冒涜であり、許されることではなかった"(略)

 歌えないタミー・テレルに代わってヴァレリー・シンプソンを起用する。ソング・ライターでありプロデューサーでもあった彼女なら、これまでデモ・テープを通して歌唱指導もしてきたのだから、タミー・テレルっぽく歌えるというのがモータウン・サイドの考えであった。

 曲は〈ホワット・ユー・ゲイブ・ミー〉。(略)

 当然、マーヴィン・ゲイは断る。

 だが、欺瞞には巧妙な言い訳が用意されている(略)

"これをやればタミー・テレルにもボーナスが入る。入院費や手術代で逼迫している彼女の家族を助けることにもなる"というモータウン・サイドの説得に負け、結局はマーヴィン・ゲイも承諾してしまう(略)

 そして70年3月16日のタミー・テレルの死である。(略)

彼女の死を悲しむマーヴィン・ゲイに追い打ちをかけるように、モータウンはまたひとつの嘘を重ねた。

 24才の若さで急逝を悼む形でリリースされた〈オニオン・ソング〉(略)マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルのクレジットで出されたその曲も、実は歌っているのはヴァレリー・シンプソンである。

(略)

その時期を境に対人恐怖症を理由にマーヴィン・ゲイの隠遁生活が始まる

(略)

[アンナとの結婚生活は喧嘩が絶えず]

ひとり部屋に篭る毎日。

 麻薬で朦朧とした目を転じれば、手を延ばした先には銃もある。(略)死への誘いが膨らんでいた。(略)

だが(略)ハウス・オブ・ゴッドの教えで育ったマーヴィン・ゲイである。自殺は許されざる大罪であった。

 "自殺が叶わないのなら、通りを歩く誰かを撃つことで社会的に自らを抹殺する"。そうしかねないところまで、彼の精神は病み、追い込まれていた。

マルコムX

マルコムXマーヴィン・ゲイは心酔していた。

 彼の演説を聞き、関連書を読み漁り、『愛のゆくえ』がヒットしてからはインタビューの席でも好んでマルコムXについて語っていた。(略)[その]魅力とは、突き詰めれば「黒人であることの誇りのままに生き、死んだ」こととなる。

 「アメリカではブラックということばが否定的な意味合いで多く使われる。ブラックを心に重ねれば陰険となり、手紙に重ねれば恐喝となる。そうしたことばを引合いに出しては黒人が劣等で邪悪な存在だとのイメージが作り上げられてきた。だが、自分は黒人として神に選ばれこの世に生まれたとの誇りを持っている。黒人だから悪いのではなく、ネガティヴな意識に捕らわれることが悪いのだということをマルコムXは身をもって示していた」。

 それがマーヴィン・ゲイマルコムX観であった。

(略)

ワシントン大行進(略)を、マルコムXは"(略)公民権運動のビッグ6が、80万ドルの寄付金と引き換えに、ホワイト・ハウスとの間に穏やかな収束を約束した裏取引があった"と酷評していた。

(略)

マルコムXが穏健派の限界を嘆き、条約は結ばれても実際の暮らしぶりは一向に変わらないやりきれなさに"ロング・ホット・サマー"が荒狂う。

 公民権運動の熱が冷め、ブラック・コミュニティに挫折と混乱が充満した60年代半ばの時期に、マルコムXの思想に感化され懐に法を忍ばせ手には銃を翳して街に飛び出したブラック・パンサー党は、だから刺激的だった。

 かつてマーヴィン・ゲイの書いた〈ダンシング・イン・ザ・ストリート〉という曲が、ハーレムからロチェスターへと広がり遂には全国に飛び火したロング・ホット・サマーの最中にヒットしたことがある。(略)

 街に出て踊ろう――シンプルな、だが聴き方によっては折から吹き荒れた暴動の興奮とも重なる歌詞を持ったその曲は、当時、騒ぎを煽るとの理由でいくつかのラジオ曲から放送禁止にされていた。にも拘らず〈ダンシング・イン・ザ・ストリート〉をそれほどのヒットに押し上げた原動力こそブラック・コミュニティの支持だった。

「俺に国歌は歌えない」

NBAオール・スターの開会式で国家を歌わないかという話が舞い込んだとき、マーヴィン・ゲイは即答が出来なかった。

(略)

[税金滞納で国外脱出]

 トラブルが解決したのはついこの間(略)[コロムビアへの移籍金で]滞った税金の分割が認められるまでは腰を据えた音楽活動も出来ず、ヒット曲のない日が数年も続いていた。

 アメリカを離れていた2年半。

(略)

凱旋の年。昔からの仲間のゴードン・バンクスが、あるいは父とも兄とも慕ったハーヴィー・フュークァがヨーロッパまで駆け付け、彼の復活を手助けしてくれた。〈セクシャル・ヒーリング〉の成功で再び華やかな舞台に戻って来てもいる。

 ――だからといって国歌を歌うことが許されるのか。

(略)何かで成功する度に喜びの隙間からこれでいいのかの不安が頭を持ち上げてくる。いつでも、不安は彼自身の裡にあった。

(略)

国歌には国歌のスタイルというものがある。はたしてそれは自分の歌と相容れるものなのか――マーヴィン・ゲイの脳裏にそんな迷いも渦を巻く。(略)

返事の期限が迫ったある日、考えあぐねたマーヴィン・ゲイルーサー・ヴァンドロスに相談を持ちかけた。

 「俺に国歌は歌えない」

 突然の電話でそう言われたのだからルーサー・ヴァンドロスは驚く。ましてマーヴィン・ゲイは彼にとって憧れの男であった。(略)全米ツアーでオープニング・アクトに起用してくれたことへの恩義もあれば、1年前の夏にはマーヴィン・ゲイが書きタミー・テレルとデュエットした〈イフ・ディス・ワールド・ワー・マイン〉をルーサー・ヴァンドロスがプロデュースしたシェリル・リンのアルバムに吹き込んだばかりでもあった。

 「この話、代わりに引き受けてくれないだろうか」

(略)

沈黙を置き、彼は、静かに、だがキッパリと、

「それでも、あなたが歌うべきです」

マーヴィン・ゲイの頼みを断った。

「聴きたいのはあなたの歌です。あなたの歌う〈星条旗よ永遠に〉であって、誰かが歌う〈星条旗よ永遠に〉じゃありません。少なくとも私はそうです。歌う曲が国歌でも、あるいは〈主の祈り〉でも、歌う場所がNBAオール・スターの会場でもどこかの教会でも、私たちの聴きたいのはマーヴィン・ゲイの歌なのです。そんな思いに、あなたはいつだって応えてくれたじゃないですか」

(略)

 祖国を離れ、改めてアメリカの偉大さに気付く。そして否も応もなく、この国が好きなのだと実感する。そうした思いを、アカペラではなく〈セクシャル・ヒーリング〉のドラムス・パートをプログラミングし直した〈星条旗よ永遠に〉に込めてマーヴィン・ゲイは歌った。

『レッツ・ゲット・イット・オン』

 『愛のゆくえ』に込められた社会派のメッセージは、実はヴェトナムから戻った弟の話であり、幼い頃に経験した父親からの幼児虐待に由来していた。(略)

 愛とセックスを描写した『レッツ・ゲット・イット・オン』にも等身大のマーヴィン・ゲイが写し出されていた。

(略)

崩壊の危機に瀕するアンナとの愛を

《君は僕の妻であり、人生、希望、夢そのものであった。なぜ、こんな過去形の言い回しをしてしまうかの理由は君にある。妻でありながら他の男の気を引く君を見ながら嫉妬に震え、それでもベッドで抱き合えば嫉妬を忘れ歓喜の虜になってしまう。その繰り返しだった》

と〈ジャスト・トゥ・キープ・ユー・サティスファイド〉で語り、

《恋が始まったばかりの昔は幸せの絶頂で時が止まったかの錯覚すら抱き、君を愛することだけがたったひとつの望みだった。だが、それもいまは終わり。どれほど君がぼくを傷付けたかを知るべきだし、精神を癒し切れないままここまで来てしまったふたりにやり直しなど遅過ぎる》

と歌っていた。(略)

別離の曲(略)を、歌詞に歌われる当のアンナ本人と共作しているところがマーヴィン・ゲイである。

(略)

 50才の妻が書いたその詞に、マーヴィン・ゲイは現実の毒を塗ぶしつけ、

"いまさら泣いても遅い"と突き放す。

 アンナにすれば悪妻のイメージを天下に晒されたようなものである。

 一方では〈レッツ・ゲット・イット・オン〉や〈ユー・シュア・ラヴ・トゥ・ボール〉での甘やかな激情とセックスへの誘いである。

(略)

恋慕、嫉妬、快楽、男の喪失と誇示といった幾重にも捻じれた思いを歌い上げ(略)一筆では描き切れない愛の底知れなさを醸しだし

(略)

 あからさまに愛の終わりを告げられたアンナも、やはり夢を見る。かつてマーヴィン・ゲイと繰り返した喧嘩やその後に燃えて蕩けたセックスを思いだし、また今度もやり直しがきくのではと思ったりもする。

 マーヴィン・ゲイもそうだった。

 別れてしまうのか、それとも、まだ続くのか。(略)

決めたのは偶然の出会いであった。(略)レコーディングしていたスタジオに、母親に連れられたジャニス・ハンターが遊びに来たのは、高校卒業を間近に控えた初夏の頃だった。

 黒人の父と白人の母を持つライト・スキンの痩身な女の子。16才のジャニス・ハンターがマーヴィン・ゲイの目には完璧な美に包まれた女性と映った。

 34才での一目惚れである。

(略)

 妻と息子が待つハリウッド・ヒルズの家には帰らず、まるで逆方向の、サンタモニカ山麓にある(略)隠れ家と呼ぶしかない家でのジャニスとの暮らしにマーヴィン・ゲイはのめり込んでいくことになる。(略)

[『レッツ・ゲット・イット・オン』が400万枚を突破する最中、モータウンとの契約更改を迎える]

強気に出れば数百万ドルの契約金も可能な立場であった。

だが、そんな場面でもマーヴィン・ゲイの子どもじみた側面が顔を出すことになる。(略)

色恋を優先して連絡が取れない場所に女と篭り切りになるというのがそもそも普通ではなかった。(略)

モータウン・サイドを焦らし、かつてスティービー・ワンダーがやったように移籍をちらつかせながら交渉を有利に運ぼうとするのならそれも計算のうちになる。だが(略)

マーヴィン・ゲイは"ベリー・ゴーディJr.の100万ドルのパーソナル・チェックをくれるならそれで満足"と言ってしまうのである。(略)

ベリー・ゴーディJr.の困る顔が見たくて、彼への鬱屈した思い[で](略)馬鹿げたことをしてしまう。それがマーヴィン・ゲイなのであった。

(略)

[1月4日のライヴ]

「本当に綺麗な女性。その彼女に私の為に書いてと頼まれて出来た新曲」と自ら紹介を加え歌い出した〈ジャン〉。(略)

公の場で新しい恋人の存在を露にしてしまったのだった。

 そのライヴ盤が発売されたのは6月19日(略)

レコードを通して世間に不倫を公表し、話し合う余地のないところへとアンナを追い込んできた。夫婦の信義を捨てた行為である。(略)

17才年下の女性に舞い上がってしまったマーヴィン・ゲイの失策であり、失策は痛手となって帰ってくる。

 『マーヴィン・ゲイ・ライヴ』の発売から半年が過ぎた75年1月、アンナからの離婚訴訟が正式に提訴されることになった。

ライヴ!+2

ライヴ!+2

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『アイ・ウォント・ユー』

 レオン・ウエアが自分用に作った作品を(略)マーヴィン・ゲイが気に入り、頼み込んで手に入れた作品である。

(略)

〈エンジェル〉という曲があった。

《少女趣味の恋の世界はもう終わり。ここから先は大人の愛。そこで、君がまだ知らずにいた喜びを開拓してあげる。どこまでも奔放で快楽に溢れた世界へと君を誘うのに、全てを知り尽くした俺ほどぴったりな男は他にいないのだから》

と詞に歌われる曲である。(略)

 レオン・ウエアの書いたその歌詞に(略)自分とジャニスの姿を重ね、既に『エンジェル』というアルバム・タイトルでレオン・ウエア用に完成していた作品を自分のものにしたいと思ったのだった。だから、その歌詞にだけは手を加えず、そこから刺激された思いのあれこれを他の曲に書き下ろすというスタイルでアルバムは仕上げられていた。(略)タイトルに込められたのは欲しいと叫びたいほどのジャニスへの思いである。

 一緒に住み、セックスをし、子どもをもうけ、互いに愛を自覚していながら、それでも所有し切れないことへのやるせなさ(略)身体を組み敷き、気が遠くなるほどの歓喜の中で彼女に声を上げさせたとしても、セックスのその瞬間が終わればどこかでスルリと手から抜け落ちてしまいそうなもどかしさ

(略)

[アルバムの成功の最中、スティービー・ワンダーが1300万ドルで契約更新、二年前の愚行を悔いることに]

常に自分が一歩先んじていると思っていた相手がいまやとてつもない高みにまで昇り詰めていることを(略)思い知らされたのだった。

コカイン

 アンナ・ゴーディとの離婚裁判は、マーヴィン・ゲイに総額60万ドルの慰謝料の支払いとマーヴィン・ゲイⅢの養育権の放棄を命じて決着が付いていた。

(略)

 舞台に立つ緊張。新しい家族を守らねばの思い。アンナへの慰謝料をひねり出す算段。加えてヴァラエテイ紙に報じられたスタジオ・ミュージシャンへの19万6800ドルに及ぶ未払いのギャランティーに関する裁判沙汰(略)

ささくれ立つ神経を和ませてくれるものといえばコカインの甘い煙しかなかった。

 既に10数年の常用でマーヴィン・ゲイの鼻の粘膜は爛れてしまっている。

 一息ではそれほど多く吸い込めなくなっていたし、鼻から咽喉の奥に痰が滑り落ちるようなあの感覚も好きではなかった。

 好きなのはフリー・ベースである。ピュアな上物をフリー・ベースにして更に純度を高めパイプで吸う。吸い込んだ瞬間に拡がる甘い香りと、口の奥から咽喉、そして肺へと泳いでゆく煙を追いかけなぞる微妙な感覚こそがコカインの醍醐味だと思っていたし、精製する際の手順の違いがその度に味の変化になって出る繊細さもマーヴィン・ゲイの嗜好には合っていた。

 クインシー・ジョーンズのように顔を合わせる度に"麻薬は神から授かった全ての才能を食い尽くす"と忠告してくる者も多くいた。

 だが、あの良さは手を出した者にしかわからない。コカインに染まり、その酔いのなかで笑みを浮かべながら堕ちていくのならそれもまた良しという意識もマーヴィン・ゲイのなかにはあった。

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 グラミーの授賞式。(略)

立ち上がり、歌うマーヴィン・ゲイに拍手を贈るクインシー・ジョーンズ

 だが、その表情はどこか浮かなく、曇っている。(略)

 彼の耳には上擦った声で歌われる〈セクシャル・ヒーリング〉は辛く聴こえたのだろうか。(略)

プロデュースしたマイケル・ジャクソンはマーヴイン・ゲイを慕い、尊敬しきっていた。スティービー・ワンダーも同じである。そのふたりがいまや大きな存在へと成長しているのに、マーヴィン・ゲイは生かすべき才能を生かし切らず悔みの人生を繰り返している。(略)

祝いの席で、クインシー・ジョーンズはやり切れなさを胸にマーヴィン・ゲイをみつめていた。

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